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日本列島に稲作が伝わったルートの一つに、
中国・長江の上海あたりの河口から東シナ海を北東に航海して九州西部・北部に達するルートがあります。

質問1.なぜ、住み慣れた土地を捨て、日本列島に来たのですか。
たとえ戦乱から逃れるためであったにせよ、農耕民が、なぜ大海を渡る決断をしたのか疑問です。
遣唐使船でさえも多くの遭難事故が起きています。
造船と航海の知識をもつ漁民を誘って船出したのでしょうが、沿岸伝いに他の地を選ぶこともできたと思うのですが…。

質問2.弥生時代の舟で東シナ海を渡ることができるような舟の出土例はありますか。

よろしくお願いします。

A 回答 (8件)

>質問2.弥生時代の舟で東シナ海を渡ることができるような舟の出土例はありますか。



 準構造船の全体がわかる船の出土例はまだありませんが、滋賀県守山市赤野井浜遺跡などから舳先(へさき)や舷側板の一部が出土しています。
   http://www.yoshinogari.jp/ym/episode04/traffic.h …

 対馬海峡や日本海などを航行できる船(丸木舟)であれば、先史時代(旧石器時代から縄文時代)の遺跡などから多数の発掘例は有るようですが…。
 (遺跡などの出土品から朝鮮や中国やロシア等と交易を行った事を伺える出土品も出ています。)

 あと、遣唐使船は朝鮮半島との関係悪化により危険な航路を通らなければ成らなかったのと、元日朝賀に唐の都へ入京する必要があるため、天候と海流が危険な季節に日本を発たねば成らなかったという説が有ります。
 (朝鮮半島との関係が悪化する前は、殆ど被害を出していない。)
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
URLは参考になりました。
日本での出土例は無いようですね。
外洋を航海できる舟は準構造船だと思いますが、石器ではムリで、鉄器がなければ建造できないと思います。
私の質問が不十分でしたが、中国での出土例を期待していました。

>遣唐使船は朝鮮半島との関係悪化により危険な航路を通らなければ成らなかった…

そうですね。8世紀、国家が建造した船でも、国家レベルの航海の知識を有していても、東シナ海の航海には遭難がつきものでした。
にも拘わらず、教科書には、東シナ海から九州北部直行の伝来ルートが、当然のごとく記述されているのを疑問に思っていました。

お礼日時:2012/02/17 14:25

質問1.


住み慣れた土地を捨てたというよりも、サテライトをいくつも持っていたと考えたほうが妥当だと思います。特に南部では計画的な農業という手段をとっていないようでしたので、純粋な稲作農家というよりも、稲作もやりつつ海を渡って貿易をしていたという民族が南方の人々だと聞いています。

刺青の文化も縄文人にはあって、それは当時の中国南部の風習と同様でした。そのころに水稲の文化も伝わっていると思いますよ。

縄文時代に、すでに稲作の文化が来ていたことは、どこかで発掘されていた気が・・・

質問2.
知りません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
なるほど、サテライトですか。 これは、思いつきませんでした。

>特に南部では計画的な農業という手段をとっていないようでしたので、純粋な稲作農家というよりも、稲作もやりつつ海を渡って貿易をしていたという民族が南方の人々だと聞いています。

そうなんですか?
私の認識とは異なりますので、勉強します。
ほんの数冊読んだだけのことですが、日本における水田耕作は、少しずつ発展してきたようなものではなく、稲作がはじめから完成されたかたちで導入された、と思っています。
例えば板付遺跡です。
この前提で考えると、水田稲作を海の向こうではじめようとすれば、数家族では開拓できないので、ある程度のまとまった人数で、プランニングを立てて日本列島を目指したのではないか、と想像していました。

