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昨年度の学習院大学の入試問題なんですが、第一問の仏文和訳で困ってます。

最初の2文なんですが、(事情により、セディーユは省略し、アクサン記号はアクサングラーヴは外し、右隣に記号をおきます。それ以外のアクサン記号は省略します。eg.Francais, premie`re)

J'avais dix-huit ans et je quittais la France pour la premie`re fois de ma vie. Sur la plage de Nice, j'avais fait la connaissance d'une femme, une Francaise, qui vivait la` depuis plusieurs annees avec son mari et s'appelait Mireille.


訳すと、私が18歳だった時、私は人生で初めてフランスを離れた。ニースの浜辺で、私は数年間そこに夫と住んでいたミレイユという名前のフランス人女性と知り合った。

となったんですが、どう考えても「フランスを離れた」のあとに「ニースの浜辺で」とくるのがおかしいです。辞書を引いても他の意味は無く、答えも持ってないので更に困ってます。

結局、この文は何と訳すんですか??

A 回答 (32件中11~20件)

サイコロさん(では遠慮なくこう呼ばせて頂きます)、どうもありがとうございます。


私もこのやり取りが楽しく感じられてなりません。一日分のノルマを脇に追いやってでも、サイコロさんからの文章を読み、内容を吟味し、返事を用意することが...

ところで本題に入りますと:
〉件の文章に、m’a-t-il ditが省略されているとみなすなら、次のように訳せますか。
「僕は十八歳で、人生で初めてフランスを離れようとしていたんだ。その前に、僕はニースに旅して、海岸で女と知り合いになったことがある。ミレイユというフランス人で、夫と数年、彼女はそこで暮らしているという人さ――こんなふうに彼は私に語った。」
↑↑件の文章が《 J'avais dix-huit ans et je quittais la France pour la première fois de ma vie. Sur la plage de Nice, j'avais fait la connaissance d'une femme, une Française, qui vivait là depuis plusieurs années avec son mari et s'appelait Mireille. 》を指し、この文章の前後どちらかに、《 Il m’a dit 》が省略されていると考えるのなら、少し違うと思います。

仮に《 Il m’a dit : « J'avais dix-huit ans et je quittais la France pour la première fois de ma vie. Sur la plage de Nice, j'avais fait la connaissance d'une femme, une Française, qui vivait là depuis plusieurs années avec son mari et s'appelait Mireille. » 》であるならば、これを間接話法に直せば 《 Il m’a dit qu’il avait eu dix-huit ans et il avait quitté la France pour la première fois de sa vie. Sur la plage de Nice, il avait fait la connaissance ~》となり、これをさらに自由間接話法に直すと《 Il avait eu dix-huit ans et il avait quitté la France pour la première fois de sa vie. Sur la plage de Nice, il avait fait la connaissance ~》となると考えられるからです。(とりあえず人称の変換などには目をつぶって。)

サイコロさんが引用されている朝倉でも《 Je lui ai demandé des nouvelles de Lambert : il lui avait écrit, il rentrait dans une semaine. 》を直接話法に直せば、《 Il a répondu : « Il m’écrit, il rentre… » ではなく、《 Il a répondu : « Il m’a écrit, il rentre… » となっていませんか。もし《 Il a répondu : « Il m’écrit, il rentre… » と捉えているなら、朝倉翁も焼きが回ったとしか思えません。

ですから細かいことですが、《 J'avais dix-huit ans et je quittais la France pour la première fois de ma vie. Sur la plage de Nice, j'avais fait la connaissance d'une femme, une Française, qui vivait là depuis plusieurs années avec son mari et s'appelait Mireille. 》の文章に、《 Il me dit : 》が省略されているのではないかと考えるならば、《 Il me dit : « J'avais dix-huit ans et je quittais la France pour la première fois de ma vie. Sur la plage de Nice, j'avais fait la connaissance d'une femme, une Française, qui vivait là depuis plusieurs années avec son mari et s'appelait Mireille. » 》となり、間接話法では《 Il me dit qu'il avait dix-huit ans et il quittait la France pour la première fois de sa vie. Sur la plage de Nice, il avait fait la connaissance ~ » 》、さらに自由間接話法にして《 Il avait dix-huit ans et il quittait la France pour la première fois de sa vie. Sur la plage de Nice, il avait fait la connaissance ~ » 》となるので(人称の変換は横に置いといて)、サイコロさんの訳になると思います。(ただしの場合、最後は 「――こんなふうに彼は私に語る。」となるかと。勿論、il me dit のdire の現在形を近い過去を表わすものとすれば、「語った。」もありですが。)

〉この絵画的半過去の説明に、「内的持続」とか、「話者ないし作者の意識」と、自由間接話法的な視点が自明のこととして織り込まれていることが、くみ取れるでしょう。quitterがなぜ半過去かと言われると、絵画的描写の中でもさらに特殊で、やはり自由間接話法的にも、作者の内面の独白という問題を考えざるを得ないからだ、と言わざるをえません。
↑↑すいません。この部分がよく理解できません。サイコロさんは「この小説が最後の方で書き手≠語り手(主人公)でないことが判明するかもしれない、したがって自由間接話法ではないという可能性も排除できない」と仰ってます。私の理解では、1) 最後まで結局作者がその視点を挿入せず、一人称の語り手(=話者)が話を終えれば、《 J'avais dix-huit ans ~ 》は地の文である、対して2) 最後の方で作者が語り手とは別の存在として姿を表す時、この小説は書き出しから自由間接話法が使われていると考えられる可能性がある、と。でもそれはやはり語り手(≠作者) の長いmonologue intérieur を読者をミスリードする形で作者は記述したと考えられないでしょうか(または作者の遊びというかゲームというか)。

