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しかもそれで少ない方が勝った戦いです



 

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A 回答 (8件)

他の人も回答していますが、ムーミン谷のゴルゴ13ことシモ・ヘイヘさんつー人がたった32人で4000人のソ連軍を撃退したってことがあるそうです。


ちなみに戦力比だと125:1になります。
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人数差ですか。



人数比なら、シラノ・ド・ベルジュラックの戦いです。
何しろ、一人で120人を相手に戦い、勝利したのです
から、宮本武蔵も真っ青です。
もっとも、倒した敵は数人で、後は逃げてしまった
そうですが。

彼は鼻のシラノとして有名な人物です。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A9% …
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少々題目と違いますが。



・歴史上最も「劣勢を覆した戦」

合肥の戦い
曹操領の南方の要衝・合肥を巡って曹操と孫権の間で行われた戦い。
孫権率いる大軍勢が張遼・楽進・李典を大将とする少数の曹操軍に大敗を喫したことで知られている。

元寇
日本の鎌倉時代中期に、当時大陸を支配していたモンゴル帝国(元)及びその服属政権となった高麗王国によって二度に渡り行われた対日本侵攻の呼称

アレシアの戦い
紀元前52年の8月から10月にかけてガリア総督ガイウス・ユリウス・カエサル率いるローマ軍と、アルウェルニ族のウェルキンゲトリクス率いるガリア人連合軍との間で行われた戦闘

七年戦争
プロイセン及びそれを支援するグレートブリテン王国(イギリス)と、オーストリア・ロシア・フランスなどのヨーロッパ諸国との間で行われた戦争
オーストリアがフランスと同盟を結んだ外交革命、400万対8000万と言う圧倒的な人口格差など
当初プロイセンは敗勢を余儀なくされ、その命運も尽きるかと思われたが
プロイセン王フリードリヒ2世(フリードリヒ大王)の適切な戦争指導と、エリザヴェータ女帝の死によるロシアの離反によって
戦局は打開され、幸運にも戦争はイギリス・プロイセンの側に有利に帰着した

百年戦争
フランス王国の王位継承をめぐるヴァロワ朝フランス王国と、プランタジネット朝およびランカスター朝イングランド王国の戦い
ジャンヌ・ダルクがイングランド連合軍を撤退させ、救世主、あるいは聖女と称えられたのは有名

桶狭間の戦い
永禄3年5月19日(1560年6月12日)に尾張国桶狭間で行われた合戦。
2万5千といわれる大軍を引き連れて尾張に侵攻した駿河の戦国大名である今川氏真・今川義元に対し
尾張の大名・織田信長が10分の1程とも言われる軍勢で本陣を強襲し、今川義元を討ち取って今川軍を退却させた。
日本の歴史上最も華々しい逆転劇と言われる非常に有名な戦いである。

カンナエの戦い
アプリア地方のカンナエ(カンネー)で起こったローマ軍とカルタゴ軍の戦い
この戦闘でローマ軍はおよそ60,000名の死傷者(大半が戦死)を出した。
カルタゴ軍の損害は6,000名ほどであり、その大半は戦列中央のスペイン・ケルト兵だった。

殺戮の丘
冬戦争中のコッラーの戦いにおける丘陵地を巡る戦闘では、シモ・ヘイヘを含むフィンランド軍32人が4000人の赤軍を迎撃
拠点防衛に成功し、この丘陵地は“殺戮の丘”と呼ばれた。

コンキスタドール
コンキスタドール (Conquistador) とはスペイン語で「征服者」を意味するが、とくに15世紀から17世紀にかけてのスペインのアメリカ大陸征服者、探検家を指す。
少数の部隊でアステカやインカの大軍に勝利できた背景のひとつには
火器や剣、甲冑、騎馬兵(アメリカ大陸には馬がいなかった)など、ヨーロッパの科学技術の圧倒的な優位があった。

沖田畷の戦い
日本の戦国時代の1584年(天正12年)3月に肥前国島原半島(長崎県)で勃発した九州の戦国大名である龍造寺隆信と有馬晴信・島津家久連合軍の合戦
龍造寺隆信は島津の援軍を警戒した鍋島信生の諌めを聞き入れず、大軍(史書により18,000から60,000と開きがある)を率いて海路遠征し
有馬・島津勢8,000余と森岳城(島原城)付近の沖田畷で対峙した。
沖田畷の戦い

