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ニルヴァーナにいつでも入ることができるのに
いつまでも入らない仏というのが

大乗仏教になるとかなりでてきます。
ゴータマもそうです。

この、

できるけど、しない。理由は何ですか?

その思想的な根拠はありますか?

A 回答 (48件中11~20件)

NO37のお礼、感謝です。



ちょこっと調べたのですけれども、
nirodha:of cessation of suffering(苦しむことが止むこと), extinction(消滅)etc
の意味のようですね。
《滅》や《止》、《断》の意味で使われるらしいです。

で、
離繋:to free oneself from binding(visamyukta, visamyoga, viyoga)
らしい。
visa(m):refuge
yukta:joined, yoked
yoga:yoking(繋ぎとめること)、ヨーガ

僕のnirodhaの語義解釈は、間違っていたらしい。
にしても、使えんな~、僕の辞書は。
使い方が悪いのかもしれないけれど、《nirodha》、出てないんだもん、困ったもんだ。
ということで、
bragelonneさんの辞書で《nirodha》を調べてもらおう!!



☆☆☆☆☆☆
~~~~~~
ヴェーダや動物の犠牲を否定し、
無神論者を惑わしたとかなんとか
書いてあるようです。
~~~~~~
世界の終末、カリ・ユガ(壊劫)の初めに、ヴィシュヌ神がゴータマブッダとして顕現・アヴァターラしたって奴でしょう。
これには、諸説、あるね~。
人々を惑わすために、ヴィシュヌ神がアヴァターラして、真実の宗教であるバラモン・ヒンズー教ではなく、偽の宗教である仏教を弘めたとか(笑い)。
ヴィシュヌ神、時々、人々から自分の真実の姿を隠すために、幻力・マーヤを使って、目くらましをするそうだよ。
世界を破滅へと向かわせる、破壊神カリも実はヴィシュヌ神の(負の)顕現だというしさ。
救世主カルキもビシュヌ神のアヴァターラなんだけれどさ。

Wikipedia ヒンドゥー教における釈迦・ヒンドゥー教聖典における釈迦
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%B3% …

とはいえ、現代のビシュヌ教においては、ゴータマ・ブッダは肯定的に扱われているね。仏教は、ビシュヌ教の一つと解釈されているようです。
そして、伝え聞くところによると、
現代のインドにおいては、ヴィシュヌ教徒とインドのブディストの間では結婚も珍しくないとのことですよ。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

もしかして、
命が持つ生命力こそがニルヴァーナを
否定しているのではないでしょうか。

なんとしてでも生きたいという衝動が
生物を生へと駆り立てる。

そして、死であるニルヴァーナと対立する。

お礼日時:2012/11/23 07:38

仏教学者の佐々木現順ですか。


阿毘達磨や唯識(とくに説一切有部と衆賢)の研究者ですよ。
で、たぶん故人。

僕は、レグスル文庫の「業の思想」を読み、仏教の基本思想である縁起と業についての考え方で、非常に強い影響を受けました。最初、読んだときには、「何、馬鹿なことを言っているんだ」と結構、反発したんですよ(笑い)。
でも、最近になり、ようやく「業の思想」に書いてある内容が理解できるようになってきました。

ネットで調べてみたのですが、どうやら、「業の思想」は現在、絶版になっているみたいですね。ちょっと信じられない金額(高い奴だと約六千円)で、中古本が扱われているみたいです。
内容に重複が多く、また、一般向け書籍としてはかなり難解な部類にはいりますが、仏教の《業》と《縁起》との関わり合いを明確に記述していて、非常にいい本ですよ、「業の思想」は。
今回提示した《縁起》の解釈のベースは、佐々木現順の「業の思想」によるところが大きいです。
仏教とシャクティとの関係についても、「業の思想」で述べていますよ。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます

仏教とシャクティの関係を調べようと思っても
シャクティだとヒンドゥー教やタントラばかりで、
なかなか見つかりません。

やっと見つけたと思ったら、すでに話題になった
indriyaでした。

jivitendriya(命根)

Indriya
http://en.wikipedia.org/wiki/Indriya

六根清浄の根もindriyaみたいですね。

それにしても、力への信仰と力の否定みたいなのが
あったんでしょうかね。

ニュートンのプリンキピアでも読めばいいのやら。


あと、おまけとして、
saktiで見つかったのがこのページなんですけど
ヒンドゥー教のデーターベースみたいでした。

http://vedabase.net/s/sakti

それで、ヒンドゥー教のŚrīmad Bhāgavatam
というのにブッダが登場していました。

Śrīmad Bhāgavatam 1.3.24
http://vedabase.net/sb/1/3/24/en

Śrīmad Bhāgavatam 1.3.28
http://vedabase.net/sb/1/3/28/en

ヴェーダや動物の犠牲を否定し、
無神論者を惑わしたとかなんとか
書いてあるようです。

お礼日時:2012/11/22 11:18

こんばんはです。


NO35と含めて、
bragelonneさんのNO34の質問に答えます。


わたくし、これから、恐ろしいことを口にします。
五月くらいから言うべきか、言わざるべきか、ずっと悩みつづけてきたことを口にします。
《仏教は、sakti(シャクティ・チカラ)イズムです》。
(ヒンズー教のシャクティイズムとはまったく違うので、その点は留意してください)
ゴータマが説いたとされる《縁起》にしてもsaktiイズムの一つに過ぎません。
縁・《pratitya》は、何々に向かって進む(to go toward)を意味する《prati-i》が語源だそうで、結果へ導く力・saktiが《縁》です。
その縁に引っ張られて結果が生まれる、現れる、それが《縁起》pratitya-samtupadaです。
《業》・カルマ(karma)にしても同様です。カルマに引っ張られて、その結果である心身が生じる。
阿頼耶識縁起の《種子・bija》は、すぐれた《力》・《sakti》(功能差別)と明確に定義されています。
行・サンスカーラ(samskara)、(潜在的)形成力もシャクティのことです。

