先日、大河ドラマで、平清盛の本当の父が白河院だということになっていたのですが、これはフィクションでしょうか?気になっていろいろ調べていたのですが、この説にも裏付けがあるらしいとか、祇園の女御が白河院のこどもを身ごもっているなか、忠盛に嫁いだとか、いろいろな情報がでてくるのですが、実際のところ、誰が父親なのでしょうか?清盛は平家の正当な血族ではないということなのでしょうか?

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A 回答 (9件)

白河落胤説は当時からあったようですがどちらかと言えば父の忠盛がその説を流布して自身や清盛の昇進に利用したんじゃないでしょうかね。


清盛生誕時、白河は63歳。母親が白拍子だったというのが事実なら実父が忠盛以外の可能性はあると思いますが白河の可能性は低いでしょう。
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 全くのフィクションということではなく,歴史上の有力説をベースにして物語を書いたということだと思われます。


 清盛が白河院のご落胤だという噂は当時から存在しているほか,平安時代の貴族は家柄が重要視され,いくら才能があっても低い家柄の人が顕職に抜擢されることは基本的にない時代だったのですが,清盛は平氏の家柄としては信じられないスピードで出世を果たしており,これは朝廷が白河院のご落胤であることを非公式に認めたという説もあります(当時の感覚としては,平氏の家格は大したものではなく,平氏の嫡男というよりは白河院のご落胤の方が立身出世に役立ったであろう事は事実です)。
 歴史上よくある無責任なご落胤説と違って,本当の父親が白河院であった可能性は否定できません。
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結論から先に言えば、ハッキリしないと言う事になるでしょう。



平家物語では質問者さんの白河=祇園女御が両親とされていますし、源平盛衰記では別の女性(名前を忘れました)と白河院の間に出来た子だと書かれています。

しかし白河院のご落胤とする記述はこの二つの書物にしかなく、それらが源氏の世になってから成立した書物である事を考えると、白河ご落胤説は信憑性が低いと言うのが現代の多くの歴史家の見方です。

清盛のスピード出世を正当に評価できない妬み嫉みが、ご落胤説となったのではないでしょうか。

余談ですが、平家は清盛の祖父の代から白河院に上手く取り入り、父忠盛の代になってその重用は一層高まっていたようです。
つまり清盛が出世をする下地は充分に出来上がっていたと考えても良いのではないでしょうか。
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こんにちは。


bungetsuです。

昨夜NHKで放映された「歴史秘話」「平清盛」は観ましたか?

もし、観ていないようであれば、「概要」を書いてみます。

(1)貴族社会は「中級貴族」と「上級貴族」から成り立っていた。
清盛は中級貴族の生まれでしたので、出世ができなかった。
つまり、12歳頃「従五位下左兵衛佐」の役職を貰うも、所詮、昇殿を許されないただの宮中へ出入りするための下働きの役職にしか過ぎなかったのです。

(2)そんな彼に転機ができたのは、妻「時子」(ときこ)を娶ってからでした。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%99%82% …

(3)時子の妹に「滋子」(しげこ)が居ましたが、これが貴族の間でも評判の「絶世の美女」。

(4)この滋子を時の天皇・後白河天皇に差出、「妃」(きさき)としました。これにより清盛は天皇と姻戚関係になったのです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%BB%8B% …

(5)そして、滋子は後白河の第七皇子(憲仁)を出産する。滋子はこれにより「皇后」の座に就く。

(6)保元元年(1156年)の保元の乱が勃発。続いて平治元年(1159年)の平治の乱が勃発。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E5%85%83% …
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B2%BB% …

(7)この二つの戦いらおいて、清盛は後白河天皇方として戦い、勝利を収める。

(8)これにより清盛は上級貴族の仲間入りを果たした。播磨守、大宰大弐となる。

(9)清盛は時子との間に6人の娘を授かる。

(10)清盛が上級貴族に仲間入りしたことにより、娘は「権中納言」や「左大臣」「関白」の家などの上級貴族に嫁いでいった。
こうして、上級貴族の中に次々と親類、縁者が誕生していった。

(11)清盛は48歳で「大納言」、49歳で「内大臣」。そして、50歳ではついに貴族のトップである「太政大臣」にまで上り詰めた。

(12)さらには、後白河天皇の息子である第80代天皇・高倉天皇にも娘を嫁がせ、男子が生まれました。
この男子は後の源平合戦で海に沈んだ「安徳天皇」です。



まあ、このように異例のハピード出世でしたので、白河天皇の子息だったからだ・・・と言う説が流布されたものと考えます。
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清盛が白河院の御落胤という説では、清盛の任官の速さを状況証拠としてあげています。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B8%85% …

12歳で従五位下左兵衛佐
※ 後に太政大臣になった点に関しては、藤原氏しか大臣になれなかったような時代に、菅原道真が右大臣になっていますから、実力があればなれるし、何事も最初になる人がいるんだから、その最初が清盛だといえば血統による優位性を主張できるものではないと思います。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%B6% …
弟の家盛が20歳で(1123生まれとして 1127年生まれとすると16歳)
康治2年(1143年)従五位上
1134年に蔵人

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%B5%8C% …
(1150年)(27歳)6月25日:従五位下

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%95%99% …
四男は21歳で従五位下

父親
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%BF%A0% …
18歳で 従五位下

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F% …
院の近臣の長子 13歳で従五位上

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F% …
院の近臣の長子 14歳で従五位上

同時代の院の近臣の長子が13歳や14歳で従五位上になっているので、有力な院の近臣であった忠盛の長子である清盛が12歳で従五位下になることはそんなに大事ではないように思う。従五位上になったのが14歳なので、他の院の近臣の長子らと同等。

院の近臣の嫡男として遇されていたという感じです。
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こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

>>実際のところ、誰が父親なのでしょうか?

