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yahoo知恵袋で以下の内容のことを質問したのですが、回答が1件も来なかったのでokwaveで質問させていただきます。

★印の文中の【 】内の表現は受け身の言い方で合っていると思うのですが、客体的な言い方でもあるかどうかの疑問が湧いたのです。

★何らかのきっかけで『動くな』『目を開けるな』『食べるな』『飲むな』『書くな』『起きるな』『ペンをとじるな』『裏返すな』『黙れ』『頭が回らない』『わからないようにしました』『金縛り』『(体を)銅像のように固められた』『制限が入る』『止める』『ねる』『ん《故人の名》』『みんなで《中学の時のクラスメイト(女)の名》』などの言葉が【発見された】感じがし、静止状態に至ったり頭の働きが鈍くなったということなのです。

ここで質問です。
【発見された】という表現は客体的表現でもあるので合っているかどうかと、もし【発見された】という表現が客体的な言い方だとしたら、主体的な言い方に置き換えた表現も教えて下さい。
1つだけでなく、いくつか表現を教えてくれると嬉しいです。

A 回答 (39件中31~39件)

#8です。



「言い聞かせる」は使役だと言いましたが、ちょっと疑問が湧いたのでこのカテで質問してみます。
そちらのベストアンサーを参照なさってください。

この回答への補足

補足です。
marisukaというネームをブログにそのまま載せるのは良いでしょうか?
それも教えて下さい。

補足日時:2012/05/26 21:22
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この回答へのお礼

ハコブルさんがした「言い聞かせる」というタイトル名の質問先を見てみました。
文法では使役とは言えないということなんですね。
後ほど#10のお礼欄にお礼を書こうと思います。

お礼日時:2012/05/26 20:18

#7です。



1.
>誰もが経験することというのは、どこかで目にした・聞いたことがあるか、もしどこかで目にした・聞いたのなら、どこで目にしたのか・聞いたのかが知りたいです。
本に書いてあったのか、友人から聞いたのか、それともそれ以外の理由なのか、知りたいです。

「変換された」「暴かれた」「言い聞かせられた」というのは、fall1024ta さんの感覚ですから、他の人が全く同じ経験をしている、という意味ではありません。
自分の頭の中に浮かんだ言葉が、まるで他人が言っているような感覚で認識されることは、誰にでもある、という意味です。
本にも書いてありますし、友人が言っていたこともありますし、わたしが経験したこともあります。
他人の声を認識し、記憶する機能が脳にはありますし、それを思い出したり想像したりすることは誰にでもできるからです。
ただ、くどいようですが、【他人が言ったように感じる】ことは誰にでもある、ということです。
【他人が言った】のような断定ではありません。

1-1.
>また「(他の誰かによって)言い聞かせられたように感じた」「(他の誰かによって)言い聞かせられたのと似ていると感じた」「まるで(他の誰かによって)言い聞かせられたように感じた」「他の誰かによって変換された」「他の誰かによって暴かれた」などは主体的表現だと思ったのですが、そうなのかどうかも知りたいのです。

「(他の誰かによって)言い聞かせられたように感じた」「(他の誰かによって)言い聞かせられたのと似ていると感じた」「まるで(他の誰かによって)言い聞かせられたように感じた」
などは主体的表現と思います。
「感じる」というのが主体性を持った行為だからです。
「他の誰かによって変換された」「他の誰かによって暴かれた」
などは主体的表現とは言えないと思います。
自分の意志や感覚に基づいた行為が含まれていないからです。

2.
>お約束どおり回答をくださり、ありがとうございます。
使役動作についてですけど、wikipediaには「~させる」という表現形態だということが書かれていました。
「言い聞かせる」というのも使役動作だと思いました。

そのとおりです。

>知恵袋では「静止が解除された」は解除した人はいるが、「静止が解けた」は解いた人はいないと言う回答を得ました。

「解除する」は「(誰かが)静止を解除した」のように目的語(静止)を必要とする他動詞です。
この受身形が「(誰かによって)静止が解除された」です。
目的語を必要とするので、その目的語に対する動作を行なったものとしての主語が必ず存在します。
「解けた」は自動詞で目的語を必要としません。
この場合、「静止」は主語扱いになり、静止が自然に(自動的に)解けた、という意味になります。
解いた人はいない、というのはそういうことです。

>同様に、「暴かれる」「操られる」「治される」「止められる」は使役動作だと思ったのですが、そうなのかどうかも知りたいです。

使役というのは「無理やり他人に何かの行為をさせること」です。
「暴かせる」「操らせる」「治させる」「止めさせる」のように言います。
「暴かれる」「操られる」などは受身動作、受動態です。
能動態にすると
「(誰かが)暴く」「(誰かが)操る」のようになります。

>それと、「静止」および「言い聞かせ」が主体的とは言えないのなら、どういう表現なのか教えて下さい。
客体的表現でも主体的表現でもないのかなぁ・・・??

