誕生日にもらった意外なもの

ニルヴァーナにいつでも入ることができるのに
いつまでも入らない仏というのが

大乗仏教になるとかなりでてきます。
ゴータマもそうです。

この、

できるけど、しない。理由は何ですか?

その思想的な根拠はありますか?

A 回答 (48件中21~30件)

 こんにちは。



 ○ アンギラス および アンギラサ

 いろんな説明があるようですが これまで分かった内容をあらましとしてでもまとめてみてくださいませんか?

 ・ リシ(聖人・仙人?)
 ・ ヱーダの編集者(著者)?
 ・ 火の神アグニは アンギラスの息子だとか。
 ・ アンギラスもしくはアンギラサが ゴータマ・ブッダと関係するとか。

 ・ あるいは アンギラスは バラモン階級だが 非アーリヤ系だとか・違うとか。

 なんでしょう?

 よろしくお願いします。

 アグニとの関係で・そしてゴータマ姓との関係で ニルワーナなどのこの質問にかかわるものと思います。

この回答への補足

アンギラサを巡って

ジャイナ教の思想家Neminath
ニルヴァーナを得て
ゴサ・アンギラサの称号を与えられたらしい。

http://en.wikipedia.org/wiki/Neminath

それから、以下引用。

19

ディーガ・ニカーヤの中に、「ゴータマは、母の系統からみても、父の系統からみても、生まれ正しく、血統は純粋で、七代遡っても混血なく、血筋に関して、避難される点は無い。」という文があります。教祖の肉体的な血筋の正統・高貴なことを強調するようになったということは、本当のことを隠してしまおうという傾向のあらわれですね。

おそらくそのせいか、実際、ゴータマ一族が、アーリア系なのか、オーストロ・アジア系なのか、ドラヴィダ系なのか、チベット・ビルマ系なのか、はっきりしなくなってしまいました。また、ゴータマ一族が、本当は、王家なのか、豪族なのか、ただの富農なのかも、少しあいまいになってしまっています。

母方は、コーリヤ族ということなので、ということはムンダ語族に含まれ、つまりはオーストロ・アジア系ということになりますが。

父方は、アーリア系の王家である可能性はあります。実は、ゴータマという王族の苗字はありません。しかし、ゴータマというバラモンの苗字はあります。当時のインドでは、アーリヤ系の王族は、お抱えのバラモンの苗字を、自分たちの苗字のように使うことが多かったのです。それで、バラモンでないのにゴータマを名のっていたということが、アーリア系の王家である証拠のひとつとなりうるわけです。古い経で、ゴータマ・バガヴァットがアーンギラサと呼ばれていることも、これを補強する証拠となりえます。アーンギラサというのが、ゴータマ姓のバラモン一族の属する大きな一族の名称だからです。

http://page.freett.com/ry/essay.html

補足日時:2012/11/21 07:53
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この回答へのお礼

アンギラサが何者で、仏教とどう関係しているのか?
私が質問したいくらいです。

どうやら

アンギラスあるいはアンギラサは、伝説の七人のリシの一人で、
ゴータマ姓はアンギラサに由来する。

仏典にはゴータマ・ブッダをアンギラサと表現する箇所もある。

なぜ、釈迦族の聖者が、アンギラサと呼ばれたり、
アンギラサ族の姓であるゴータマとなっているのかは、
私は、わかりません。

リシのアンギラサは、リグヴェーダとウパニシャッドに登場します。
アタルヴァヴェーダは、アタルヴァン族とアンギラサ族に由来するらしいです。

そして、仏典にはリシのアンギラサと、ゴータマ・ブッダの名前のアンギラサ
二人が登場します。

マハーヴァッガのウルヴェーラ・カッサパのところで
ゴータマ・ブッダがアンギラサと表現されています。

とりあえず検索して出てきたものを列挙してみます。

buddhaの神格化
http://www.wikidharma.org/jp/index.php/%E3%81%B6 …
また原始仏教聖典の古い詩句の中では、「ゴータマよ」と呼びかける代わりに「アンギラス族の人よ」(aNgirasa)と呼びかけていることがある。これはバラモンのうちの特殊なひとつの家系である「アンギラス族」という名をゴータマの呼称としているのである。これは『リグ・ヴェーダ』的観念の名残りであり、非常に古いと考えられる。aNgiras(男性名詞)とは、神々と人間との間の存在であって、両者の仲介者、天の子息、人間の先祖、神々の恵みを人間にわかち授ける者として登場する。