これは私個人の考えですが、絵画的半過去は書き手自らの考え・思い・描写を表すのに対して、自由間接話法も話法である以上、登場人物の言葉を伝えているものであると(書き手が語り手の口を借りている場合もあるのでしょうが)。一人称の小説がしばしば書き手=語り手と捉えられるのかもしれませんが、作者(書き手)と語り手は基本的に区別されるものである、と。『フランス語ハンドブック』の著者の言葉を借りれば「話者ないし作者の意識」であって、「話者および作者の意識」ではないと思います。
具体的には私の頭の中では、絵画的半過去と捉えれば、眼前にその風景が浮かぶような感じですし、自由間接話法だと判断した時点で語り手と聞き手の存在が頭に浮かび、その両者間の会話だと捉えるようです。私的には絵画的半過去が臨場感を持つ、というのには賛同できますが、自由間接話法の効果は《 Rapidité 》かなと思います。

〉自由間接話法とは、生き生きとその情景を描写するのでしょう。聞き手を意識した書き方です。だから、過去形なのに、現在で訳します。
↑↑私的には「生き生きとその情景を描写する」から現在形として訳すのではなく、直接話法に変換したときに現在形になるので現在形として訳すのが、それはここに自由間接話法があると分かるためにもいいのかなというつもりぐらいです。

ですから、和訳すれば絵画的半過去として訳すので「絵画的半過去なのか自由間接話法なのかなんてことは、大雑把には過去における現在として臨場感を得るということで同じであって」というのは少し乱暴かなと思い、「(食材は海老でも)「海老天丼も海老フライ定食も腹の中に入れば一緒だろう」と言うように聞こえる」と書いてしまいました。

あとサイコロさんは「半過去の中でも、絵画的描写という捉え方の根本には、自由間接話法の考え方が下敷きにあるのだから、自由間接話法を思い返してみたらわかりやすいのではないか?」と仰ってますが、#18の回答で「もともと自由間接話法は、要するに分類から漏れた話法なのです。「余事象」と表現してもいいでしょう。」と述べておられます。「余事象」と表現してもいいようなことを下敷きに最も表現力に富むといわれる半過去を捉えるのは難しいのではないでしょうか。
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投稿が増えましたね。


のっけから話が逸れますが、もしかしてPunPiPonさんは、夏草や、の質問でわたしが質問者の方に対して言っている言葉を、他回答者をくさしていると誤解なさったのではないでしょうか? 
わたしは回答者間の会話は出来るだけ避けたいと思います。わたしが議論するつもりはないと書いたのも、回答者間で話をするのはリスクが高く、気になる相手でもなければただの不毛だからです。
でも時間を惜しむべきサイコロさんが、ずいぶん時間を割いたのですね。少し心配しています。
話がかぶるかもしれませんが、昨晩書いたものを載せます。

サイコロさん。ご存じのとおり、ドミニク・マングノーによれば自由間接話法とは直接話法と間接話法の間にあって両者を兼ね備え、特徴の存在しない引用形式であり、あれでもなければこれでもない(negativement)としてしか定義できない、とされていますね。
チェコ文学のルボミール・ドレツェル Lubomir Dolezelは、レシには物語(narrateur)のディスクールと作中人物のディスクールがあり、さらに自由間接話法という非限定的なレシが存在するといいます。それは物語叙述のディスクールと区別する特徴もなく、作中人物のものとするような特徴もないといっています。
あまりにも左岸好みのところを掘れば、映画監督のパゾリーニが撮影手法として用いたと言うドゥルーズの場合、イマージュとキャメラについて、「それ自体が不均質な体系における相関的な二つの主体の差異化」であると言っています。パゾリーニ自身が言うには自由間接話法とは「現実に言語Bとなりつつある言語Aそのものとしての言語X」であると。いやはやもう。

PunPiPonさんがナタリー・サロートを読んだことがないとしても、きっと言語学者やクリティークの歴々を並べなくとも、書棚の朝倉季雄をひもとくだけで話は足りるでしょう。いったい一人称が特別なわけなどがあるでしょうか。pp.176-177です。変種の項でさえありません。基本事項の項にマンディアルグから以下が引用されます。
   Je decrochai le telepnone:《J'etais navree, je m'excusais, mais un rhume m'obligeait a garder le lit.》
《》内のすべてが自由間接話法ですが、電話を取ったという記述がなくても作家はたとえばこんなことを書きます。
   La pendule a sonne. Ma montre n'etait pas a l'heure. Peu importe. J'etais navre, je m'excusais, mais un rhume m'obligeait a garder le lit.
こうなると説明の半過去のようにも見えます。言い訳をしているかのように。もし時計がクローズアップされるなら主人公のひとりごとは描写の半過去にも見え、またこれまでの調子から主人公の心理が逐一クローズアップされているとわかるのなら絵画的半過去にも見えます。そして je pensaisが隠れていると感じるなら自由間接話法です。フランソワ・ボンをイメージして語り手を男にしましたが、彼なら、読みやすくわかりやすくスピードに溢れていないものは自由間接話法ではないと言うでしょう。主観のすばやい過去時点への収束と感情移入は、重要なポイントであるにちがいありません。

自由間接話法の意義とは、そこに囲われた内容があるがゆえにそこには形式が生じている、そしてその形式がスタイルであることによってそこに内容があると感じさせる、そんなところだろうと思います。
朝倉氏の文法書にはマンディアルグより上にサルトルからの引用もあります。je pensaisを補う例ですが、だからといってje pensaisと書き加えるわけにはいかないですね。明らかになるべきは自分自身の思惟行為ではなくてその時点そのもののリアルな存在感でしょうから。未来をもっている時点の拡散的な存在感が必要でしょう。
   Par le trou du plafond je voyais deja une etoile: La nuit serait pure et glacee.

