プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

前回どなたからも回答がなかったので、再度質問いたします。

音楽には明示性はあっても開示性がないと言われます。
自分がすでに知っている、あるいは明らかなものについては耳に入るけれども、知らないもの、分からないものは聞くことが出来ない、と受け取っていいのでしょうか?
とすると、いま自分が持ちあわせている力量を超えて音楽を聴くことはできないということなのでしょうか?

そうであるとするなら、言葉をともなう声楽はどのような位置を占めるのでしょうか?

この質問は一週間閉じないつもりです。どうかそのあいだに識者のご回答をいただけたらと思っています。

A 回答 (17件中1~10件)

>音楽には明示性はあっても開示性がない



どういう方のお言葉でしょうか?

また、その言葉を、なぜzephyrusさんは、
>自分がすでに知っている、あるいは明らかなものについては耳に入るけれども、知らないもの、分からないものは聞くことが出来ない

と受け取ったのでしょう。「明示」(明らかに示すこと)「開示」(内容を示し、教え諭すように示すこと)と言葉を理解した上での私の意見を述べます。

音楽を愛する人は、しばしば、その「音楽」に付随する「含み」「エピソード」「メッセージ」などについて、いわゆる「左脳」的に語られることを嫌うことがあります。

うんちくをどうこう言わず、まず、その音を聴いて、あなたがいいと感じたかどうか。それこそが、その音楽の持つ、本当の実力である、という考え方です。特に音楽を作る側の人間は、そういう考え方をします。私も基本的なところでは、この考えに賛成です。

私はよく音楽を、食べ物にたとえますが、こう考えてはどうでしょう。「食べ物にには明示性はあっても開示性がない。」

どれだけ「これは栄養があるから」とか、「これは歴代フランスの王朝で珍重されてきた食材で」とか、「これを作ったシェフの超絶技巧といったら…」と解説されたって、口に入れた本人が、「おいしい」と感じなかったら、それは、その人にとってはよい食べ物ではないのです。

しかし、食の経験とともに味覚に幅、奥行きがでて、昔なんとも思わなかったものが、年齢とともに「おいしい」と感じるようになり、「なるほど、これは人類の傑作料理だ」という境地に至るように、音楽も、聴く人の経験、感性の広がりとともに、「いい音だ」と多くの人が認めることのできるものがあります。それが一般に、名曲といわれるものでしょう。

持ち合わせている力量(感性といってほしいです)を越えるものについては、感じないのだから仕方がありません。しかし、「感じる芽」は、体の中に眠っているかもしれません。だから、今は感じなくても、今後はわからないと考えておきましょう。

声楽について。これは難しいです。人によって、言葉から聴いてしまうタイプの人と、器楽と同じく、サウンドから入るタイプの人とに別れるようです。私は個人的には、サウンドから入るタイプの人間で、言葉は、そのあとから、感じたサウンドの味を増幅させてくれる要素として受け入れています。

先ほど述べた、音楽に付随するエピソードや含み、歌詞の内容やメッセージなどもその仲間です。感じる心を増幅させてくれる諸要素ととらえます。

演歌などだと、かなり「歌詞」の世界ですので、違う聴き方をしています。かなり、左脳的に聴いてしまいますね。

長くなりましたが、不明な点などありましたら、またお尋ねください。
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この回答へのお礼

やっと、質問に対する回答に出会ったという感じです。わたしの質問のしかたが悪いのでしょうけれど。
明示性云々の言葉の定義というか解釈は#7のかたのお礼欄に書いたとおりで、songbookさまと基本的に変わらないと思います。
きっかけとなったこの言葉そのものを、どこで読んだかさっぱり忘れています。十年くらい前?音楽関係ではなかったかもしれません。
モーツァルトが好きでよく聴くのですが、ある時ふと自分はどれだけ聴けているのだろうという疑問がわいたのがきっかけだったようです。武満徹は分からないがよく分かる。吉松隆はもっと分かる。日本人同士だから、同時代だから、と片付けていいのだろうか、根はもっと深いのではないか、などと。
<感性といってほしいです>
に、あっそうか、と膝をたたいたものの、やはり力量でいいと思い直しました。意識しないでわれわれは自分の全存在をかけて聴いているところがありますから、これでいい。ここは譲れません(笑)。
味覚と聴覚のたとえは、たいへん解かりやすいですね。両方、保守的な器官だから余計です。