キューバ革命
ゲリラ12名VSアメリカの支援を受けた一国

昆陽の戦い
中国の新代の地皇4年(西暦23年、または更始1年)昆陽(豫州頴川郡。現:河南省平頂山市)における新軍と緑林軍との間の戦い

河越城の戦い
戦国時代に、武蔵国の枢要な城であった河越城の争奪を巡って、河越城周辺で争われた一連の戦い
河越城の戦いは、約10倍の兵力差を覆しての勝利として、戦史上高く評価されているものの、不明な点も多く更なる研究が待たれる合戦である。
河越城の戦い

泗川の戦い
慶長3年9月(1598年10月)、朝鮮半島の泗川で島津義弘率いる島津軍7千が明の武将董一元率いる数万(後述)の明・朝鮮連合軍と戦って撃退した戦い。
圧倒的な戦力差があるにもかかわらず、劣勢な島津軍が勝利した伝説的な戦いとして知られているが、明軍の数および死者数については資料ごとにかなりの差がある。
泗川の戦い

岩屋城の戦い
九州制覇を目指す薩摩の島津氏が、大友氏の家臣・高橋紹運が籠る岩屋城を落とした戦い。
島津からは総勢20000余人が出陣、対して岩屋城には763名の城兵が籠り徹底抗戦を行った。
紹運以下763名全員が討死、自害して戦いの幕は降りた。
一方、島津氏は岩屋城を攻略したものの多数の将兵を失ったため
態勢の立て直しに時間を要し、九州制覇という島津氏の夢が叶わなかった遠因となった。
岩屋城の戦い

彭城の戦い
中国楚漢戦争期の紀元前205年に項羽の楚軍と劉邦の漢連合軍との間の彭城(現在の江蘇省徐州市)で行われた戦い。
この戦いで56万の軍勢を項羽が3万の軍勢で勝利し、漢連合軍が大敗、解散へと追い込まれた。
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ロシア兵をシモヘイヘがやっつけたやつ

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川越の夜襲


桶狭間の戦い
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人数の比じゃなくて差であれば、日清戦争。

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日本vs朝鮮の応永の外寇でしょうか。



守る日本軍(対馬)600名、攻める朝鮮軍1万7千余。1:28。
日本軍は勇猛果敢に戦い、朝鮮軍を撃退したばかりか、長年賠償もさせました。

http://hoi333.blog.fc2.com/blog-entry-54.html

多勢に無勢ではテルモピレーの戦い(ギリシャvsペルシャ1:30)も有名ですが、ギリシャが負けています。
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スペイン人が南アフリカの原住民と戦って、インカだとかを滅ぼしたやつ。

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Q少数兵で大群を倒した戦い・・・

あまり歴史は興味がなかったので勉強していませんが、急遽必要になったので教えてください。
有名な歴史的人物で800の兵を抱える将軍が1200の兵を抱える将軍を
倒したという話があったと思うのですが、具体的に誰と誰の戦いだったでしょうか?
確か、800の方は相手が攻めて来るまでじっと動かなかったとか。相手の出方を見て行動したことが勝因となったという話だったと思うのですが。(兵の具体的人数は違っているかもしれません・・・)
豊臣秀吉とか明智光秀とかだったかな・・・

その勝因について解説してあるようなサイトがあれば参考になります。

Aベストアンサー

川中島は、上杉が補給に苦しみながらじっと動かずに待ち、武田が動き出してからその裏をかいたといわれています。上杉12000、武田20000のぶつかり合いながら、双方4000前後の損害ですから、上杉の戦上手が褒め称えられています。ただ結局最終的に撤退したのは上杉ですので勝ったとはいえないような気がします。

Q実際の合戦で大差の戦力差がある時

実際の合戦は、敵味方全勢力でせーのとやりあう関ヶ原の合戦みたいなものより、砦を落としあうような戦いが多かったと思いますが、たまに、たとえば長篠の砦みたいな武田軍の大部分に囲まれても500人くらいでへっちゃら、徳川秀忠の3万軍に囲まれて真田家50人でへいちゃらとか、あるようですが、なんでそんなことができるんでしょうか?


