足利尊氏と新田義貞が鎌倉幕府を倒す
ところを勉強していました。
すると
公家ばかり大事にされるのは気に入らん
武士には恩賞が少なく軽んじられている
とありました

足利尊氏と新田義貞は公家ですか?武家ですか?

どっちがどっちなんですか?

教えてください。

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A 回答 (7件)

日本の中世の歴史から説明します。



古代と言うのは、天皇制が確立して、それが公家によって運営される奈良時代、平安時代のことです。

平安末期に関東東北に武士団が生れました。これが武家です。

武家は当初その武力を公家に利用されるだけの存在でした。

公家に利用されて公家社会で地位を上げたのが平清盛でしたが、関東武士団は東国の独立を目指して、頼朝に幕府を開かせます。
これが鎌倉幕府で、関東は武家の地となり、日本の中世が始まります。

しかしこのとき西国は未だ公家の力が残る地域でしたので、鎌倉時代は中世と古代が混在する時代でした。

鎌倉時代の末期に後醍醐天皇が天皇専制をめざして、鎌倉幕府を滅ぼしました。

しかしその軍事力は、やはり武家を利用しました。
それが足利氏と新田氏でした。

しかし武士団の多くは後醍醐天皇の公家政治に不満で、足利氏を大将に立てて、武家政治を再会しようとしました。
これが室町幕府で、このときにようやく武家政権は日本全国を支配できるようになりました。

後醍醐天皇側は、この武家の動きに対抗するために、新田氏を利用しました。

このような事情で、新田氏は武家ですが、公家の側の人と言うことになりました。
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この回答へのお礼

返信がおくれて申し訳ありません。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2012/06/09 22:19

 両方とも武家です。

そして共に源氏の流れを継ぐ者です。
しかしここで一つだけ両者の間に違いが生じます。時系列的に整理していきますと、
(1)鎌倉末期から始まる倒幕のプロセス
(2)その後の「建武新政(親政)」と南北朝内乱
(3)南北朝統合と武家の序列化
以上三点の問題が出て来ます。

 (1)蒙古襲来を契機として鎌倉幕府による統治は揺らぎを見せ始め、1297年(永仁五年)に経済的に困窮した御家人を救済する目的で「徳政令(借金の帳消し)」を出しますが殆ど効果はなく、また蒙古襲来の前後から畿内を中心として「悪党(悪いヤツという意味ではなく、地元に対する支配能力が高い者との意味です)」と呼ばれる有力な武士の活動が盛んになり、幕府による支配統治に限界が訪れます。この状況を打開する目的で、幕府は得宗の家臣である御内人(みうちにん)とその代表である内管領(うちかんれい)が得宗を支える「得宗専制体制」の更なる強化を図りますが、これは北条氏への権力集中を意味し、御家人との間に更に大きな亀裂を生じさせる結果となりました。
 1318年(文保二年)、当時、持明院統と大覚寺統に分かれていた皇統のうち、大覚寺統から即位した後醍醐天皇は院政を廃止し天皇による親政を復活させ、更に執権北条高時による幕府統治の混乱に乗じ倒幕計画を進めます。そして1331年(元弘元年)この計画は事前に露見し後醍醐天皇は隠岐に島流しにされますが、懐良親王(かねながしんのう)や楠木正成等の相次ぐ挙兵に続き、1331年(元弘三年)には関東の有力御家人だった足利尊氏が六波羅探題を攻め落とし、また新田義貞が鎌倉に攻め入り北条氏を倒し、鎌倉幕府は滅亡を迎えます。