お礼日時:2012/02/19 20:30

稲作を伝えた人が住み慣れた土地を捨てたという証拠はどこにもありません。

そういうことを論じた学者は存在しないし、何度も貼られているリンク先でも、そんなことはどこにも書いていない。農耕民が大海を渡ったという証拠もないし、大海を渡る決断をしたという証拠もありません。なにか質問者さんはとんでもない勘違いをされているようです。文化の伝播とは、そんなものではない。例えば、さつまいもがどうやって日本に伝わったか。交易の為に中国に出入りしていた沖縄の役人が、持ち出し禁止の法を破って、内緒でこっそりさつまいもの苗を沖縄に持ち帰って、沖縄で栽培に成功しました。それが琉球を支配下においた薩摩藩の人が気づいて、薩摩国に苗を持ち帰って薩摩国でも栽培に成功したのです。このようにさつまいもの場合は、二段階で日本に伝わっていますし、中国の人は一歩も大陸を出ていません。

リンク先の資料が示しているのは、稲作の起源ということだけです。具体的にどうやって伝えられたかは誰にもわからないし、そんな証拠はどこにも存在しない。たまたま噂話で伝わったのか。たまたま暴風雨で漂着した人が伝えたのか。陸路を移動したのか、海路を移動したのか、まったくわかりません。そういうことを主張している資料は存在しません。あらぬ妄想を繰り広げても無意味です。
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございます。

10年ほど前、池上曽根遺跡と唐古・鍵遺跡から出土した水稲の炭化米をDNA分析したところ、朝鮮半島にはなく中国に広く分布する温帯ジャポニカ米だったと和泉市教委が発表しています。

学研・日本の歴史新聞「大阪、奈良の遺跡の炭化米」
http://kids.gakken.co.jp/rekishi/news/0108_3.html

このときの橿原考古学研究所長・樋口隆康氏のコメントの新聞記事が手元にあります。
以下、新聞記事。
「稲作文化の中心は中国の長江流域にあり、華北や朝鮮半島をわざわざ経由しないでもいい。
長江流域から直接稲作が日本に伝わったと考える方が自然だ。以前からそう主張してきたが、考古学の分野では決め手がなかった。科学的な手法で大陸直接ルートが裏付けられた意味は大きい」

これを読んだときから、東シナ海を渡った人はどんな思いだったのだろうと、想像してきたのですが、このカテの回答者さまのご感想を聞きたくて、今回質問しました。
質問すれば、「タダで」いろいろ教えていただけるので、しょっちゅう質問しています。

お礼日時:2012/02/18 10:43

中国本土から台湾 そして フィリピンを介して太平洋上 ハワイやイースター島まで


イースター島まで到着したのが 4-5世紀くらい
ハワイが4-8世紀くらいと言われています。
これのレベルから考えれば、東シナ海を渡ることなど、ホモサピエンスの行動の中では、異常なあるいは特別に大胆な移動ではないと思います。

また、稲作をやっていたから農耕民、今の日本の乾田をイメージする農業専従者と考えると、船なんて・・・と考えてしまいますが、ちょっと前まで、日本でも湿田が多く、タイの農民みたいな生活でした。
※ 1900年生まれの私の祖母は、泳ぎが達者で、潟舟を器用に乗りこなしていました。

長江下流もまだ乾田化されず、湿田であり、湿田が故に川魚がたくさんいて、その動物タンパク質もとっていたとのこと。
つまり稲作民でありかつ、漁労者であったと。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
東シナ海から見知らぬ「島」に向かって船出することは、「特別に大胆な移動ではない」ということですね。

縄文時代、丸木舟で八丈島から黒潮を横切って伊豆七島を往来していますから、当時の航海術が低いとは思っていませんが、決死の覚悟で船出させた理由は何なんだろう、と思って質問しました。

お礼日時:2012/02/17 20:55

時期によっては偏西風であっという間に安全に日本についてしまいます。


しかも漁師であればうっかり漂流して九州に流されたものも多数いたはずです。
その辺の知識があって直接九州に渡ったのではないでしょうか?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
そうですね。
日本へ帰るつもりで出航した遣唐使船が、ベトナムに着いてしまった例もありますから、漂流してきた人も大勢いることでしょう。

お礼日時:2012/02/17 20:42

直接の答えは持ち合わせていないのですが。



 『農耕民』・『漁民』と定義づけて考えるのは、社会的分業が高度に進んだ現代を基準にしているからで、海岸や河川沿いに住んでいた連中は、操船に熟練しながら米作りもしていたなんてケースはいくらでもあったと思いますが。

 台湾から南西諸島沿いを上がってくればそれほどリスかはないような気がするですがねえ。旅立った動機は何でしょう?「扶桑伝説」でも真に受けちゃったんでしょうか?