お詳しい方教えてください。

Aベストアンサー

「長篠の砦みたいな武田軍の大部分に囲まれても500人くらいでへっちゃら」
というのはやや事実誤認と思いますよ。

長篠の合戦の直前、武田軍の包囲攻撃を受けた長篠城は本丸だけに守備兵が追い詰められ、長篠の合戦で武田軍が敗走した後に長篠城を視察した徳川家康が「長篠城は城壁が武田軍の銃弾で骨組みだけになり、崩壊寸前の状態。良く持ちこたえた」と書状に書いているような有様でした。織田・徳川連合軍の救援がほんのわずか遅れれば長篠城は落城していたでしょう。

さて「戦国時代の合戦史で、数倍の攻撃軍で囲んでも城がなかなか落ちない」ことが往々にしてあったのは確かです。この原因は、簡単に言うと「日本には大砲がほとんどなかった」からです。

戦国時代の日本では、火縄銃については欧州からの伝来後に直ちに国産化が実現し、関ヶ原の合戦の頃には、欧州全ての国にある火縄銃より日本にある火縄銃の方が多かった、という説もあるくらいでした。

一方、欧州では既に製造技術が確立していた青銅・鋳鉄製の大砲の製造技術はほとんど伝わらず、大砲の国産化は非常に遅れていました。西欧諸国は「日本人に大砲と西洋帆船の製造技術は絶対に教えてはいけない」と足並みをそろえていたようです。

大砲がないと、城を攻略するのは容易なことではありません。城というのは通常は高い所に築いて火縄銃、弓矢、石などを豊富に用意して、攻め上がって来る敵兵を狙い撃ちするものですが、攻撃側が損害を省みずに次々に兵を送り込む「力攻め」を行わないと城は容易に落ちません。何しろ、大砲を打ち込んで城を物理的に破壊し、城兵を殺す手段が取れないわけですから。そして、戦国時代の大名は「徴兵制度を敷いて領民を召集令状一枚で集めてきて、『退却したら軍法会議で死刑』という軍律で縛って突撃させる」までの権力を持っていません。「損害を省みない力攻め」は容易に行えることではありませんでした。

よって、羽柴秀吉が行ったような「兵糧攻め」「水攻め」といった形で城を落とすか、武田信玄が行ったように、城に対して坑道を掘って「水の手」を絶ち、城兵の飲み水を絶って降伏させる、といった手段が取られました。

関ヶ原の合戦の頃になると、国産または輸入の大砲が合戦に用いられるようになり、

* 関ヶ原の合戦の直前に西軍が大津城を攻撃した際、本丸に大砲を撃ち込んで落城させた。

* 関ヶ原の合戦で、石田三成隊は大坂城から持ってきた大砲を有効に活用し、攻め寄せる東軍部隊を相手に最後まで善戦した。

* 大坂冬の陣で、東軍は大坂城に大砲での攻撃を行い、一発の砲弾が天守閣に命中して淀殿の侍女何人かを殺したことが「和議受け入れ」の大きな要因になった。

といったことが出てきました。

なお、関ヶ原の合戦に際して中仙道を進んだ徳川秀忠軍は大砲を一切持っていなかったようで、上田城を巡る戦いで大砲が使われた記録はありません。

「長篠の砦みたいな武田軍の大部分に囲まれても500人くらいでへっちゃら」
というのはやや事実誤認と思いますよ。

長篠の合戦の直前、武田軍の包囲攻撃を受けた長篠城は本丸だけに守備兵が追い詰められ、長篠の合戦で武田軍が敗走した後に長篠城を視察した徳川家康が「長篠城は城壁が武田軍の銃弾で骨組みだけになり、崩壊寸前の状態。良く持ちこたえた」と書状に書いているような有様でした。織田・徳川連合軍の救援がほんのわずか遅れれば長篠城は落城していたでしょう。

さて「戦国時代の合戦史で、数倍...続きを読む

Q大阪の陣のとき、豊臣方は負けずにすんだのでは?

大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

大阪城の守りは非常に固く、徳川方は大阪城の一番外型の堀の石垣に触れることさえできず、
真田丸では多くの戦死者を出し、戦いの最初のころは豊臣方が優勢だったと聞きます。

兵力としても徳川方20万だったのに対して、豊臣方は10万で、絶望的な差ではありません。

そこで活躍したのが、大砲だったと聞きます。
昼夜を問わず、4キロから6キロ先まで届く大砲を打ち、指揮官である淀の方を精神的に
追い詰め、和睦に持ち込んだと聞きます。
大砲はめったに当たることがなかったものの、運悪く居間に落ちたものが次女数人をバラバラにして、淀の方を恐怖させたとか、柱が折れたとか。

しかし、大砲が何発撃たれようが無限ではないのだし、滅多にあたらないため大阪城の防御力を下げたり、落城させたりするような威力まではなかったと思うので、私としては、最後まで戦っていれば豊臣方が勝っていたのではないかと思うのです。。
(運悪く、淀の方のいるところに弾が落ちて、命を落とす可能性もありますが、その確率は低いと思います。精神力の戦いだったと思います)

jこの考え方について、どうでしょうか?
ご意見等、お願いします。

大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

大阪城の守りは非常に固く、徳川方は大阪城の一番外型の堀の石垣に触れることさえできず、
真田丸では多くの戦死者を出し、戦いの最初のころは豊臣方が優勢だったと聞きます。

