よろしくお願いします。
歴代総理大臣の中で原敬という方は私は歴史の授業で聞いたくらいでどんな人かはほとんど知りませんでした。しかし、国本武春さんの浪曲「原敬の友情」というものを最近聞く機会があって、「平民宰相」というあだ名があることをはじめて知りました。
ここで、質問なのですが「平民宰相」というのは、本人が名乗ったわけではなく当時の人々がつけたあだ名なんだと思うんですが、原敬氏自身も「自分は平民である」という意思を持っておられたように思います。武士の家に生まれ、明治では士族という身分の方が、自分は平民であるという自覚を持って総理大臣にまでなったわけですが、ご本人はどのようにこの「平民」というものを考えておられたのでしょうか??
どうぞ教えてください。
No.3ベストアンサー
- 回答日時:
平民宰相は当然のことですが、総理大臣になってから言われたことで、それ以前は「平民政治家」と言われています。
原敬の家は南部藩の家老職を務めた家で、上級武士の家柄でした。また、本人もそれが誇りであったと言われています。しかし、戊辰戦争では南部藩は奥羽越同盟に加盟し、朝敵とされ降伏しています。そのために薩長藩閥政権には敵愾心を持っていたと思います。ですから、原敬にとっての平民とは、第一に薩長藩閥に対する平民であったと思います。原敬以前の総理は、薩長肥及び公卿の維新の元勲及びその亜流で占められ、藩閥以外の総理は原敬が最初でありましたから。そのように考えると原にとっての平民は、第2に一つの政治的なスタイルで、心の内から平民と思っていたのではないと思います。上級武士でありながら朝敵の汚名を蒙ったことからくる複雑な心情。一時爵位を内々に求めたのは、それが実現することにより、朝敵の汚名からの脱却を考えたとも思います。(詳しくはウィッキーの原敬の項を)
その複雑な思いは、1917年に盛岡で行われた戊辰戦争殉難者50年祭の祭文の「顧(かえりみ)るに昔日も亦(また)今日の如く国民誰か朝廷に弓を引く者あらんや、戊辰戦役は政見の異同のみ、当時勝てば官軍負くれば賊軍との俗謡あり、其真相を語るものなり、今や国民聖明の沢に浴し此(この)事実天下に明らかなり、諸子以て瞑(めい)すべし、余偶々郷に在り此祭典に列するの栄を荷ふ、乃(の)ち赤誠を披瀝(ひれき)して諸子の霊に告ぐ」に余すところなく述べられていると思います。
ただ、そのような思いは平民政治家との世評が政治的なプレゼンス・力となっていくと、「平民」という政治スタイルが自分にとって有利であるとの意識が働いたと思いますし、そのように意識し、行動したとも思います。
さて、原敬が大をなす過程で、伊藤博文の創立した政友会に参加し、ここで力をつけていきます。桂園時代には政友会の最大の実力者として藩閥勢力との妥協しながらも政友会の勢力伸長を図ります。この過程で、山県有朋との関係は両者の史料から見ても何とも微妙な関係で、原敬にとっては藩閥勢力を利用しつつ、その力を徐々に削いでいく過程でもあったと思います。そこが原敬の政治家として最も優れている点であり、漸進的な変化の人であったと思いますが、逆にそれが大正政変以来の大正デモクラシー下の民衆の求める改革のスピード感との乖離につながり、平民宰相が平民によって暗殺されるという東京駅の悲劇に行きついたのではと思います。
原敬自身は清廉な政治家で、力量のある政治家でしたが、長らく政友会の幹事長・総裁として、政友会の勢力伸長を図る過程で、政官業の癒着に至る財閥・政商と結びつく金権体質、利益誘導と選挙の集票のリンク、自己に有利な選挙制度の強行など現在の政治の問題点の源流となっていきます。
どのような政治家にも功罪はありますが、藩閥政治から政党政治に移行する過程で、妥協と協調をしながらも新たな時代を拓いて行った政治家としての手腕は、評価されるべきものだと思います。その過程の中で、藩閥政治的なものへのアンチテーゼとして爵位を持たない「平民」の称を原敬(悪く言えば)は意識して利用し、行動したのだと思います。(否定的に書いているのではなく、優れた政治感覚としてのスローガンの意味で。)
原敬
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%95%AC
戊辰戦争殉難者50年祭
http://blog.goo.ne.jp/hardsix/e/7e25c71edafb33d2 …
以上、参考まで。
詳しい回答ありがとうございます。助かります。
>>平民宰相は当然のことですが、総理大臣になってから言われたことで、それ以前は「平民政治家」と言われています。
へー。そんなあだ名もあったんですね。
>>原敬にとっての平民とは、第一に薩長藩閥に対する平民であったと思います。
やはり、これははずせない一要因ですね。