実は、母親が清盛(平太)を産んで間もなく死亡したことに関係があるのです。

母親が祇園女御の妹とされていますが、どうやら白拍子(しらびょうし=唄や踊りを観せる女)であったとも言われています。

確かに、母親がなぜ早くに死んだかについての疑問が「謎」の解けないままになっているのです。

そこで、宮中で歌舞を観せた折に白河院と一夜を共にした。その後、白河院は子どもを身篭ったことを聞き、世継ぎ争いに巻き込まれないように、その女を殺そうとした。・・・と言う仮設で、母親が早くに死んだことの「こじつけ」をしたのが、前回のNHKの放映でした。

母親の死については、一般的には、産後の肥立ちが悪くて死んだ。と言うものと、流行病で死んだなどの種々言われていますが、「謎」は「謎」のままです。

私は、平忠盛の嫡子と考えます。

天下のNHKは、前回の「江」にしても、時代考証から見れば、全くのデタラメを放映するようになってしまっているのです。

もっとも、小説はしょせんは作り物ですし、誰もその場に居たわけではありませんので、どのように解釈をしても良い・・・と言えばそれまでですね。
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歴史の裏話として、この手の話は、あまたあります。


源義経が大陸に渡ってジンギスハーンになった、豊臣秀頼が
大阪城を脱出して鹿児島に行ったとか、と同じレベル
の噂話で、何の裏付けもないので本当の事は解りません。

日本の最初の変革、改革をした人、平清盛と云う人物が歴史上
に存在した事は事実です。

「大河ドラマ」ですから歴史から離れて、主人公の成長振りを
みて楽しめば良いと思いますが。
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平氏は武士とは言っても、元々は天皇家の流れを汲む一族です。

その棟梁を血筋的に全く無関係の者のに継がせるはずがありません。 噂があったことは本当のようです。 
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実際のことは誰も判りません もしかしたら母親は判っていたかも知れませんが



そのような噂が流されたことは記録に残っています

が 平家の棟梁として認められていたのですから、平家一族からは(一族であると)認められていたことに間違いはありません



数日前の質問に 大河ドラマは歴史的に真実なのでしょうか と言う質問がありましたが・・・・

歌舞伎や浄瑠璃と同レベルの娯楽作品としてみることです、ドラマが真実を表しているなどとは、思わないことです 単純に楽しめば良いのです
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Q1月29日放送の「平清盛」を見られた方に質問です

昨夜(1月29日)、京阪電車のテレビカーで「平清盛」を見ていました。
車内でのことで、何度か電波がとぎれたりしてよくわからなかったので教えて下さい。

番組の中で、三十三間堂とおぼしき建物が登場しましたよね?
(CGだと思われます。)
堂内には多数の千手観音が安置されていたと思います。
(目が悪くて千手観音かどうかよくわかりませんでしたが)
そのあと、ふたりの男性が弓を射るシーンにかわりました。
(ひとりは平清盛?)

三十三間堂ウィキペディアには次のように書いてあります。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%8D%81% …

この地には、もともと後白河上皇が離宮として建てた法住寺殿があった。その広大な法住寺殿の一画に建てられたのが蓮華王院本堂、今に言う三十三間堂である。

上皇が平清盛に建立の資材協力を命じて旧暦の長寛2年12月17日(西暦1165年1月30日)に完成したという。
(上記より引用)

平清盛が生まれたのは1118年なので、後白河上皇が命じて平清盛が47歳のときに完成したということだと思います。


1月29日放送の平清盛はまだ47歳ではないように思いました。
三十三間堂は存在していなかったのではないかと思います。

江戸時代には三十三間堂で盛んに通し矢が行われたそうで、現在も1月に通し矢が行われています。
三十三間堂の映像ののち、弓を射るシーンになっているので、弓を射るシーンにつなげるために、三十三間堂を映しだしたのかな、とも思います。


質問(1)
1月29日の放送で映し出されたお堂は三十三間堂ですか?
また、どういったシチュエーションで三十三間堂が映し出されたのですか。
未来予測?
それとも通し矢が有名なお堂なので、弓をひくシーンにつなげるためでしょうか。

質問(2)1月29日に放送されたのは、西暦は何年のことでしょうか。

※仮に時代考証がまちがっていたとしても、ドラマのことですのでどうこう言うつもりはありません。
ただなぜ三十三間堂が出てきたのか、気になりました。
(よくドラマの筋がわからなかったので)

よろしくお願いします。

昨夜(1月29日)、京阪電車のテレビカーで「平清盛」を見ていました。
車内でのことで、何度か電波がとぎれたりしてよくわからなかったので教えて下さい。

番組の中で、三十三間堂とおぼしき建物が登場しましたよね?
(CGだと思われます。)
堂内には多数の千手観音が安置されていたと思います。
(目が悪くて千手観音かどうかよくわかりませんでしたが)
そのあと、ふたりの男性が弓を射るシーンにかわりました。
(ひとりは平清盛?)