 (2)鎌倉幕府の滅亡にともない、京都に戻った後醍醐天皇は以前からの理想だった天皇親政(平安時代の「延喜・天暦の治」をモデルとする政治運営のあり方)に沿って新しい政治を始めます。「建武の新政(親政)」です。
 これに対し、土地の所有権は全て天皇が倫旨(りんじ)によって決済する、倒幕に加わった者に対する恩賞の基準が明確でなくそのため不公平だったことなどから、武士の間で不満が高まり、また当初の「新しい時代を創る」との目的と実際の内容が違うなどの点から、1335年(建武二年)、足利尊氏が鎌倉で新政権を打倒する目的で挙兵し、翌年には京都を占領し持明院統の光明天皇を即位させます。北朝の始まりです。これに対しアナクロニストの後醍醐は吉野に逃れ、自らの正当性を主張し天皇の地位に留まります。南朝です。この二つの朝廷が並存する60年にわたる時期が「南北朝内乱」と呼ばれる時代です(この時代は同時に社会構造が大きく変化していく時代でもあり、この問題はまた他の機会がありましたらお答えさせていただきますのでご容赦下さい)。
 そして1336年(建武三年)足利尊氏は武家政治の基本綱領である「建武式目」を発表し、二年後には征夷大将軍の地位に就き室町幕府を開きます。この時、尊氏の役割と弟の直義の役割は完全に区分され二頭政治の形をとります(兄である足利尊氏は武士に対する統制と軍事指揮権を担当し、弟である足利直義は政務を司る、“軍事は尊氏に、政務は直義に~”との言葉に表されています)。
 しかし、この二頭政治は足利家に執事として仕えていた武断派の高師直(こうのもろなお)・師泰(もろやす)により幕府内の主導権争いへと変質していきます。「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」です。当初は機能していた二頭政治のあり方に対し、「統治システムの維持に重点を置く」足利直義に対し「武士を統率し南朝方との戦いを遂行し、それによって従来の荘園公領制の秩序を破っても権益を獲得しようとする武士達を擁護することで軍事力を組織していた」高兄弟のスタンスの違いです。政治家と軍人の対立です。

 (3)こうした内部抗争と社会的基盤の変動を経て1392年(明徳三年・元中九年)、足利義満が南北朝合一を果たします。その後彼は朝廷の官職として太政大臣などの職に就きますが程なくあっさりとその職を辞してしまいます。しかしこの人物が外交文書に示した「日本国王」の称号が問題となります。日本の政治システムでは自らが「王」を称する概念はありません。中国の冊封体制に組み込まれることで初めて「王」となり、しかもそのことが全ての階層に共通に通用する法システムで頂点に位置付けられる天皇との関係において問われる形となります。
 この前提として鎌倉時代の源頼朝と同様、足利尊氏も朝廷から官位を叙せられていますが、新田義貞は官位に叙せられてはいません。それは幕府が正当な支配者であり、それに対抗する形となった南朝方の武士が序列から外されたことを意味しています。
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この回答へのお礼

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あとでゆっくり読ませていただきます。
ありがとうございました。

お礼日時:2012/06/09 22:20

 会社でコーヒーブレイク中で詳しい話は書けませんが、どっちも清和源氏、つまり広く言えば同族の武士です。



 ザックリいうと二人が後醍醐天皇の指示にしたがって協力して戦って、鎌倉幕府を倒しました。

 ところが高額な恩賞をもらったのは戦わなかった貴族たちで、尊氏と義貞はあまりもらえませんでえした。

 後醍醐天皇は、足利高氏に自分の名前の1文字「尊」を与えて尊氏に改名させて、「十分満足だろ?」みたいなことを言ってる。

 二人はが領地をもらえないので配下に与える領地もない。

 先祖伝来の土地などを少しずつ分け与えたのですが足りない。

 で、配下の武士が怒りました。

 それに対して、「天皇様・貴族様が正しい、我慢しろ」的なことを言って配下を抑えたのが新田義貞。

 「おかしいよねぇ」と言って、家臣たちの怒りに乗って後醍醐天皇に反旗を翻したのが、足利尊氏です。

 で、二人は戦います。

 尊氏は、一度は義貞に負けるのですが、基本的に武士の不満を味方にしている尊氏が強くて、結局尊氏が義貞に勝ち、家臣たちに財産わけするためしかたなく幕府を開きます(財産分けには権力が必要)。

 これがのちに「室町幕府」と呼ばれるものです。

 ただ、幕府は勝手に作るわけにはいかず、天皇に認めてもらわないと違法なので、後醍醐天皇とは別系統の皇族を天皇に立てて、その天皇の許可を得て作るというやり方をしました。

 このとき立てられた天皇を「北朝」といいます。(後醍醐天皇は南朝)

 この幕府の分配のおかげで、とりあえず、武士の不満は抑えられましたが、足利家(幕府)の財産は少なくなりました。

 で、室町幕府は、鎌倉幕府や江戸幕府に比べると、無力な幕府になってしまいました。
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この回答へのお礼

