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灯油ストーブが各部屋に普及するのはいつ頃なんでしょう

上流階級から庶民まで各時代の日本人はどのように寒さをしのいでいたのでしょうか。
素足で粗食、隙間風。
あるじ以下全員集合で囲炉裏ばた?
殿様もヌクヌクとはいかなかったのですかね。
日本人らしいですよね。何でですかね。日本人はケチ文化なんですかね。
私は暖房入れていないのですがこれでは冬に寿命が縮みます。昔をしのばれる状況です。
昔の人はどのくらい寒い思いをしていたのですか。平成の現代人には耐えられませんよね。


ご教授のほど宜しくお願いします。

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A 回答 (15件中1~10件)

こんばんわ。


bungetsuです。

お読みいただきありがとうございます。


>>行火も含めて炭にかかる出費は生活を圧迫したり無駄遣いとはされていなかったのでしょうか。

江戸時代は士・農・工・商と言われましたが、江戸市中を見る限り農業は0%、工業(鍛冶職、鋳物職など)は10%、商業は30%、後は、大工や鳶職などが10%、武士は軍事上の秘密から公表はされていませんが50%。

従って、江戸は一大「消費都市」だったのです。

さて、話を戻しましょう。

以外と思われるかも知れませんが、江戸の周辺には「炭焼き」が非常に多かったのです。

武蔵(八王子、川越、秩父など)・・・・東京都および埼玉県
伊豆、駿河、遠江(とおとうみ)・・・静岡県
相模・・・・・・・・・・・・神奈川県
甲斐・・・・・・・・・・・・山梨県
常陸・・・・・・・・・・・・茨城県
上野(こうずけ)・・・・群馬県
下野(しもつけ)・・・・栃木県
上総(かずさ)、安房(あわ)・・・千葉県
下総(しもふさ)・・・・千葉県の一部と茨城県の一部

「享保通鑑」という史料によると、享保11年(1726)に船などを使って江戸へ運び込まれた炭は89万9710俵、薪は1829万9687束とありますが、薪は当然のことながら、主に煮炊き専用でした。

前回も述べた通り、江戸では囲炉裏などで大々的に火を焚くことは禁じられていましたので、必然的に暖をとるためには炭に頼らざるを得ませんでした。となると、値がどんどんと吊り上ってしまいます。

そこで、幕府もたびたび炭の値段については「御触れ」を出し、庶民でも気軽に購入できるよう「価格統一」などを行いました。

しかし、薪に関しては、なぜかこの「価格統一」がされませんでしたので、大量に出回るにもかかわらず、結構な価格となってしまいました。

従って、炭は割合安く購入できたようです。ただし、備長炭のように長持ちはしなかったようですね。

まあ、長屋暮らしなどでは家計費を圧迫はしたとは思いますが、寒さにかえられなかったのではないでしょうか。

ご存じ、赤穂浪士の討ち入りで吉良上野介が隠れていたのが「炭小屋」でしたね。
武家は炭は安かったので、結構溜め込んでいたようです。



>>明治以降戦後についてもご存知であればご教授ください。


明治に入ってからは、近代化が進み、西欧諸国から工業技術を積極的に取り入れたため石炭の採掘に力を入れ始め、年間200万トン余りも生産されていた炭も火力が弱いために、10年も経たないうちに約6万トンの生産量・・・と言うよりも使用量に減ったと言われています。

そして、現在のように一般家庭で電気、ガス、石油が使われ始めたのは、何と、第二次世界大戦の後の1950年後半で、それまでの木炭(炭)、薪、石炭から電気、ガス、石油への転換が急速に進みました。
これを「燃料革命」と呼ぶ学者もいます。

この回答への補足

江戸城や江戸以外の武士も囲炉裏のようなものは無しですか。
中国や韓国の方が暖かかった?
冬を暖かくというのは最近の流れですね。それがエコと並行しているのだから落語有権者です。
ホットジャパン。


家計を圧迫したら革新的な変化があってもいいように思うのですが。素足で障子一枚のまま?食い物よりも炭代ですかね。
老若男女、馬鹿も利口も、障子一枚というのが解せません。
短命だったはずですよ。

補足日時:2012/12/29 17:27
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この回答へのお礼

ご丁寧にありがとうございます。とても勉強になります。
吉良は炭小屋でしたか。ドラマで炭を転がす演出でもあれば私の理解も深まったのですが。
今後ともご教授よろしくお願いします。

お礼日時:2012/12/30 10:59

こんばんわ。


bungetsuです。

>>江戸城や江戸以外の武士も囲炉裏のようなものは無しですか。

答えから先に述べますと「ありません」。

登城してきた大名も、詰所に詰める時、夏はともかくとしても、冬には座布団さえありませんでした。当然、火鉢などもありませんでした。また、行火などの持ち込みは厳禁でした。