兵力としても徳川方20万だったのに対して、豊臣方は10万で、絶望的な差ではありません。

そこで活躍したのが、大砲だったと聞きます。
昼夜を問わず、4キロから6キロ先まで届く大砲を打ち、指揮官であ...続きを読む

Aベストアンサー

>大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

回答・・・難しいと思います。
特に兵糧攻めにあったらもたないかと。
毛利元就による尼子の月山富田城攻めのように、2年近くの兵糧攻めにあい敗北した戦例もあります。
大阪城もそうなる可能性があるかと。
それに長期間、兵の士気を維持できるかの問題もあります。
期待されていた豊臣恩顧の大名の多くは徳川方につき、味方は劣勢。その上、大砲を一方的に打ち込まれていては…
そもそも徳川方は真田丸での敗北後に神経戦を仕掛けるようにしています。
夜に鬨の声を上げたり、鉄砲をうちかけ大阪方を眠らせないようにし、さらに大砲での攻撃です。
兵の士気をどうやって維持するのか…

一方、徳川方は兵糧不足に悩まされた事もあるようですが、これは一時的な混乱という説もあります。京を遠く離れた遠方ならともかく大阪近辺は堺など港も多く商業地帯としても発展していましたから、兵糧の確保も一旦、道筋をつければそう難しくないかと思います。

ただし、豊臣方が籠城で持ち堪えるのは難しくても、作戦によっては勝てたのではないかと思います。

そもそも「夏の陣」でさえ、真田幸村と毛利勝永らの活躍により徳川方は叩かれ、家康本陣は崩れ、三方が原の敗戦以来、初めて馬印が倒され、家康も敗北を覚悟し切腹をしようとしたという話があるくらいです。
もし豊臣秀頼が出陣し全ての予備兵力を戦線に注ぎ込んでいたら…
もし明石全登の別働隊の作戦が成功していたら…
豊臣方は家康の首をとり状況は大きく変化し勝利する事ができたかもしれません。

そういう事を勘案すると、もし「冬の陣」においても、籠城するばかりでなく機を見て南の家康本陣に対し攻撃に出ていたらどうなったか…
徳川方は大阪城の四方を囲みました。
浅野、蜂須賀、鍋島、上杉、佐竹等は東、西、北に配置されており、南に徳川方の全軍がいたわけではありません。
確かに南の家康本陣は厚いです。前衛には前田、伊達、藤堂らもいました。
しかし、兵力の減った「夏の陣」でさえ正面攻撃で家康を追い詰めたのです。
ならば「夏の陣」より兵力の多い「冬の陣」において乾坤一擲の突撃を茶臼山の家康本陣に向け行えば、あるいは家康の首をとれたかもしれません。
ちなみに真田幸村は12月20日に家康本陣への奇襲を進言しましたが採用されませんでした。

「冬の陣」では籠城策よりも、籠城策からの野戦への転換ならば豊臣方にも勝利の希望はかなりあったのではないかと思っています。

>大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

回答・・・難しいと思います。
特に兵糧攻めにあったらもたないかと。
毛利元就による尼子の月山富田城攻めのように、2年近くの兵糧攻めにあい敗北した戦例もあります。
大阪城もそうなる可能性があるかと。
それに長期間、兵の士気を維持できるかの問題もあります。
期待されていた豊臣恩顧の大名の多くは徳川方につき、味方は劣勢。その上、大砲を一方的に打ち込まれていては…
...続きを読む

Q戦国時代と幕末の兵力

戦国時代には他国との戦いは万単位の軍勢が動きます。

しかし、幕末は戊辰戦争では百人単位、多くても五千人の軍勢しか各藩とも出してません。

これはなぜでしょうか、天下分け目の戦いなのに戦国時代とは数が少なすぎると思いますが。

この違いはなんなんでしょうか?