ところで、PunPiPonさんが書いてくれた#11の作文は、3に至って語り手が何をいわんとするのかわからず、わたしにはコメント不能なのです。
さて、次のような文章があったとしてどこかで、さまざまな半過去形を要求するものたちへの溶け合った扱いに、乱暴さの入りこむ隙があるでしょうか。わたしは思いません。Jeとは作中人物なのでしょうか、それとも語り手なのでしょうか。一文の中でさえそれらが揺れ動くのを、書くと言う作業において無視することはできないなとわたしはいつも感じています。
  Le train de nuit s'est arrete en passant Metz. C'etait la frontiere. La noire a la banquette d'en face ronflait. Je voyais les feux tout loin par la glace. Mon visage pale se profilait dans l'obscurite. J'avais dix-huit ans et je quittais la France pour la premiere fois de ma vie.
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PunPiPonさん、どうもありがとうございます。

また、会話を成立させるためのご信頼と譲歩についても、同様に感謝いたします。お察しのように、自由間接話法云々の話は、あくまで可能性の問題です。で、可能性については、よろしいと考えていいでしょうか。では、そろそろ質問者にとって役に立ちそうな本題に入りましょう。

(1)絵画的半過去と自由間接話法
まず、ご提案されているように、訳出の問題という角度から考えてみます。これを自由間接話法と結びつけるとどうなるか。たとえば、朝倉の『新フランス語文法事典』をひらいてみましょう。imparfait de l’indicatifの項目7「過去における現在」―(2)「自由間接話法で」の例文が参考になりそうです。
・Je lui ai demandé des nouvelles de Lambert : il lui avait écrit, il rentrait dans une semaine.「ランベールの消息を尋ねると、ランベールから便りがあって、一週間後には帰る、とのことだ。」
ちょっとわかりにくいですが、「私」が匿名のAさんにランベールの消息を尋ねると、ランベールはAさんに手紙を出していて、消息を伝えていた、ということのようです。最後のrentraitが半過去だが、これはまだ起きていません。朝倉は、Il a répondu : « Il m’écrit, il rentre… »の意味がこの文章にはある、と説明を添えています。これに沿って、件の文章に、m’a-t-il ditが省略されているとみなすなら、次のように訳せますか。

>僕は十八歳で、人生で初めてフランスを離れようとしていたんだ。その前に、僕はニースに旅して、海岸で女と知り合いになったことがある。ミレイユというフランス人で、夫と数年、彼女はそこで暮らしているという人さ――こんなふうに彼は私に語った。

でも、お気づきでしょうが、結果的に、これは絵画的半過去で訳すのと同じなのです。最後の、「――こんなふうに彼は私に語った」という一節がないだけで。まぁ、当然と言えば、当然です。というのも、自由間接話法とは、生き生きとその情景を描写するのでしょう。聞き手を意識した書き方です。だから、過去形なのに、現在で訳します。絵画的半過去だとみなした時点で、自由間接話法が潜んでいるとみなしたのと同じことなのかもしれません。
まぁ、雨合羽さんが先におっしゃってます。「絵画的半過去なのか自由間接話法なのかなんてことは、大雑把には過去における現在として臨場感を得るということで同じであって」と。これは嘘ではないと思いますよ。実際、訳してそれを並べてみれば、明らかになることではないでしょうか。彼女が舌足らずではありますが、絵画的半過去=自由間接話法という乱暴な話ではありません。半過去の中でも、絵画的描写という捉え方の根本には、自由間接話法の考え方が下敷きにあるのだから、自由間接話法を思い返してみたらわかりやすいのではないか?、というお話です。不幸にして、質問者には逆にわかりにくい事態が発生したかもしれませんが。

(2)絵画的半過去における完了動詞の訳し方
さて、絵画的半過去であるとして、次に訳し方の問題に移りましょうか。私は何かが歪だと初めに言いましたが、この点を明確に言えば、そもそもquitterという一瞬で終わるはずの行為を示す動詞(完了動詞)が、なぜ半過去なのか、です。一応、答えは知っていたのですが、出し惜しみしないことにしましょう。せっかく説明があるので『フランス語ハンドブック』から引きます。少し長いが、ご注目を。

>小説の中などで、半過去系が、継続・反復等のニュアンスを伴わず、本来なら、単純過去系で述べられるべき場所に用いられることがある。継起する事実を提示する点では単純過去系と等しいが、そこで述べられる行為は〈瞬間的な〉ものでありながらも、いわば〈内的持続〉のうちに捉えられているわけで、事件は話者ないし作者の意識を通じて読者の眼前で行われているかのように、生き生きと描き出されることになる。(中略)それらの例は多く未完了動詞に関わるものだったが、ここでは元来が半過去系とはなじみにくい完了動詞が問題になって来る(p.237)。

この絵画的半過去の説明に、「内的持続」とか、「話者ないし作者の意識」と、自由間接話法的な視点が自明のこととして織り込まれていることが、くみ取れるでしょう。quitterがなぜ半過去かと言われると、絵画的描写の中でもさらに特殊で、やはり自由間接話法的にも、作者の内面の独白という問題を考えざるを得ないからだ、と言わざるをえません。しかし、それ以上に、完了動詞の半過去をどう訳すかが問題です。で、プルーストの引用と訳です。Partionsをはじめ、quittionsなどが半過去ですので、ご注意を(と質問者のためにいっておきます)。