また、弁当を食べた後、湯茶が飲みたければ、湯茶場へ行き、自分でお茶を淹れて飲みました。

どんなに偉ぶった大名でも、千代田城の中では、すべて公方さまの「家来」だったから仕方がありませんでした。

★江戸時代、「江戸城」とは呼ばず、「千代田城」または「舞鶴城」(ぶかくじょう)と呼び、庶民はただ単に「お城」と呼んでいました。
★良くTVなどで「将軍さまのお成り~」などと放映されることがありますが、「公方さま」と呼ぶのが正式。あるいは、略して「上さま」。TVの視聴率を上げるための所業。

なお、大奥には囲炉裏がありましたが、これは茶室で、使用するのはもちろん「炭」でした。


>>中国や韓国の方が暖かかった?

江戸時代の世界の気象状況は解りませんが、中国も韓国も日本より北に位置していましたので、おそらく、日本よりは寒かったと思います。


>>老若男女、馬鹿も利口も、障子一枚というのが解せません。

障子をバカにすることなかれ。

障子(戸)は紙一枚ですが、思っているより、夏は涼しく、冬は暖かですよ。


>>短命だったはずですよ。

少々、古い歌ですが、

昭和16年・武内俊子作詞・「船頭さん」の歌詞に、
「村の渡しの船頭さんは 今年60のおじいさん・・・・」
とあるように、昭和の初期でさえ、60歳で、もうお爺さん扱いです。

また、戦国時代の信長が好きだったと言われる舞で「敦盛」では、
「人生わずか50年・・・」

昨今では、65歳の定年制を導入しようとしていますが、60歳では、まだまだ現役バリバリですよね。

そして、小説などで江戸時代を扱ったもので、「はやり病」と一言で片づけられているものが多く見られます。

主に、「赤痢」、「コレラ」などがあげられますが、意外と口にしていないのが「インフルエンザ」だったのです。

江戸時代であっても、現代であっても、「寒いものは寒い」だったと思いますよ。

江戸時代には長寿番付などがありませんでしたので、どれだけ長生きをしたかの「統計」などはありませんが、
60歳を「還暦」と呼ぶように、60歳が人生の折り返し点。

そこまで生きれれば「長生き」と言われたのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

こんばんわ。なるほど。ありがとうございます。

中国や朝鮮の方が暖かったというのはあちらの方が防寒文明が発達していたのではという質問です。布団だかなんか忘れましたけど大陸での起源は防寒用のカーテンじゃありませんかね。障子じゃ話になりませんよ。紙コップのコーヒーですよ。特に雨戸のない障子窓の夜は。

日本中の武士が火鉢だってのが解せません。その心理が。別に江戸に合わせる義理はないでしょ。
戦国時代はどうなんでしょ。

寒さを無視する珍しい民族じゃありませかね。西洋じゃないでしょ。中国もそうだと思います。だから前のお礼文でも日本はケチケチかストイシズムの呪縛なのではと質問しておりますが。

お礼日時:2012/12/30 01:00

NO.5です、お礼をありがとうございました。


>動き続けるには高カロリーの食事が要りますし指先や足の裏など部分的に低温にさられ続けます。鼻を赤くしながら一日中マラソンできません
これは、ちょっと違うように思います。
マラソンランナーやF1選手が、持久力を保つために摂取するのは「炭水化物」だと聞きます。
炭水化物に加え、味噌や生姜、ネギなど「体を温める」といわれる食物は摂取出来たと思いますので、食事の面でのハンデはそんなにないんじゃないでしょうか。

>当時を再現されてみてドテラだけで暖かいと感じられるでしょうか。
基礎代謝は低いと思います。(お恥ずかしながら定期的な運動をしておりませんので)
暖房は、旦那さんの帰宅に合わせて深夜の零時前後からつけます。(つける前は6~9度くらい?)
部屋ではTシャツとカーディガン+ひざかけを肩にかけて過ごしております。
※肌襦袢、着物、ハンテンとすれば同じくらいかも?
帰ってくる頃に温かいご飯をと思い、晩御飯の仕度をするのは23~0時頃から。
その際に一枚多く着込みます。Tシャツと裏起毛のトレーナー、カーディガンという具合に。
水仕事を真夜中にすることになりますが、水道水です。平気です。
※裏起毛や厚手の部屋着があるとないとでは、かなり体感に違いがあります。
くつしたは好きではないので、普段は裸足です。
(深夜の台所は、キッチンマットがないとさすがに辛いですが)

代謝の低い私でも寒さに対抗を出来ているので、体を多く動かし代謝が高かったであろう昔の方ならば、寒さに「耐えられない」ことはなかったんじゃないかと思うのですが、質問者さんはどう思われますか。
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この回答へのお礼