Aベストアンサー

理由の一つは、大勢の軍隊を動員する金が無かったからです。
幕府をはじめ各藩は、たいてい財政が火の車状態でした。
藩財政の改革に成功した薩摩藩・長州藩が幕末で大きな力をもったのも、
他の藩が貧乏であったのに比べ、薩長の両藩は財政に余裕があったからです。


二つ目の理由として、幕末の戦いは兵数よりも高性能な武器や効率のよい軍隊
組織など、兵数よりも軍隊の質が戦いの勝敗の分かれ目となったことが挙げ
られます。

戦国時代でも鉄砲は有力な兵器でしたが、幕末になると鉄砲の重要性はさらに
高まりました。

蛤御門の変で敗れた長州藩は、戦国時代さながらの旧式の武装しかもっていま
せんでしたが、その後長州藩は軍制改革を成し遂げ、連発が可能な元込め銃
をもち、世襲で元気を失った武士ではなく、鋭気溢れる農民や町人を主力と
した軍隊に生まれ変わります。

その結果、第二次長州征伐では、少数の長州藩の軍隊が、圧倒的多数の幕府軍
を打ち破るという大戦果を上げます。

鳥羽・伏見の戦いなど、その後の幕末の戦いでも軍隊の質が量を圧倒する状況
が続いたため、倒幕・佐幕の両陣営でやる気のある藩は、数を増やすことよりも
最新鋭の武器の購入や、軍制改革に力を注いだわけです。

理由の一つは、大勢の軍隊を動員する金が無かったからです。
幕府をはじめ各藩は、たいてい財政が火の車状態でした。
藩財政の改革に成功した薩摩藩・長州藩が幕末で大きな力をもったのも、
他の藩が貧乏であったのに比べ、薩長の両藩は財政に余裕があったからです。


二つ目の理由として、幕末の戦いは兵数よりも高性能な武器や効率のよい軍隊
組織など、兵数よりも軍隊の質が戦いの勝敗の分かれ目となったことが挙げ
られます。

戦国時代でも鉄砲は有力な兵器でしたが、幕末になると鉄砲の重要性は...続きを読む

Q戦国大名の最大版図

タイトル通りなのですが、戦国大名の最大版図の石高がどれくらいになったのかが大変興味があります。

関ヶ原後の石高はかなり有名なのですが、その前に最大版図を迎えた武将も多いと思います。

人数が多いですが下に書いてある武将の石高を教えて頂けると幸いです。


・伊達政宗
・北条氏直
・上杉謙信
・上杉景勝
・武田信玄
・徳川家康
・豊臣秀吉
・織田信長
・柴田勝家
・明智光秀
・長宗我部元親
・毛利元就
・毛利輝元
・島津義久


人数が多くて申し訳ありません。

よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

No1です
まだ出ていないところを書かせていただきますね。

柴田勝家(清洲会議後)
基本的には越前一国の領主でしかありませんから約50万石だろうと思います。清洲会議で北近江も柴田側の領地になっています。
ここで問題なのが、
佐々成政(越中)佐久間盛政(加賀)前田利家(能登)
この人達は信長亡き後、勝家の家臣と言い切れないところなんだと思います。単に「味方陣営」なのでしょう。その「味方陣営」まで含めるならば180万石くらいあります。

明智光秀
近江国滋賀郡と丹波一国をあわせると30万石を越える程度はあったようです。

上杉謙信
越後の半分程度が直接的に支配できているところなんだとは思います。
揚北衆と呼ばれる(本庄、色部、新発田)勢力は北越後の広大な範囲を領地にしていましたが、家臣という感じではなく「協力者」というイメージが近いです。勝手に外交したり人事権も及ばない状態でしたから。
そういう独立勢力を束ねて越後、北関東、越中、能登まで支配している感じです。最大版図は私もどこまで含めて良いのかさっぱりわかりません。
味方と言い切れない独立勢力が大勢いるということです。

信長、秀吉、家康のそれぞれの時代によって最大版図のとらえ方も様々に違っているようには思いますね。

No1です
まだ出ていないところを書かせていただきますね。

柴田勝家(清洲会議後)
基本的には越前一国の領主でしかありませんから約50万石だろうと思います。清洲会議で北近江も柴田側の領地になっています。
ここで問題なのが、
佐々成政(越中)佐久間盛政(加賀)前田利家(能登)
この人達は信長亡き後、勝家の家臣と言い切れないところなんだと思います。単に「味方陣営」なのでしょう。その「味方陣営」まで含めるならば180万石くらいあります。

明智光秀
近江国滋賀郡と丹波一国をあわせ...続きを読む

Q桶狭間の戦い 本当にあんな差があったのか?

今川義元4万五千(2万五千説もあり)
織田信長3千
なんて言われて、あらまぁ10倍の勢力と戦って、よく勝ったわね。なんて言われていますが、ちょっと待ってね、後年になりますが、太閤検地によれば

http://daiiti-web.hp.infoseek.co.jp/zatu001.htm

今川:駿河、遠江、三河で、約70万石
織田:尾張、57万石

だいたい、100万石で3万程度の動員力ですから、今川の2万五千は、いっぱいいっぱい、甲駿相三国同盟 万々歳の動員力です。
この時点で、信長の尾張統一戦は半ば(確か)上四郡の統一は終わっていたので30万石で一万くらいの動員力はあったはずです。

10,000ー3,000 七千はどこに行ったんだろう?

