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ニルヴァーナにいつでも入ることができるのに
いつまでも入らない仏というのが

大乗仏教になるとかなりでてきます。
ゴータマもそうです。

この、

できるけど、しない。理由は何ですか?

その思想的な根拠はありますか?

A 回答 (48件中41~48件)

かざみどりさん、bragelonneさん、こんばんはです。


No7の回答にあったnirvanaの語源と意味を調べました。



~~~~~~
 ニルワーナは 《 nir-(=nis-): out, away ―― vana:blowing 》という作りで 自動詞としての《 to blow out 》だと言います。
~~~~~~
《to blow (out)》は自動詞のようですが、英文法で群動詞とかいう奴で、他動詞の意味を持つみたいですよ。「blow out ホニャララ」で、「ホニャララを吹き消す」の意味でしょう。


で、nir-vana意味は
──────
Nirvana (Sanskrit: निर्वाण, Nirvāṇa; Pali: निब्बान, Nibbāna; Prakrit: णिव्वाण) is the state of being free from both suffering and the cycle of rebirth. "Nibbāna" is a Pāli word that means "blowing out" — that is, blowing out the fires of greed, hatred, and delusion.
【眠り猫訳】
ニルヴァーナは、再生の苦しみと循環から解き放たれた状態である。
”Nibbana”は「吹き消す」を意味するパーリ語の単語である。すなわち、貪欲《貪》、憎しみ《瞋》、そして、迷い《無明・(無)癡》を吹き消すことである。

http://www.tamqui.com/buddhaworld/Nirvana
──────
らしいです。


さらに、語源的には
──────
Etymology

Nirvana is a compound of the prefix ni[r]- (ni, nis, nih) which means "out, away from, without", and the root vâ[na] (Pali. vâti) which can be translated as "blowing" as in "blowing of the wind", and also as "smelling, etc".

The Abhidharma-mahavibhāsa-sāstra, a Sarvastivādin commentary, gives the complete context of the possible meanings from its Sanskrit roots:

* Vāna, implying the path of rebirth, + nir, meaning leaving off' or "being away from the path of rebirth."
* Vāna, meaning 'stench', + nir, meaning "freedom": "freedom from the stench of distressing karma."
* Vāna, meaning "dense forests", + nir, meaning "to get rid of" = "to be permanently rid of the dense forest of the five aggregates" (panca skandha), or the "three roots of greed, hate and delusion" (raga, dvesa, avidya) or "three characteristics of existence" (impermanence, anitya; unsatisfactoriness, dukkha, soullessness, anàtman).
* Vāna, meaning "weaving", + nir, meaning "knot" = "freedom from the knot of the distressful thread of karma."

http://www.tamqui.com/buddhaworld/Nirvana
──────
らしいです。
これも日本語にしないといけないのだろうか。訳すのはチョロいけれど、書くのが面倒くさい。それ以前に、日本語にするとかえって分かりづらい。
この英文の、眠り猫による適当な日本語訳をどうしても読みたいという誰かからのリクエストでもあれば、日本語に訳すのにやぶさかではないのだけれど。。。。
この英語ページ、googleなどの自動翻訳機能を使って翻訳した日本語訳、たぶん、とんでもない訳になると思うから、それを利用してみるのも面白いかも(笑い)

英語版のWikipediaもこの四つの語源説を紹介しています。
http://en.wikipedia.org/wiki/Nirvana

涅槃についての日本語版Wikipediaは、今回の質問に対してはまったく役に立たないね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%85%E6%A7%83
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この回答へのお礼

それでは、翻訳希望です。

それにしても、vanaに織るやにおいの意味があるなんて
驚きました。

それに火はでてこないんですね。

よくある、煩悩の火が消えた状態って説明は
言葉の意味からすると違うのですねえ。

お礼日時:2012/11/12 18:54

 ニルワーナは 《 nir-(=nis-): out, away ―― vana:blowing 》という作りで 自動詞としての《 to blow out 》だと言います。



 ▲(nirvana (n.) ~~~~~~~~~~
  http://www.etymonline.com/index.php?allowed_in_f …

 1836, from Skt. nirvana-s "extinction, disappearance" (of the individual soul into the universal),

 literally "to blow out, a blowing out" ("not transitively, but as a fire ceases to draw;" a literal Latinization would be de-spiration),

from nis-, nir- "out" + va- "to blow" (see wind ).