Angiras (sage)
http://en.wikipedia.org/wiki/Angiras_(sage)

The Rig Veda HYMN I. Agni.
http://www.sacred-texts.com/hin/rigveda/rv01001. …

MUNDAKA-UPANISHAD.
http://www.sacred-texts.com/hin/sbe15/sbe15016.htm

THE MAHÂVAGGA. FIRST KHANDHAKA.
http://www.sacred-texts.com/bud/sbe13/sbe1312.htm

DN 13 Tevijja Sutta
http://www.palicanon.org/en/sutta-pitaka/transcr …

MN 95 Cankī Sutta - With Cankī
http://www.palicanon.org/en/sutta-pitaka/transcr …

DN 32 Atanatiya Sutta: Discourse on Atanatiya
http://www.accesstoinsight.org/tipitaka/dn/dn.32 …

特にこれは、
4. "Homage to Angirasa (the Buddha Gotama), the son of the Sakyas, who is full of radiance, and who proclaimed the Dhamma that dispels all suffering.

原始佛教と禪宗
http://www.shomonji.or.jp/chosho1.htm
『彼(婆羅門)をして躊躇する所なくアタルヴァン(Atharvan)及びアンギラス(Angiras)によりて啓示されたる聖典を用ひしめよ、語は實に婆羅門の武器にして彼はそを用ひて己の敵を屠ることを得』
といひ、アタルヴァン及びアンギラスの與ふる天啓の事を記してある。しかし尚ほアタルヴァヴェーダの語は用ひてない。先に擧げた『諸經要集』にアータッバナとあるはこのアタルヴァンの子孫の意である。

お礼日時:2012/11/20 11:00

 やっぱし訊いておかなければあたらしい話へすすめませんよね。


 ということで ねむりねこさんへの質問です。
 ご説明をありがとうございます。そして 疑問が去りませんので よろしくお願いいたします。


 ◆(回答No.26) ~~~~
 はい、仏教においては、アートマンは、否定されます。
 でも、これはゴータマ滅後に、仏教で確立した《無我(an-atman)》説ですので、はたしてゴータマ自身がそこまで踏み込んだ発言をしたのかどうかについては、議論がわかれると思います。
 《諸法非我》の意味は、「諸法は《アートマン》でない」という意味かもしれませんし、もっとプリミティブに「諸々の存在、すなわち、心身は《自分のもの》でない」の意味かもしれませんし。。。。 
 ~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ (1) ブディズムが変化して来ている。ということでしょうか?

 (1-1) ゴータマの成道は いったい何だったと捉えればよいのでしょう?

 (1-2) 真理についてこの上のない知識と知恵と境地を得たのではないのでしょうか?

 (1-3) もしオシエの内容に変遷があったと認めたばあい けっきょくどういうオシエに行き着いていると受け取ればよいのでしょう?



 ◆(同上) ~~~~~
 燃料がなくなる、もしくは、燃えている《火》へ燃料が供給されなくなれば、
 《火》は消えてなくなる。
 その消えてなくなってしまった《火》を指差して、「今まで眼の前にあった《火》はどこに行ったのか」という質問することがナンセンス。
 ここが《榎本》説の非常に優れているところですよ。
 少し《龍樹》の《中論》っぽいですが(笑い)。
 そして、ひじょ~に小ズルい理論でげす。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ 《〈燃えている<火>〉があった。そして〈消えてなくな〉った。》――これについて
 ◆ 「今まで眼の前にあった《火》はどこに行ったのか」という質問することがナンセンス。
 ☆ という意味が 把握できません。つまり その問いは《どこへ》という指定には意味がなく 問題は こうではないでしょうか? つまり

 (2) 《あったものが なくなった》 このことは どういう事態なのか? と訊いているのだと。

 つまりは

 (2-1) 《もともと――現象としてはあったが―― そのモノとしては仮りのものだったので 言ってみれば初めから なかった。》ということなのか?

 (2-2) それとも 《あると見止めることのできるモノは それとしてある。なくなったモノは もうない。のだから どうなったのか?と問うことがおかしい。つまり その場その場でそのつど 認識は変わるのだ。そのときの認識こそが 認識すべきことであり それ以外には知る必要はなく 知ろうとすることはおかしい》ということなのか?

 (2-3) それとも もっとほかに意味があるのでしょうか?




 そうして 三つ目で最後の質問は こうです:
 (3) 火にしても燃料にしても薪にしてもジヰティンドリヤなる命根にしても 無我なのか? 非我なのか?
 