>Nous partions ; quelque temps après avoir contourné la station du chemin de fer, nous entrions dans une route campagnarde qui me devint bientôt aussi familière que celles de Combray, depuis le coude où elle s’amorçait entre des charmants jusqu’au tournant où nous la quittions et qui avait de chaque côté des terres labourées.
>私たちは出発した。鉄道の停車場を迂回してしばらく行くと、とある田舎道に入るのだったが、美しい囲い畑に挟まれてその道が始まるあたりの屈曲部から、両側に耕地のある曲がり角で私たちがその道を捨てるまでの一帯は、ちょうどコンブレの田舎道と同じように、たちまち私にとって親しいものになった。

もちろん、私の訳ではありませんよ。私が訳したのでは証拠になりませんから。しかし、事の起こりを示すpartirが、単純過去で訳されているでしょう? まぁ、こういう風に訳す決まりになっているようです。あとはわざと、継続という訳仕方にしているそうです。なかなか訳すのが難しいと、文法学者のコメントが添えてあります(残念だけれど、臨場感までは伝わってこない訳に思えてしまいます、笑。でもプルーストだから難しいんですよね。私もちゃんと訳せません)。さて、ここで見た文法事項を質問の文章に当てはめると、私の当初の訳出になります。

>私は十八歳だった。私はこの時、生まれて初めてフランスを離れた。かつて私は、ニースの浜辺で、一人の女性と知り合ったことがある。彼女はフランス人で、そこで何年も前から夫と暮らしていた。彼女の名は、ミレイユといった。

ここで私は「十八歳だった」「離れた」と訳していますね。これは勝手に「半過去+単純過去(複合過去)」であるかのように訳しているかに思えるかも知れません。が、文法通りです。念には念を入れて、先の朝倉を引きましょうか。2「同時性」の項目に該当します。再び例文ですが、
・La mère se mourait, les enfants jouaient dans la cour.
・「母が死にかけている時、子供らは庭で遊んでいた。」
半過去を二つ並べて、pendant queとかlorsqueがなくても、二つの行為が同時に起きたことを示せます。出題では、十八歳という年齢が示されているので、これにあてはめてよろしいでしょう。

(3)まとめ
というわけで、振りかえるる形で、まとめると、
・質問は絵画的半過去である、
・しかしquitterという完了動詞が半過去であるのは変だ、
・これを理解するためには、絵画的半過去の中でも、生き生きと描写するという意味で、自由間接話法的な要素を考えてみるべきだ(と説明する人や文法学者もいる)、
・実践的なことだけいえば、絵画的半過去で継起として使われている完了動詞は、単純過去や複合過去のように訳す。
こんなところで、オチがつかないでしょうか。
PunPiPonさんのquitterを継続や反復で訳したら、間違いという指摘は、その通りです。しかし絵画的半過去でも、さらに訳し方を工夫しないとならない箇所ではあったわけです。その詳細のために、雨合羽さんは自由間接話法を想像するのがよいと示唆し、私はジュネットの話をしたわけです。が、こんな回り道をしないでも、エレガントに説明するなら、項目(2)だけを書けばよかったかもしれません。

なお、PunPiPonさん、呼びにくいでしょうから、私のことはサイコロなどと呼んでください。ラテン語で「賽は投げられたのだ」という意味のハンドルネームで、みなさん、そうよんでくれていますので。ネーミングセンスが悪かったと思いますけれど。ちなみに私としては、楽しく過ごせました。
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iacta-alea-est2 さん、ご返事ありがとうございます。

もうなんだか訳分からないけど感動です。

>もしかしたら、iacta-alea-est2さんとは話がかみ合わなくなるかもしれませんが、
↑↑ここまで共通認識を持ちつつさらに話を進めるのは何とも言えぬ感慨があります。(前回、「さん」を付けなくて申し訳ありませんでした。)

ところで私の自由間接話法に対するポジションは、iacta-alea-est2 さんがご指摘の通り、地の文との区別においてであります。ですから、「自由間接話法は定義できない文法事項で、直接話法と間接話法以外の話法を示すもの」ということも違うと思います。「地の文」であるなら、「地の文」である以上、直接、間接または自由間接を問わず、話法 (これは書き手の引用ではなく、小説の中の人物の発話と捉えています。フランス語でいう « énoncé »です) ではないと思っています。
そしてまた、地の文と自由間接話法を見極める判断としては絶対的な基準はなく、「地の文であるか否かを論証するために有効な方法まではいきついて」はいません。常に文脈によって判断するものだと考えております。

私がつらつら思うに、おそらく多分もしくは、地の文だと思って読んでいたら、なにか違和感がある、iacta-alea-est2 さん言うところの「何だが、歪な感じ」である、よく読んでみればそこにいる人物が発した言葉であるが、直接話法でも間接話法でもない、ならば自由間接話法としよう、とこんな経緯があったのでは、と考える次第であります。(これも非常に乱暴な言い方ですが。)

私が地の文と自由間接話法を区別するのは、すでにお答えしたように和訳になると、特に時制のところの訳しかたが変わるであろう、と考えているからです。
そして今回のやり取りを通じて私自身今考え始めていることは、もしかしたら (あくまでももしかしたらですよ)、地の文ではなく自由間接話法に置かれている文であれば、適切な導入動詞を選択することで、無理なく文脈に即した直接話法に言い換えることができるのではないか、反して地の文ではこれが無理なのではないか、ということです。
だからもしかしたら (これもあくまでももしかしたらですよ、そして私が調べた範囲だけですが)、前回の回答の最後にあるように、自由間接話法に置かれた phrase はそれが何行にわたろうとも、1ないし2phrase(s)ぐらいなのかな、とも考える次第です。それが場所を変えていくつも出てくる可能性はあるでしょうが。