なので、
~~~~~~
 (き) けっきょく《簡択力》とは 神のことではないだろうか?
~~~~~~
簡択力のサンスクリット語は知りませんが、たぶん、《チカラ・sakti》がついているのではないでしょうか。仏教はシャクティイズムであり、簡択力もその一種なので、まぁ、ある意味で《神》ということになるのではないでしょうか。saktiというのは、宇宙のすべて、森羅万象を生成・消滅させる力のようなものなので。
ただ、仏教がバラモン教などと異なっているのは、saktiを関係性の中でとらえるというところです。バラモン教は、基本的に自己原因(アートマンやプルシャ、プラクリティ)から自己展開するという考え方をします。なので、基本的に物質や現象の顕現には、仏教でいうところの外来的な《縁》は必要としないんですよ。でも、仏教は違う。自己原因は仮定しない。《縁》なるシャクティによって、生成・消滅が起きると考える。この《縁》を発見、発案したところが、ゴータマ・ブッダの偉大なところでげす。
なので、ブラフマンはともかく、個体原理であるアートマンという考え方は、仏教には基本的に不要なんですよ。シャクティですべてが説明できるので。シャクティだけあれば、十分。シャクティの存在だけを認めれば、十分なんですよ。

弥陀の本願、本願力にしても、結局は、不可思議なチカラ・シャクティでしょう。

オレ、恐ろしいことを口にしてしまったかな(ポリポリ)。
仏教学者の佐々木現順の影響を強く受けすぎているかな。

念のために、
仏教におけるシャクティは、関係性、相互依存性の中でのみ発生します。相互依存性が失われれば、シャクティは少なくとも現象界においては消滅します。



~~~~~~
 (く‐2) 浄土系では 簡択力は 神なのです〔(き)〕から アミターバと呼ばれる絶対他力のことだと考えられます。
~~~~~~
これは微妙ですね。あえて有神論的な言い方をしますけれど、簡択力は神の働きかけの一つの形にしか過ぎないと思います。絶対他力の一つの現れ、属性程度ではないでしょうか。



~~~~~~
 (く‐3) 易行門ではなくマハーワイローチャナなる神をいただく真言派は どうなのか? 無為=絶対他力のもとに自力修行であるのか? それとも( c )の命題そのままに受け継いでいるのか?
~~~~~~
絶対他力が何を意味するかによって答えは変わってくると思いますが、仏智や法身仏の光明、そして内なる仏の顕現、働きかけ、という意味ならば、YESなのでしょうね。



~~~~~~
 (く‐5) すなわち 《 Scientia est potentia. (知は力なり)》と《われ考える。ゆえにわれあり》〔のいくぶん誤解〕とが合わさって この場合はどうなんでしょう 理性力信仰になったのでしょうか。
~~~~~~
仏教でいう智慧は、理性とは無関係です。理性は、分別vikalpaの領域に属するので、完全否定されます。
じゃぁ~、正智や出世間智とは何なのかと言われると困ってしまいますが、ヨーガで得られる直覚知とされているようです。たぶん、《非思考の場》で成立する直観や直覚のようなものだと思います。



~~~~~~
 (く‐7) という一部分の世界現象が見られますが もし《簡択力》が そのようにいわゆる絶対自力として人のたのむところとなるならば それは どのような世界現象をもたらしたと言うべきでしょうか?
~~~~~~
あくまで、理性で仏教をとらえようとする眠り猫には、うかがい知ることができない領分です。なので、パス。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

検索してもウィキペディアにも項目がないし
佐々木現順とはどんな人物なんですか?

ねむりねこさんがそれほど強い影響を受けている
仏教学者とは一体?

お礼日時:2012/11/21 21:45

かざみどりさん、NO33のお礼ありがとうございます。


そして、こんばんはです。


☆☆☆☆☆☆
簡択(けんちゃく):prati-samkhya
択滅(ちゃくめつ):pratisamkhya-nir-odha
は、サンスクリット語というそうです。

samkhya:数える
 何のことだ? バラモン教の有力哲学学派のサンキヤ学派は、確かに《数論派》というな。。。。。。
sam:together 一緒に
khya:make known 知らしめる
prati:against, toward ホニャララに向かって
 ますます分からない。
nir-odha(ニローダ);out of being united with ホニャララ
 束縛からの離脱を意味するのか? 《離繋(りけ)》とかいう奴だな。。。。。。
使い方が悪いのかもしれないけれど、役に立たんな、僕の使っている辞書(ブツブツ)。

サンスクリットからのアプローチに失敗したので、唯識の本・《法相二巻鈔》より引用。
─────────
 簡択の力に依てもろもろの雑染を滅して、究竟して証会するが故に、択滅無為と名づけ る。簡択と云ふは智慧也。雑染というは煩悩也。証会と云ふはよく明に知る也。