 (3-1) 有為法であるならば 無我である。つまりそれに実体はない。ということなのではないか?

 (3-2) つまりもしそうなら(無我なら) 火にしても燃料や薪ないしジヰティンドリヤなる命根にしても 仮りにあるときもあれば なくなるときもある。すべて縁起として起きているに過ぎない。という説明になるのではないか?

 (3-3) それとも ひょっとして《いのち》は ブッダター(仏性)としてのごとく アートマンではないが それとひとしいチカラであるところのやはり霊である。のであろうか?

 よろしくお願いします。
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bragelonneさん、かざみどりさん、こんばんは。


No25の質問にお答えします。


~~~~~~
  ○(回答No.21) 自己(attan, ātman)の火は薪が燃え尽きれば消えると捉えられ、これが般涅槃という術語で表現されていると考えられる。
 
 ☆ このアートマンは すでに無我ないし非我(アン‐アートマン)として否定されているのではないでしょうか? という疑問です。
~~~~~~
はい、仏教においては、アートマンは、否定されます。
でも、これはゴータマ滅後に、仏教で確立した《無我(an-atman)》説ですので、はたしてゴータマ自身がそこまで踏み込んだ発言をしたのかどうかについては、議論がわかれると思います。
《諸法非我》の意味は、「諸法は《アートマン》でない」という意味かもしれませんし、もっとプリミティブに「諸々の存在、すなわち、心身は《自分のもの》でない」の意味かもしれませんし。。。。


~~~~~~
 ○ 自己(attan, ātman)の火

 これは 無我ないし非我ではあるが 仮りにまだこの世ではその《火》のごとくにあると見なしている。ということでしょうか?
~~~~~~
燃料がなくなる、もしくは、燃えている《火》へ燃料が供給されなくなれば、
《火》は消えてなくなる。
その消えてなくなってしまった《火》を指差して、「今まで眼の前にあった《火》はどこに行ったのか」という質問することがナンセンス。
ここが《榎本》説の非常に優れているところですよ。
少し《龍樹》の《中論》っぽいですが(笑い)。
そして、ひじょ~に小ズルい理論でげす。

実は、説一切有部系、大乗系の仏教には、
《命根・jivit-indirya》というモノがあるんですよ。
 √jiv:live 生きる
 jiva, jivita:life・生命、living・生きることetc (jiva・ジーヴァは、ジャイナ教の《アートマン》のようなもの。日本語では《命我》とか訳されるんじゃなかったかな
 indriya:感覚器官(?)、力、作用、機能くらいの意味

No21でご紹介した論文に、体温の維持(機能)のような話が出ていたと思うのですけれども、この体温の維持機能が仏教の《命根》と呼ばれるものです。で、これは心でも物でもないもの《(色心)不相応行》に分類されます。しかし、《命根》は(縁起で)作られたモノ、つまり《有為法》です。ご紹介した論文では、たしか、《煗(なん)》とかいう小難しい仏教用語を使っていたと思いますけれども。
この《命根》、人間の寿命なども感じることができる、という話ですよ~。
でも、《有為法》だから、これは壊れるもの。
死ねば、たぶん、《命根》はなくなるはず。
再生の時、再び、体に宿るんじゃないかな。
《命根》についてはあまり知らないので、確定的なことは申し上げられませんが(ポリポリ)。

《命根》は、《火》みたいなものですわ。
仏教でいう《四大》、地・水・火・風、これは順に、《堅さ》、《湿り気》、《暖かさ》、《動き》の意味です。仏教でいう《地・水・火・風》は物質じゃないんですよ。これらはすべて、力や作用、つまり、sakti(シャクティ)みたいなものです。
仏教用語で《○根》とついていたら、それは《indriya》の訳語で、力や機能の意味なんでげす。
男根、女根、命根etc

わたしは説一切有部の学説───正確には倶舎論の解釈───しか知らないのですけれども、
命根については、部派によって少し考え方が異なると思います。


参考になるホームページ
http://home.e01.itscom.net/panna/jissen3/009jiss …
http://home.e01.itscom.net/panna/naka/009naka.html
くらいかな。
ちょっと調べたけれど、これらしいものが見つかりませんでした。



☆☆☆☆☆☆
余談ですが、パソコンのOSを新しいのにしたんですよ。
作業時間、約2時間。
Ubuntu12.04 LTS
って奴にグレードアップしたんですよ。
これまで使っていたUbuntu10.04 LTSと、結構、違っていて、使いにくいのなんの。
この操作に慣れるまで結構、時間がかかりそうです。