ご丁寧にどうも。参考になります。今日は8度なり。
やはりキッチンマットですか。あなたが口先エコロジーの偽善者ではないことが分かります。
昔の女はキッチンマットなんかなかったですよね。戦前?明治以前は素足に板の間じゃない?長生きは出来ないよ。

カロリーは総カロリーが低かったんじゃないですかね。特に女は。
代謝というよりもキッチンマットですよ。暖房しないと抹消がやられるんですよ。
そして、動いた時の熱は保存できないんですよ。
動かない時の熱が代謝熱です。必要に迫られた自律神経に育成された昔の人の体は脂肪を溜め込まない体質だったかもしれませんね。脂肪は冬のためにあるとも言えるから昔の人の体は使ったのかも。体脂肪率が一年周期で上下する?土用の鰻を大晦日に燃やすみたいな。

水道水は手袋をしてですか?
スゴいね。20代?
エライと思うけど体力にまかせていませんかね。昔の人の老化が早いのも貧しい青春時代からではないかと。

お礼日時:2012/12/29 22:17

温石(おんじゃく)とか桐灰懐炉とか。


桐灰懐炉と言っても現代のとあるメーカが販売している使い捨てカイロのことではなく、
桐の木の炭の粉を固めた物を燃やすものです。
木炭懐炉と言った方がイメージしやすいかな。
温石は火の中に入れておいた石を布でくるんだものです。
石焼芋の石をイメージすればよいかと。
もう少し時代が下れば、ベンジンを白金触媒で分解・発熱させる
白金懐炉というものもありますね。


ちなみにうちは今も実家暮らししていたときも、暖房は使ってなかったですよ。
今の部屋は気密、断熱が少しはマシだけど、実家は隙間風だらけでした。
ウィンドブレーカを着込んで毛布にくるまっていましたけど。
冷えやすい足先は、胡坐をかいて膝の裏側に挟んで温めるといいですよ。
ケチと言うよりはそれが当たり前の環境で育っただけですから。
そういえば兄嫁が実家に泊まると「寒い」を連発していますね。
客観的に見たらそうなんでしょう。
慣れってこわいですね(笑

平成の現代人でも、秋から冬にかけて気候に合わせて
徐々に寒さに慣らしていけば 寒さでも耐えられるようになるはずです。
少々寒いと感じても暖房を入れないことがポイントかな。

徐々に寒さに慣らしていかなくても、
寒い中で生活していたら そのうち慣れて平気になりますよ。きっと
生物の適応能力を甘く見てはいけない。

この回答への補足

同感ですが、現在は生物の適応能力を発揮されないご生活ですか。
発揮したところが所詮どの程度かを熱増ししないようにしないと。

補足日時:2012/12/29 17:15
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

馴れはあります。
がしかし物理的・生物的な限界もあります。霜焼けや血行不順のような。

いろいろな欲得がありますが防寒に対しては熱意が足りない民族のような気がするのです。
寒さは耐えてきたというのが日本人の生活史でしょうかね。

お礼日時:2012/12/30 01:05

明治時代や大正時代のことは知りませんが、わたくしの子供時代は、”練炭堀コタツ”に、家族全員が集まっていました。


練炭のおかげで、長時間コタツに入っていると、必ずと言っていいほど頭痛になります。
一酸化炭素中毒で死ななかったのが不思議なくらいですが、皮肉なことに、その頃は、逆に隙間風に守られていたのかもしれませんね。(連桁付き8分音符)

台所仕事は火を起こすことから。
風呂は、薪割りから。


布団は、長年使用した、重くて硬い布団、硬いので冷たい。
布団に入って三十分くらいは、震えていました。
震えて、布団と体の周りに熱を蓄えるのです。(連桁付き8分音符)

粗食でしたね。
今、思い出しても不思議な、”灰色の肉のすき焼き”。
父が、どこかから手に入れてきたという肉?で、ときどき「すき焼き」をしてくれましたが、この肉の色が灰色。
噛むと、やたらに固くて、肉独特の甘みは無く、ほろ苦いのです。
あ~~あの肉は何だったの?