もう一つ、>もしかしたら、iacta-alea-est2さんとは話がかみ合わなくなるかもしれない、ところは:
iacta-alea-est2 さんが「仮に作者が最後まで、語り手のフィクションの人物と同化して小説を終えるならともかく、常にそうであるという保証はない。どこかで、作者本人の視点を挿入してくる可能性がある。となると、絶対に自由間接話法ではないと断言することは非常に困難。常に可能性が残っている。」と仰っているのに対して、私の方はまずは質問者の方が提示した《 J'avais dix-huit ans et je quittais la France pour la première fois de ma vie. Sur la plage de Nice, j'avais fait la connaissance d'une femme, une Française, qui vivait là depuis plusieurs années avec son mari et s'appelait Mireille. 》というこの文章だけで考えていたことでしょう。(それにしても質問者の方はフォローできているのでしょうか?)
私が検索してこの文章がPatrick Modianoの《 Des inconnues 》であることを調べたのも、そもそもは半過去に置かれた《 je quittais 》の訳しかたを巡るもので、半過去の現れる位置によっては絵画的半過去と捉えることもできるので、半過去の訳を常に「~しているところであった」とか「~しつつあった」と訳すのは無理がある、ということを指摘したかっただけです。

とはいえ、もしこの小説を最後まで読み進んで、その結果作者本人の視点が挿入されたとしても、私としては地の文か否か (自由間接話法か) の観点から、「絶対に自由間接話法ではないと断言することは非常に困難です。常に可能性が残っています。」と言われることに対して肯定は出来ないものの、否定することもやぶさかではあるとは言い難い、という感じです。(←これ真面目な感想です。)

〉もっとも、以上のように言うと、一人称で書かれたフィクションは、何もかも、広義の自由間接話法と言い得る可能性があるということになりますね。そんなバカな?!とおっしゃるかも知れません。いや、そうなのですよ、大真面目な話。
↑↑これはその通りでしょう。なにせ日本には「私小説」というジャンルが確立しているくらいですから。

〉こうした点については、ご信頼になってくださるとありがたいと申し添えておきます。
↑↑ご心配なく。まったく信頼していますよ。前回の「夏草や~」の時から。
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PunPiPonさん、丁寧にありがとうございます。

いや、そこまで丁寧に用例を上げていただいて恐縮です。が、敢えて言いますと、私もフランス語を学び始めた人間ではありませんから、ある程度のことはわかっていて、確認を求めていたというつもりではあったのです。要するに、私は最初から、次の手札があった上で話しています。それで背負い投げをくらわすと申し訳ないと思っていたのですが、次の一節を読んで、予想してらっしゃるとわかり、安心しました。
>もしかしたら、iacta-alea-est2 とは話がかみ合わなくなるかもしれませんが、

結局、私の問いは、自由間接話法を教えてくれということとは違います。問題は言語学で、分類の仕方がどうなっているか、という話です。つまり、ある話法を判断する際に、それが自由間接話法でないと断言するに足るだけの、文法が一般的に定義されていますか?という問いです。が、それはないわけです。用例で示す他ない。こうなってくると、繰り返しになりますが、論理的に言って、次のように言う他ないのじゃありませんか。自由間接話法は定義できない文法事項で、直接話法と間接話法以外の話法を示すもの、だと。あまりに乱暴だと思うかもしれませんが、もともと自由間接話法は、要するに分類から漏れた話法なのです。「余事象」と表現してもいいでしょう。

PunPiPonさんは、良識的に考えてありえないだろう、というお話しをなさっているように思います。おそらく、常識の問題として考えたら、私がこれからいうことの方が、何かぶっ飛んでいることに思えるでしょう。が、文学研究に関しては、二行程度という制限は成立しません。ジャン・ジュネなどどうですか。冒頭にしか、語り手は登場しないが、やはり書き手≠語り手(主人公)とはなりません。
また文学研究では、作品を全部読んだ上で、ディスクールなりを位置付けます。数ページ読んで、あれこれ言うことは控えなければならないのです。いや、数ページで済むのなら、研究者の存在などいらないことでしょう。これがいかに労力のかかる話であるかは、ジュネットだとか、ヌーヴェル・クリティックの研究書を読んでくださった方がよいのですが。

研究の場合、行数は関係ないのです。とある一人称の語りの文を分析する際に、絶対にそれが自由間接話法でないとおっしゃりたいのなら、唯一、これが話法(※書き手の引用という大辞林に書いてある意味で使っています)ではないと論述する他ないように思います。直接そうとお書きではないが、「地の文」とおっしゃるのが、「話法ではない」という意味だと受け取っています。この意味でよろしいとしたら、地の文であると主張することで反論するという方針は、理にかなっています。

しかし、地の文であるか否かを論証するために有効な方法まではいきついてらっしゃらないと、失礼ながら思うのです。この有効な方法とは、語り手=書き手であり、これがフィクションではなく、日記、手記、独白だという他ありません。が、これはモディアノの小説の一部なのでしょう。仮に作者が最後まで、語り手のフィクションの人物と同化して小説を終えるならともかく、常にそうであるという保証はない。どこかで、作者本人の視点を挿入してくる可能性がある。となると、絶対に自由間接話法ではないと断言することは非常に困難です。常に可能性が残っています。もちろん、私の方も、自由間接話法であると断言することはできません。実際、私は最初から、「そう考えたければ考えられる」という可能性の話しかしていないわけです。