あるいは、後世にいかに信長がすごいかと、語るために少々少なめに伝えたのだろうか?

Aベストアンサー

たまたま今日、頼んでいた「愛知県史 資料編11 織豊1」が届きました(参考URL参照)。高いのでボーナス時期でしか購入できません…。この中に「特集 桶狭間の戦い」と題する史料集がありましたので、数字を拾ってみます。

「信長公記」
 ・織田:二千に不足(中島砦を出るとき)
 ・今川:四万五千
「三河物語」
 ・織田:三千
「道家祖看記」
 ・織田:二千あまり
 ・今川:六万余
「定光寺年代記」
 ・今川:一万人被打(討たれた人数)
「享禄以来年代記」
 ・織田:七百余
 ・今川:二万余
「甫庵信長記」
 ・織田:三千(善照寺の東に集結したとき)
 ・今川:四万五千
「足利季世記」
 ・今川:一万余
「家忠日記増補追加」
 ・織田:三千余
 ・今川:四万余

出典によって結構バラツキが大きいです。

織田/今川の大きな格差は、そもそも数字の比較対照が違っていると思います。

今川は総勢。大高城救援に向かった松平元康勢など各地に散らばった全ての兵数。

一方で織田は義元本陣に突入した一部の兵数。鳴海城・大高城を囲んだ丹下・善照寺・中島・鷲津・丸根の砦に陣する兵数は完全に除外されています。

私が思うに、二千・三千といった兵数は信長直轄の精鋭のみの兵数です。弟信勝と争った稲生の戦い(弘治二年・1556)のとき七百だった直轄軍を、永禄三年(1560)には二~三千にまで増強したのだと思います。

参考URL:http://www.pref.aichi.jp/kenshi/information/index.html#02

たまたま今日、頼んでいた「愛知県史 資料編11 織豊1」が届きました(参考URL参照)。高いのでボーナス時期でしか購入できません…。この中に「特集 桶狭間の戦い」と題する史料集がありましたので、数字を拾ってみます。

「信長公記」
 ・織田:二千に不足(中島砦を出るとき)
 ・今川:四万五千
「三河物語」
 ・織田:三千
「道家祖看記」
 ・織田:二千あまり
 ・今川:六万余
「定光寺年代記」
 ・今川:一万人被打(討たれた人数)
「享禄以来年代記」
 ・織田:七百余
 ・...続きを読む

Qもし現代人が江戸時代で1ヶ月生活するとしたら、何で困るでしょうか?

空想の話で恐縮です。

時代小説を読んでいて時々思うのですが、もし今の日本人がタイムマシンか何かで数百年前の江戸時代に戻り、そこで1ヶ月ほど当時の一般庶民の家に滞在するとしたら、何で困ると思われますか? あるいは何も困る事はないでしょうか?

例えば食事。 衛生状態は今ほど清潔ではなかったはず。 もしかして最初の食事で腹痛や下痢をおこし、ギブアップになるでしょうか? それとか味付け。 現代人の口に合うでしょうか? 我慢しないで1ヶ月食べ続ける事に何も問題ないでしょうか? それとか、今のように肉食はそんなにしなかったはず。 せいぜい鳥や兎の肉くらいでしょうか? あと、お酒もそうですね。 現代人に飲めますか?

匂い。 どうでしょうか? 当時の家の中や、町全体、一体どんな匂いがしていたでしょうか? そして1ヶ月間、現代人に耐えられるでしょうか?

風呂。 現代人が躊躇なく当時の銭湯に入れますか? 当時は毎日入っていたんでしょうか?

トイレ。 現代人に当時のトイレで大・小できるでしょうか? 特に女性の場合。

人によって感じ方が違うと思いますが、上に挙げた以外で 「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?

空想の話で恐縮です。

時代小説を読んでいて時々思うのですが、もし今の日本人がタイムマシンか何かで数百年前の江戸時代に戻り、そこで1ヶ月ほど当時の一般庶民の家に滞在するとしたら、何で困ると思われますか? あるいは何も困る事はないでしょうか?