 (真如は)簡択の力によってさまざまの雑染を滅して証会されるものであるから、択滅無 為と名づける。このうち簡択とは智のこと、証会とは明らかに知ることである。


択滅無為

 真如を見ることが目的であるが、ではどのようにすれば真如を見ることが できるのか。それは、心の中にあるさまざまな汚れすなわち雑染(煩悩)を無漏の智慧の働きである簡択の力によって滅し、煩悩からの束縛をまったく離れたと きに真如を見ることができる。このように真如は簡択の力によって煩悩が滅することを通してえられるから、その意味で真如を択滅無為という。したがって択滅 とは詳しくは「択力によって得られた滅」(択力所得滅)といわれる。雑染とは本文でも釈されているように煩悩のことであるが、また総じていえばあらゆる有 漏法をさす。真理を覆う汚れである漏を有する存在が汚れを取り除くためには清らかな無漏の智慧をもって有漏なるものを滅してゆかねばならない。その無漏の智慧のことを別名、簡択(pratisamkhya)とよぶ。 簡択と簡び択るという意味で、何が功徳となり、なにが損失となるかを正しく決定的に観察する智慧の力をいう。〈究竟して証会する〉の証会とは本文で〈証会 と云ふはよく明にしるなり〉と注釈するように、塵一つないない明浄な心で真如そのものを徹底的に最終的に明らかに知ること、見ることである。真如は心の本 性である。それを覆う塵をヴェールをどの程度取り除くかによって真如の現われ方にも差異がある。心のなかからありとあらゆるヴェールを除去するとき、真如 の満月はその全貌を心の中に現わす。そのヴェールの覆いを解くのが無漏の簡択力である。
 (横山紘一 唯識とは何か・法相二巻鈔を読む 春秋社)
─────────
これは大乗の唯識学派(法相宗)の択滅に対する考え方なので、全仏教共通というわけではないので、ちょっと補足します。
いわゆる小乗では、苦集滅道の四諦を一つずつ悟ることによって、その都度、《出世間智》・真なる智慧、《無漏の智慧》が得られ、煩悩みたいなものがが滅するというような考え方をするみたいですね。

で、
prati-samkhya:選び取る、選択するの意味になるらしいです。
しかし、どっからこんな意味が出てくるんだ、不思議だ。

それはそれとして、
nirodha(二ローダ)の原意を見るかぎりにおいては、《止》も《滅》も出てこないような気がするんですよ。
《nirodha》は、《離繋》・《繋ぎとめるものから離れること》、つまり、煩悩や欲望からの離脱、またはその状態の意味合いが強いと思います。

なお、《四聖諦》(arya-satya)の《滅諦》は
nirodha-satyaですよね。 (satya:真理・真実)
《滅》という漢訳語に問題があるんじゃないですかね。
繋ぎとめるモノがない。空っぽ→empty→sunya《空》とでも訳せば、深みと建設味のある議論が出来たものを。。。。。。

ゴータマは、生きたまま《空》を体得した。
成道以前から、もともと《空》であったのだけれど、その《空》を体現した。
《空》だっけ、普遍だ。永遠の存在だ。
そして、誰しも《空》であり、そこから万人の成仏可能性も引き出せる。
なんて、如何がでしょう?
《空》だから、縁(現在ある心身を構成した前世のカルマ・業)が尽きれば、体も心も、この世からきれいさっぱりなくなる。
有余涅槃だ無余涅槃だという小難しい議論もする必要がなくなると思うんですがね~。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

空ですか。困ったなあ。
正直、空の思想はゴータマ・シッダッタの
悟りではないと思いますよ。

ただ、これ以上、空を批判すると
なんだかんだ荒れるからなあ。

私としては、空は縁起を拡大解釈したもの
くらいですかねえ。

お礼日時:2012/11/21 20:59

 ねむりねこさん たいへん貴重なブディズムの内容およびブディズム観をおそわりました。

まことにありがとうございます。
 かざみどりさん そのため貴重なご質問の場を拝借いたしました。まことにすみません。

 真理の探求は なおやみません。
 よろしかったら おしえてください。命題を立てるかたちで 断定口調になりますが。


 まづ 真っ先に今回おそわって鍵を握ると思ったことば 《簡択力》をかかげます。これでブディズムのすべてについて見通しが立つというものです。と見ました。この用語は知りませんでした。

 簡択力はあとにまわしますが:

 (か) 次のように《ふつうの人の道》にもとづくかぎりで――またそれが よいと思われるので―― ブディズムとしてのブディズムは 解体されるでしょう。と見ます。

 ◆(回答No.33) ~~~~~
 大乗ブディストにとって、《悟り》や《不死》などは、ど~でもいい問題なのではないでしょうか。
 一緒に苦楽を共にする規範師が菩薩でしょう。六波羅蜜などの小難しい議論を抜きにして、菩薩はこの世に実在しうるんですよ。なろうと思えば、今すぐに誰でも菩薩になれるんですよ。心がけ一つでです。
 わたしは、ブッダよりも、こちらに価値を置きます。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまり
 (か‐1) わざわざ《目覚めた(ブッダ)》と言う必要はない。《ひと》であればよい。

 (か‐2) 《思いやり・たすけあい・相身互い身 あるいは 情けは他人の為ならず(≒利他行)》で済む。

 (か‐3) これはスサノヲイズム(市民主義)である。スサノヲ市民なる存在の中に 倫理としてのアマテラス人格語も知識としてのアマテラス科学語も潜在力としてそなわっている。これが つまり《スサノヲ土壌に根を張って育つアマテラス樹木》志向 これが スサノヲイズムである。