今思えば…笑えます。w
”足りない生活”から抜け出したい。
今の時代は、素晴らしい!(連桁付き8分音符)
この素晴らしい時代を知ってしまった我々は、いったいどうなってしまうんでしょう?
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

隙間がかなりあった証拠ですね。というか隙間だらけです。
古い家の断熱はエアコンの冷房の効きを考えると分かりますね。
熱源周辺が強力に温もっていたのです。電気ストーブとは違います。

素晴らしい時代に生きてすっかり偽善者になっています。頭に悪い。浅知恵で迷走する次第です。

お礼日時:2012/12/29 21:49

 


#1>今も耐えられますか。
我が家は炬燵だけですが、私は入りません。
だから私は暖房なしです。
リビングは11畳あり、リビングに続くキッチンは窓が開いたままなのでリビングにも風は入ってきます。
そのため夜の室温は15度程度、朝は10度以下になってます。

これくらいがちょうど良いです。
夏もエアコンは使いません、リビングでは扇風機を回しますが、私は扇風機の風が嫌いなので寝るときは団扇を使います。
 
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この回答へのお礼

同じくですが、手足の抹消の血行や冷えは大丈夫ですか。職人の手みたくなってませんか。
私は摂取カロリーが低いのですが食事は現代的に腹てんてんでしょうか。

我が家は高断熱住宅なので昼夜の温度差がありません。常に6度です。来月は4度になるでしょう。

エコブームどう思います?偽善も偽善ですよね。回答者さんにエコを強制する資格はないと思いますが付き合わされるでしょ。

お礼日時:2012/12/28 15:39

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

皆さん色々な素晴らしい意見が回答されているようですので、

私は「大江戸事情」についてお話ししましょう。

「家の造りやうは、夏をむねとすべし、冬はいかなる所にも住まる」
は兼好法師の「徒然草」の有名な一節。

つまり、冬は着込めば凌げるけれども、現代のように冷房器などありませんでしたから、夏の暑さから逃れるすべはないということです。

暖房として住まい全体を暖めるには囲炉裏が一番でしたが、江戸では火事が多発したため、囲炉裏で薪を燃やすことは禁じられていました。そして、農家から買い入れる薪も大変高価でした。

従って、深川芸者の置屋や舟宿には囲炉裏が設置されていましたが、炭を置く程度で暖房としての効果は全くありませんでした。

深川芸者などは寒さのあまり、お座敷では華美な着物で芸を披露しましたが、客待ちなどの時は、ありったけの着物を身体に巻きつけて寒さ凌ぎをしていました。そんな姿を見たら客も幻滅したことでしょう。

庶民は・・・と言うと、

まずは、せいいっぱいの厚着をして、火鉢に手をかざしたり炬燵に足を入れたりするていど。

火鉢には金属製、木製、陶器製などがあり、形は丸火鉢、角(箱)火鉢、長火鉢、提火鉢などがありました。

町屋でも、ある程度裕福な家では木製の長火鉢で、片側に猫板といわれる部分があり、茶器などを置くことができ、引き出しになっているので、小間物を仕舞うにも便利で重宝がられました。

では、熊さんや八っあんたちの長屋では・・・

江戸時代の初期の頃は、もちろん厚着をして、丼を大きくしたような鉢に灰を敷き炭を入れて、せいぜい手を暖める程度。
江戸も中期以降になると、陶器製の行火(あんか)が登場。どこへでも持ち運べるので大変な人気になりました。

そして、一工夫加えて、行火の上に蒲団をかけて何人もが手足を入れて暖をとることができるようになりました。また、辻番が好んで使用していましたので、別名「つじばん」とも呼ばれました。

さらに発明がされて、行火の上に現代のような櫓(やぐら)を置き、その上から蒲団をかける「櫓炬燵」が登場しました。
これにより、家族全員が等しく暖をとることができるようになりました。
しかし、現代のように「炬燵板」の考えがなかったため、茶器などの道具類が置けないのが難点でした。

狂歌に、
「四角でも炬燵は野暮なものでなし」
と詠まれたほどでした。

寝具:

江戸では、現代の掛蒲団にあたる「夜着」(よぎ)が一般的でした。
「夜着」は、袖と襟のついた大形の着物のような形で綿が入っていました。

上方では、元禄年間頃には敷布団よりも薄くて幅広い、いわゆる現代風の掛蒲団が庶民の間にも定着したと言われています。

また、「寝間着」といった独立した衣服は存在せず、昼間着ていた下着や肌着のまま寝るのが普通で、夜着も持てないような貧乏人は、ありったけの着物を身体に巻きつけて寝ましたので「寝間着」ではなく「寝巻」と書くのが本当。

次に、農家ですが、こちらは「囲炉裏」が一般的でした。

囲炉裏は局所的な暖房と思われがちですが、平屋造りなどであれば、結構、家全体が温まります。少々の隙間風でもさえぎってくれました。


さて、殿様(大名や公方さま)ですが、

冬用の綿入れの着物を着て、足袋を履きました。

暖房としては、火鉢しかありませんでしたので、ヌクヌクとは程遠いものでした。

しかし、例えば、戦国時代を見てみると、冬の戦いなども繰り広げられていて、陣中では篝火(かがりび)は焚きますが暖房のためではありません。

従って、「武士は食わねど高楊枝」
と言われるように、寒さ暑さに耐えることも武門のならいだったのです。
つまりは、「ひたすら耐える」だったのです。

この回答への補足

こんにちは。とりあえずこの冬一番の面白さです。

江戸時代は人間らしい暮らしだったという懐古趣味人はまずエアコン切っからでしょ。低栄養で火起こし行灯暮らしは日夜、死との戦いですよ。私は寝巻き状態ですが寝るまでに暖がないのと既に体が保冷ボックスと化しているから極寒なのです。
布団自体があんなものなのに近代的なんだ。熱源が重要だという裏返しですね。実は人類史において燃料などは安いものであり続けたという事ですかね。寝巻きの私はバカみたいですね。