この回答への補足

リグヴェーダのアグニについて調べていたら

HYMN I. Agni.
http://www.sacred-texts.com/hin/rigveda/rv01001. …

Aṅgirasという人物が出てきて

検索したら

http://en.wikipedia.org/wiki/Angiras_(sage)

Relation to Buddhism

Lord Buddha is said to be a descendant of Sage Angirasa in many Buddhist texts.[2] Scholars like Dr. Eitel connects it to the Rishi Gautama.[3] There too were Kshatiryas of other clans to whom members descend from Angirasa, to fulfill a childless king's wish.[4]

In the Buddhist Vinaya Pitaka of the Mahavagga (I.245)[5] section the Buddha pays respect to Angiras by declaring that the Veda in its true form was declared to the Vedic rishis "Atthako, Vâmako, Vâmadevo, Vessâmitto, Yamataggi, Angiraso, Bhâradvâjo, Vâsettho, Kassapo, and Bhagu"[6] and because that true Veda was altered by some priests he refused to pay homage to the altered version.[7]


ゴータマ・ブッダはアンギラスの子孫なんでしょうか?
こんな情報は初めてです。

補足日時:2012/11/18 12:33
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

命が問題になってくると

もしかして、阿弥陀仏の無量寿(アミターユス)
というのがニルヴァーナの否定だったりして。

命と寿の違いがありますけど。

お礼日時:2012/11/18 09:46

 ねむりねこさんに 質問です。



  ○(回答No.21) 自己(attan, ātman)の火は薪が燃え尽きれば消えると捉えられ、これが般涅槃という術語で表現されていると考えられる。
 
 ☆ このアートマンは すでに無我ないし非我(アン‐アートマン)として否定されているのではないでしょうか? という疑問です。

 そのひとまとまりの全文をかかげます。

 ◆ (回答No.21) ~~~~
  ○ 矢島 道彦:尊厳死とはなにか~仏教の立場から~
 
 5)涅槃(ニルヴァーナ)とは

 ・榎本文雄氏の結論:霊魂(ātman, jīva)は常住な火であり、死んで体温が消え去っても、輪廻転生して霊魂の火は消滅することがないというような考え方が初期仏教時代に流布していたと推定される。

  これに対して初期仏教では、ブッダのような解脱者は命終後、輪廻転生することなく、自己(attan, ātman)の火は薪が燃え尽きれば消えると捉えられ、これが般涅槃という術語で表現されていると考えられる。
 (榎本文雄「初期仏教における涅槃―無我説と関連して―」『仏教研究』40, 2012.3, pp. 149-160)
 ~~~~~~~~~~~~~~

  ○ 自己(attan, ātman)の火

 これは 無我ないし非我ではあるが 仮りにまだこの世ではその《火》のごとくにあると見なしている。ということでしょうか?

この回答への補足

マハーヴァッガのその箇所を
よく見たらAngirasaで

どうやらパーリ語だと

Angirasa(アンギラサ)のようですね。

Full text of "The student's Pali-English dictionary"
http://archive.org/stream/studentspaliengl00tinm …

angirasa, in. name of a buddha or a sage.

アンギラサもブッダの名前みたいですね。

補足日時:2012/11/19 07:16
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

THE MAHÂVAGGA.

http://www.sacred-texts.com/bud/sbe13/sbe1312.htm

英訳ですがマハーヴァッガをAngirasで検索したら

7. And when that night had elapsed, the flames of the Nâga were extinguished, but the various-coloured flames of Him who is possessed of magical powers remained. Dark blue and red, light red, yellow, and crystal-coloured flames of various colours p. 122 appeared on the Angirasa's1 body. Having put the chief of Serpents into his alms-bowl, he showed him to the Brâhmana (saying), 'Here you see the Nâga, Kassapa; his fire has been conquered by my fire.'

このような箇所があり、
どうやらゴータマではなく、アンギラスと表現されているようです。

お礼日時:2012/11/18 18:28

 かざみどりさんが検索でみつけた次の論文は 参考資料になると思います。

まだ掲げてないので。


 ○ 富田真理子(2008年時点で大阪大学大学院博士後期課程学生):
 『スッタニパータ』「ヴァンギーサ経」における涅槃について
 http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/bitstream …

  初期仏教経典の古層に位置づけられる『スッタニパータ』(Sn)中の一経、
 ヴァンギーサ経(Vaṅgīsasutta)1)には、nibbāna, nibbuta 等2)の「涅槃」
 関連語彙が集中的に現れ、初期仏教で涅槃が如何に捉えられていたかを理
 解するには不可欠の資料である。これまでも、翻訳を含め幾多の先行研究
 が本経を取り上げてきたが、本経の内容を理解する上で核となる涅槃関連
 語の解釈は様々である。本稿の目的は、先行研究の問題点を指摘し、本経
 及び註釈を恣意的な判断を交えず原語に忠実に精読することで、涅槃関連
 語の語義と各々の関係を考察し、本経は涅槃に関し何を問題にしているの
 か、また本経から涅槃につき何が明らかになるのかを示すことにある。

   ・・・・・・・

  IV.まとめと今後の課題

 これまでの翻訳及び諸研究では、「般涅槃」を「阿羅漢の死」及び「死後」
 としてのみ注目する傾向にあった。この問題に対し筆者は幾つかの新しい
 視点からSn「ヴァンギーサ経」を考察した。最後に、これまでの考察に
 基づいた筆者の一解釈を提示し、批判を仰ぎたい:涅槃はまず「生前に得
 る」ものであり、命終は「生前の涅槃が保たれているかどうかが明らかに
 なる区切り」と看做され、従って、命終時の「(般)涅槃」を、「生前得ら
 れた涅槃の状態が、命終時にも保たれている状態」と捉える。さらに、こ
 のことが修行者の重要な関心事であったと位置づける。これは翻って、生
 前に涅槃を得ていたとしても、命終後までその状態が継続する保証がな
 かった可能性を示唆する。

 上記の解釈は、極めて限られた範囲から得られたものである。今後、他
 の経典についても同様の分析を行いたい。保留された幾つかの問題につい
 ても、仏教以外の諸文献を視野に入れた包括的な語彙収集とそれに基づく
 緻密な検証が行われなければならない。
 ~~~~~~~~~~~~