客体的表現の意味をわたしは良く知りません。
ただ、『静止が(職員さんの言動をきっかけに)解除された』は受動表現。
『静止が解けた』という文体を何と言うのかは知りませんが、客観的表現とでも言っていいのかもしれません。
ただ、主体的表現とは言わないように思います。

3.
>『~感じ』という表現が入っていれば、全て主体的表現と言えるかと思ったが、そうなのかどうかも知りたいです。

専門家ではないので、学問的にそう言えるのかどうか、確信はありません。
ただ、「暴かれた」と「暴かれた感じがする」では後者のほうが主体性を持った表現と言えるのではないか、と思ったわけです。
前者は「暴く他人が居る」ことになります。
後者は「暴く他人が居るかもしれないが居ないかもしれない」ということになるでしょう。
要するに、「~感じ」という認識には主体的判断の余地がある、という意味で認知行動療法のきっかけになり得るように思われます。

4.
>「唾液の動きを操られた」「唾液の動きを止められた」を「(何らかのきっかけで)唾液が飲み込めなくなった」と書き換えた場合は客体的表現から主体的表現に置き換えた表現だと言えるかどうかも教えて下さい。

何度も申し上げていますが、客体的表現の意味がわたしにはよくわからないので、客体的であるかどうかの判断はできません。
ただ、すでに書いたように、「(何らかのきっかけで)唾液が飲み込めなくなった」というのは主体的表現です。

>◆◆◆2◆◆◆のは受身表現→客観的表現→主体的表現に置き換えたものなんですね。

そういうことです。

>つまり、受身表現→主体的表現が客体的表現から主体的表現に置き換えたかどうかの質問です。

(1)『唾液の動きを操られた』『唾液の動きを止められた』
は受身表現ですね。
(3)『(何らかのきっかけで)唾液が飲み込めなくなった』
は主体的表現と言えるでしょう。
(2)『(自分の意志ではない何かに)僕が口の中で唾液の飲み込む動きを止められたり、飲み込む動きをさせられたりしたような気がした』
は、fall1024ta さんは客体的表現とおっしゃっているわけですが、前述したように、客体的表現に関する知識がわたしには無いのでよくわかりません。
ただ、感覚としては、客観的表現と言えるように思います。

この文の要点は、「自分の意志ではない何かに」という箇所だと思います。
その上で、「気がした」という部分が何を受けているのか、という問題になります。
「気がした」というのは「事実ではないかもしれないが・・・」というニュアンスを持つ表現です。
このニュアンスを持つ「気がした」が単に「動きを止められたり、飲み込む動きをさせられたりしたような」だけを受けているのか。
あるいは、「自分の意志ではない何かに動きを止められたり、飲み込む動きをさせられたりしたような」を受けているのか。
後者の場合は、「自分の意志ではない何か」に対して「事実ではないかもしれないが・・・」という認知ができていることになります。
この意味では「主体的表現」と言うこともできるかもしれません。
前者の場合は、「自分の意志ではない何か」の存在に疑いを抱いていないので妄想となり認知に歪みが生じていることになるでしょう。

5.
実は、自分は他者にやられた・動かされた・治された・操られたという主体の文を自分の意志が行ったという主体の文に言い換えたい気持ちが強いのです。
これは以前も言ったと思います。
前者も後者も自分の脳内で起きていることですよね。
こういう場合、どういうふうに質問すれば望み通りの回答が来るかどうかも詳しく知りたいです。

『このような受動態表現を、動作の主体が自分である能動的表現、あるいは客観的表現に言い換えたい』ということなのでしょうね。(しかし、あえてこのような熟語を使う必要はありません)
ですから、基本的には、「やった・動かした・治した・操った」などと表現すればよいことになります。
しかし、それだけでは満足できないということなんですね。
お力になれなくて申し訳ありませんが、表現上、いくつか留意なさると良い点を挙げてみます。

■たとえば、<言葉が【発見された】感じ>といった総括的な表現はなるべく避けて、実際の例を挙げて、具体的な表現で記述するようにしましょう。
個別の具体例の中で、発見された感じ などという説明が入るのは構いませんが。

■また、この点に関してですが、
・・・『止める』『ねる』『ん《故人の名》』『みんなで《中学の時のクラスメイト(女)の名》』
など、例が多すぎます。
ひとつかふたつに絞りましょう。
それが解決したら、他の表現に関して改めて質問するとよいでしょう。
ひとつだけでも考えるほうは大変です。