それにしても同時進行に衣類を開発した方が賢くはなかったのでしょうか。値が張っても金持ち向けを手始めに商品普及してよさそうな。西陣織があるくらいなのですから。なぜ日本中、防寒に関心が低いのか。朝鮮や大陸の方がしっかりしてると思いますが。

武士のケチさが利いているわけだ。役所はエアコン撤去してウォームビズです。
しかしなぜ大名クラスもボンボン燃やして暖をとろうとしなかったのでしょうか。ストイシズムの呪縛ですか。江戸時代の武士道が大事だったような気がしてきました。鎌倉・室町時代は囲炉裏みたいに火を焚いていたのでは?一日中寒くちゃ体壊して動けませんよ。

行火も含めて炭にかかる出費は生活を圧迫したり無駄遣いとはされていなかったのでしょうか。
明治以降戦後についてもご存知であればご教授ください。

補足日時:2012/12/28 15:26
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ANo6です。



雨戸は日没後に閉め、朝になると開けてましたが、雨戸の開け閉めは、私や弟が小学生になってからは私と弟が交代で行ってました。

なお、雨戸の内側は「木枠のガラス戸」で廊下を隔てて障子戸の部屋でしたから、雨戸の戸袋が室温に影響することはなかったと思います。

また、部屋同士は襖での間仕切りでしたが、我が家の父親(機械技師)は子供の頃は建具職人になりたかったぐらい工作が得意で手先が器用でしたので、襖や障子戸の隙間は自ら修正してましたから隙間風は我が家では無縁でした。

ちなみに、昭和40年代半ば頃には、私は都内(大田区)の電子専門学校に通うために大田区内で約2年間借りた6畳1間のボロアパートは家賃が安かったせいか、安普請の造りで火の気がないと冬は寒かったですが、この頃には「赤外線式電気炬燵」と反射式電気ストーブを使って寒さを凌いでました。

従いまして、昔も現代も「建物の造り方」で家屋の保温性は全然違うと思います。
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この回答へのお礼

具体性のあるご回答ありがとうございます。

戸袋は回り廊下に開口していという意味です。雨戸を閉めた夜などはそこが二重になっていません。

ボロアパートは火の気がないと寒いでしょうが旧家は火の気がなくても暖かかったでしょうか。同じ熱量を消費したらボロアパートも大丈夫ではありませんか。寝室は回り廊下に囲まれていませんよね。屋外との隔離に関してアパートと同じ配置図ではありませんかね。

熱容量の差はあるでしょうね。
旧家は暖まるまで時間がかかりますでしょ。

戦前戦後にどこにも熱源がなくて暖かい家があったでしょうか。

お礼日時:2012/12/29 17:11

ANo6です。



「渡り廊下」は建物同士を繋ぐ廊下のことでしたね。

部屋の周りの廊下は「回廊」で、我が家ではL字型の廊下がありました。

そして、夜間は悪天候でなくても「雨戸を閉めて」ましたから、現代の二重窓住宅みたいに室内は厳しい寒さにはならなかったです。
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この回答へのお礼

貴重な実話と補足有り難うございます。
昼間は雨戸閉めないでしょ。
冬の縁側は寒いですよ。壁じゃないのですから。それと戸袋がツーツーなんですよ。
全てが夏向きです。断熱ではなくて、熱源があってこそですよ。
光熱費というか熱源が屋内にもたらすカロリーは昔だから少なかったという事もないのですかね。
里を離れた江戸っ子や大正の勤労者は震えた下宿生活のイメージがあるのですが。

お礼日時:2012/12/28 01:37

こんにちは。



私は、昭和20年代半ば生まれなので昭和20年代後半頃からの記憶しかありませんが、当時の我が家では「掘り炬燵」と「火鉢」が冬の主な暖房器具でした。

掘り炬燵の中には火鉢が入っていて燃料は「炭(木炭)」または「練炭」を使ってましたが、昭和30年代前半にニクロム線式の「電気炬燵」を使うようになりました。

その後、昭和30年代半ば頃に「対流式石油ストーブ」を我が家では使うようになり火鉢は使わなくなりましたが、小・中学校の暖房器具は石炭を燃料とする「達磨ストーブ」でしたから、当時の子供達は小学生でも「石炭の熾こし方」は手慣れたもので、日直当番になると早目の時間に登校して手際良く石炭を熾こして教室内を暖めてました。