二度も三度も読み直しました。自分なりにもう一度考えてみます。時間を割いて丁寧に答えていただき、ほんとにありがとうございました。

お礼日時:2004/01/31 14:22

No7の者です。


そうですよね、聞いてるんですよね。
結局よくわかりませんって事を言っておきたかったので書いときます。

NO10の方の

<うんちくをどうこう言わず、まず、その音を聴いて、あなたがいいと感じたかどうか。それこそが、その音楽の持つ、
本当の実力である、という考え方です。特に音楽を作る側の人間は、そういう考え方をします。私も基本的なとこ
ろでは、この考えに賛成です。>

という考えに賛成です。

言葉よりも音楽の方が文化の壁を越えやすいとは思います。日本人だから外国人だから、~だからという聞き方をしないならば

この回答への補足

回答いただいたすべての方へ、この欄を借りてもう一度お礼の言葉を述べたいと思います。
前回、ほぼ同じ質問をしたときには回答はなんとゼロ。ところが今回ふたを開けてみると早々にgekkou様から回答があり、たいへん幸先のよいスタートを切ることができました。
正直言って必ずしも私が疑問としていることにまっすぐに降りていくわけにはいきませんでしたが、それを補って余りある多くの糧を得ることができました。個性あふれる回答者の方々により、久しぶりに知的スリルを味わうことができたことは私の貴重な経験となるでしょう。
もっと直感的でもっと直截なものへ向かってもう少し時間を熟成させ、またご質問差し上げる機会もあろうかと思いますが、見かけられたときには引き続きお気軽にご回答いただけたらと願っております。ほんとうに皆様、どうもありがとうございました。

補足日時:2004/02/06 19:09
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この回答へのお礼

再び足を運んでいただきありがとうございます。
おっしゃるとおりだと思います。ただ、わたしの場合、国境を越えて聴いてたのが、逆に国境を感じるようになったというところもあるのです。
もう締めていいのですが、一週間このままでいますと質問の中でお約束してしまいました。もうしばらくお待ちくださいませ。

お礼日時:2004/02/05 08:09

僕は音楽家ですが、



多分、開示性がないことが結論で良いんじゃないかと思います。

様々な曲があるわけですが、
要するに、「分かる人にしかわからない」
のだと思います。
誤解のないように補足しますと、
好み次第だとゆう事です。
波長が合えば好き、合わなければ嫌いとゆう事です。

だから、
いっくらすごい「聞く耳」を持った人でも、全部の曲を受け入れられないわけです。
本人の好みだけで、選んで聞いているのです。
嫌いな曲まで、好きになる事は出来ない。

「言葉は?」とゆう部分で、引っ掛かっているようですが、
「詩は良いけど曲はねぇ、、、」
とゆうように、やっぱり、楽曲部分で理解できなければ、受け入れは不可能です。
(この「詩は良いけど・・・」の感情では、詩すら本気で良いと思えないことになりがちでしょう)

>いま自分が持ちあわせている力量を超えて音楽を聴くことはできないということなのでしょうか?

これには、YESと答えさせていただきますが、これは日々変化するものだと思います。
優劣を問うものではなく、分布図とでも言いましょうか、この範囲は、受け付けるとか受け付けないとか。


とゆうことから、

>そうであるとするなら
で始まる問いかけには、特にコメントできません。
強いて言うなら、他の曲となんら変わらないポジションでしょう。

だって、J-Popしか聞く耳がない(優劣ではないですよ、好みの問題です)
ような人に、いくら歌詞が良くても、違うジャンルの曲を奨めても、無理でしょう?
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この回答へのお礼