 ▲(wind) ~~~~~~~~~~
  http://www.etymonline.com/index.php?term=wind&al …

 "air in motion,"

  Old.English. wind, from Proto.Germanic. *wendas
(cf. Old.Saxon., Old.Frisian., Middle.Dutch., Dutch. wind,
Old.Norse. vindr,
Old.High.German. wind,
Ger. Wind, Gothic. winds),


from ProtoIndo-European *we-nt-o- "blowing,"
from root *we- "to blow"
(cf. Skt. va-, Greek. aemi-, Goth. waian, Old.English. wawan, O.H.G. wajan,
Ger. wehen, Old.Church.Slave. vejati "to blow;"
Skt. vatah, Avestan vata-, Hittite huwantis,
Latin. ventus, Old.Church.Slave. vetru,
Lithuanian. vejas "wind;" Lith. vetra "tempest, storm;"
Old.Irish. feth "air;"
Welsh gwynt,
Breton. gwent "wind").
 ~~~~~~~~~~~~~~

 自動詞としての《 blowing out 》は どう訳しますかねぇ。他動詞なら 《吹き消す》で済みますが。
 《気体を吹き出しつつ消え入る》というような意味合いですよね?


 じつは このような投稿は横やりですが Monier のサンスクリット辞典では nir-vana が出ていないんですよ。わたしが よう見つけないという可能性はありますが

  nir-: 外へ( out )・離れて( away )
  va :空気( air )・風( wind )

 があっても vana も nir-vana も出ていないようなんです。
 その意味で横やりになっても SOS として投稿しました。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

次の回答で、
ねむりねこさんが説明されています。

それにしても、
サンスクリットの辞書の問題がありますね。

仏教学者が使用するサンスクリットの辞書は
どうなっているんしょう。

使用する辞書で訳も変わっていきますよね。

お礼日時:2012/11/12 19:19

○ニルヴァーナの意味がわかれば多少なりとも理解できるでしょう。


ニル・ヴァーナは火「ヴァーナ」を消す「ニル」という言葉ですね。涅槃「ネハン」はその音読み当て字ですから漢字には何の意味もないのです。
では、「火を消す」とはですが、火とは欲望のことですね。人間の生存にはいろんな欲が必要ですから、例えば食欲、睡眠欲、色欲、名誉欲などなどですね。これ全部絶てば、当然、死んでしまいますよね。死んでしまってはなんにもなりませんね。
こういう坊さんもたまにいますね。断食して死にましたという坊さんですね。つい最近でもオームという団体がポアすれば救済出来るとかね。こういう狂った人が出てくるんですよね。
さて、本題に戻って、完全に欲望を消せば、それは死しかありませんので、死期がおとづれるまで待つとして、よく欲望を統御して生きるというのが仏教の修行者の道ですね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

ニルヴァーナと慈悲の危険性ですね。
他人を苦から解放してあげようという思想が
まさかテロになるとは。

お礼日時:2012/11/12 19:10

 親鸞について 問題提起です。




 《還相の仏》と言ったり《アミターバの信徒は すでに〔そのいまのままで〕如来とひとしい。弥勒でもある》と言ったりするのは あくまでオシエに合わせて方便として語っているのだという見方です。

 親鸞にあっては すでに人間はそれぞれみなブッダなのです。互いに《同朋》として存在しているというのみです。この一人ひとりの現実存在が オシエなる本質論議に先行すると見たのでしょう。


 女犯にいたるときには その女人になってやろうと何とか観音が親鸞に夢の中で言ったという。
 それは これも オシエにいちおう敬意を表しつつ合わせて方便として語ったまで。
 妻帯なる自然本性にもとづく人間の行為が オシエつまり戒律に後行するわけがないというのが 真意でしょう。
 律法は 罪の自覚をあたえるのみ。信仰――信心――が 戒律に後行するわけがありません。と。


 《さとり》に等正覚やら無上覚やら何やらかにやらがあってそれらがどうたらこうたらといった《本質論》など くそくらえという実存主義であった。のではないか?

 そういう意味で
 ★ ニルヴァーナを否定する思想
 ☆ であった。と見ます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

親鸞は実存主義ですか。
これは親鸞のことも勉強する必要があるようですね。

お礼日時:2012/11/12 19:07