 「縄文人は新大陸に達していたかもしれない。」という奇矯な事を言っている人がいるらしいですが、これは誇大妄想としても、その時代の航海技術は現代人が思うほどには低くないと言うことは有るようですね。

 これは司馬遼太郎がどこかで書いていたのですが、大正時代の頃、九州の島原の漁民が、手漕ぎの木造の漁船に一人で乗り込み朝鮮半島に渡る事があったそうです。どうも若者の通過儀礼のような意味があったようですが。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
台湾から南西諸島沿いに上がってくるルートもありますね。
それなら納得します。
しかし、教科書や本では、東シナ海を直接渡るルートがあることが当然のように説明されていますので質問しました。
浜島書店HP「新詳日本史図説」
http://www.hamajima.co.jp/rekishi/shiryo-katsuyo …

池橋宏著『稲作渡来民 日本人成立の謎に迫る』には、
「舟を駆使し移動性に富む稲作民が、水田の適地を求めて渡来し、移動・拡大を続けたとみてよい」と説明されています。
だから、沿岸沿いに安全に航海する技術はあったと思います。
しかし、河口付近での操船技術で東シナ海を渡れるのか疑問に思って質問しました。

お礼日時:2012/02/16 20:55

 ヒトは約5万年前にアフリカから流れ出始めたことが分って来ています。

その原因は何らかの原因による食料不足だったという説が有力なのです。その原因は人口の自然増だけではなく、天候不順や戦乱による食料難などもその原因と考えられており、たとえば中国で五胡16国の時代は異民族が華北の平原へ北からなだれ込んで来たのですが、ヨーロッパではゲルマンの大移動が起きています。その原因は天候不順だと言われています。

  日本へ稲作を伝えたヒトもたぶんその原住地で食料難が生じたので船出して来たのだと推察されます。その食料難がどうして起きたのかは残念ながら未だ解明されていません。

  アメリカ大陸へヨーロッパの人々が移住し始めたのはメイフラワー号のように宗教上の理由だとされていますが、実はあの頃は天候不順のために凶作が続き、ブリテン島では深刻な食料危機が起きていたのです。これが多くの人がアメリカ大陸へ向かった最大の理由だったのです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
確かに、食料難によるものでしょう。
食っていけさえすれば、土地を離れる必要はありませんから。

NHKスペッシャル「ヒューマン なぜ人間になれたのか グレートジャーニーの果てに」では、
人口が爆発的に増えたがために、食料難となって、アフリカから出ていった、と解説していました。


ただ、質問の中国の場合、なぜ陸続きに移動しなかったのか、あるいは朝鮮半島沿いに移動しなかったのか、疑問です。
教科書や本では、東シナ海を直接渡るルートがあることが当然のように説明されています。
浜島書店HP「新詳日本史図説」
http://www.hamajima.co.jp/rekishi/shiryo-katsuyo …

お礼日時:2012/02/16 20:25

【質問1】



おそらくは、日本から送られた遣隋使、遣唐使と同じ働きを持っていたものと思われます。遣隋使や遣唐使といった名前が無いだけで、日本との交易を重視していたのではないかと。その中には農耕文化の伝承や仏教文化の伝承を指名として来た人々もいたでしょう。唐時代の中国の僧、鑑真和上も、日本に仏教における戒律の重要性を広めるために、危険をおかして日本を目指し、実に10年がかりで日本に渡来。律宗の総本山である「唐招提寺」が建立されました。


【質問2】

歴史の表面上は出てきませんが、あったと思いますよ。


余り説得力の無い回答ですいません(汗)
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>余り説得力の無い回答ですいません(汗)

 いえいえ、そんなことはありません。
質問そのものが「想像して回答してください」という程度のものですから。
私もいろいろ想像したのですが、
「その中には農耕文化の伝承や仏教文化の伝承を指名として来た人々もいたでしょう」
という視点には、至りませんでした。
参考になりました。

お礼日時:2012/02/16 20:15

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