時間を割いていただき、ありがとうございます。
受け入れる、受け入れないでのご判断はいかにも実践家らしい(曲を作るにしろ、演奏するにしろ)基準と受け取りました。私のように実践皆無の人間(つまり聴くばっかり)は案外、受け入れようとするためにもう少し努力するものではないかと思うからです。それはさておき、
<いっくらすごい「聞く耳」を持った人でも、全部の曲を受け入れられない>
は、たぶん真実ですし、
言葉は<楽曲部分で理解できなければ、受け入れは不可能>
も、たぶんそのとおりだと思います。言葉に曲がつくと、曲が主になる!
「魔笛」の台本はきっと相当にひどいものですが、聴かぬ人はいない。萩原朔太郎の詩に曲をつけたものがありますが、正直言って何度聴きなおしてもわたしにはさっぱりおもしろくありませんでした。黙って詩を読んでいたほうがよっぽどまし、でした。

お礼日時:2004/02/02 19:45

#14です。

 どうも失礼いたしました。

“音楽評論 声楽 哲学”で検索すると、19件数ありました。

そのうち2件の論評が、ご質問の内容に言及しているように思えます。

http://www.geocities.com/mitsuki_jptw/other/othe …
★ロマン派音楽について

http://piacom.infoseek.livedoor.net/romantic.htm
ロマン派の音楽
★ 民族主義音楽

私の力量の程度では、ご質問の「 力量を超えて音楽を聴く 」という課題に
お答えすることはできないように思いました。 が、「 父母から学んだ 」
感覚は忘れていないように思います。
やはり受け売りですが、自分達の家族や地域の共同生活に命( =魂 )の
根拠をおいていて、国家や上層の文化がどうあろうとも、自分たちの生活
世界での幸せを第一に考える時、故郷や父母たちの文化に信頼をおくべ
きであろうと思います。
魂を見失うことがなければ、再び別の「 文化を学ぶ 」こともできるのかもしれませんね。

“音楽評論 声楽”で検索すると、242件数ありました。
どうやら高尚すぎるようなので退散させていただきます。
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開示性・明示性の文字を置き換えてはいけないのでしょうか?


メディア放送に例えた場合で、単方向・双方向に置き換えた場合で考えれば、
一般の人達にも分かりやすい上に考え易いと思うのですが。

テレビやラジオの放送は単一方向で「対話性」が無いですよね。 つまり1対1で
おこなう日常会話の双方向性をもたない情報開示であるため、放送そのものに
“展示”性が強くなります。 ここでいう展示性とは受け手側の無関心と直結し
ており情報開示を行う側の明示性を、期待しないし期待されない性格をいいます。
つまり単なる見世物なわけです。
そこで声楽とは、リズム( 抑揚 )をつけることにより感情を伴う発声に似せる
ことで、受け手の側の共感、つまり“同調”を得るための効果を期待するものに
なります。
情報開示をおこなう側は母であり視聴者は子供である、という関係に 似せ ます
から、ご質問者のいう力量とは子供の理解力の意味になりますよね。 当然、
子供の関心が“同調”しやすくなって注意が増し、その結果として、放送を繰り
返すことで理解が進むということはあると思います。
まあ個人的には“北朝鮮放送”を思いだしますけど。
講演者が抑揚をつけて話をすると、聴者は1対1で対話をされているような気分
になってきますよね。

ご質問者は、識者にお尋ねなので不本意であれば失礼いたしました。
なにしろ哲学らしからぬ回答件数なものですから、ご質問者の得たい回答の方向
が良くわからない感じがするのかな。
発想を切り換えて考えることもお奨めいたします。
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この回答へのお礼

#14、#15 あわせてお礼申し上げます。
その前にご挨拶遅れましたこと、お詫び申し上げます。
一文<自分たちの生活世界での幸せを第一に考える時、故郷や父母たちの文化に信頼をおくべき>は重く受けとめます。自分の踏みしめている土壌を見失っては何も残らないことは私にも想像できます。
たとえばクラシックは畢竟はヨーロッパという地方の音楽にすぎない。どうしても一体化しないというか、違和感が残るのです。どうやらそういうことが明示性とか開示性とかいったやくたいもないことにこだわる元になっているのです。

