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新田義貞は、勾当内侍との別れを惜しんだために九州に逃れた足利尊氏を追討する機会を逃したというのは史実ですか?新田義貞は病気だったという説もありますし、そもそも勾当内侍は実在しなかったという説もありますが。

A 回答 (4件)

太平記に描かれる「傾国の美女」風の佳人。


いいですよね。
新田義貞は何とも間の悪い漢だったので、個人的には病気説を支持したいと思っています。
ですが、太平記は歴史記録文学風の大作の読み物ですからね。
こういう素敵な佳人が義貞を迷わせたという件は、とても素敵な物語になっていると思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。大変勉強になりました。目からウロコが落ちました。

お礼日時:2022/07/22 15:24

太平記とその派生書以外にそのような記載は無い。


太平記は、新田義貞を項羽、足利尊氏を劉邦になぞらえる描き方をしているので、項羽と同じようなエピソードを作ったというのが一般的な理解です。
実際、義貞の出陣は不自然なほど遅くはありませんし、進軍が遅れたのは赤松の抵抗に手を焼いて播磨を制圧できなかったからです。
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三国志の曹操猛徳は女好きが講じて、度々、大きな失態を起こしてます。


太平記の作者が、この故事を取り込んだのかも?
チョット、飛躍過ぎ?・・・・
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琵琶湖の堅田にその時の逢瀬の跡が残っています


やりまくっていきたくなかったというのは事実です
琵琶湖大橋の橋のたもとに勾当内侍というバス停があります
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