■逆に、『止める』『ねる』『ん《故人の名》』『みんなで《中学の時のクラスメイト(女)の名》』など、それぞれの項目の『』内表現が短すぎます。
「止める」?何を?誰が?いつ?どこで?疑問だらけなので回答する気になりません。
例の数をひとつかふたつに絞って、その内容・中身について若干の注釈を(短く)加えるようにします。
  
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

1.
>「変換された」「暴かれた」「言い聞かせられた」というのは、fall1024ta さんの感覚ですから、他の人が全く同じ経験をしている、という意味ではありません。
自分の頭の中に浮かんだ言葉が、まるで他人が言っているような感覚で認識されることは、誰にでもある、という意味です。
本にも書いてありますし、友人が言っていたこともありますし、わたしが経験したこともあります。
他人の声を認識し、記憶する機能が脳にはありますし、それを思い出したり想像したりすることは誰にでもできるからです。
ただ、くどいようですが、【他人が言ったように感じる】ことは誰にでもある、ということです。
【他人が言った】のような断定ではありません。

このことについて身近な人(職場の人)にどう思うか、質問したのです。
それに関しては「受け止め方による」とのことでした。
誰にでもあることについて、操られる・変換される・暴かれる・言い聞かせられるように感じることがどれくらいの頻度で生じるかは人によって違うと思うのですが、そうなのかどうか知りたいです。
それについて詳しくわかりやすく知りたいと言うふうに思いました。

どれくらいの頻度=(1)しょっちゅうある、(2)たまにある、(3)あまりない、(4)全くない

操られる感じが(1)しょっちゅうあって辛く感じたりするのは統合失調症の人に良くある症状だと思いました。

「言い聞かせる」というのが使役動作とは言えないことに関しては#10のお礼欄に書こうと思います。

2.
>「(他の誰かによって)言い聞かせられたように感じた」「(他の誰かによって)言い聞かせられたのと似ていると感じた」「まるで(他の誰かによって)言い聞かせられたように感じた」
などは主体的表現と思います。
「感じる」というのが主体性を持った行為だからです。
「他の誰かによって変換された」「他の誰かによって暴かれた」
などは主体的表現とは言えないと思います。
自分の意志や感覚に基づいた行為が含まれていないからです。

自分の意志や感覚に基づいた行為が含まれていないというのは、「~ように感じた」という表現が入ってないからだと思いました。
そうなのかどうか知りたいです。
「他の誰かによって変換された」「他の誰かによって暴かれた」は客観的表現で、「他の誰かによって変換されたように感じた」「他の誰かによって暴かれたように感じた」は主体的表現だと思ったのですが、この解釈で合っているかどうか確認を教えてもらいたいです。

3.
まとめてみると、
『静止が解除された』:受身表現、他動詞
『静止が解けた』:客観的表現、自動詞
このような解釈で合ってるか確認を教えて欲しいです。

4.
「暴かれた」:客観的表現、受身表現
「暴かれた感じがする」:主体的表現
このような解釈で合ってるか、確認を教えて欲しいです。

5.
唾液の動きを操られたという話について、
『(自分の意志ではない何かに)僕が口の中で唾液の飲み込む動きを止められた』というのは主体文にすると『何らかのきっかけで唾液を飲み込めなかった(感じがした)』ということだと思いました。
でも僕は『何らかのきっかけで唾液を飲み込めなかった(感じがした)』という別表現を知りたくなりました。

『(自分の意志ではない何かに)僕が口の中で唾液の飲み込む動きを止めら
れた』
『何らかのきっかけで唾液を飲み込めなかった(感じがした)』
この2つを比べてみて、言い換え文を何個か箇条書きで教えて欲しいです。

僕の中で起きていたことは例えば幻聴・耳鳴りがきっかけでまるで操られた感じがして唾液を飲み込む行為がまるで制限されたことが時々あったけど、それが喫茶店で働いていてまるで操られた感じがしたと思うが、それがきっかけになって唾液が飲み込めるようになったと思うのです。 

6.
他者にやられた・動かされた・治された・操られた感じがした主体の文から自分の意志が行ったという主体の文に言い換えたい気持ちが強いことについて

★動作の主体が自分である能動的表現、あるいは客観的表現に言い換えたい
☆このことについてわかりやすく知りたいです。

再度回答下さい。

お礼日時:2012/05/26 20:16

>1.に関して


#2さんのおっしゃった「客体に自らを投影した受身表現で合っているかどうか」をいきなり尋ねるのではなく、お礼欄か補足欄に質問を書いてみて、それでもなかなか返事が返ってこなかったら、ハコブルさんなどの#2さん以外の人に訊けばいいということを言ったかと思いました。
そうなのかどうか知りたいです。