お礼日時:2004/02/02 20:11

「声楽」の定義なんですが、


「演奏会などではじめて聞いた曲で、歌詞が理解できる」という前提で考えるんでしょうか。

なぜかというと、そのようなこと(歌詞が理解できる)はほぼ無い、と思っていますから。思考実験としては成り立つ問いですけど、「開示性」のあたりが慣れなかったし、「声楽」についての感じ方が違うととてもこの質問に手が出せませんので
(→じゃ出すなよ・・・ですかね)

と、ここまで書いて、歌詞の一部のみが理解できても質問が成り立つのかな。
「さくら、さくら、・・・・・・おーっ!そうか」てなもんですね。
この「さくら、さくら」はあくまでも、曲と一体になったフレーズという事で、とすると開示性ありそうですね。

さらに
>自分の力量を超えて音楽を聴くことはできない?
「哲学」ですよね。
まあ、単に答えますと、初めて聞く(主として)曲は、私はあまり理解(面白いと思わない)できません。これは聞く力量が無いのか、演奏が下手なのか、判定できません。
(力量なさすぎ?
 本題外しすぎ?)
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
なんだか難しそうで、質問者である私が手をあましていますが、内容は経験に即しており、音楽を聴いたことがあるかたならどなたでも参加できると思います。
あまり私語が多いと管理人さんに目をつけられて警告もしくは削除されはしないかとひやひやしているのですが(笑)、私も一度や二度聴いたくらいでは、その曲のよさが分からないクチです。言葉についてもお書きになったとおりでいいと思います。
また、一流の詩に一流の曲がつくのが理想でしょうが、かならずしもそうはいかないのはシューベルトがいい例でしょうか。音楽にかなった言葉の組み合わせというものがあるようです。

お礼日時:2004/02/01 10:03

ごめんなさぃ、なまえまちがぃました。


zephyrus様でした。
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この回答へのお礼

いろいろご質問ありましたが、ここは質疑応答の場ではありません。差し控えたいと思います。

お礼日時:2004/02/01 10:06

かなりそれを感じたことがあるので、意見します。


あまりのレベルの低さに苦笑しないでくださぃね(笑

音楽には

明示性(はっきり示すこと。)

はあっても

開示性(事柄の内容を明らかに示すこと)がない。

開示性の意味として、教えさとすという意味がありますが、明示と開示を引き合いに出すということは、意味の似通ったもので、その差を問うているのでは。。と解釈しました。どうも、明示(はっきり示す)というのを最初に持ってきて、開示(教え諭す)という定義で捕らえるのはいまいち理解できませんでした。

音楽自体がはっきりと示すことはあったとしても、
音楽が、たとえば<りんごについて、りんごにまつわるエピソードやメッセージ、見た目や思いを示すこと>があっても、音楽事態が<100%りんごを表す>とか言うことがないってことですか。う~ん。わかるような気もしますが良くわかりませんね。器楽・声楽で分ける場合、声楽で、開示性をある程度出すことは可能かもしれませんが、器楽では無理ですよね。
でももともと、その人がその人個人の経験の中で「明示性があって開示性がない」といっているだけで、その根拠はないんでしょうけど、、それを言うと元も子もないですか(笑 あと大体たぶん話の中にオペラとか、クラシックの話が出てらっしゃるので、そういった音楽関係の雑誌や、本からその言葉を見たのかなァとおもいます。それは外国の方の言葉を日本語に意訳したのではないでしょうか・・・その場合もともと、解釈事態がしにくかったのかと思います。きっと元の言葉をご覧になれば話も変わってくるのでは・・・ともおもいます。私は言語学の勉強をしているので、そういうことが良くあります。

教え諭すバージョンで受け止めた場合

音楽を聴いていて、自分が発見することはたくさんあると思います。音楽の中に自分の思いや、人生を投影して楽しむ事は楽しいです。

声楽の位置というのは、、なんなんでしょう。
好みですかね。それこそ、にわかクラシックファンの私は感性のような言葉を使ったほうがいいような気がします。まだ力量とまではいえませぬ。笑