~~~~~~


涅槃から戻ってくるってのが
とても気になったのですが、

まさか浄土真宗では涅槃に入った
ゴータマが復活するなんて考えていませんよね。
~~~~~~
これはねぇ~、阿弥陀浄土に往生した人はみ~んな、
次期仏陀である弥勒菩薩と同じ《一生補処》、もしくは《等正覚》という菩薩の位まで自動的に進むことができて、
その菩薩のくらいで死ぬ(?)と、
この娑婆世界や他の仏国土に人間として生まれ変わって、そこでゴータマブッダのように成仏するということなのよ。
そのことを、あるいは、その人のことを、真宗では《還相の仏》と呼んでいるのよ。
一度涅槃に入った人が復活する。これは絶対に仏教では許されない。そんなことが起こったら、仏教の教義は崩壊してしまう(笑い)。

でもさぁ~、
仏教の正統的(?)な教義からすると、阿弥陀浄土に往生した人が、その地で《一生補処》の境地に達した後も、死ぬ(?)までそこに居つづけるというのはちょっと問題があるのよ。
《一生補処》の菩薩の住処は、兜卒天と決まっているからさ。
「なんで?」という質問はなしだよ。そう決まっているんだから、これは仏教のお約束事!!

兜卒天
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%9C%E7%8E%87% …

一生補処と還相については
http://ww6.enjoy.ne.jp/~myouannji/houwa221.html

でも、ちょいと親鸞にケチをつけると、
菩薩の最高位は、《等覚》ではなく《妙覚》なんだわさ。
弥勒菩薩は、《等覚》あるいは《妙覚》、どっちなんだろうね。
ど~なんだろうね~、本当のところは。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

まあ、ゴータマが復活したら面白い気もします。

浄土で死ぬ?ってのがどうも
なんだかなあ、と。これ往生の欠点だと思います。

死んでまた死ぬというのは、輪廻からすると
当然なんでしょうけど。

また弥勒菩薩が問題になるのですか。

むむむ。

とはいえ正直、親鸞には詳しくないので
もったいないですけど、言及はパスします。

お礼日時:2012/11/12 11:39

 こんばんは。



 直接の関係はないのですが おもしろい見方を対照させるというこころみです。

 ▲ (パウロ:ピりピ書1:21-24) ~~~~~
 21:わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。

 22:けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。

 23:この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。

 24:だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 あまり好きな文章ではないのですが 或る意味で
 ★ ニルヴァーナを否定する思想
 ☆ につながるかにも見えます。

 おそらく問題は このパウロの考え方のほうが 分かり易く現実的であるように思えます。
 
 言いかえると どうもゴータマ・ブッダのばあいは はっきり言うならばうさんくさい。何で説法をするように心つもりをひるがえしたのか? これが分からないと思います。
 梵天を持ち出せば 説明できたというところも あやしい。
 
 問題は 人びとにその《さとり》の中身を伝えることができるか否かにあるのですから 梵天の勧請があろうがなかろうが それは関係しません。ゴータマが自分で決めることです。

 ニルワーナとは何か? なんて分からないから 躊躇したなどというもったいぶったかたちをゴータマは さとりの値打ちを上げるために使った。
 そうして最後まで さとりとは何かを説き明かさなかった。のではないでしょうか?
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

パウロも
「生きるべきか、死ぬべきかそれが問題だ」
と悩んだわけですね。

シェイクスピアでも読めば参考になるんですかね。

ところで、トンデモかもしれませんが、
ゴータマ・シッダッタのモデルになったシュラマナたちは
複数いて、その人々を仏伝作家たちは一人の

ゴータマ・シッダッタとして、創作した
という考えはどうでしょうか。

お礼日時:2012/11/12 11:48

例えば、


「仏説無量寿経」には、法蔵菩薩が仏に成るための修行に先立って立てた願の
第十八願に
「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念
  若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」
   【現代語訳】 わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、
     わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、
     もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを
     開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るもの
     だけは除かれます。

とあり、法蔵菩薩が阿弥陀仏となり、
この言葉どうり、念仏に帰依する全ての人が、浄土に転生し、そこから成仏するまで、
涅槃(ニルヴァーナ、仏界)の静寂で休むことなく、西方極楽浄土から
救済の光を全宇宙に放っておられます。
(親鸞上人は、「五逆 誹謗正法」の徒も、輪廻転生を重ね、いつかは阿弥陀仏の光に触れ、悔い改め念仏信者に
なるので、最終的にはすべての人に成仏の道が開かれる。
また、阿弥陀仏の導きで、成仏したものは、涅槃(ニルヴァーナ、仏界)で休んだ後、
再び浄土に戻り、還相の仏として、阿弥陀仏の手伝いをし、時には
再び菩薩として人間になり、人々を阿弥陀仏の信心に導く菩薩行をする
と説いています)

この回答への補足

涅槃から戻ってくるってのが
とても気になったのですが、

まさか浄土真宗では涅槃に入った
ゴータマが復活するなんて考えていませんよね。

補足日時:2012/11/11 18:06
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

阿弥陀仏が涅槃に入られたら困りますよね。
阿弥陀仏が死んでしまったらどうしようもない。

でも、涅槃から戻ってくるって凄い思想ですね。
復活ってことでしょう。

いや、輪廻なのかな。

お礼日時:2012/11/11 17:03

こんにちは。


今回はまた難しい問題ですね。


☆☆☆☆☆☆
~~~~~~
できるけど、しない。理由は何ですか?
~~~~~~
《慈悲》や《大悲》ということになるのでしょう。
ならば、《慈悲》や《大悲》とは、煩悩の一種なのではないのか。
大乗などでは、それは煩悩ではなく、仏の《徳性》とか言うようですけれども、どうなんでしょう。わたしには苦しい理論構成のように思えますが。。。。
法華経の如来寿量品のような《方便》説。。。。
これはこれでまた少し無理のある理論のように思えます。
唯識なら、これらの問題を解決できないことはないのですけれども、《仮現説》のようなものになってしまいますから、それはそれで問題があるのではないかと。。。。
仏身は本来的に一つであるけれども、衆生の能力・機根の差によって異なって見えるなので。