そのとおりです。
それが正しい手順です。
補足蘭に書いておくと、他の方が見て回答をくれる場合もあります。

>3.に関して
例えば「操られた」とか「変換された」「暴かれた」「言い聞かせられた」などが起きることを身近な人におかしい、有り得ないと指摘されたのです。
自分の意志で動いていると指摘され、それ以来「言い換え」を求めるようになったのです。
これがつまり客体的表現か主体的表現かという問題にこだわるということなのです。
それと、以前にも言ったことだと思うのですが、「~られた」「~された」などの言葉を使って医師に伝えたら統合失調症などの症状としてみなされ、「~があった」「~が起きた」などの言葉を使って医師に伝えたらごく普通のこととしてみなされたのです。

なるほど。
よくわかりました。
「変換された」「暴かれた」「言い聞かせられた」というのは正確に言うと、
「他の誰かによって変換された」「他の誰かによって暴かれた」「他の誰かによって言い聞かせられた」ということです。
自分の頭の中に「他の誰か」が存在していることになりますから、「有り得ない」ことであることは間違いありません。
しかし、自分の頭の中で『「他の誰か」が言っているように感じる』ことは誰にでもあります。
つまり、
「(他の誰かによって)変換されたように感じた」「(他の誰かによって)暴かれたように感じた」「(他の誰かによって)言い聞かせられたように感じた」というのは、誰もが経験することです。

「ように・ようだ」というのは「性質・状態などが似ている」という意味です。
「手が冷たくて氷のようだ」「彼女は美しい花のようだ」などで、「手=氷」「彼女=美しい花」でないことはおわかりになると思います。
「手=氷に似ている」「彼女=美しい花に似ている」という意味。
それと同じで、
「(他の誰かによって)言い聞かせられたように感じた」というのは、
「(他の誰かによって)言い聞かせられたのと似ていると感じた」
あるいは、
「まるで(他の誰かによって)言い聞かせられたように感じた」
という意味になります。

「似ている」だけなので、実際に「他の誰か」がいるわけではありません。
しかし、似ているだけなのに、つまり、現実ではないのに現実のように感じるので辛くなるのでしょう。
これは妄想ですから、統合失調症の症状と医師は判断したのだと思います。
「現実的には有り得ないことだ」という認識をお持ちになるようにがんばってみてください。
認知行動療法をご存知のようですから申し上げますが、自らの感覚よりも論理を優先するように努力してみることは有効な自己治療の一環と言えるでしょう。

>4.に関して
【A】昼ご飯を食べることが禁止され、
→昼ご飯を食べる意欲や動作に不調をきたし
【B】昼ご飯を食べることが禁止され、食べられなくなった
→昼食をとるための心身の働きが混乱し喪失し、食べられなくなった
【C】「静止が解除された」
→「静止が解けた」

yahoo知恵袋でこれらの表現(【A】~【C】の表現)は通常は、客体的な言い方を主体的な言い方に置き換えた、ということではないかと思いますという回答を得たのです。
それ以来、客体的・主体的というのをこういうことで使うようになったと思うのです。
#5のお礼で書いたA~Dの内容および「唾液の動きを止められた」の内容が客体的から主体的表現に置き換えたものかどうか質問したのはこういうためだと思うのです。

前回も申し上げましたが、客体的表現という言葉をわたしは殆んど使ったことがありませんので、その解釈に関して他の方と争うつもりはありません。
しかし、お聞きになりたいことはわかりましたので、それについてお約束どおり以下に回答してみます。


◆◆◆ 1 ◆◆◆ 

A:『静止が(職員さんの言動をきっかけに)解除された』を『静止が解けた』に置き換えた

B:『(職員さんの言動をきっかけに)昼ご飯を食べることが禁止された』を『昼ご飯を食べる意欲や動作に不調をきたした』に置き換えた

C:『(車の音がしたことがきっかけで)言い聞かせられた』を『言い聞かせがあった』に置き換えた

D:『脳の中身すべてが(人の不快な声によって)動かされている感じ』を『脳機能のすべて――思考・感情・意欲・認知・体感・動作・記憶・想起などがまるで自由にならず、意図しない状態へと勝手に変わる感じ』に置き換えた