(同感した部分)
音楽を聴くのに力量はある程度いると思います。しかしこれは最初の問題とは別問題です。実際人生を重ねていくにつれて、稚拙すぎて聞けなく(おっとっと)なってしまった音楽が私にはあります。懐かしくて聞く分は別ですけど・・・極端に言うと、好き好んで、今更毎日のようにおよげたいやきくんを聞く人は珍しいと思います。私の場合はユーロビートとかトランスなんかが好きだったんですが、(ヤンキー時代に オイオイ)でも、アレも力量?みたいなのが必要で、あまりに早いビートだと、初心者は聞き取れない&雑音に聞こえるらしいです。ラップも同じようにとられるかもですね。わりかし新たしめの音楽なのでみんな聞きなれてないと思いますし。今はもっぱら寺井ナオコとかですが。クラシックなんかは格式があると思うし、雰囲気もあって、ありがたみがあるような気がします。また音楽界では歴史のある音楽なので、権威を大事にするところがあると思います。だからそういった姿勢自体も私にとっては魅力のひとつなのかなァと思いました。
音楽が、自分の中で大きな位置を占めている人にとってはやはり位置付けがあるとおもいます、SEPHYRUSさんが、自分にとってどうであるのかがやはり一番大事だとおもいます。なので、次は、SEPHYRUSさんが音楽をどのように受け止めているかとか、自分自身が音楽をどう定義付けるか、等について知りたいです。そうすると新たな聞き方や、捕らえ方が発見できて、私自身も勉強になると思います。現在では痴呆などに音楽療法がいいなどとさまざまに言われていますが、もともとは魔よけや病気を治すツールであったと考えられています。時代によって変化する音楽をどう捉えていくか、それに対する思想をどのように体系化するかはなかなか難しい問題ですね。
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この回答へのお礼

#12とあわせて拝見しましたのでご安心を。
つまらぬ質問に真摯に答えていただきありがたいことです。レベルのどこが低いのですか(笑)。
なかんずく「開示性」は翻訳語ではないかというご指摘はすばらしい。たぶんそんなところで、ハイデッガーあたりから来ている感じですが、こちらトンとその方面には不案内(えっ、この質問のカテゴリーは哲学ではないのか!なんて、つっこまないでくださいね)。
リンゴのたとえはもっと鋭い。さすがに言語学をやってらっしゃるだけのことはある。私はまったくの我流ですが、こう考えます。リンゴを見たことがない人に言葉で十全にリンゴを分からせることはできない。けれども漠然たる概念、この世界にそういう果実があるということは伝えることができる(開示性)。一方、音楽はその概念さえ伝えるすべを持たない。

songbook様の提案というか結論は(勝手に私の表現に代えて言えば)人間である以上、人間としての資質はすべての人にあらかじめ備わっているのだから区分けをして考える必要はありませんよ、ということでした(songbook様、間違っていたらごめんなさい)

アプリオリ(先天的)かアポステリオリ(後天的)かを言い出したらそれこそ哲学の分野で、この質問のノルムを超えることだし、ここは議論の場でもありません。ひとつの見識をいただけたわけで、質問の甲斐があったということです。

お礼日時:2004/02/01 09:22

インプットする事は出来ても(インプットのレヴェルも個人差、生まれた/育った環境等により異なる)、アウトプットは、インプットした情報量そのまま出来るとは限らないって感じではないのでしょうか?おそらく人間は、相当な情報量をインプット出来るのだろうと思いますが、「インプットしたんだ」という自覚・認識に個人差が出るのでは?


言葉を伴う音楽については議論の分かれるところでしょうが、歌詞としてメロディに付いてくる場合、やはり、言葉も音楽の1部という気はしますね。もっと言えば、言語/言葉そのものも、音楽として独立し得る気もします。例えば、短歌とか俳句とかも「歌」と呼ばれますし、それ等を詠む時、ちょっとした、決まったパターンではありますが、旋律みたいなのがあるじゃないですか?もしかすると短歌全盛期の時代は、文学というより音楽だったのかも知れませんよ。それに、お経とかも、ある意味音楽だと思います。日本人なら誰でも、お経と言われたら、ある音色というか周波数、雰囲気を想像は出来ると思いますが、再現=アウトプットは難しいですよね、色んな意味で。
あと、ラップなんかも英語という、そもそもリズムのある言語があってこそ出現した音楽だろうし。(厳密に言えば、トーキング・ブルースみたいな、喋ってるような、歌ってるような音楽はもっと昔からあるんですが)
それと、例えば、英語には日本語には無い発音、例えば、「th」「v」等沢山ありますが、日本人が英語の発音が下手、あるいはヒアリングが下手なのはそもそも聞いたことのない音を発音しなければならないからだと思います。つまり言葉のある音楽というのは、音楽の持つ側面である、「普遍性」を始めからある程度犠牲にしているというか、小さい世界限定というか、ちょっとした、規格外商品みたいな感じで作られ発展してきたものではないでしょうか?

