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正岡子規が歌った有名な短歌に
”瓶にさす藤の花ぶさみじかければ たたみの上にとどかざりけり”
があります。

正岡子規が病床で歌ったという境遇を、私は知っているので、この歌は素晴らしい、と思います。
しかし、もし、子規の境遇を知らなかったら、私はおそらく良い歌とは思わないでしょう。
皆様は、子規の境遇を知らなくても、この歌は優れている、と思いますか?

A 回答 (7件)

ANo.5ですが



短歌というのは詞書があっての文学なのですから「予備知識無し」で感動するのが上だ・本来の姿だなどという見方はできないというのが私の主旨です。

教科書などでの編集形態にとらわれないことも大事では。
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この回答へのお礼

再度の回答を痛み入ります。

<短歌というのは詞書があっての文学なのです>
について、私はそのとおりだと思います。
全部の歌が、詞書(予備知識)が必要とは思いませんが、
詞書(予備知識)があると、格段に冴える歌がある、と思います。
この”藤の花ぶさ”もその一例だと感じます。

お礼日時:2012/10/22 16:14

短歌に問わず、芸術の鑑賞と言うのは個々人の感性によるものであり、


鑑賞する個人の判断に差が生じたとしても何も問題無いと思います。

例えば世にいう名画と言うジャンル。
私にはピカソの落書きがあれほどの評価を得ている理由がさっぱりわかりません。

例えば音楽。
私にはガヴリイル・ポポーフ作曲の「交響曲 第1番」が評価されない理由がわかりません。
コード進行・表現ともに素晴らしい曲だと私は思います。


と、話が逸れましたが、確かに「正岡子規ブランド」的な志向は拭えませんね。
私が個人的に正岡子規を好まないというのもありますが、
同じ(ような)歌を、別の無名歌人が発表したとしても、きっと同じ評価にはならないでしょう。
それこそが「有名な歌人の短歌だから素晴らしいに違いない」と言う先入観です。
病床云々ではなく、正岡子規自身のネームバリューの賜物と言えます。


短歌の面白さは、何気ない風景や景色を三十一文字に切り取る、と言う行為にあります。
写実であろうと抽象であろうと、そこにその良さを感じ取れるかどうか?にかかるのです。
その意味では、この歌も名歌の一つに数えて差し支えないと思いますよ。
同じ病床の歌でも「咳をしても一人」よりはよほど素晴らしいと思います。
あ、コレは俳句でしたね。比較先を間違えました。

まぁ、それでもやはり、私個人的には正岡子規は(略)。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

わたしには、切り取られたこの三十一文字だけでは、
<そこにその良さを感じ取れ>
ません。単に
<何気ない風景や景色>
としか思えません。

感じ取れる人を羨ましく思います。

お礼日時:2012/10/22 08:37

短歌とか俳句は字数を極端に制限した詩・文学なのですが、その代償として前編が必ず鑑賞や「詞書」=タイトルやキャプションにあたる物とセットになったものと思って良いのではないでしょうか。



たとえば伊勢物語などは全編がその歌がどのようなシチュエーションで詠まれたかという描写で構成されているのです。

また有名な歌にはエピソードがセットになっていることは珍しくないのは、そのような(セットとして)流布されてきたからでしょう。

短歌はまずテーマが提出されて集まった人たちがそれに沿って歌を作って行くという形式から始まった文学であり知的な遊びでもあったわけです。ですから詞書というのは短歌とセットになった物なのです。

子規は新聞連載の中でこの歌を発表しています。冒頭に次の言葉書きを自ら付けています。
————————
 夕餉したため了りて仰向に寝ながら左の方を見れば机の上に藤を活けたるいとよく水をあげて花は今を盛りの有様なり。艶(えん)にもうつくしきかなとひとりごちつつそぞろに物語の昔などしぬばるるにつけてあやしくも歌心なん催されける。この道には日頃うとくなりまさりたればおぼつかなくも筆を取りて

瓶(かめ)にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとゞかざりけり
瓶にさす藤の花ぶさ一ふさはかさねし書の上に垂れたり
藤なみの花をし見れば奈良のみかど京のみかどの昔こひしも
藤なみの花をし見れば紫の絵の具取り出で写さんと思ふ
藤なみの花の紫絵にかゝばこき紫にかくべかりけり
瓶にさす藤の花ぶさ花垂(た)れて病の牀に春暮れんとす
去年(こぞ)の春亀戸に藤を見しことを今藤を見て思ひいでつも
くれなゐの牡丹(ぼたん)の花にさきだちて藤の紫咲きいでにけり
この藤は早く咲きたり亀井戸(かめいど)の藤咲かまくは十日まり後
八入折(やしおおり)の酒にひたせばしをれたる藤なみの花よみがへり咲く

 おだやかならぬふしもありがちながら病のひまの筆のすさみは日頃稀(まれ)なる心やりなりけり。をかしき春の一夜や。
—————————————

夕食を終わって寝ている左側に藤が生けられている、それを子規は畳に寝て下から見ているからこの畳と藤の間の空間にダイナミックな物を感じておもしろがっているわけです。卑小と思われている世界でのそういう発見を描いている。

十首の歌と言葉書きが最初からセットの物として発表されている事実はまず知っておくべきだと思います。

短歌や俳句は言葉で、ある光景を写し撮った写真のような物であり、言葉書きはそのキャプションであるという風にもシミュレートできるのではないでしょうか。

説明が無いと何だかわからなくてつまらない、確かに短歌や俳句はそういう宿命を持った文学形式かもしれません。
しかし子規はことば書きやこの歌の中に自分の寿命が限られてしまっていて悲しいだとかいう言葉を一切入れていない。その姿勢は子規が歌作に当たってむしろそのような説明語句に頼っていないことを意味しているのではないでしょうか。
作品の中にそれを入れてしまってはかえって説明的な絵解きに堕してしまうことをわかっているのです。