例えば食事。 衛生状態は今ほど清潔ではなかったはず。 もしかして最初の食事で腹痛や下痢をおこし、ギブアップになるでしょうか? それとか味付け。 現代人の口に合うでしょうか? 我慢しないで1ヶ月食べ続ける事に何も問題ないでしょうか? ...続きを読む

Aベストアンサー

 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキのバケツではなく、木の桶で運びますから重たい。道具は何でも重たくて大変。飯炊きの釜や薬缶もアルミ製のものはありません。みんな鉄か瀬戸物です。
(4)カマドに火を着けます。火打ち石でやります。なかなか火が着かず難しいです。火吹き竹で空気を送り込んでやっと景気よく燃え出しました。飯を炊きます。一人当たり三匹の目刺をあぶります。
(5)雨戸を開けます。障子はみな紙です。ガラスではありませんので、吹き降りの日だと雨戸を閉めないといけません。昼間でも暗いです。
(6)家族そろって朝食。
(7)食器などを洗います。油の着いた食器を洗うのは大変です。ママレモンはありませんのでギトギトがなかなか取れません。水道の水でジャージャーやるわけのもいきません。
(8)井戸端で盥で洗濯します。これも大変です。

・・・女性は大変でしょう。田舎の明治生まれの女は、以上のようなことをやっていました。江戸時代とそんなに変わりません。電気(裸電球)とマッチだけが江戸時代よりマシなだけです。

>「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?
・・・夏場の暑いときに一ヶ月滞在すれば、参るでしょう。
・網戸がないので蚊に食われる。
・ハエがブンブン飛び回る。食卓の食べ物にハエがたかる。
・冷房や扇風機がないので暑い。雨の日は雨戸を閉めるのでこれも暑い。
・便所が臭く、人の体も臭い。
 夏場でいいことは、行水などで女性の裸を見る機会が多いことくらいかな。

 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキ...続きを読む

Q戦国時代以前の動員兵力

元亀・天正年間以降の合戦の動員兵力は、比較複数の記録が残っていたり、現在の研究結果から見てもそれほど誇張が大きくはないと思うのですが、南北朝以前から源平合戦の時代までの動員兵力には疑問に思う数字がかなり残っています。
以下いくつか例を挙げます。
・富士川の合戦(両軍合わせて7万、吾妻鏡は20万)
・奥州征伐(頼朝の幕府軍で公称20万以上、藤原氏も数万)
・承久の乱(幕府三方面軍計19万)
・弘安の役(日本軍12万、元軍14万)
・湊川の合戦(足利軍50万‥これはいくらなんでも)
・応仁の乱(東西合わせて27万)

疑問に思う理由は
・戦国末期、国内最大と思われる動員がかかったのは以下の3つの合戦
 (1)秀吉の小田原攻め(両軍合わせ25万)
 (2)関ヶ原の合戦(含む関連戦役)(両軍合わせ本戦線20万、東北戦線10万、九州5万)
 (3)大阪の陣(両軍合わせ30万)
 これだけの兵を動員するための兵糧生産力、兵糧運搬に関わる街道の整備具合、付随する武具等の製造能力、大量動員を可能にする軍制等、少なくても両軍合わせて10万以上の大軍を揃えるには相当の運用計画や条件が必要だと思うのですが、古代と対して変わっていないと思われる戦国期以前の街道状況や農業力で上記のような合戦でそれだけの兵力を揃えられたか?
当然、碌な武装も持たないでいただけの兵がかなりいた可能性は考えられます。

当時の人口や他状況から考えて、実際はこれくらいだったんじゃないか、又は事実それだけ動員は可能だった等ご意見をお願いします。

元亀・天正年間以降の合戦の動員兵力は、比較複数の記録が残っていたり、現在の研究結果から見てもそれほど誇張が大きくはないと思うのですが、南北朝以前から源平合戦の時代までの動員兵力には疑問に思う数字がかなり残っています。
以下いくつか例を挙げます。
・富士川の合戦(両軍合わせて7万、吾妻鏡は20万)
・奥州征伐(頼朝の幕府軍で公称20万以上、藤原氏も数万)
・承久の乱(幕府三方面軍計19万)
・弘安の役(日本軍12万、元軍14万)
・湊川の合戦(足利軍50万‥これはいくらなんで...続きを読む

Aベストアンサー

なんか 途中で計算違いしていた

鎌倉:700万
室町:800万
江戸初期:1300万

で、生産年齢数
鎌倉:350万
室町:400万
江戸初期:650万

で、その10%が動員マックスとして

鎌倉:35万
室町:40万
江戸初期:65万
===
瞬間的に農村から総動員できると考えると
動員可能性としては可能かも…
あとは 輜重問題ですが・・・うーん

秀吉の軍役が、近国100石で5名中国で3名くらいだったから、何とかなる数字だったのかなぁ、鎌倉期の動員数も。

Qリベラルとは?