もっとも、以上のように言うと、一人称で書かれたフィクションは、何もかも、広義の自由間接話法と言い得る可能性があるということになりますね。そんなバカな?!とおっしゃるかも知れません。いや、そうなのですよ、大真面目な話。
しかしこれは当たり前すぎて、研究者はわざわざ、そんなことを一々指摘したりはしません。自由間接話法である、といったところで、その指摘によって、何か有益なことが分からなければならないからです。この意義については、私も少々疑問に思うところです。あまり本題と関係ないのですから。雨合羽さんとすれば、仏文学の奥地を質問者さんに垣間見せたい、と思ったのかもしれません。自由間接話法と言えば、一頃、仏文学の精髄であるという見方もあったわけですから。

もっとも、上記の論証手続きについて、私の思い違いがあれば、勉強させてください。私としては、自由間接話法についての研究書を読んだ上でのことなので、自由間接話法が2行では済まないなど、研究上の共通認識に基づいて、大真面目に話しているつもりです。こうした点については、ご信頼になってくださるとありがたいと申し添えておきます。
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iacta-alea-est2 さん、ご返事ありがとうございます。



〉言語学をやっていると思しきPunPiPonさんに、~
いえいえ、言語学も文法も専門にやったことはございません。ただこういうサイトで回答する時にできるだけ調べものをするだけです。

ところでご質問の、「自由間接話法って、厳密に定義できる文法事項ですか?」ですが、たぶん厳密に定義はできないと思います。
ただし、「定義可能な直接話法と間接話法以外を自由間接話法と一端、呼んでおく」ですが、これも違うと思います。

自由間接話法の特徴は、間接話法と同じ時制・人称などに変換するのに、導入動詞 (dire や penser等)がないことですが、その結果、地の文 (特に三人称) と区別がつきにくいところにあると思われます。

また日仏の文法書などを見ても、引用されている文例がほぼ同じもので、かつ短めの引用なので、なぜここが自由間接話法であるのか腑に落ちないことが多く見られます。

ここでこれ以上あ~だ、こ~だ言ってても仕方ないので、いくつか私が自由間接話法だと思われる文例を見ていきましょうか。
今回の質問に際して、少し検索したら、この文章はPatrick Modianoという現代作家の「Des inconnues 」という作品から取られていることがわかりました。そしてネット上では最初の1ページを見ることができました。そこから少し見てみたいと思います。

主人公と思われる語り手が、マヌカンの面接試験を受ける場面です。(主人公は女性なんですね。) 自由間接話法と思われる個所を中心に少し長めに引用してみます:
《 Il m'a priée de ne pas me lever et il s'est assis à côté de moi. D'une voix sèche, il m'a demandé mon âge. Est-ce que j'avais déjà travaillé comme mannequin? Non. Il m'a demandé d'enlever mes chaussures et de marcher jusqu'aux fenêtres,~》

《 Il 》 は面接官です。ここでの《 Est-ce que j'avais déjà travaillé comme mannequin? Non.》 が自由間接話法だと思われます。フランス語の初学者ならいざしらず、この部分を「私はかつてマヌカンとして仕事したことがあっただろうか。いやない。」と訳す人はいないでしょう。

ここは勿論、間接話法なら 《 Il m'a demandé si j'avais déjà travaillé comme mannequin. J'ai répondu non.》、直接話法なら 《 Il m'a demandé : '' Est-ce que vous avez déjà travaillé comme mannequin ?'' - J'ai répondu : ''Non.'' 》 でしょうから、全文を訳せば「彼は私に立ち上がらないように頼み、私の横に座った。乾いた声で、私の年齢を尋ねた。マヌカンとして働いたことはありますか。いいえ。彼は私に靴を脱ぎ、窓の方まで歩くように言った、~」となるでしょう。

つぎはマヌカンの面接に落ちた主人公は、例のミレイユに電話をする場面です。(実はこれに先立って、主人公は休暇先でミレイユという女性と知り合い、その時ミレイユがパリに行くこと、そしてその時の滞在先である友人の電話番号を聞いていたのです。):
《 Les sonneries se succédaient sans que personne ne réponde et, brusquement, j'ai entendu une voix de femme. Je restais muette. Puis, j'ai quand même réussi à dire: « Est-ce que je pourrais parler à Mireille Maximoff? » d'une voix blanche que l'on ne devait pas entendre, là-bas, à Paris. Elle était absente pour le moment mais elle serait là un peu plus tard, dans la soirée.》

最後の《 Elle était absente pour le moment mais elle serait là un peu plus tard, dans la soirée.》 が自由間接話法になっていると思われます。(直接話法なら、《 La femme m'a dit : ''Elle est absente pour le moment mais elle sera là un peu plus tard, dans ce soir.》 となるかと思います) とりあえず全文を訳すと:「呼び出し音が鳴り続けるが誰も出なかった。突然女性の声を聞いた。私は無言のままだった。それでもやっと話すことができた。「Mireille Maximoff さんをお願いします。」、かの地パリでは聞くことがないぼそぼそした声で。ミレイユは今ちょっと留守にしていますけど、今晩もう少ししたら戻るでしょう。」

こんな感じになるかと思います。私が地の文と自由間接話法を区別できると考えるシチュエーションは上述したように、明らかに2者以上の存在があり、会話が成立している、かまたは、明らかに語り手が自分自身に語りかけている、と分かる状況です。
ですから、#11でそれらしき状況をひねり出したのです。