三十三間堂ウィキペディアには次のように書いてあります。

http://ja....続きを読む

Aベストアンサー

録画しているので
見なおしてみた

1)お寺に関しては No1の通り
弓矢は、清盛と家盛兄弟

家盛の生年が
保安4年(1123年)頃?
大治2年(1127年)?※平治物語による。
なので、この時 9歳か5歳 ずいぶん筋肉のついた子供です

映像は千手観音
たぶん三十三間堂でロケをしているんじゃないかな。できたばっかりなのに古びているし。


※あんな豪壮なお寺を寄進できる大金持ちの忠盛の息子の服が貧乏臭いというは、言わない約束です

Q平清盛はなぜ大輪田(現神戸港)に港を開いたのか・・

平清盛は博多で止まっていた宋船を都(京都)近くまで入らせ貿易の円滑拡大を計るため大輪田を開発したと聞きましたがなぜ淀川河口(現大阪港)に作らなかったのでしょうか。
神戸と大阪では30Km程離れており、都により近くまで大型船を接岸させることができれば運搬費用や時間の点で有利だと思いますが。

Aベストアンサー

その土地を毛嫌いしていたのだと認識しています。
と、言うより寛容(むしろ大甘)な人物だったのでしょう。

歴史的には源満仲は住吉大社に参籠しています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%8F%E5%90%89%E5%A4%A7%E7%A4%BE

ここは源氏の本拠地ですので、何が起きても不思議ではありません。
(近代以前参照)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%BA%9C#.E8.BF.91.E4.BB.A3.E4.BB.A5.E5.89.8D


その西に湊を起こせば河内源氏の支配する住吉津には積荷が無くなるので良しとしますが、
本拠地を徹底的に粉砕しなかった事は、後々の大失敗の要因のひとつになります。

Q平清盛のドラマ

今日から始まる平清盛のドラマを見ようと思うのですが、
NHKのこの時間のドラマは史実と合っているのですか?

歴史に詳しくなく、これまでのドラマも見たことがないので、実在した名前は使ってあるけど全くのフィクションなのか、史実に忠実に作られたドラマなのか分かりません。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

人物の名前や発生した事件などは史実通り。

その中で果たした役割とか発言とか行動とか、細部は創作。
特に、歴史的な文書に残りにくい女性に関する部分は、名前や存在自体が創作だったりする。

なので、既回答にもあるように9割とは言わないが、決して史実に忠実ではありません。

Q平清盛の番組の太刀の波紋

 今日、NHKの平清盛の番組で、源頼朝が雨の中で髭切の太刀を抜いているシーンがありましたが、

 細かいこと言っちゃいますが

 (1)当時の太刀があんなに刃紋があるでしょうか?すごく刃紋が目立っていましたが
  平安時代の作り方では、刃紋があんなにできるはずないとおもうのですが

 (2)刀剣の形も太刀ではなく、明らかに打刀のように見えましたが
 
  どう思われましたか?  

  ※平清盛の番組は批判していません。視聴率は低いですが、近年まれに見る傑作と思っております。

Aベストアンサー

 僕は平清盛を見ていないのですが、刀の形とは反り深さのことで言っているのでしたら。
 
 昔兄が(念流だか何だか? をやっていた)話してくれたのですが、あの時代はまだ直刃から太刀に移行し始めたばかりだったようです。
 そのため、鎌倉後期の太刀などと比べると随分浅いそうです。例えば、平家の宝剣小鴉丸は随分反りが浅いそうですよ。

 刃文に関しては、その頃は刀は武器としての面が大きかったので、切れ味優先で直刃(すぐは)の場合がほとんどだったらしいです。
 互の目刃紋がなかったわけでもないようですが、劇中に出てくる刀全てに互の目刃文が入ってたらちょっとおかしいんじゃないでしょうか?

 

 
 

Q平清盛について

大河ドラマの平清盛で気になったシーンがあったので質問します。

ちょうど昨日の回は
平治の乱だったのですが


源義朝勢が平清盛勢に対して出陣する際に
常磐御前が現れたところ

義朝が常磐に対して
「近寄るな。そなたは本日これより我が妻にあらずと心得よ」
と言い放ちましたが

これは常磐を守るための発言ととっていいのでしょうか?


(その後は、常磐は、それを否定し、義朝は「牛若と名づけよ。きっと男の子だ」等言っていました。(常磐が妊娠中だったので)

Aベストアンサー

その考えでいいと思います。


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