で、A~Dは客体的表現から主体的表現に置き換えたことが言えるかどうか知りたいです。

Aは、「静止」という言葉自体が「静止した第三者」を想定していますから、どちらも主体的表現とは言えないでしょう。
『(職員さんの言動をきっかけに)自由に動ける(言える)ようになった』などであれば主体的と思います。

Bの『昼ご飯を食べる意欲や動作に不調をきたした』は主体的と言えると思います。
「昼ご飯を食べる気がしなかった」とすれば、いくらか自然な表現になるでしょう。

Cは、『言い聞かせ』という言葉自体が使役動作です。
つまり、「言い聞かせる第三者」が想定されていますから主体的とは言えません。
前後の脈絡が不明なので確信はありませんが、
『(車の音がしたことがきっかけで)自らに言い聞かせた』などでれば主体的です。
これは「自分が自分に」という意味ですから第三者は想定されていません。

Dの場合、『脳の中身すべてが(人の不快な声によって)動かされている感じ』を『脳機能のすべて――思考・感情・意欲・認知・体感・動作・記憶・想起などがまるで自由にならず、意図しない状態へと勝手に変わる感じ』
どちらにも『~感じ』という言葉が入っています。
感じるのは自分なので、どちらも主体的な表現と言えるでしょう。
『(人の不快な声によって)脳機能の全てが無力化したようで、結果としてまるで意図していない言動を強いられる』
のように表現することもできると思います。


◆◆◆ 2 ◆◆◆ 

(1)『唾液の動きを操られた』『唾液の動きを止められた』
 ↓
(2)『(自分の意志ではない何かに)僕が口の中で唾液の飲み込む動きを止められたり、飲み込む動きをさせられたりしたような気がした』
 ↓
(3)『(何らかのきっかけで)唾液が飲み込めなくなった』

で、
>(2)の表現を(3)の表現に置き換えたのは客体的表現から主体的表現に置き換えたことが言えるかどうか

少なくとも(3)は主体的表現です。

>(1)の表現を(2)の表現に置き換えたのは何の表現をどういう表現に置き換えたのかも知りたいです。

受動態の表現(1)を客観的表現(2)に置き換えた、と言えるように思います。
(2)は「気がした」という言葉があるので、『唾液の動きを止められた』という自分の状態を客観的に認識できていることになるでしょう。
  
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この回答へのお礼

再度詳しい回答をありがとうございます。

1.
>自分の頭の中で『「他の誰か」が言っているように感じる』ことは誰にでもあります。
つまり、
「他の誰かによって変換された」「他の誰かによって暴かれた」「(他の誰かによって)言い聞かせられたように感じた」というのは、誰もが経験することです。

誰もが経験することというのは、どこかで目にした・聞いたことがあるか、もしどこかで目にした・聞いたのなら、どこで目にしたのか・聞いたのかが知りたいです。
本に書いてあったのか、友人から聞いたのか、それともそれ以外の理由なのか、知りたいです。

1-1.
また「(他の誰かによって)言い聞かせられたように感じた」「(他の誰かによって)言い聞かせられたのと似ていると感じた」「まるで(他の誰かによって)言い聞かせられたように感じた」「他の誰かによって変換された」「他の誰かによって暴かれた」などは主体的表現だと思ったのですが、そうなのかどうかも知りたいのです。

2.
お約束どおり回答をくださり、ありがとうございます。
使役動作についてですけど、wikipediaには「~させる」という表現形態だということが書かれていました。
「言い聞かせる」というのも使役動作だと思いました。

知恵袋では「静止が解除された」は解除した人はいるが、「静止が解けた」は解いた人はいないと言う回答を得ました。
同様に、「暴かれる」「操られる」「治される」「止められる」は使役動作だと思ったのですが、そうなのかどうかも知りたいです。

それと、「静止」および「言い聞かせ」が主体的とは言えないのなら、どういう表現なのか教えて下さい。
客体的表現でも主体的表現でもないのかなぁ・・・??

3.
>『脳の中身すべてが(人の不快な声によって)動かされている感じ』を『脳機能のすべて――思考・感情・意欲・認知・体感・動作・記憶・想起などがまるで自由にならず、意図しない状態へと勝手に変わる感じ』
どちらにも『~感じ』という言葉が入っています。
感じるのは自分なので、どちらも主体的な表現と言えるでしょう。

『~感じ』という表現が入っていれば、全て主体的表現と言えるかと思ったが、そうなのかどうかも知りたいです。【ここまでC】

4.
「唾液の動きを操られた」「唾液の動きを止められた」を「(何らかのきっかけで)唾液が飲み込めなくなった」と書き換えた場合は客体的表現から主体的表現に置き換えた表現だと言えるかどうかも教えて下さい。
◆◆◆2◆◆◆のは受身表現→客観的表現→主体的表現に置き換えたものなんですね。
つまり、受身表現→主体的表現が客体的表現から主体的表現に置き換えたかどうかの質問です。