そして、昭和30年代後半になると石油ストーブが普及し始めて、石油ストーブを使う学校や商店などが多くなりましたが、熱量の大きい対流式石油ストーブが主流で「家庭用の反射式石油ストーブ」が普及し始めたのは、昭和40年代半ば頃からです。

なお、昔の木造家屋は「渡り廊下」が当たり前のようにあり、壁は土壁でしたが、渡り廊下が外気との緩衝材の役目をしてたことで障子や襖で間仕切りした部屋でも意外と暖かく冷たい隙間風が入ることは我が家ではなかったです。

また、冬季の大人達は足袋(たび)を履いたり、褞袍(どてら)や丹前(たんぜん)を着たり、子供達はセーターやジャンパーを家の中でも着てたので意外と寒さは感じなかったです。

ちなみに、私の父親(故人)は明治43年生まれで、母親は大正9年生まれで92歳になった今でも健在ですから、大正時代や昭和初期の生活の様子などをリアルに聞いてますが、冬季の暖房の様子は昭和30年頃までと殆んど変わらないようです。

実際に、昭和30年頃に母方の実家がある会津地方に祖父(明治12年生・故人)や祖母(明治15年生・故人)に冬季の雪深く積もる会津地方に蒸気機関車に乗って遊びに行った記憶では、祖父は長火鉢の傍で煙管煙草を吸い、祖母は大きな竈のある台所に薪をくべて煮炊きをしてましたから、明治・大正時代も同じように厳しい寒さを堪えての生活ではなかったようです。
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この回答へのお礼

この度は大変ご親切なご回答ありがとうございました。
今後とも宜しくお願いします。

お礼日時:2012/12/30 10:53

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Q江戸時代の人はどうやって寒さをしのいだ?

今夜合気道の稽古に行きました。
寒かったです。

すると、稽古の後にある人がこう言いました。
「昔の人はどうやって寒い冬を過ごしたんだろうね」

私「ダウンとかないですよね。藁をかぶって寝てたんでしょうか」
「じゃあ戦のときはどうやって寝たんだろう」
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昼間は広いところで戦っても、夜は農民の家や納屋で寝たのでは?」

「そんなに都合よく寝るところが見つかるかな。テント張ったのでは?」
私「無理です。大将は天幕張ったかもしれないけど、雑兵は無理でしょ」

「寒いけど我慢したのかな」
「我慢できるとは思えません。寒すぎますって」

すると別の人が言いました。
「江戸時代とか、かけ布団はなかったらしいよ」
私「そりゃ死にますよ。服を何枚も重ねたのですかね」

さて、実際の農民や戦場の武士はどうやって寒さをしのいで
寝ていたのでしょう?

Aベストアンサー

江戸時代と農民と戦場の武士とは、時代も条件も違いますので、バラバラの回答になります
江戸時代に冬季に武士が野宿するような戦闘は行われませんでした。(念のため)

日本家屋というのは「住いは夏をもって旨とすべし」と言われていたように密閉度の低い風通しの良い構造になっていました。
部屋の仕切りも襖か障子でした。
逆に言いますと冬は現在に比べれば相当に寒い環境でした。

現在のようにエアコンや石油ストーブなどが普及しなかった昭和30年代以前は江戸時代も昭和時代も余り変わりはありませんでした。
都市部では、火鉢と炬燵(行火)がごく普通の暖房設備でした。
火鉢や炬燵のある部屋に家族全員が集まって寒さをしのぐというのがごく普通の習慣でした。
部屋ごとに部屋全体を暖房するというのは、高度成長期以降の習慣です。

炬燵や行火が使われるようになったのは室町時代以降とされています。
火鉢は奈良時代から使われていました。
火鉢に使われる木炭は縄文時代からありました。
つまり、奈良時代から昭和30年代までの都市部の暖房というのは、主役は火鉢でした。
信長が秀吉の才能を注視するようになった切っ掛けは、城中で使われる炭を大幅に節減したことだったと言われています。
江戸時代の江戸の街の様子を描いた江戸名所図絵という書籍がありますが。
その中に、部屋の障子を全て開け放って、皆で庭に積もった雪を眺めている絵があります。
部屋の真ん中に火鉢が一つ置いてあるだけです。
江戸時代は現在よりも寒冷で、江戸でもよく雪が積もりました。(小氷河期と言われています)
あちらこちらで雪見という行事をやっていました。

台所などの炊事場には七論と呼ばれる煮炊き用の移動式の炉があって夏でも火が入っていました。
湯沸かし器がありませんでしたから、常時お茶用などのお湯を沸かしていました。
この移動式というか携帯形の炉は平安時代から置き炉と呼ばれて使われていました。
日中は必ず火が入っていましたので、暖房の役目も結果的には担っていました。

