電子書籍の厳選無料作品が豊富!

タイトルのとおり、デモや暴動で政治などの方針が覆ったことってあるんですか?
ただし、日本国内で、戦後に限ってです。

A 回答 (5件)

なかなか天狗の鼻は折れない。


が実情でして、答弁だけは立派です。


昭和30年代、農地を売る事が流行した為、
これに困った政府は「市街化調整区域」を儲けました。

ここの農地までは売って良いがここからの農地は売ってはいけない。
と言うような不公平な規則を堂々と押し付けました。

土地の振り分けの正当な理由など存在しませんでした。
適当に線を引いた為、市街地近いAさんは売れないが、その隣の土地のBさんは売れたのです。


昭和40年代、農家は米の過剰生産による減反政策で疲弊し、
国に減反の抑制と保障を求める大規模なデモを行いました。

理由は米の品質向上、生産技術向上による取れ高の向上と米離れでした。


当時、デモに答え、
政府は出来る限り米価の保障と減反抑制を公約しました。


しかし、当時の農林水産省は農地政策と減反政策は必ず破綻する事が目に見えていたにもかかわらず、
根本的な改革には着手しなかったのが実情でした。


為替介入に見られる一時凌ぎ。
国債に発行見られる後回し。

これが政府の政策です。

臨時石油税で漁民が飯も食えないとデモをしても「善処します。」です。
一方で、平成時代、オリンピックの東京誘致運動の際、ドイツで日本人が反対のデモを行ったのが致命的なイメージダウンになり、他国開催が決定的になったマンパワーは苦笑出来ます。
    • good
    • 0

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B8%E4%BF%A1% …

ハガティ事件などで、進退窮まる
    • good
    • 0

あります


 ただし、クーデター。その後戦争。

この回答への補足

いや、だから戦後に、って

補足日時:2011/11/21 18:05
    • good
    • 0

判断が難しい質問です。


例えば岸内閣。
日米安保の批准書交換日である1960年6月23日に辞意表明しています。60年安保は批准されたわけですから、その意味では「デモや暴動で政治が変わった」わけではありません。しかし、岸内閣が続いた場合と現実にその後の池田内閣になったことによる政治の違いは推測するしかないのです。岸内閣の総辞職は反安保闘争によるものです。そうすると、大衆闘争により政治が変わったとも判断できます。同じ自民党政権であり、変わらなかったとも判断できます。
    • good
    • 0

質問の通りの、「政治などの方針が覆ったこと」となると、無いでしょうね。



しかし、良いにつけ、悪いに付け、それなりの影響はあったでしょう。
たとえば、大阪あいりん地区での暴動などによって、行政の対応が少しはよくなったと思います。

70年ころの学園紛争では、大学が学生や、教授以外の教員の意見をいくらか尊重するようになりました。

最近は、デモなんてほとんどないので、影響は分かりませんが、反原発のデモなどは、今後の政治の在り方に影響を与えるかもしれません。もちろん、盛り上がり方によりますけれど。電力会社や財界は、盛り上がらないようにいろいろな手段を使うでしょう。
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!