・左派、革新、社会主義
・右派、保守
という分類ができると思うのですが、
リベラルや自由主義は、どう考えたらいいのでしょうか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共和党政策が旧保守主義(右派リバタリアン)で、それ以後を新保守主義(ネオコン)といい保守と名乗っていますが、実態は左派リバタリアン(左派が保守に転換し、現状を保守する為に革新的手法(戦争など過激な改革を許容する)を執ると言う主義)です。

 自由主義の反対となる統制主義も左派だと共産主義や社会主義、比べると右派に成るイギリスの「ゆりかごから墓場まで(高福祉政策)」などが有ります。

 簡単に言うと、積極的に変えようとするのが左派で、変わらないように規制するのが右派です。そして変える方向(変えない方向)が自由か統制かで分類できます。

 日本には明確に保守を謳う政党が無いので、イメージがわき難いのかも知れませんが…。
 (自民・民主党は中道で、共産党は左派統制主義ですから…。)

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共...続きを読む

Q戦国時代に乗っていた馬

戦国時代に武将たちが乗っていた馬はテレビとかでみて知っている 大きなものではなく
ずっと体の小さな馬だったと聞いたことがあるのですが 本当ですか?

だとしたら 迫力なくてしょぼい気がしますが…

Aベストアンサー

毎度どうもね。

諏訪湖の辺りだったかな、場所はちょっとうろ覚えですが、あの武田家の領地から戦国時代の馬の骨が出土したそうです。かなり丁寧に埋葬されていたそうで、馬といえども大切に扱われていたことがうかがえるそうです。
その大きさは、ほぼポニーと同じ。幕末の写真を見ても平均身長150センチの時代にまたがったら足がつきそうなほどだったので本当に小さかったようですね。
また、戦国時代当時は蹄鉄がありませんでした。だから、ワラで作った沓を履かせていたようです。ゆえにあまり無茶はできません。実際問題、当時の宣教師が残したものには「ヨーロッパの騎士は戦闘になると馬に乗るが、日本の武士は戦闘になると馬から降りる」と書かれてあります。馬ってのは基本的にかなり「高級な乗り物」なんです。皮膚が弱いので衛生状態をよくして世話してやらないとすぐ皮膚病になるし、水をちゃんと飲ませてやらないと便秘になってフン詰まりで死んじゃう。はっきりいえば、人間より手間がかかるんです。

さて、その日本の馬のしょぼさが明治近代陸軍の最大の問題になります。馬が小さすぎて物資や大砲を引っ張る駄馬はもちろん、騎兵馬がどうにもならない。しかも日本の馬というのは当時去勢されてなかったそうで、優秀な軍馬を集めようと明治陸軍が馬を一堂に集めたら、牡馬が一斉に盛ってしまって収拾がつかない大混乱になったと記録に残っています。
そのため、日本の内国産馬の育成の奨励のため競馬が行われるようになりました。JRAは元々は優秀な軍馬を育てるために発足したのです。
日露戦争でも、コサック騎兵で有名なロシアの軍馬に比べると日本の馬はかなり見劣りしたそうです。そのせいか日露戦争では騎兵同士の会戦というのはほとんど行われていません。日本軍があえて回避したようです。遡って日清戦争のときは「騎兵がしょぼい」のが悩みだったようです。
なにしろ、幕末の日本馬でもポニークラスなのに、それよりやや時代が古いナポレオンの軍隊の騎兵馬ときたひにゃ体重が800キロくらい(ちなみに今のサラブレッドが500キロくらいです)、こんなに大きな馬は日本ではばんえい競馬くらいです。重さ800キロが時速40キロくらいで突っ込んでくるんですから、ほとんど軽自動車が突っ込んでくるようなもんですわ。それを肉体で受け止めるスコットランド歩兵もどうかと思います。ワーテルローのネイ将軍の突撃は、さぞや迫力があったと思いますよ。

毎度どうもね。

諏訪湖の辺りだったかな、場所はちょっとうろ覚えですが、あの武田家の領地から戦国時代の馬の骨が出土したそうです。かなり丁寧に埋葬されていたそうで、馬といえども大切に扱われていたことがうかがえるそうです。
その大きさは、ほぼポニーと同じ。幕末の写真を見ても平均身長150センチの時代にまたがったら足がつきそうなほどだったので本当に小さかったようですね。
また、戦国時代当時は蹄鉄がありませんでした。だから、ワラで作った沓を履かせていたようです。ゆえにあまり無茶はできませ...続きを読む


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