農漁村地帯では囲炉裏が唯一最大の暖房設備でした。
囲炉裏の周りに集まって寒さをしのいでいました。
現在、村興しなどで古民家を使って囲炉裏端での食事を提供していますので、機会があれば訪ねてみて下さい。

明治以降ストーブが普及した後はストーブが囲炉裏の代わりをしていました。
学校も教室にストーブが一つ置いてあるでけでした。
入学試験の際には不公平になるということで、ストーブは消してありました。
つまり暖房のない教室で試験を受けていました。
もしお祖父さんやお祖母さんがおられれば聞いてみて下さい。

明治になるまではウールという動物質の繊維製品がありませんでしたから、着物は木綿が主体でした。
木綿の入手が難しかった関東以北の地では麻が主体でした。
セーターという衣料品は明治以降に着られるようになった衣料品です。
木綿も麻も現在の衣料品に比べれば保温性が劣ります。

江戸時代には、着物は夏は一重と言って浴衣のような感じの着物でしたが秋になるとあわせといって、夏の着物に裏を付けて二重にしました。
和服というのは、糸を抜いてばらばらにして洗い、また縫い直すというやり方をします。
この為に季節ごとに一枚にしたり重ねたりということを繰り返して着ていました。
冬になると、この重ねた表裏の間に綿を入れた綿入れという状態にして着ていました。
この綿入れの綿の量を増やした掻巻(かいまき)、あるいは褞袍(どてら)というものを作って掛布団代わりにしていました。丹前とも呼ばれました。
掛布団が無かったのではなく、チャントその代わりの役目を果たすものがありました。

質問者さんが、江戸時代どころか、昭和20年代の家へ行けば、おそらく寒さに文字通り震え上がるでしょう。
簡単に言えば昔の人は寒さには強かったということです。

あとは、生活習慣が違いますので、一人で部屋にこもってゲームで過ごすなどということはありませんでした。
常に火のある部屋へ家族が集まって過ごしていました。

それと、人間はある程度寒さには慣れます。
これは外国人観光客の方にも見受けられます。
南欧以外のヨーロッパから来られた方やアメリカから来られた方は日本人よりもはるかに薄着です。
永平寺などで修業をされている僧侶も特に暖房もなく一冬過ごします。
寒稽古で頑張って下さい。寒さには直ぐに順応します。

戦国時代の武士の野宿ですが、当然焚火をして寒さを凌ぎました。
移動の際には、蓑と呼ばれる稲わらを重ねた外套を着用していました。
雪のある時期はお互いに足場も悪く体の動きも鈍りますので、余り積極的には戦はしていませんでした。
この当時の常識を破ったのが佐々成政のさらさら越えです。
命懸けで冬の立山を越えています。
常識外の行動でしたので、現在まで伝えられています。

人間の体というのは血液が循環していますから、手足を温めるだけでも寒さは凌げます。
焚火が効果があるのはこのためです。
湯たんぽもこの原理を応用したものです。
寒いなと思ったら手をお湯に10分ほど浸けてみて下さい、全身が温かくなってきます。
最近温泉地で足湯というのが流行っていますが、これも相当暖かくなります。

江戸時代と農民と戦場の武士とは、時代も条件も違いますので、バラバラの回答になります
江戸時代に冬季に武士が野宿するような戦闘は行われませんでした。(念のため)

日本家屋というのは「住いは夏をもって旨とすべし」と言われていたように密閉度の低い風通しの良い構造になっていました。
部屋の仕切りも襖か障子でした。
逆に言いますと冬は現在に比べれば相当に寒い環境でした。

現在のようにエアコンや石油ストーブなどが普及しなかった昭和30年代以前は江戸時代も昭和時代も余り変わりはありませんで...続きを読む

Q昔の人はどうしていたのでしょうか?

寒いですね。
とても寒いですね。
これからもっと寒くなりますね。
現代人は文明の利器によってかなりの防寒がされていると思います。
昔の人はどうしていたのでしょう?
現代人は寒さに弱くなったのでしょうか?
温暖化で暖かくなっているというのに。
とてもではないですが江戸時代以前に生きていたら布団から出られそうにありません。()
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

こんばんわ。
私は、自称「歴史作家」です。

皆さん色々な素晴らしい意見が回答されているようですので、私は「大江戸事情」についてお話ししましょう。

「家の造りやうは、夏をむねとすべし、冬はいかなる所にも住まる」
は兼好法師の「徒然草」の有名な一節。

暖房として住まい全体を暖めるには囲炉裏が一番でしたが、江戸では火事が多発したため、囲炉裏で薪を燃やすことは禁じられていました。そして、農家から買い入れる薪も大変高価でした。