~~~~~~
その思想的な根拠はありますか?
~~~~~~
これは個人的な見解なのですが、
大乗で菩薩が必要だったのは、このためではないのかと。
現実態や現勢態として働くのは、仏ではなく、菩薩です。
菩薩は、衆生のすべてを救わなければならないという信念とみずから課した使命のために、煩悩をわずかに残しておきます。涅槃・ニルヴァーナに入り、寂滅しないようにするためです。
わたしは、仏にではなく、菩薩の中に大乗の崇高な精神を見出します。

というのでは、駄目ですか~(笑い)



☆☆☆☆☆☆
最近、《ニルヴァーナ・涅槃》と《(輪廻からの)解脱》は違う概念なのではないか、と思ったりもしています。
中村元説のように、《ニルヴァーナは心の安らぎ》でもいいのかななどと。
で、《輪廻からの解脱》は、その《ニルヴァーナ》の結果として死の際にもたらされる。すべては、原因と結果を同一視したことから起こった混乱なのではないかなどと。
ゴータマの出発点は、あくまで《苦》であり、その苦の超越であって、輪廻からの解脱ではないでしょう。
おっと、ここからはかなりアブナイ話になってしまう。
知らない顔、知らない顔!!
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

難しいですよね。
どうも涅槃というのは扱いに困る概念ではないかと
思うようになりました。
かといって完全に否定するわけにもいかない
のではないか、と。
ここらへんのジレンマが仏教には常にあるような気がしました。

だから涅槃をいわば棚上げできる
慈悲や菩薩というのは確かに便利だとは思います。

お礼日時:2012/11/11 17:00
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