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回答ありがとうございました。

お礼日時:2012/06/09 22:22

 「武家」と「公家」の分類で言えば,足利尊氏と新田義貞はどちらも武家です。


 ただし,彼らの時代に日本が「公家勢力」と「武家勢力」にはっきり分かれていたわけではなく,足利尊氏と新田義貞は,ともに後醍醐天皇に従って,まず鎌倉幕府を打倒しました。
 その後,後醍醐天皇が武家による政治を廃止,天皇による親政(いわゆる建武の新政)を始めるにあたり,足利尊氏と新田義貞はともに倒幕の功労者ということでそれなりに厚遇を受けました。たとえば,足利尊氏の「尊」という字は,後醍醐天皇の諱(本名)である尊治から一字を拝領したものであり,それ以前は「足利高氏」と名乗っていました。
 しかし,このように建武の新政で優遇された武家は例外で,一般的に公家ばかりが優遇され,武家の多くは逆に領土を奪われるような状態にありました。また,それ以外の面でも後醍醐天皇の打ち出す政策はあまりにも非現実的で,政治は混乱が続き,天皇の権威も失墜してゆきました。
 そこで,建武の新政に不満を持つ武家の多くは,源氏の血を引く名門の出身である足利尊氏を新たな武家の棟梁に担ぎ出したのですが,全ての武家が尊氏に従ったわけではなく,同じ武家でも尊氏とはライバルであり仲が悪かった新田義貞は,最後まで後醍醐天皇方(南朝方)に与して戦い,戦死しました。
 この当時の政治情勢は,現在の日本にも劣らないくらい混沌としており,今の政治家の動きを「自民党」と「民主党」の対立構図だけで説明することは誰にもできないと思いますが,当時の「武家」と「公家」も似たような状況でした。天皇家も公家も決して一枚岩ではありませんでしたし,足利家でも尊氏と弟の直義が対立したりと,内紛の火種を抱えていました。
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回答ありがとうございます。

お礼日時:2012/06/09 22:23

足利尊氏と新田義貞は武家です


鎌倉幕府以降、公家よりも武家の方が強大な力を持つようになります
ですから戦をするのは武家です
表立って武家が公家(天皇家)を政治利用するのもこのころからですね
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この回答へのお礼

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回答ありがとうございました。

お礼日時:2012/06/09 22:24

どちらも武家です



足利尊氏・新田義貞

どちらも清和源氏・源将軍家の分家筋の武士です
新田は徳川家の先祖ですね。

吉田定房・万里小路宣房・北畠親房の「後の三房」と千種忠顕・坊門清忠らが、
後醍醐天皇に登用された公家です
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『足利尊氏』


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9% …

『新田義貞』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%94%B0% …

お二人とも「武家」です。
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この回答へのお礼

返事が遅くなり申し訳ありませんでした。
回答ありがとうございます。

お礼日時:2012/06/09 22:24

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Aベストアンサー

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(めんどくさいですけど・・・・)
たとえば、↓のような。


「英語語源辞典 」 分類は「832」のあたりです。
寺澤芳雄∥編
版表示 :縮刷版
出版地 :東京
出版者 :研究社
出版年月:1999.12
資料形態:1685p  20cm  7400円
注記  : 並列タイトル:The Kenkyusha dictionary of English etymology
件名  : 英語―語源―辞書
ISBN:4767431050


「The Oxford dictionary of allusions  」
著者名  : Delahunty, Andrew.   (Dignen, Sheila. Stock, Penny. )
出版地  : Oxford ; Tokyo
出版者  : Oxford University Press
刊行年  : 2001
出版国  : イギリス(イングランド)
資料形態 : xii, 453 p. ; 23 cm.
ISBN : 0198600313  


#日本語では、↓のような言葉の百科事典があります。


「日本国語大辞典」(全十三巻)
http://www.nikkoku.net/


#あと、↓は「クリスマス」の研究本ですが、語源までつっこんでいるかは不明です。
キリスト教の分類、「196.3」のあたりに類書があるかもしれません。とりあえず、ご参考までに。


「クリスマスについての考察」
 カールトン・ケニー∥著
出版地 :小平
出版者 :暁書房
出版年月:1990.12
資料形態:95p  18cm  560円
シリーズ名: 暁新書  
件名  : クリスマス
ISBN:4872070941
NDC : 196.3


