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いつもお世話になっております。
最近ふとしたきっかけで大正時代辺りの歴史に興味をもったのですが、ちょっと分からないことがあったので質問します。あくまで趣味の範疇ですので簡単な内容で大丈夫です。

大正時代はやはり男社会であったと聞きますが、この頃の小中高等学校は男女共学だったのでしょうか?
また、男子校女子校で分かれていたとすると、教壇に立つ先生に男女の分かれは無かったのでしょうか?例えば男子校なら男性教員、というような感じで。

ふと何と無く浮かんだ疑問なので、詳しい方お気軽に答えてくださると嬉しいです。
よろしくお願い致します。

A 回答 (2件)

戦前生まれです。



私の生きてきた範囲での知っていることを書きます。

昭和時代でも、私が国民学校(小学校の事、その前は尋常小学校)へ入学した時は男女別、それぞれ男組と女組の名称で担任も異なりました。

「男女7歳にして席を同じゅうせず」の格言がまだ生きていた時代ですから当然の事です。

ところが戦争が始まって、疎開が始まると、疎開先の国民学校では男女共学。

90歳近い大正生まれの従兄弟に聞くと、大正時代(昭和になっても)男子と女子では行く学校が異なる(目的が異なる)からだとの事。

従兄弟の行っていた中学校(電気工学)では今の大学工学部のような専門教科書を使ってました。(テレビジョンの原理など)

女子の行く学校では一般教養以外には女性の当時の必須である裁縫や料理、行儀作法、茶の湯、生花などを習うのが常だったと、高等女学校卒の母親(明治中期生まれ、もう黄泉の国は)言っておりました。

大正時代、私の知っている限りは男女別の学校だったと思います。

大体は男女とも尋常小学校でおしまい、良くてその後に高等小学校、中学校以上はごくまれだったのです。

男女別学校だっただけに、男子学生には女学生(メッチェン)を引っ掛けるのに色々手を尽くした軟派と正反対の幣衣破帽の蛮からが男子校に存在したようですね。

予断ですが昭和に入ってもまだ貧富の差は激しく、都市部では幼稚園もスクールバス、制服、編み上げ革靴の所があり、街中ではフランス料理店も、フルーツパーラーも金さえ出せば何でもありました。

反面、農村部では履物はわらじを自分で編み、着る物は洋服でも一年を通して着た切り雀が常。
童謡「赤とんぼ」にあるように・・ねえやは15で嫁に行き・・のねえやは子守の少女の事です。
女子は尋常小学校を卒業すれば(学校へ行けない子も)奉公に。
男子も長男以外は丁稚奉公。

そういった事がごく普通の時代でした。
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この回答へのお礼

ご回答いただきありがとうございます!
戦前にお生まれになったとのことで驚きながら内容を読ませていただきました。当時を知る方ならではのとても細やかなご回答で、とても勉強になりました!参考にさせていただきますね、ありがとうございました^^

お礼日時:2010/03/03 03:59

ネットを利用できるのですから、ググってみればすぐ見つかります。


以下はWikiより抜粋
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日本では、明治時代以降、第二次世界大戦降伏の時期まで、就学前教育(幼稚園など)と初等教育(小学校、国民学校など)を除いて、「男女別学」が主流であった。これは、1891年に出された「学級編成等ニ関スル規則」に基づいている。尋常小学校の1、2年だけを共学として、3年生以降は男女別学とし、男子と女子とでカリキュラムも教科書も全く別な物とすることが、各学校に公立、私立の区別なく義務付けられたのである。このため、戦前の日本には高等教育の男女共学校は存在しなかった。
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なお、アメリカの小児科医・心理学者、レナード・サックッスにより男女共学の弊害が指摘されて以来、アメリカでは初等教育で男女別学に移行する傾向が出ています。
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この回答へのお礼

ご回答いただきありがとうございます!
一応調べてはみていたのですが、検索する単語が悪かったようで煮詰まっておりました。抜粋までして下さりありがとうございます、とても参考になりました^^

お礼日時:2010/03/03 03:53

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