 わたし(回答者)の見解としては ニルワーナが 生前に得られるにせよそれが《命終》にいたるまで保たれ得るかどうかが分からないにせよ またそれがヰモクシャ(解脱)とどう違うかにせよ 問題は そこにはなく そうではなく ブディズムの外に向かっても 哲学のことばでどこまで妥当なかたちにおいて定義として表現されうるか? つまり 説得力があるかないか? にこそ関心があります。

 総じて言って ゴータマの思想には 普遍性がない。空観のもとにおさめる縁起説を除いて 思想内容は からっぽである。というものです。
 《さとり》の内容を 人びとに分かるように表現し得るまでは 眉唾物だという物言いです。
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この回答へのお礼

富田真理子(2008年時点で大阪大学大学院博士後期課程学生):
 『スッタニパータ』「ヴァンギーサ経」における涅槃について

その論文を先に見つけたのは、ねむりねこさんだと思いますよ。
大阪大学大学院博士後期課程学生と書いてあります。

とにかく今回の質問で、今まで仏教について
勉強してきたことはなんだったんだ。
という感じにもなったり、

やっぱり、これ以上の探求となると
パーリ語が必要になってくる。ってのもわかりました。

否定するにしろ、肯定するにしろ
勉強しないといけないことがたくさんでてきました。


「中央学術研究所紀要」モノグラフ篇 No.3

【資料集3】仏伝諸経典および仏伝関係諸資料のエピソード別出典要覧   森 章司・本澤綱夫・岩井昌悟

http://www.sakya-muni.jp/monograph/03/3-1/1-15.h …

これを読むと今まで知らないゴータマのエピソードがたくさんありました。
梵天勧請の前にタプッサとバッリカの供養と帰依という話もあるようです。

お礼日時:2012/11/17 14:49

~~~~~~


ところで、パーリ語の原文テキストは
どうやって入手するのでしょうか?
~~~~~~
さぁ~。
僕の場合は、たまたま調べていた論文の中で、この該当部分のパーリ語を見つけただけだし。
検索をした結果を一つ一つ丁寧に調べれば、リンク先を見つけられないことはないと思うんだけれど、ざっと見たところ、見つからない。
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この回答へのお礼