>>第2に一つの政治的なスタイルで、心の内から平民と思っていたのではないと思います。上級武士でありながら朝敵の汚名を蒙ったことからくる複雑な心情。一時爵位を内々に求めたのは、それが実現することにより、朝敵の汚名からの脱却を考えたとも思います。(詳しくはウィッキーの原敬の項を)
爵位に関しては私も存じております。あくまで結果的に生涯爵位をもたなかったってことですかね。
>>1917年に盛岡で行われた戊辰戦争殉難者50年祭の祭文の「顧(かえりみ)るに昔日も亦(また)今日の如く国民誰か朝廷に弓を引く者あらんや、戊辰戦役は政見の異同のみ、当時勝てば官軍負くれば賊軍との俗謡あり、其真相を語るものなり、今や国民聖明の沢に浴し此(この)事実天下に明らかなり、諸子以て瞑(めい)すべし、余偶々郷に在り此祭典に列するの栄を荷ふ、乃(の)ち赤誠を披瀝(ひれき)して諸子の霊に告ぐ」に余すところなく述べられていると思います。
資料提出ありがとうがございます。
>>どのような政治家にも功罪はありますが、藩閥政治から政党政治に移行する過程で、妥協と協調をしながらも新たな時代を拓いて行った政治家としての手腕は、評価されるべきものだと思います。その過程の中で、藩閥政治的なものへのアンチテーゼとして爵位を持たない「平民」の称を原敬(悪く言えば)は意識して利用し、行動したのだと思います。(否定的に書いているのではなく、優れた政治感覚としてのスローガンの意味で。)
私としては今の政治かもそのぐらいの戦略は欲しい所ですね。
これから何度も読ませていただきながら、追研究させていただきます。ありがとうございました。
No.4
- 回答日時:
他の方が回答されている通り、彼は盛岡藩の上級武士の家の出身です。
彼自身、それを誇りにしていたようですので、あくまでも「平民」という身分は便宜上のもので、華族・士族以外の身分である「平民」に精神的に寄り添っていたわけではなさそうです。
実際の政策も、普通選挙法に否定的であったりして、我々がまっさきにイメージする「平民」のための政治家であったかどうかは疑問が残るところです。
形の上では「平民」の総理ですから、一般の平民もいろいろと期待をしたことでしょう。また、本人もそれを活用(反藩閥として?)していたと考えられます。しかし、実際の意識はおよそ「平民」とは離れていたのではないかと。
回答ありがとうございます。
>>実際の政策も、普通選挙法に否定的であったりして、我々がまっさきにイメージする「平民」のための政治家であったかどうかは疑問が残るところです。
時代背景とともに考えたいところです。当時まだ藩閥政治の名残自体も強かった時期でしょうから、どこまで自分の政策を貫けたかという事に関しては考えないといけませんね。彼自身が言い出したのか、周りに押された政策なのかは、考えないといけませんね。
>>形の上では「平民」の総理ですから、一般の平民もいろいろと期待をしたことでしょう。また、本人もそれを活用(反藩閥として?)していたと考えられます。しかし、実際の意識はおよそ「平民」とは離れていたのではないかと。
そういったところも含めて追研究させていただきます。
ありがとうございました。
No.2
- 回答日時:
原敬は南部藩の家老の家柄の生まれで、20歳のとき自ら分家して平民となった。
華族や士族の族称は家につくので、個人につくのではない。だから二、三男は、士族の家柄のところに養子に行くことが普通であった。薩長出身者が権力を握っていた当時、明治維新で朝敵となった東北は冷遇されていた。原家も没落し、原敬も苦学した。こうした背景から、かれは藩閥制度や身分家柄をさげすみ、華族になる誘いを3度にわたり断ったという。
彼の胸中には、平民(イギリスのコモナー)の自覚があったのではなかろうか。イギリスの下院はハウス オブ コモンズという名称である。
詳細は下記参照。
http://blog.livedoor.jp/qingmutong-aoki/archives …
回答ありがとうございます。
>>20歳のとき自ら分家して平民となった。
なるほど。士族の家が分家をしても、士族というわけではないんですね。
>>かれは藩閥制度や身分家柄をさげすみ、華族になる誘いを3度にわたり断ったという。
そうですね。藩閥政治というものを抜きには語れませんね。家族になることを断っていたことは初めて知りました。
>>彼の胸中には、平民(イギリスのコモナー)の自覚があったのではなかろうか。イギリスの下院はハウス オブ コモンズという名称である。
こちらの方面からも追研究してみます。
ありがとうございました。
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