自分の力量を越えて音楽を聴くことはできないのか?ということに関して答えるのは難しいですが、聴くこと(インプット)は出来ると言いたいところですが、その証拠、実証法が難しいですね。僕個人としては、インプットした分、アウトプット出来れば、「聴いた」ことになると思いますが、具体的には、ある聴いた曲に対して、その曲と同じコンセプト、コード進行で別の楽曲を作るとか…。でも、こういう方法だと専門的というか排他的で万人には通じない実証法ですね。

聴く力量そのものは、やはり、小さい頃/若い頃の方が圧倒的に、インプットしやすいので、歳と共に受け入れにくくまるのではないのでしょうか?

以上、参考にはならないでしょうが、とりあえず思いついたことを。
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この回答へのお礼

いや、たいへん参考になりました。
お経がわが国最初の音楽だという説や、和歌は朗詠されていた(今でもされている)という事実を思い出させてもらいました。(本題と関係ないことですが、和歌と短歌は別物ですね)
ラップはオペラにおけるレチタティーヴォのようなものか、と軽視していましたが(なんせ、この方面にうといのです)考えてみればご指摘のとおり、言語によって発展変貌する可能性をおおいに秘めているわけで、言語と音楽の結びつきの上からも注目すべきだと分からせてもらいました。ありがとうございました。

お礼日時:2004/01/31 13:00

私の意見です。



>音楽はいま自分が持ちあわせている力量を超えて聴くことはできない?

と言い切ることは出来ないと思います。

受け取る側にその準備が出来ているか否かで答えは異なってくるのではないでしょうか。

例えば自分の知らない楽器が含まれている音楽を聴いたとき、その楽器が「聴こえない」ということにはならないでしょう。「聴きにくい」でしょうが、聴くことが出来ないわけではありません。

努力して聴き続ければ聴こえてくるものもあるでしょうし、#4さんのおっしゃるように、経験が聴こえ方を左右したりするでしょう。

それとは別に、日本では、外国語の曲を聞く機会が多く、日本人の耳は理解できない言語で唄われる音楽を自然に受け止めることが出来ます。意味が分からなくても、その曲のフィーリングを受け入れる土壌が出来ている(準備が出来ている)からだと思うのです。それは風習から来るものかもしれないし、もっと別の要素が絡んでいるのかもしれません。

ただ、そうやって受け入れることが出来るからこそ、分からない言語で唄われている曲の喜怒哀楽が感じられたりする、と思うのです。受け入れることさえ出来ない人にとっては、そこに何があろうと、聴こうとも思わない訳ですから。

私は米国に住んでいますが、こちらで英語以外の音楽を日常耳にすることはありません。(オペラとかは別ですよ。一般的にラジオやテレビで、という意味です。)

こちらでは意味が分かって当たり前、みたいな前提があるのか、他の言語の音楽を一般的に受け入れようとはしません。極端な人になると、「英語じゃないの?じゃ、音楽じゃないじゃない。意味が分からなくてどうやって楽しめるの」という考え方をしていたりします。そういう土壌の人に、音楽に開示性があるのか、と問うたところで思うような答えは返ってこないでしょう。
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この回答へのお礼

米国のお話、興味深く拝見。なるほどこの方面においても濃厚にエスノセントリズムは働いていますか!
開示性うんたらくんたらと貧乏くさい話など蹴り飛ばしてしまう、なんとも幸福な人たちですなあ。
別の収穫も得ることができました。どうもありがとうございます。

お礼日時:2004/01/31 12:28

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