一応、調べていたらこんなサイトを見つけました。
パーリ語と英語の対訳みたいです。

http://www.bps.lk/olib/wh/wh417-p.html#XIIIVa774 …

お礼日時:2012/11/16 08:11

No21のお礼と質問、感謝です。




~~~~~~
薪の正体とはなんでしょうか?
肉体のことですか?
~~~~~~
ピンポン!!
正解です。
よく分かりましたね、これは驚き。
《煩悩》や《無明》という返答が来るのかと思っていましたが。。。。
榎本説を受けて書いた阪大のドクターコース在籍中だった人の論文によると、そうなるらしい。
榎本文雄のオリジナル論文を僕は読んだことがないので、榎本文雄自身がそう解釈しているのかどうかは不明なのですが。。。。



~~~~~~
仏教が無我なのはアートマンという火が
燃え尽きて無くなるから?

というか、アートマンって火だったんですか。
息とか風とか魂とか我とか
そんな意味だとずっと思ってました。
~~~~~~
これはね~、ウパニシャッドの輪廻説の一つである《五火二道》説という考え方なのよ。
Wikipediaから五火二道説の説明を引用(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB

─────────
ヒンドゥー教における輪廻 [編集]

ヒンドゥー教の前身であるバラモン教において、はじめて断片的な輪廻思想があらわれたのは、バラモン教最終期のブラーフマナ文献[1]ないし最初期のウパニシャッド文献[2]においてである。ここでは、「輪廻」という語は用いられず、「五火」と「二道」の説として現れる。『チャーンドーギヤ』(5-3-10)と『ブリハッドアーラニヤカ』(6-2)の両ウパニシャッドに記される、プラヴァーハナ・ジャイヴァリ王の説く「五火二道説」が著名である。

五火説とは、5つの祭火になぞらえ、死者は月にいったんとどまり、雨となって地に戻り、植物に吸収されて穀類となり、それを食べた男の精子となって、女との性的な交わりによって胎内に注ぎ込まれて胎児となり、そして再び誕生するという考え方である。二道説とは、再生のある道(祖霊たちの道)と再生のない道(神々の道)の2つを指し、再生のある道(輪廻)とはすなわち五火説の内容を示している[3]。

これが、バラモン教(後のヒンドゥー教)における輪廻思想の萌芽である。そして様々な思想家や、他宗教であるジャイナ教、仏教などの輪廻観の影響も受けつつ、後世になってヒンドゥー教の輪廻説が集大成された。すなわち、輪廻教義の根幹に、信心と業(カルマ、 karman)を置き、これらによって次の輪廻(来世)の宿命が定まるとする。具体的には、カースト(ヴァルナ)の位階が定まるなどである。

行為が行われた後、なんらかの結果(para)がもたらされる。この結果は、行為の終了時に直ちにもたらされる事柄のみでなく、次の行為とその結果としてもまた現れる。行為は、行われた後に、なんらかの余力を残し、それが次の生においてもその結果をもたらす。この結果がもたらされる人生は、前世の行為にあり、行為(カルマ)輪廻の原因とされた。

生き物は、行為の結果を残さない、行為を超越する段階に達しないかぎり、永遠に生まれ変わり、生まれ変わる次の生は、前の生の行為によって決定される。

これが、業(行為)にもとづく因果応報の法則(善因楽果・悪因苦果・自業自得)であり、輪廻の思想と結びついて高度に理論化されてインド人の死生観・世界観を形成してきたのである。
─────────
こういう考え方。
ウパニシャッドの大哲学者であるヤージュニャヴァルキアにも、こうした考え方があるんよ。
耳を塞ぐと「ザワザワ」というような騒音が聞こえる。それは、体内に潜んでいる《火》が食物を調理している音だ。でも、死んでしまうと、それが聞こえなくなる。体内に潜んでいた《火》がこの世から旅立ったからだ。だから、死体の体温は下がり、冷たくなる。
つまり、《アートマン=火》なのよ。

「こうした考え方は、バラモン教の祭式学に由来するのであろう」と言われているんだけれどもさ。
死んだら火葬をする(供物を護摩で焼く)。
火の神・アグニが死体を焼いて煙にする(護摩で焼いた供物は煙になる)。
それを風の神・ヴェーユが不死の世界へと誘ってくれる(その煙は神々へ届けられる)。
こうした考えがベースにあったのであろうとか、そうでないとか。

ヴェーユ・《vayu》でさ~。
《nir-vana》の《va》が、《vayu》にも入っているんだわさ。
風だわさ、こっちは正真正銘《blow out》するんだわさ。
《閻魔》さまが見つけた《不死の世界》へと誘ってくれるんだわさ。
本当の行き先は、Paradise or Hell?
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昨日の深夜(今日の未明です)にネットで非常に興味深い論文を見つけました。


ひょっとしたら、
長い間の《nirvana・(有余)涅槃》と《pari-nirvana・無余涅槃》論争
に終止符をうつ最新の画期的な論文(の抜粋)です。
少し長いのですが、その論文から引用します。