 (か‐4) 《思いやり》においてスサノヲ市民は インタスサノヲイズム(縁起共生)をこころざす。

 (か‐5) さもないと 一方でブッダを観念的に絶対化した偶像崇拝となるか それとも開き直って 本覚思想として 現世絶対主義になるかだと考えられます。

 (か‐6) おそらくその意味で――つまりブッダの神格化とぼろくそ化の両極に振り切る愚を避けて―― ボディサトワなる概念がそれとしての行為形式として考え出されたのではないか? でも餓鬼畜生なるスサノヲ市民が それは・つまりボディサトワなるわざは ほんの少し・つまり自分より一秒だけ先に他人のことを思いやるならば 成就しうる人間の行為である。つまり インタスサノヲイズムである。

 (か‐7) ブッダ・イズムは 要らない。





 (き) けっきょく《簡択力》とは 神のことではないだろうか?

 ◆ (同上) ~~~~~~~
 ( a ) この《簡択力》というのは、《有為法》ではなく、《無為法》に分類されます。

 ( b ) この《簡択力》を実体視すれば、《如来蔵》とか《仏性》と呼べなくもないのかもしれません。

 ( c ) そして、この《簡択力》は、万人が有しているはずなので、人間みずからが持てる能力によって《悟り》を得て《不死》になるということになるのでしょう。

 ( d ) これは、説一切有部の説であり、ひろく大乗にも共通する考え方です。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち
 (き‐1) ( a )により――《無為》あるいは《法身》でしょうか―― 簡択力は 《非経験の場》である。つまり 神である。

 (き‐2) 《場》というのは あたかも電磁場のごとく チカラのハタラキがあると見立てての用語である。

 (き‐3) ( b )また  ( c )《この〈簡択力〉は、万人が有しているはずなので》により それは スサノヲ市民それぞれにそなわった《思いやり》の心だと捉えられる。

 (き‐4) 思いやりの心に 色をつければ 《身と心にやどる神の霊》であり《ブッダター(仏性)》であり あるいは《慈悲・愛》である。

 (き‐5) ただし ( c )の《人間みずからが持てる能力によって〈悟り〉を得て〈不死〉になるということになるのでしょう》なる命題については 疑義が出る場合があると思われる。これを 項を改めて見てみたい。




 (く) 人は神になれない。と思われる。

 ◆ ( c ) この《簡択力》は、万人が有しているはずなので、人間みずからが持てる能力によって《悟り》を得て《不死》になるということになるのでしょう。

 (く‐1) おそらく端的に言って ここでは解釈において いわゆる自力聖道門と他力易行門との違いが現われ そのふたつに分かれるのではないでしょうか?

 (く‐2) 浄土系では 簡択力は 神なのです〔(き)〕から アミターバと呼ばれる絶対他力のことだと考えられます。

 (く‐3) 易行門ではなくマハーワイローチャナなる神をいただく真言派は どうなのか? 無為=絶対他力のもとに自力修行であるのか? それとも( c )の命題そのままに受け継いでいるのか?

 (く‐4) ブディズムにおいては この( c )のようにあたかも絶対自力というかのように説いていても それほどいわゆる理性力信仰というほどにはこの《簡択力》信仰ではないと思われるが そのあたりは どういう個別の事情や社会一般の情況だと見られるであろうか?

 (く‐5) すなわち 《 Scientia est potentia. (知は力なり)》と《われ考える。ゆえにわれあり》〔のいくぶん誤解〕とが合わさって この場合はどうなんでしょう 理性力信仰になったのでしょうか。
 
 (く‐6) スサノヲの用いるふつうの・あやまちうるスサノヲ人間語の中におさまると思われた《ただしい》アマテラス科学語が一人歩きしてしかも神のごとくあがめられるに到った。か?

 (く‐7) という一部分の世界現象が見られますが もし《簡択力》が そのようにいわゆる絶対自力として人のたのむところとなるならば それは どのような世界現象をもたらしたと言うべきでしょうか?

 (く‐8) おおよそのこととして 理性力は 空のかなたにも地や海の底にまでも行こうとする絶対自力による爆走をもたらしましたが  簡択力は一向にそういううわさは聞きません。スサノヲイズムなる生活世界における思潮が与かってでしょうか 《ひとは神になれない》と かよわい声で 言おうとした時期があったでしょうか。

 (く‐9)  スサノヲ市民のインタスサノヲイズムにとっては 崇拝すべき偶像(アイドル)としてのカリスマは 要らない。のではないだろうか。なんでノーベル賞は ひとりの人に貢献を特定するのか? 餓鬼畜生たるスサノヲ市民の底力で行くよりないと思われる。のではないか? ちょっぴりインタスサノヲイズムをふりかけつつ。

 (く‐10) ニルワーナよ さようなら。おまえは 要らない。
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こんばんはです。




☆☆☆☆☆☆
~~~~~~
 (う) 人間は 有為法ですよね? 有為法なる人間が 《無為》ないし《有為法ではない》ところの《不死》に到ることが どうして出来るのでしょうか?
~~~~~~
伝統的な教学によれば、
《択滅(ちゃくめつ)》と《非択滅》によってということになるのでしょう。
《択滅》とは、真実を知った智慧の力・簡択(けんちゃく)力によって煩悩みたいなものが消えること。
《非択滅》とは、《簡択力》によらずに、縁の欠如によって現象が起きないこと。
みたいな意味です。