「クリスマス小事典」
 遠藤紀勝,大塚光子∥共著
出版地 :東京
出版者 :社会思想社
出版年月:1989.11
資料形態:206p  15cm  600円
シリーズ名: 現代教養文庫  1317  
ISBN:4390113178
NDC : 196.3


「クリスマスの起源」
 O.クルマン∥著  土岐健治,湯川郁子∥訳
版表示 :2版
出版地 :東京
出版者 :教文館
出版年月:1996.12
資料形態:121p  19cm  1545円
原書名 :Die Entstehung des Weihnachtsfestes und die Herkunft des Weihnachtsbaumes.
注記  : 発売:日キ販
件名  : クリスマス
ISBN:4764260069
NDC : 196.3

行事関連の本でみつからない場合は、語源辞典や英英百科事典で、言葉ごとに探索してみるのもひとつの方法かと思います。
(めんどくさいですけど・・・・)
たとえば、↓のような。


「英語語源辞典 」 分類は「832」のあたりです。
寺澤芳雄∥編
版表示 :縮刷版
出版地 :東京
出版者 :研究社
出版年月:1999.12
資料形態:1685p  20cm  7400円
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No.1です。   本を読むといろいろありますね。
義貞の攻撃前に干潟を通った攻撃があります。
5月18日大干潮の日と思われますが、稲村ケ崎方面担当の、大館宗氏が一部の兵300ばかり率い、干潟を通り由比ヶ浜の奇襲を敢行しました。
しかし干潮に備え、波打ち際に逆茂木(さかもぎ)をして守りを固めていた北条軍に敗れ、大敗し宗氏は討ち死にしました。
義貞はこれを聞き、大軍で干潟を渡ることにして、21日(当日の干潮は天文学者の小川清彦氏は午前4時15分と推定)深夜強い浜風(海から吹きつける)に苦しみながら、大干潮ではない中を強行しました。   難渋の反面、逆に油断していた、北条軍はやすやすと侵攻を許し、敗北することになりました。

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5月18日大干潮の日と思われますが、稲村ケ崎方面担当の、大館宗氏が一部の兵300ばかり率い、干潟を通り由比ヶ浜の奇襲を敢行しました。
しかし干潮に備え、波打ち際に逆茂木(さかもぎ)をして守りを固めていた北条軍に敗れ、大敗し宗氏は討ち死にしました。
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特にありませんが、共通して大体決まっているのは毎月1日15日の榊の交換ぐらいです。

その他の事は地域の風習や、その家の習わしによって異なるので、家族や親族、地域の人や御神札を頂いている神社で聞いてください。
以下は例です
塩・洗米・お神酒(家庭内祀りではこれらをまとめて神饌という。)については毎日替える人と榊と一緒に替える人がいます。
この時、午前中だけ御扉を開ける風習がある事があります。

ご神札を頂いた神社の大祭の日には神饌を替える人もいます。
この時、御扉を開ける人もいます。供物を替えずに御扉だけを開けると言う人もいます。

暮にご神札を入れ替えます。
これについても、28朝~30日夜と様々です。
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つまり31の晩を数えれば30日の昼でもOKですが、数えなければ29日の昼という事になります。
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とりあえず、基本的なことは神社庁のサイトか参考URL「神社と神道」で参考にしてください。

参考URL:http://jinja.jp/

特にありませんが、共通して大体決まっているのは毎月1日15日の榊の交換ぐらいです。

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そもそも幕府とは、将軍が戦場にいるときの臨時行政組織といえます。将軍がいてその部下がいれば、そこが幕府。

将軍を任命するのは天皇ですので、天皇を管理下におく必要があります。遠くにいても管理できれば、あるいは、ちゃんと将軍に任命してくれる慣習になっていれば遠くにいてもなんの問題もない。
遠くで管理したのが江戸幕府。
遠くても、源氏の統領を将軍にするのが道理だよねというのが鎌倉幕府。

ところが時代が南北朝で、常に北朝を正統として、武力で守らなければならなかったのが、足利幕府成立の時代背景です。

北朝を守るのに一番都合が良いのはどこにいるべきか?それは京都ということになります。

それで 京都に将軍が常駐=京都に幕府となります。


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