───────────
5)涅槃(ニルヴァーナ)とは
・ニルヴァーナ(nirvāna < √vā2 ):「(火が)消えること」 ×動詞√vā1(吹き消す))
・2種のニルヴァーナ (1)有余依涅槃(生前のニルヴァーナ)
(2)無余依涅槃(命終のニルヴァーナ=般涅槃 parinirvāna)
・生前の涅槃では火的な成分である煩悩が消えた。では、命終に際して消える「火」とはなにか
・般涅槃する直前、ブッダは四禅八等至から滅尽定(想受滅)に入り、無呼吸の状態となった。
アーナンダの問い:「世尊は般涅槃されたのでしょうか?」
アヌルッダの答え:「世尊は般涅槃したのではなく、想受滅に入っておられるのです」
呼吸の有無では、命終と滅尽定とは区別できない。
・滅尽定と区別される死の特徴:
1. 寿命(āyu)の消失、2. 諸認識機能(indriya)の崩壊、3. 体温(usmā)の消失
・解脱者の命終において消える「体内の火」=「よく御された(sudanta)自己(アートマン)」
・榎本文雄氏の結論:霊魂(ātman, jīva)は常住な火であり、死んで体温が消え去っても、輪廻転
生して霊魂の火は消滅することがないというような考え方が初期仏教時代に流布していたと推定
される。これに対して初期仏教では、ブッダのような解脱者は命終後、輪廻転生することなく、
自己(attan, ātman)の火は薪が燃え尽きれば消えると捉えられ、これが般涅槃という術語で表
現されていると考えられる。
(榎本文雄「初期仏教における涅槃―無我説と関連して―」『仏教研究』40, 2012.3, pp. 149-160)

http://ccs.tsurumi-u.ac.jp/seminar/pdf/about/lab …
(尊厳死とは何か ~仏教の立場から~ 矢島道彦) より抜粋引用
────────────

この論文に引用されている《榎本文雄》説がどれくらい画期的かというと、
これまでの仏教の涅槃観の常識がすべて吹っ飛んでしまうくらいに画期的です。
何故、仏教が《無我・an-atman or nir-atman》なのかも分かってしまうくらいに。。。。
消えちゃう《火》とは、煩悩や無明のことではなく、《atman・我》や《jiva・命》(ジャイナ教)そのものなのですから。文学的な表現を使えば、《命の火》と言ったところですか。《薪》とは。。。。。

《薪》の正体は、ちょっと恐いので、パスパス。
《薪》が何を意味するのか、それに言及した論文を見つけたことは見つけたのですが。。。。。


☆☆☆☆☆☆
興味深いのは、
中村元訳 スッタニパータ 岩波文庫
にある《ヴァンギーサ》という章段です。

中村元は、《parinibutta》を《亡くなった》と訳しているのですが、この訳はおかしいんじゃないかという話があります。
ヴァンギーサのお師匠さんであるカッパが死にます(parinibutta)。その弟子であるヴァンギーサはゴータマのもとに行き、
「わが師は実際に亡くなったのであろうか、あるいはまだ亡くなっていないのであろうか?」
と問います。
見れば、カッパが死んでいることは分かるのに、なぜ、わざわざヴァンギーサはこのようなことをゴータマのところに聞きに行ったのか?
「《parinibutta》は《無余涅槃》・《般涅槃》の意味じゃないのか」という反論です。

《ヴァンギーサ》という章段の中村元訳は、ど~も意味が繋がりにくい。文脈の流れがおかしい。前から、「この部分の訳はおかしいな~」と思っていたのですが、やっぱりという感じがします。
この章段の中村元訳は、意訳と彼の解釈が混じっていて、結構、危険かも。
スッタニパータのパーリ語から日本語への逐語訳を誰か発表してくれないかな。
この部分のパーリ語を入手したけれど、何が書いているのか、チンプンカンプンで分からないし。

ネコにパーリ語が分かるか!!
単語をどこで分解していいのか、さっぱり分からニャ~。
pari-ni-butta:「完全にオガクズがニャ~」という意味だろうか。「完全に切り株がニャ~」という意味だろうか。難しいな、ホント!!

この回答への補足

ところで、パーリ語の原文テキストは
どうやって入手するのでしょうか?

よく、PTS版と書いてあったりしますけど。

補足日時:2012/11/15 19:38
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

薪の正体とはなんでしょうか?
肉体のことですか?

仏教が無我なのはアートマンという火が
燃え尽きて無くなるから?