なぜ、簡択力によって、煩悩みたいなものが消えるのか。
これについては、「さぁ~」としか答えようがありません。
古代インドにおいては、智慧、知識vedaは力そのものであり、神や自然をも動かす力を有していると考えられていたので。
仏教においても、これは例外ではなかったといったところでしょうか。
文字通り、《Knowledge is power》なんですよ、古代インドにおいては。

──────
家の作り手よ!汝の正体は見られてしまった。汝はもはや家屋を作ることはないであろう。汝の梁はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。心は形成作用を離れて、妄執を滅ぼし尽くした。  (154)
 中村元訳 ダンマパダ 岩波文庫
──────

家の作り手というのは、パーリ語の《tanha・たんはー》、サンスクリット語の《trsna・トリシュナー》で、妄執とか渇愛と訳されますが、(ヨーガによって)その正体を見破ると、智慧の力・簡択力によって力を失ってしまうらしいです。

さすがに、ゴータマ滅後の仏教においては、このような楽天的な思想はなくなり、ヨーガによって、煩悩などの現象の真実の姿を如実に観察し、丁寧に長い時間をかけて煩悩の原因を一つずつ潰してゆくといったような考え方になりますけれども、それでも基本は、智慧の力、智慧の摩訶不思議な力や光によってです。
世俗道徳的に言えば、悪の根源を知って、その悪を二度と行わない、防悪によって悪果・苦果の原因を断つと言ったところでしょうか。その積み重ねにより、いずれはその煩悩から自由になれる、でしょうか。



~~~~~~
 (え) もし
 ◆(回答No.31) ~~~~~
   ☆ 輪廻転生としての再生を断つこと これが さとりとして 不死であり永遠ということでしょうか?

 ゴータマ仏教においては、YESでしょう。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ ということでしたら 人間がみづから持てる能力によって《さとり》を得て《不死》になるということになりますか?
~~~~~~
この《簡択力》というのは、《有為法》ではなく、《無為法》に分類されます。
この《簡択力》を実体視すれば、《如来蔵》とか《仏性》と呼べなくもないのかもしれません。
そして、この《簡択力》は、万人が有しているはずなので、人間みずからが持てる能力によって《悟り》を得て《不死》になるということになるのでしょう。
これは、説一切有部の説であり、ひろく大乗にも共通する考え方です。



~~~~~~
 (お) そうではなく・つまりゴータマ仏教ではなく
 ◆(回答No.31) ~~~~~
 いいんですよ、大乗のブディストは、未来永劫、ゴータマ・ブッダのように悟れなくても。
 《大悲の一闡提》、これぞ大乗のブディストの目指す最終境地でいいんじゃないでしょうかね。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ という場合には 《不死》やそれにかかわる《さとり》は どうでもよい。こうなりましょうか?
 この場合こそが
 ★★(趣旨説明欄) ニルヴァーナにいつでも入ることができるのに いつまでも入らない仏
 ☆ ということになる。この理解でよろしいでしょうか?
~~~~~~
これはあくまで個人的な見解ですが、
大乗ブディストにとって、《悟り》や《不死》などは、ど~でもいい問題なのではないでしょうか。
一緒に苦楽を共にする規範師が菩薩でしょう。六波羅蜜などの小難しい議論を抜きにして、菩薩はこの世に実在しうるんですよ。なろうと思えば、今すぐに誰でも菩薩になれるんですよ。心がけ一つでです。
わたしは、ブッダよりも、こちらに価値を置きます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

参考になりそうな資料を見つけました。

サンスカーラ(自己形成力)と、ニローダ(止あるいは滅)の話です。
どうやら仏教は、このニローダを
止と解釈するか、滅と解釈するかで結論を変えてきたようです。
しかもニローダは両方の解釈ができるので、
わざとニローダという言葉を使用して
結論を出すのを回避してきたのかもしれません。

仏教史の謎を巡って
http://ypir.lib.yamaguchi-u.ac.jp/yp/file/551/20 …

さらにはこんなのも。

以下引用。

27

「教え」のページの3で書いた涅槃と解脱との違いについて、別の面から述べます。「滅」と訳される元の言葉は「ニローダ」です。この言葉には、実は2つの意味があります。「滅」と「止」です。「止」の意味だと解釈すると、四諦は、苦諦・集諦・止諦・道諦となります。もちろんこれは適切ではなく、四諦はやはり苦諦・集諦・滅諦・道諦でなければなりません。でなければ、教えの根本が骨抜きになってしまいます。

では、滅諦の元のことばに、なぜ「ニローダ」を選んだのか。なぜ「止」と誤解される可能性のあることばを選んだのか。当時も今も、インドでは、「ニローダ」ということばは、「止」の意味で使われることのほうが多いはずなのに。

実はここに、意図的な選語を感じます。生物である以上、涅槃に到達しても、苦を完全に滅することはできません。せいぜい一定のレベルで止めることができるだけです。その次の段階である死に至ってはじめて、苦を滅することができるのです。そこで両方に解釈することが可能なことばが、あえて選ばれたわけです。

涅槃に到達しているはずのゴータマ・バガヴァットが、体のみならず心の面でも苦を滅しきっていないと思われる言動があったことについて、たとえば体の調子が悪いときに目の前に立っていた弟子に「どけ。」と言ったことなどについて、後の仏教者たちは、説明するのに苦労しているようで、難しい理屈を考え出したりしています。

実は難しく考える必要はなく、ゴータマ・バガヴァットは、死ぬまでは、滅諦ではなく、止諦の状態であっただけのことです。

http://page.freett.com/ry/essay.html

お礼日時:2012/11/21 07:46

 ご説明いただきたいへんありがとうございます。




 《よき生徒》ですので 質問をいだきます。



 (う) 人間は 有為法ですよね? 有為法なる人間が 《無為》ないし《有為法ではない》ところの《不死》に到ることが どうして出来るのでしょうか?