私が 《J'avais dix-huit ans et je quittais la France pour la première fois de ma vie. 》 を自由間接話法ではないと思ったのは、これが直接話法でも間接話法でもないから自由間接話法になるのではなく、これはただ単に地の文でしょう、ということです。

〉たとえば、「長い monologue intérieur を直接話法で述べた」とおっしゃる。
↑↑これは#14の回答で〉ひょっこり、後の方で、「――と~~氏は私に語った」という一節が出てくる可能性はないのか。〈 あったので、「――と~~氏は私に語った」という一節が出てきたら、それこそ「語った」という導入動詞が使われるわけですから、その時点で自由間接話法ではなく、直接話法となるであろうと考えたからでした。

定義と言えるのかどうか分かりませんが、ともかく自由間接話法である限り、導入動詞はないということは言えます。

もしかしたら、iacta-alea-est2 とは話がかみ合わなくなるかもしれませんが、iacta-alea-est2 さん言うところの「話法で例外になるものは、総称として、すべて自由間接話法と呼べてしまうのでは? 」ではなく、地の文かそうでないか (自由間接話法) の区別であります。そしてこの区別も結局文脈に負うところが大きく、したがって厳密に「これこれこうだから地の文である (または、自由間接話法である)」という定義はないでしょう。

「これは自由間接話法の様々ある用例の一つだが、特に、長い monologue intérieur を直接話法で述べた用例である」と説明する方が正確ではありませんか?」
↑↑ですからこれも (特に、これは自由間接話法の様々ある用例の一つだが、のところですが) 違うと思います。もしこの、《 J'avais dix-huit ans et je quittais la France pour la première fois de ma vie. 》 で始まる小説が最後の方で、「――と~~氏は私に語った」という一節が出てきても、「語り手と書き手を明示しないまま、直接話法で長いmonologue intérieur を記述し、最後に実は語り手と書き手が違っていた、という効果を狙った文体である。」と考えるでしょうが、自由間接話法の用例の一つであるとは考えないでしょう。

あと、いくつか自由間接話法の例を探してみましたが、どれも 1 phrase でありました。(勿論、phrase の中にproposition は複数含まれますが。) これは断言できないのですが、自由間接話法に置かれる文は 1 phrase かせいぜい 2 phrases であると思われます。それからも、多くの phrases で構成される 長いmonologue intérieur は自由間接話法とはならないのかな、と思います。
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PunPiPonさん、褒めてくださってありがとう。

でも、褒めるならジェラール・ジュネットを褒めてくださいね。私は彼の言ってることを反復しただけだから。そして言語学をやっていると思しきPunPiPonさんに、初歩的な質問をしてみたいのですが。

自由間接話法って、厳密に定義できる文法事項ですか? 直接話法と間接話法は明確ですね。初歩の文法書にも書いてある。しかし、自由間接話法はどうだったでしょうか。定義可能な直接話法と間接話法以外を自由間接話法と一端、呼んでおく、という程度のことで、厳密な定義は与えられなかったのではないでしょうか。となると、話法で例外になるものは、総称として、すべて自由間接話法と呼べてしまうのでは? 

たとえば、「長い monologue intérieur を直接話法で述べた」とおっしゃる。だが、そう考えたにせよ、括弧をはじめ、省略があるのだから、厳密には直接話法とは言えない。となると、「これは自由間接話法の様々ある用例の一つだが、特に、長い monologue intérieur を直接話法で述べた用例である」と説明する方が正確ではありませんか? それとも今では、何それは直接話法の亜種、また別の何は間接話法の亜種と分類することになったのですか?

要するにこの議論、そもそも、議論の根本は、自由間接話法が定義できる文法事項かどうかにかかっています。私はそうじゃないと思っていたけれど、もしかしたら、私の無知かもしれませんね。ここは一つ、教えてくれませんか。
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自由間接話法の特徴は、直接話法のトーンを保ちつつ、時制や人称は間接話法と同じものを用いるも、間接話法では必要な導入動詞(direやpenser等)が省略されているものです。

その効果には「小説における自由間接話法の特徴は、人間が二人いて、その二人の視点が重なり合うということです。」(←いいこと言う!!)

とはいえあくまでも話法なので、もし、《J'avais dix-huit ans et je quittais la France pour la première fois de ma vie. 》 を自由間接話法と捉えるならば、その背景には《 On m'a dit que j'avais dix-huit ans et que je quittais la France pour la mpremière fois de ma vie.》 があります。これがなにを意味するのかというと、独立文節である 《J'avais dix-huit ans et je quittais la France pour la première fois de ma vie. 》 も省略されている導入動詞(a dit)の過去時制に一致してその時の同時性を表しているということです。

なぜこんな長々と述べたかというと、フランス語で直接読む分には分からないと思いますが、描写・記述の半過去と自由間接話法では《 J'avais dix-huit ans et je quittais la France pour la première fois de ma vie. 》を和訳した時に訳が違ってくるからです。

これが描写・記述の半過去として捉えた場合の訳では:「私は18才だった、人生で最初にフランスを離れた。(または、離れる時だった。)」(便宜上すごく簡単な訳にしました。)