5.
実は、自分は他者にやられた・動かされた・治された・操られたという主体の文を自分の意志が行ったという主体の文に言い換えたい気持ちが強いのです。
これは以前も言ったと思います。
前者も後者も自分の脳内で起きていることですよね。
こういう場合、どういうふうに質問すれば望み通りの回答が来るかどうかも詳しく知りたいです。

再度回答下さい。

お礼日時:2012/05/25 06:19

#5です。



1.
>他の回答者に尋ねるというのは、ハコブルさんに訊くのでも良いということかどうか知りたいです。

それぞれのお礼欄や補足蘭で尋ねるということです。
または、新たに質問を立てるのも良いでしょう。
少なくとも、最初から相手の方を無視して他の人に尋ねるのは良くありません。
わたしに聞いてもらっても良いですが、必ずお答えできるという確約はできませんから悪しからず。

2.
>『「動くな」という言葉が発見された』という表現をおかしいと指摘されました。

表現自体は別におかしくありませんよ。
fall1024ta さんがそのように感じたことを表現するのは自由です。
ただ、その表現の内容がおかしい、と他人が感じるのも自由です。
その場合には、「表現がおかしい」ではなく「内容がおかしい」と言います。
指摘した人は、おそらく、その違いを知らないのだと思います。

3.
>『「動くな」という言葉が幻聴・耳鳴りがきっかけで発見された』を『「動くな」という言葉が幻聴・耳鳴りがきっかけで勝手に頭に浮かび上がった』と置き換えたのは客体的表現から主体的表現に置き換えたものかどうか知りたいです。

これは#5で説明したのと同じです。
後者は、『「動くな」という言葉』を「浮かび上がる」という行為の主体として擬人化している、と言えるでしょう。
それよりも、なんのために、主体的表現か客体的表現かという問題に拘るのか。
その理由を書いたほうが、望みに近い回答が得られる可能性は高いと思います。

4.
>A~Dは客体的表現から主体的表現に置き換えたことが言えるかどうか知りたいです。

「主体的・客体的」とはどういう意味で使っていますか?
説明してください。
それを確認してから改めて回答します。
    

この回答への補足

念のためにyahoo知恵袋の質問&回答のURLをあげておきます。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question …

補足日時:2012/05/24 05:11
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この回答へのお礼

再度回答ありがとうございます。

1.に関して
#2さんのおっしゃった「客体に自らを投影した受身表現で合っているかどうか」をいきなり尋ねるのではなく、お礼欄か補足欄に質問を書いてみて、それでもなかなか返事が返ってこなかったら、ハコブルさんなどの#2さん以外の人に訊けばいいということを言ったかと思いました。
そうなのかどうか知りたいです。

2.に関して
以下のようなやりとり内容をおかしいと言うふうに身近な人に言われたのです。

『「動くな」という言葉が発見された』 →『「動くな」という言葉が頭に浮かび上がった』は客体的表現から主体的表現に直したと言えないと思うのですが、この場合何をどんな表現に直したと言えるか知りたいです。

これはつまり、おそらく「言葉が発見された」自体が客体的表現だと言えなく、ハコブルさんが#5でおっしゃった「言葉が[他の誰かによって]発見された」自体は客体的表現だと言えるということだと思うのです。
こういうことを言ったかと思うのです。
違いは知っていたと思います。
自分が誤って「内容」を「表現」と書き表していたことがわかりました。

3.に関して
例えば「操られた」とか「変換された」「暴かれた」「言い聞かせられた」などが起きることを身近な人におかしい、有り得ないと指摘されたのです。
自分の意志で動いていると指摘され、それ以来「言い換え」を求めるようになったのです。
これがつまり客体的表現か主体的表現かという問題にこだわるということなのです。
それと、以前にも言ったことだと思うのですが、「~られた」「~された」などの言葉を使って医師に伝えたら統合失調症などの症状としてみなされ、「~があった」「~が起きた」などの言葉を使って医師に伝えたらごく普通のこととしてみなされたのです。

4.に関して
【A】昼ご飯を食べることが禁止され、
→昼ご飯を食べる意欲や動作に不調をきたし
【B】昼ご飯を食べることが禁止され、食べられなくなった
→昼食をとるための心身の働きが混乱し喪失し、食べられなくなった
【C】「静止が解除された」
→「静止が解けた」

yahoo知恵袋でこれらの表現(【A】~【C】の表現)は通常は、客体的な言い方を主体的な言い方に置き換えた、ということではないかと思いますという回答を得たのです。
それ以来、客体的・主体的というのをこういうことで使うようになったと思うのです。
#5のお礼で書いたA~Dの内容および「唾液の動きを止められた」の内容が客体的から主体的表現に置き換えたものかどうか質問したのはこういうためだと思うのです。