 (え) もし
 ◆(回答No.31) ~~~~~
   ☆ 輪廻転生としての再生を断つこと これが さとりとして 不死であり永遠ということでしょうか?

 ゴータマ仏教においては、YESでしょう。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ ということでしたら 人間がみづから持てる能力によって《さとり》を得て《不死》になるということになりますか?


 (お) そうではなく・つまりゴータマ仏教ではなく
 ◆(回答No.31) ~~~~~
 いいんですよ、大乗のブディストは、未来永劫、ゴータマ・ブッダのように悟れなくても。
 《大悲の一闡提》、これぞ大乗のブディストの目指す最終境地でいいんじゃないでしょうかね。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ という場合には 《不死》やそれにかかわる《さとり》は どうでもよい。こうなりましょうか?
 この場合こそが
 ★★(趣旨説明欄) ニルヴァーナにいつでも入ることができるのに いつまでも入らない仏
 ☆ ということになる。この理解でよろしいでしょうか?



 ぶしつけになっているかと思いますが よろしくお願いいたします。

この回答への補足

しかも今回も誤字がありました。
訂正します。

誤:解答

正:お礼

補足日時:2012/11/21 08:05
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

no.28の補足欄ですが誤字がありました。

誤:ゴサ・アンギラサ

正:ゴラ・アンギラサ

Neminath
http://en.wikipedia.org/wiki/Neminath

補足欄も解答欄も埋まって訂正できなかったので
こちらで訂正しました。

お礼日時:2012/11/21 08:02

こんばんはです。


NO29にお答えします。



☆☆☆☆☆☆
~~~~~~
 (あ) ゴータマの成道が 中途半端な状態であったとしたら 梵天勧請は愛嬌だとしても 《このさとりは ふつうの人には理解することはむつかしい。説いても理解され得ないであろう》などと考えたというのは ちゃんちゃらおかしいとしか思えないのですが そこは どのように説明されていましょうか?
~~~~~~
これはまた無茶な要求をなさる(笑い)
ブディストならば、《ゴータマ・ブッダの悟りはまだまだ浅い》など、口が裂けても、言えないでしょうに(笑い)。
しかし、仏教の辿った思想史の流れを見れば、答えは出ていると思います。
ゴータマ仏教が仮に完全なモノ、完全な体系であったとしても、所詮は出家者のためのオシエです。万人救済のための教えにはなっていません。出家者と世俗信者の間には、断絶があります。(世俗信者の最高は、せいぜい、神・devaとして生まれ変わることですので)
大乗仏教が、こうしたことへの疑問、反省点から出発しているのは、疑う余地のない事実です。
そして、大乗のブディストが目指すのは、ゴータマブッダではなく、世俗の中を這い回る《菩薩》です。涅槃に入り、活動性を失ったゴータマ・ブッダなど意味がない存在です(あえて極論してみました)。
こうした観点に立てば、仏伝の伝えるゴータマ(のオシエ)は、部分否定されるべきである、と考えています。

いいんですよ、大乗のブディストは、未来永劫、ゴータマ・ブッダのように悟れなくても。
《大悲の一闡提》、これぞ大乗のブディストの目指す最終境地でいいんじゃないでしょうかね。

ゴータマ・ブッダの教えは、《声聞》や《独覚》のための教えですから、その意味で、まだまだ浅いんじゃないでしょうか。
日本仏教の教主は、歴史上に実在したゴータマ・ブッダではなく、神格化された釈尊ですし(笑い)。




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 (い) もし命( jivita )・命根( jivitindriya )あるいは 寿( ayus )が 《実法》ではあっても縁起にしたがう無常なるものだとすれば 《不死》という命題(?)は どうなっていましょうか?
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仏教の《実法》という概念は、小乗と大乗では大きく異なるので、難しいんですよね。しかし、共通点としてあげられるのが、概念的思惟ではなく、眼識~身識の前五識で直接認識できるモノが《実法》ということ。説一切有部は、実法としているようですが、命や命根、寿命は、感覚器官で直接認識出来ないので、仏教の認識論的な立場からすると、経量部などが指摘するとおり、概念的な思惟によって仮設された《仮法》とするべきなのでしょうね。。。。。。
と細かい議論は抜きにして、
ゴータマ仏教における《不死》の概念は《有為法》ではない、ですよね。
《有為法》でないから、生成・消滅をしない。それが《寂滅》ということ。
生成・消滅をもはや繰り替えさないから、それは永遠であり、《不死》であるということ。
輪廻という軛からの永遠の脱却。
そして、悪く言えば、《灰身滅智》。
スッタニパータやダンマパダなどを見る限り、これを越えてはいないと思うのですよ。
そして、小乗の最高の境地である阿羅漢もそうですし、この方向性は、ゴータマ仏教本来のモノであって、決して小乗が隠棲主義や自利に走ったからではなく、ゴータマ仏教からの当然の帰結だったと思うのですよ。
もちろん、永遠のブッダという思想、つまり法身思想が、消極的ながらも小乗部派の中から生まれているのは事実なのですけれども。