対して、もし自由間接話法として捉えるならば、私が#11の回答でムリくりに拵えた状況(つまり、人間が二人いて、その二人の視点が重なり合う状況)の仏文《 Avant la veille de mon départ, ma mère est entrée (entra) dans ma chambre. J'avais dix-huit ans et je quittais la France pour la première fois de ma vie. 》
を使って訳せば:「出発の前日、母が私の部屋に来て、あなたは18才なのよ、人生で初めてフランスを離れるのよ、と言った。」
こんな風になるかと思います。つまり、自由間接話法は常に背景に間接話法、直接話法がありますから、《 Avant la veille de mon départ, ma mère est entrée (entra) dans la chambre et elle m'a dit (dit) que j'avais dix-huit ans et que je quittais la France pour la mpremière fois de ma vie.》(間接話法)や《 Avant la veille de mon départ, ma mère est entrée (entra) dans ma chambre et elle m'a dit (dit) : "Tu as dix-huit ans et tu quittes la France pour la première fois de ta vie."》(直接話法)というような事象を、自由間接話法という上述した導入動詞の省略や時勢の一致等を用いて表しているので、訳文では《 J'avais dix-huit ans et je quittais la France pour la première fois de ma vie.》のところは、人称を変え、時制は現在形として訳し、フランス語では省略された導入動詞を補って「~と言った。」となるかと思います。(従属文節中の半過去は、主文節中の過去時制との同時性を表すからです。)

〉ひょっこり、後の方で、「――と~~氏は私に語った」という一節が出てくる可能性はないのか。
↑↑もしそうなら、その時点で長い monologue intérieur を直接話法で述べたと私は解釈するでしょう。作家が効果を狙ってponctuations をあえて使わずに。いずれにせよ、それでは自由間接話法とは離れると思います。

もしこの小説の冒頭が、《 J'avais dix-huit ans et je quittais la France pour la première fois de ma vie. 》で始まっていたら、私も単なる記述ではなく、主人公(とりあえず話し手とイコールとして)の内的独白ではじまったのだなぁ、と考えて読み進むでしょう。最後の方で三人称での記述があったとしても、この時点で《 J'avais dix-huit ans et je quittais la France pour la première fois de ma vie. 》が自由間接話法だった、とはならないと思います。

〉私は雨合羽説が高度な分析だと思います。
↑↑高度ですかぁ?? #8、#10、#12の回答を見ると、うっかり手が滑って「自由間接話法」と書いてしまったのを、私から咬みつかれ、逆ギレしちゃったみたいですけど。

それにしても、iacta-alea-est2 さんは優しい方ですね。これでamaguappaさんもほっと胸をなで下ろしていることでしょう。
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自由間接話法について、無関係な第三者ながら、補足投稿をしてみたいと思います。

これ、自由間接話法とみなしたければ、みなせますよ。

私なりに整理させてもらいますが、小説における自由間接話法の特徴は、人間が二人いて、その二人の視点が重なり合うということです(ジュネットの『フィギュール』を思い出してください。『ボヴァリー夫人』について、さんざんやっている分析手法です)。
しかし、この文章だと、語り手=書き手に見える。おや、出てくる人物が一人しかいないではないか。だから、普通の自由間接話法に照らすと、ここで自由間接話法ということはできないかに思える。だが、仮に、語り手≠書き手であったとしたら? というのも、この文章、普通に書くのだったら、
>Lorsque J'avais dix-huit ans, j’ai quitté la France pour la première fois de ma vie.
でしょう。でも、何だが、歪な感じになっている。

なぜか? おそらく、話し言葉で、語っている雰囲気を出そうとしているからだ、と考えられる。しかし、では、考えてみよう。このjeと、jeの言葉を記述している作者は同一人物なのか。ひょっこり、後の方で、「――と~~氏は私に語った」という一節が出てくる可能性はないのか。
この小説の続きを私は検討していませんが、モディアノの場合、ありうるんですよね、それが。Jeといって、限りなく自伝に近い人物を登場させておきながら、最後に三人称で記述を試みたりする。モディアノは、ジュネ譲りのオートフィクションの遣い手だから、一人称は単純ではないのです。

以上のように考えるので、私は雨合羽説が高度な分析だと思います。もちろん、入試と関係ないでしょうけれど(むしろ文学研究したい人のモノの見方ですよね?)。しかし、敢えて一言。自由間接話法であるとすれば、シンプルに、dit-ilが省略されていると説明した方がわかりやすかっただろうなと思います。
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論争にはならないでしょ。

元々から自由間接話法じゃないものを、自由間接話法じゃないと言っているだけだから。

On m'a dit (que) とかOn me disait (que) や母親云々の話は、こういう状況にでもない限り《J'avais dix-huit ans et je quittais la France pour la première fois de ma vie. 》を自由間接話法とは捉えられないであろう、という一例を示しただけです。

もう一つ、《J'avais dix-huit ans et je quittais la France pour la première fois de ma vie. 》を自由間接話法と捉えるならば、J'avais から la première fois de ma vie.までを自由間接話法と捉えます。J'avais dix-huit ans で過去の視点を明示し、je quittais la France pour la première fois de ma vie.のところだけ(例え、j'ai decidé queだろうがJe me souviens queが省略されていると考えても)を自由間接話法と捉えるのは無理です。

私が分からないのは、ここでの半過去をどうとるかというのは若干議論が分かれるかもしれませんが、いずれにせよ描写・記述に重点を置いた半過去なのに、何故ご自身もあまりよく理解できていないとと思われる「自由間接話法」などという用語を使ったのかということです。

過去の叙述を一人称で表す時、その前になに(例:Je me souveins queですか)が省略されてもかまわない、と考えるのはご自身の勝手ですが、質問者や他の閲覧者を迷わせるのは如何かと。

〉新聞記事の絵画的半過去、小説の自由間接話法、これらは変わらないと思いませんか。
↑↑これは少し乱暴すぎやしませんか。私には「海老天丼も海老フライ定食も腹の中に入れば一緒だろう」というふうに聞こえますけど。
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