たとえば絵は一枚で全てを物語っていて鑑賞者は無言で予備知識無しでそこから何かを得なければいけない、しかも感動しなくちゃいけない。芸術は世紀の天才の思いもよらない仕事でなければいけない。
そういう芸術鑑賞法というのは、何かの意味や宗教的教訓の絵解きとして押し付けられた時代への反発として近代主義的な芸術観だとは思います。しかしかたくなになんでもかんでもそういう物でなければいけないとするのはかえって芸術の本質を見誤って、つまらない貧相な物にしてしまうでしょう。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

セットについて。
伊勢物語を読んで感じたことです。最初に言葉書きがあり、それを最後にまとめているのが、和歌だな、と感じました。その和歌が素晴らしく締め括っている、と思ったことです。
和歌単独では、たいして面白くもありません。が、言葉書きとセットになって初めて、美味くまとめるたな、うまい落ちを付けたな、と感服しました。

予備知識なしで、感動できる人は、素晴らしいと思います。

お礼日時:2012/10/22 08:29

「瓶にさした藤の花房が短かったので畳の上には届かなかった」という歌の大意を理屈だけで考えれば、あたり前のことを面白がっているだけの歌のようにも感じます。

しかし漫然と見過ごしてしまいがちな、瓶にさした藤の花についてのささやかな発見をした感動を素直に詠んだ歌だと考えれば、この歌はそれなりに優れた歌であると私は考えます。

ただしこの短歌を鑑賞する際、ご指摘のように作者が病床にあったという事実を知っているか否かが影響する事は否定できないと思います。子規がこの歌を詠まず、この歌が世に存在しなかったと仮定して、例えば現代の新聞の歌壇に一般の人がこの歌を投稿したとしたら、どのように評価されるだろうかと、想像してみるのも面白いのではないでしょうか。そしてそれが「子規の境遇を知らなくても、この歌は優れている、と思いますか? 」というご質問に対する答えではないかと考えます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

私には、境遇を知らなければ
<あたり前のことを>
をただ詠っているだけにしか、感じられません。
あたかも、1mは100cmである、のような。
ただ、作者と観賞者の共感は、羨ましく感じます。

お礼日時:2012/10/22 07:57

そもそも「歌」を勘違いしていませんか?



中西進は言います「あっ!美しい」の「あっ!」の部分を言語表現を駆使して上手に切り取るといった営みが和歌などの「歌」と呼ばれるものです。

「瓶にさす藤の…」というお越しから、正岡子規らしく自らの視点から広がる小宇宙の切り取りに挑む秀作だと僕は思いますが…
病床にある自分を藤の花にたくした。といった感じではないんです。花と畳の距離感。自分と畳の距離感。花と自分の距離感。そこには奥行きであったり、厚みであったり、重さ(重力)であったりがあるので、それらをも色を交えながら上手にまとめてゆく。あくまでも「無」あくまでも「無限」…合理的な正岡子規の独壇場です。
「和歌俳句の如き短き者には主観的佳句よりも客観的佳句多し」正にそういうことなのでしょう。

いずれにせよ鑑賞については、それぞれが、それぞれの立ち位置から独自に楽しむものですから、ここで論争するつもりは毛頭ありません。とにかく本歌については僕のように「優れている」と感じる人間はいるという事ですね。

逆に、病床にあった正岡子規といった知識があるがゆえに、この歌を楽しめていないのかな?と個人的には思いますが…
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。7758227

<病床にある自分を藤の花にたくした。といった感じではないんです。>
<自らの視点から広がる小宇宙の切り取りに挑む秀作>
私には、境遇を知らなければ、恐らく感動できないと思いますが、
知らなくても(あるいは知らない方が)感動できる人は幸せですね。

お礼日時:2012/10/22 07:39

「花瓶にさした藤の花が短いから、先が畳に届かない」


 これのどこが優れているのか、私にはわかりません。そんなこと、寝床から見なくったって、ふすまを開けて花瓶を見たとたんにわかります。
 もしもこの花房に自分の命か何かを仮託して、ああ届かなかったなあ、と詠ったのだ、と考えたとしても、それはそう読み取った人の考えであって、歌の力ではないと考えます。

 また、読者によってとらえ方が様々で、いろいろに読み取れる可能性のある歌を優れているとする考えにも賛同できません。それなら「あ~~~~ あ~~~~~~ あ~~~~」ではどうでしょう。「ああ」としか言えなかった作者の感動が伝わってきませんか? それはどのような感動でしょう。人によって様々、ものすごい可能性ですよ。まあこれは極論ですが。

 作者の境遇や時代背景、歌の成立の事情などを知らなければその歌を完全に理解できないとすれば、それは作品としての欠陥でしょう。作品がそれ単体で完結できていない、ということです。

 反対意見をぜひ聞いてみたいですね。
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この回答へのお礼

早急な回答ありがとうございました。

<いろいろに読み取れる可能性のある歌を優れているとする考えにも賛同できません。>
私もそう思います。
そして、
<それ単体で完結できていない>
作品は、共感する割合が低いように、思います。

お礼日時:2012/10/21 08:02

>病床で歌ったという境遇を


知らなかったとしても、素晴らしいと思いますよ。

病床の境遇を超越した境地だと私は思います。
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この回答へのお礼

早急な回答ありがとうございました。

<病床の境遇を超越した境地>
を共有できる、子規とbanzai様を羨ましく思います。

お礼日時:2012/10/21 07:55

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