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 輪廻転生としての再生を断つこと これが さとりとして 不死であり永遠ということでしょうか?
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ゴータマ仏教においては、YESでしょう。
大乗との不断の格闘・競争がなかったTheravadaの姿を見ていると、たぶん、そうなんじゃないでしょうか。これがゴータマもしくは原始仏教の本来の姿のような気がします。


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 あるいは 《不死ないし永生ないし復活》という概念は ないと言うべきでしょうか?
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《不死》はともかく、《永生》という思想はないと思います。
《生まれた》ものは例外なく死にますので、どこかで《再生》してその後永遠にいきるという思想は、ゴータマ仏教にはないと思います。
ブッダがこの世界へ《復活》するなどは論外でしょう(笑い)。
それでは、涅槃に入っていないことになってしまいますので。

とはいえ、ダンマパダなどにも
 つとめ励むのは《不死》の境地である (21)
  中村元訳 ダンマパダ 岩波文庫
という記述などがあるのも事実です。
こうした文をどのように解釈するか、悩ましいですね。
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 ねむりねこさん ご説明をありがとうございます。



 さっそくですが それではとあらたな問いをいだきましたので おそわりたいと思います。

 二点です。


 (あ) ゴータマの成道が 中途半端な状態であったとしたら 梵天勧請は愛嬌だとしても 《このさとりは ふつうの人には理解することはむつかしい。説いても理解され得ないであろう》などと考えたというのは ちゃんちゃらおかしいとしか思えないのですが そこは どのように説明されていましょうか?



 (い) もし命( jivita )・命根( jivitindriya )あるいは 寿( ayus )が 《実法》ではあっても縁起にしたがう無常なるものだとすれば 《不死》という命題(?)は どうなっていましょうか?

 輪廻転生としての再生を断つこと これが さとりとして 不死であり永遠ということでしょうか?

 あるいは 《不死ないし永生ないし復活》という概念は ないと言うべきでしょうか?
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こんばんはです。


ノートパソコンのキーボードにコーヒーをこぼし、パソコンが死にかけたもので、No27の質問への返答が遅くなりました(ポリポリ)。



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 ☆ (1) ブディズムが変化して来ている。ということでしょうか?

 (1-1) ゴータマの成道は いったい何だったと捉えればよいのでしょう?

 (1-2) 真理についてこの上のない知識と知恵と境地を得たのではないのでしょうか?

 (1-3) もしオシエの内容に変遷があったと認めたばあい けっきょくどういうオシエに行き着いていると受け取ればよいのでしょう?
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(1) ブディズムが変化して来ている。ということでしょうか?
ブディズムは、時代とともに変化している。そう考えるのが自然だと思います。
それがいいことなのか悪いことなのか、それはよって立つ立場によって変ると思いますが、時代の要請によってブディズムが変化することは当然のことだと考えます。
仏教思想史的に言っても、原始仏教→部派仏教→大乗仏教(→密教)と、ゴータマの教えに端を発した仏教は進化していきます。
こうした思想的潮流は、ゴータマ仏教の矛盾、限界の克服のためであったと考えています。

(1-2) 真理についてこの上のない知識と知恵と境地を得たのではないのでしょうか?
建前としては、そういうことになっています、はい。
しかし、それは信仰としての釈尊です。実在したゴータマなる人間が全知者であったと考えるのは無理があるでしょう。ゴータマが三明六神通などの超能力を有していたなど、わたしは考えていません。
ただ、真理が苦の本質、その苦からの超越の方法という意味であったのならば、おそらくゴータマは発見したのでしょう。


 (1-3) もしオシエの内容に変遷があったと認めたばあい けっきょくどういうオシエに行き着いていると受け取ればよいのでしょう?
ゴータマ仏教の問題点の解決、限界の克服なのではないでしょうか。
アビダルマは、ゴータマが残したとされる仏典をもとに、その教説を組織、系統化しました。その際、当時最先端であった医学、科学、論理学などを仏教に取り入れ、ゴータマ仏教のリファイン化を行っています。
大乗においては、新たな空観と利他精神、菩薩思想をその教えの中に導入しました。
僕は、仏教のそうした方向性は決して間違っていないと考えています。
ですが、三法印や四法印は最低限守ってもらわないと、それは仏教ではなくなってしまいますね。この枠を飛び越えると、それは仏教でなくなってしまう(笑い)。
と同時に、祖師仏教と化してしまった日本の仏教に強い不満を感じています。
《祖師無謬》、一体、いつになったら、この考え方から脱却できるのやら。。。。。。



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 (2-1) 《もともと――現象としてはあったが―― そのモノとしては仮りのものだったので 言ってみれば初めから なかった。》ということなのか?
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《仮り》という言葉の意味が問題ですよね。
で、仏教でいう《仮り》には、おそらく二つの意味があると思います。
ひとつは、一時的なもの、無常なもの、temporaryの意味。
そして、《実法》ではなく、概念設定されたもの、つまり、《仮法(けほう)》の意味。これは、原子などが寄り集まって、出来たモノとする見方です。
どちらも、縁起所生の法なのですが。。。。。