お礼日時:2012/05/24 05:08

#4です。



>確認ですが、『「動くな」という言葉が発見された』というのは#2さんがおっしゃるように、客体に自らを投影した受身表現で合ってるかどうか、知りたいです。

おそらくですが、「自らを投影した受身表現」とおっしゃっているので、
『「動くな」という言葉を発した自分が発見された』という意味ではないかと思います。
ただ、わたしは専門家ではありませんし確信はありません。
また、回答内容について、他の回答者に意見を求めるのは失礼ですから、今後慎まれるほうが良いでしょう。
疑問は直接、その回答者の方に尋ねるようになさってください。
なかなか返事が来ない場合には、他の回答者に尋ねても良いと思います。

>『「動くな」という言葉が発見された』 → 『「動くな」という言葉が頭に浮かび上がった』は、客体的表現を主体的表現に直したと言えないと思うのですが、この場合何をどんな表現に直したと言えるか知りたいです。

「主体」というのは、
「自覚や意志に基づいて行動したり作用を他に及ぼしたりするもの」
です。
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch/0/0na/08796300/
「客体」というのは、
「主体の認識・行為などの対象となるもの」
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch/0/0na/04408800/

『「動くな」という言葉が発見された』を正確に言うと、
『「動くな」という言葉が[他の誰かによって]発見された』ということでしょう。
『「動くな」という言葉』は他の誰かの行為の対象になっているので、『「動くな」という言葉』は客体として扱われていることになります。(客体的表現)

『「動くな」という言葉が頭に浮かび上がった』の場合は、
『「動くな」という言葉』が擬人化されています。
つまり、『「動くな」という言葉』が意志を持った主体として「浮かび上がった」という構図でしょう。
まず、この意味で主体的表現と言えるように思います。
この文の場合、「浮かび上がる」は自動詞なので目的語を持たず、そのため客体は存在していないと考えてよいのではないかと思います。
また、『「動くな」という言葉』に意志が無いのは明らかですから、「浮かび上がった=自分の頭の中で浮かび上がった=自分が浮かび上がらせた」と解釈でき、この意味でも主体的表現と言えるでしょう。
ただ、客体的表現という言葉は殆んど使ったことがないので、このような解釈で正しいのかどうか、自信はありません。
  
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この回答へのお礼

再度回答ありがとうございます。
質問から#5までの回答までを印刷したものを身近な人に見てもらいました。

>疑問は直接、その回答者の方に尋ねるようになさってください。
なかなか返事が来ない場合には、他の回答者に尋ねても良いと思います。

他の回答者に尋ねるというのは、ハコブルさんに訊くのでも良いということかどうか知りたいです。

『「動くな」という言葉が発見された』という表現をおかしいと指摘されました。

疑問が湧いたということですけど、
『「動くな」という言葉が幻聴・耳鳴りがきっかけで発見された』を『「動くな」という言葉が幻聴・耳鳴りがきっかけで勝手に頭に浮かび上がった』と置き換えたのは客体的表現から主体的表現に置き換えたものかどうか知りたいです。

あと自分が疑問に思ったことで、
A:『静止が(職員さんの言動をきっかけに)解除された』を『静止が解けた』に置き換えた

B:『(職員さんの言動をきっかけに)昼ご飯を食べることが禁止された』を『昼ご飯を食べる意欲や動作に不調をきたした』に置き換えた

C:『(車の音がしたことがきっかけで)言い聞かせられた』を『言い聞かせがあった』に置き換えた

D:『脳の中身すべてが(人の不快な声によって)動かされている感じ』を『脳機能のすべて――思考・感情・意欲・認知・体感・動作・記憶・想起などがまるで自由にならず、意図しない状態へと勝手に変わる感じ』に置き換えた

で、A~Dは客体的表現から主体的表現に置き換えたことが言えるかどうか知りたいです。

さらに自分が体験したことのある症状ですけど、
(1)『唾液の動きを操られた』『唾液の動きを止められた』
 ↓
(2)『(自分の意志ではない何かに)僕が口の中で唾液の飲み込む動きを止められたり、飲み込む動きをさせられたりしたような気がした』
 ↓
(3)『(何らかのきっかけで)唾液が飲み込めなくなった』