というか、アートマンって火だったんですか。
息とか風とか魂とか我とか
そんな意味だとずっと思ってました。

とりあえず、
スッタニパータのヴァンギーサの箇所を読んでみます。
いざ、中村元さんの訳に問題が出てくるとしたら、
どうしたらいいものやら。

お礼日時:2012/11/15 18:17

 ○ 煩悩: klesa


  
 ○ klesa:
  1. pain, affliction, distress, pain from disease, anguish

  2. in Yoga philosophy five klesas are named:

   a-vidya ( ignorance )
   asmi-ta ( egotism )
   raga ( desire )
   dvesha ( aversion )
   abhinivesa ( tenacity of mundane existence )

  3. Buddhists reckon ten:

   three of the body ( murder, theft, adultery )
   four of speech ( lying, slander, abuse, unprofitable conversation )
   three of the mind ( covetousness, malice, sceptism )

 4. wrath, anger, worldly occupation, care, trouble,


 ○ 動詞:klis:

  1. to torment. trouble, molest, cause pain, afflict,
  2. to suffer, feel pain,
  3. to be sinful
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 ねこさんの問いにお応えします。




 ◆(回答No.17) 無住処涅槃のサンスクリット語をどうやって調べられたのですか?
 ☆ 中村元ほか編集:岩波仏教辞典です。ただし 第二版は持っていないので 第一版からです。

 なかなか出て来なかったのですが 無住処涅槃は 不住涅槃とも言うと《涅槃》の項目にあり 不住涅槃を引くと 原語がありました。


 ◆ ~~~~~~~~~~~
 ─────────
 prátiṣṭhita -- ʻ fixed, firm, thriving ʼ
 (A Comarative Dictionary of The Indo-Aryan Language)
 ─────────
 と若干、意味が異なっているのが気にかかるところなのですけれども。。。。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ まづ参照した辞典は 次です。

  ○ Monier Williams Sanskrit-English Dictionary 2006

 昔手に入れた 別の辞書の student edition は これでも印刷と呼ぶのかというくらい読みづらいものでした。インドの印刷事情のことです。まだ最近ようやく この Monier を手に入れました。使い慣れて来ていないだけに 見出しもローマ字が出ていて 助かります。


 さて 《住処》という意味が分かったので 語義を全部は掲げなくてもよいと思ったのでしたが あらためて 全部を引いておきます。

 ○  prati-shthita: ~~~~~~~~~~
  1. standing, stationed, placed, situated in or on;
  2. abiding or containing in;
  3. fixed, firm rooted, founded, resting or dependent on
  4. established, proved
  5. ordained for, applicable to
  6. secure, thriving, well off
  7. familiar or conversant with
  8. transferred to
  9. undertaken
  10. ascended into, having reached
  11. complete, finished
  12. consecrated
  13. endowed, portioned
  14. established in life, married
  15. prized , valued
  16. famous, celebrated
  17. name( epithet ) of Vishnu
 ~~~~~~~~~~~~~


 《 prati-√shthaa: to stand, stay, abide, dwell; ・・》の名詞も 参照したほうがよいようですね。

 ◆ ~~~~~~~~~~~
 ─────────
 pratiṣṭhāˊ f. ʻ foundation, prop ʼ RV., ʻ homestead ʼ AV., ʻ performance of any ceremony ʼ Kathās. [√sthā]
 (A Comarative Dictionary of The Indo-Aryan Language)
 ─────────
 《pratiṣṭhā》という単語は、リグヴェーダの時代には、もう《基礎》や《基体》の意味で使われていたみたいですよ。《peformance of any ceremony》、《儀式の執行》という意味があるのが、いかにもバラモン教らしいですけれど。
 ~~~~~~~~

 ○ prati-shthaa: ~~~~~~~~~~~
 1. standing still, resting, remaining, steadfastness,stability, perseverance in,
 2. a standpoint, resting place, ground base, foundation, prop, stay, support,
 3. receptacle, homestead, dwelling , house,
 4. pedestal, the foot (of men or animals),
 5. limit, boundary
 6. state of rest, quiet, tranquility, comfort, ease
 7. setting up (of an idol etc.),
 8. preeminence, superiority , high rank or position, fame, celebrity
 9. establishment on or accession to (the throne etc.),
 10. the performance of any ceremony or of any solemn act, consecration or dedication (of a monument or of an idol or of a temple etc.)
 11. setting or endowment of a daughter, completion of a vow, any ceremony for obtaining supernatural and magical powers
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ (10)(11)あたりでしょうか。儀式関係は。
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