で、《火》とは何だ?
それは、原子(仏教で言うところの原子です)が集まってできたもの。
(《火》そのものは、仏教の四大元素の一つ《火(大)》ではないです。この区別は重要です)
なので、第一の意味からしても、第二の意味からしても、《火》は《仮法》ですわね。
《火》は《仮法》だからと言って、ないワケでないですよ。《非法》(誤った認識から生まれたもので、そもそもないモノ)ではないので。それはチャンと目の前に存在します。
だから、《初めからなかった》ということにはならない、と思います。
ただ、「燃料が無くなった、縁が消滅したから、《火》という現象は消えてなくなった」と、仏教では、こんな風に考えます。


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 (2-2) それとも 《あると見止めることのできるモノは それとしてある。なくなったモノは もうない。のだから どうなったのか?と問うことがおかしい。つまり その場その場でそのつど 認識は変わるのだ。そのときの認識こそが 認識すべきことであり それ以外には知る必要はなく 知ろうとすることはおかしい》ということなのか?
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まぁ、そういうことですね。
《火》は縁によって生じ、縁の欠如によって消滅した。
縁起所生の法である《火》が、消えた後、どこに行ったのか、聞いても無意味ということです。《火》は《仮法》なので。。。。。。
説一切有部的な原子論の立場に立てば、集まっていた原子が離散しただけ、ということになります。



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 (3) 火にしても燃料にしても薪にしてもジヰティンドリヤなる命根にしても 無我なのか? 非我なのか?
 
 (3-1) 有為法であるならば 無我である。つまりそれに実体はない。ということなのではないか?

 (3-2) つまりもしそうなら(無我なら) 火にしても燃料や薪ないしジヰティンドリヤなる命根にしても 仮りにあるときもあれば なくなるときもある。すべて縁起として起きているに過ぎない。という説明になるのではないか?

 (3-3) それとも ひょっとして《いのち》は ブッダター(仏性)としてのごとく アートマンではないが それとひとしいチカラであるところのやはり霊である。のであろうか?
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この質問に答える前に、まず、アビダルマ倶舎論における《命根》の考え方を紹介します。
ヴァスバンドゥ著のアビダルマ倶舎論によれば、
《命根》は
 命が生命(機能)である  (2・45a)
 体温と意識を保持するものである  (2・45ab)
と定義されています。
現代的な用語で言えば、身体の恒常性機能といったところでしょうか。
したがって、《命根》(jivit-indrya)は、いわゆる《霊魂》と呼ばれるものとは違う概念のようです。

なのですが、倶舎論にはこの論拠として、仏典からの引用があります(出典までは分かりません。調べてみます)。
──────
命と体温と意識がはなれるとき、身体は投げ出されて倒れる。知覚のない材木のように
──────
「命と体温と意識が《はなれる》」です。
私には、
「身体からはなれた後も、《命》と《体温》、《意識》の存在していることを前提にしている」ような印象がしますが。
(玄奘訳では《捨てる》になっています。サンスクリット原典ではどうなっているんでしょうね)
ゴータマはともかく、仏伝作家には、こうした意識があったのかもしれませんね~。仏伝作家のほとんどは、おそらく、バラモン階級出身者であったと考えられるので。
さぁ、実際のところは、どうなんでしょう。

なお、ダンマパダにも似たような記述があります。
──────
ああ、この身はまもなく地上に横たわるであろう───意識を失い、無用な木切れのように、投げ捨てられて。  (41)
中村元訳 ダンマパダ 岩波文庫
──────

さらに余談ですが、実は、ウパニシャッドにこれと同じような記述があることはあるんでげす。
──────
これらの神格(語・眼・耳・思考力・気息)は自己の優位について言い争っていたが、 彼らはこの身体から出て行った。それ(身体)は呼吸せず、乾燥して、木片のように横たわっていた。
──────
ただ、似ているだけなのか、仏伝作家がこうしたウパニシャッドの記述をもとに参考にしたのか、どうなんでげしょ。



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 (3-1) 有為法であるならば 無我である。つまりそれに実体はない。ということなのではないか?
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有為法ですから、無我ということになる。。。。。。
と言いたいのですが、説一切有部の考えでは、一概にそうと断言できない面があると思います。
説一切有部の考え方によれば、たぶん「《命根》は、実法」なんですよ。説一切有部は、《命根》を《仮法》ではなく、《実法》つまり実体(svabhava)を有していると考えていたのではないでしょうか。
案の定、世親は、自著アビダルマ倶舎論の中で、こうした説一切有部の考え方に経量部からの反論という形で、《命根》は仮法ではないのかという批判を展開しています。
「行為・カルマが体温と意識を保持するものであるのではないか」と。。。。。。
説一切有部の実体観、難しいんですよ。この現象界とは別にイデアの世界のようなものがあって、それが縁によってこの世に現出するといったような考え方をするので。その意味では、説一切有部の縁起観は、華厳の縁起観にすこし近い。
しかし、縁がなくなれば、それは現象界から消える。だから、縁起で作られたもの、有為法。。。。。。たぶん、こんなロジックなのではないのかと。。。。。。
(3ー2)には、説一切有部的な立場から答えていますよね。


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 (3-3) それとも ひょっとして《いのち》は ブッダター(仏性)としてのごとく アートマンではないが それとひとしいチカラであるところのやはり霊である。のであろうか?
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説一切有部においても、《命根》は生理機能なので、ブッダターやアートマンのようなものではないと考えられていたと思います。
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