で、(2)の表現を(3)の表現に置き換えたのは客体的表現から主体的表現に置き換えたことが言えるかどうかと、(1)の表現を(2)の表現に置き換えたのは何の表現をどういう表現に置き換えたのかも知りたいです。

再度回答を下さい。

お礼日時:2012/05/23 20:27

#3です。



「>【発見された】という表現は客体的表現でもあるので合っているかどうか

違います。
単なる受動(受身)表現です。」
という部分を次のように訂正します。

>【発見された】という表現は客体的表現でもあるので合っているかどうか

「主体によって発見された対象」が客体なので、「○○という言葉が発見された」は客体に着目した表現(=客体的表現)と言っていいかもしれません。
これを主体的表現に変えると「誰かが○○という言葉を発見した」のようになります。
つまり、主体的表現にしても、発見した行為者としての「誰か」が存在することに変わりはありません。
しかし、ご質問の趣旨は、「誰かが」ではなく「わたしが」のように変えて表現したい、ということでしょう。
この場合、
「客体的表現を主体的表現に変える」のではなくて【主体を転換した表現に変える】と書くとわかりやすくなると思います。
  
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

確認ですが、『「動くな」という言葉が発見された』というのは#2さんがおっしゃるように、客体に自らを投影した受身表現で合ってるかどうか、知りたいです。

僕の中で起きていたのは、『「動くな」という言葉が発見された』というのは、『「動くな」という言葉が頭に浮かび上がった』『「動くな」という言葉がまるで発見された感じがした』ということだと思うのです。

『「動くな」という言葉が発見された』 → 『「動くな」という言葉が頭に浮かび上がった』は、客体的表現を主体的表現に直したと言えないと思うのですが、この場合何をどんな表現に直したと言えるか知りたいです。

お礼日時:2012/05/23 05:22

>【発見された】という表現は客体的表現でもあるので合っているかどうか



違います。
単なる受動(受身)表現です。

>もし【発見された】という表現が客体的な言い方だとしたら、主体的な言い方に置き換えた表現も教えて下さい。

主体というのは、
1 自覚や意志に基づいて行動したり作用を他に及ぼしたりするもの。
です。
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch/0/0na/08796300/
「発見された」という状況がある場合、主体はあくまで「他の人」です。
受動態で表現すると「他の人によって発見された」。
能動態で表現すると「他の人が発見した」。
のようになります。
どちらの場合も、「発見する」という行為は「他の人」が行なったことになるので、主体的表現でも客体的表現でもその事実は変わりません。

「主体によって発見された対象」が客体です。
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch/0/0na/04408800/
たとえば『「動くな」という言葉』が客体に相当します。
ですから、
【『動くな』という言葉が発見された】
を主体的表現にすると、
【誰かが『動くな』という言葉を発見した】
のようになります。

>1つだけでなく、いくつか表現を教えてくれると嬉しいです。

こちらをご参照ください。
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?p=%E7%99%BA%E8%A6 …
入力ボックスに探したい言葉を入力する。
→「に一致する」を選択する。
→「類語」にチェックを入れる。
→「辞書検索」ボタンを押す。
この手順で、同じような意味の言葉が検索できます。


念のため申し上げますが、
主観的
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch/0/0na/08728100/
客観的
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch/0/0na/04418300/
という表現もあります。
『「動くな」という言葉が発見された』と感じるのは主観です。
客観的に見ると、そういうことは通常考えられませんから、
『「動くな」という言葉が発見されたように(わたしが)感じた』
あるいは、#1さんがおっしゃるように(また、わたしも以前申し上げましたように)
『「動くな」という言葉が頭に浮かんだ』などとなります。
   
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
#4のお礼入力欄にお礼を書きました。

お礼日時:2012/05/23 05:22

客体に自らを投影した受身表現。


主体的に語るのなら、「我、~を発見せり。私は、~を発見した。私はついに、~を発見するに至った。」と言うのが適当か。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
#3、4の回答者さんに質問が解決するまで質問したりしようと思います。

お礼日時:2012/05/23 05:00

この文章ですと、主体的ではなく勝手に出てきてしまってって感じます。


発見されてというよりは
いろいろな言葉が沸き上がりとか、浮かび上がり、とか自然と出てきて頭のなかが混乱しているというような文章に感じます。

無理に主体的になさらなくてもいいのではないでしょうか。
不思議なぶんしょうですね。
これだ!という表現が見つかるといいですね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

質問文にある【発見された】は受身表現でもあれば客体表現でもあるというのは、そうだと言えるのでしょうか?
再度回答下さい。

お礼日時:2012/05/20 17:36
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