従って、深川芸者の置屋や舟宿には囲炉裏が設置されていましたが、炭を置く程度で暖房としての効果は全くありませんでした。

深川芸者などは寒さのあまり、お座敷では華美な着物で芸を披露しましたが、客待ちなどの時は、ありったけの着物を身体に巻きつけて寒さ凌ぎをしていました。そんな姿を見たら客も幻滅したことでしょう。

庶民は・・・と言うと、

まずは、せいいっぱいの厚着をして、火鉢に手をかざしたり炬燵に足を入れたりするていど。

火鉢には金属製、木製、陶器製などがあり、形は丸火鉢、角(箱)火鉢、長火鉢、提火鉢などがありました。

町屋でも、ある程度裕福な家では木製の長火鉢で、片側に猫板といわれる部分があり、茶器などを置くことができ、引き出しになっているので、小間物を仕舞うにも便利で重宝がられました。

では、熊さんや八っあんたちの長屋では・・・

江戸時代の初期の頃は、もちろん厚着をして、丼を大きくしたような鉢に灰を敷き炭を入れて、せいぜい手を暖める程度。
江戸も中期以降になると、陶器製の行火(あんか)が登場。どこへでも持ち運べるので大変な人気になりました。

そして、一工夫加えて、行火の上に蒲団をかけて何人もが手足を入れて暖をとることができるようになりました。また、辻番が好んで使用していましたので、別名「つじばん」とも呼ばれました。

さらに発明がされて、行火の上に現代のような櫓(やぐら)を置き、その上から蒲団をかける「櫓炬燵」が登場しました。
これにより、家族全員が等しく暖をとることができるようになりました。
しかし、現代のように「炬燵板」の考えがなかったため、茶器などの道具類が置けないのが難点でした。

狂歌に、
「四角でも炬燵は野暮なものでなし」
と詠まれたほどでした。

寝具:

江戸では、現代の掛蒲団にあたる「夜着」(よぎ)が一般的でした。
「夜着」は、袖と襟のついた大形の着物のような形で綿が入っていました。

上方では、元禄年間頃には敷布団よりも薄くて幅広い、いわゆる現代風の掛蒲団が庶民の間にも定着したと言われています。

また、「寝間着」といった独立した衣服は存在せず、昼間着ていた下着や肌着のまま寝るのが普通で、夜着も持てないような貧乏人は、ありったけの着物を身体に巻きつけて寝ましたので「寝間着」ではなく「寝巻」と書くのが本当。

以上、江戸の風俗でした。

こんばんわ。
私は、自称「歴史作家」です。

皆さん色々な素晴らしい意見が回答されているようですので、私は「大江戸事情」についてお話ししましょう。

「家の造りやうは、夏をむねとすべし、冬はいかなる所にも住まる」
は兼好法師の「徒然草」の有名な一節。

暖房として住まい全体を暖めるには囲炉裏が一番でしたが、江戸では火事が多発したため、囲炉裏で薪を燃やすことは禁じられていました。そして、農家から買い入れる薪も大変高価でした。

従って、深川芸者の置屋や舟宿には囲炉裏が設置されていまし...続きを読む

Q平安時代の寝殿造り.....冬はどうやって寒さをしのいだのでしょうか?

寝殿造りと呼ばれている建物は廊下をはさんで部屋にすだれ(みす?)や屏風が
あるくらいで、特に戸になる物は無い様に思うのですが、
冬はどうやって寒さをしのいだのでしょうか?
やはり着物を重ねる事でしのいだのでしょうか。

仮に火鉢などを部屋に置いてもかなりの寒さだったと思います。
さらに雨風が廊下から吹き付けば、濡れてしまったり....。

平安時代に限らず、現代から見ると昔の家は不思議ですね。

無知ゆえわかにくい質問ですが当時の暮らしぶりがとても気になります。
なにかお知りの事があったら教えてください。
宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

「家のつくりようは、夏をむねとすべし。冬は、いかなる所にも住まる。暑き比わろき住居は、堪へ難き事なり」これは鎌倉時代の終わり1330年ごろに兼好法師が「徒然草」に書いた、日本の気候風土と住まいについて書いた有名な一説です。

寝殿造(しんでんづくり)は、夏向けの建物です。そのかわり装束は冬向けに作られたといわれます。
寒さを凌ぐために、重ね着を着れるだけ着たでしょうし、綿衣(わたぎぬ)という真綿(まわた)を袷(あわせ)の中に入れた今でいう綿入れのような冬着もありました。舶来の毛皮などもありました。

几帳、屏風、衝立、襖は寝殿造りの内部の調度品のなかにあって日本独自のものとして生まれ、これが工夫されて、間仕切りの少ない寝殿造りの防寒、機密性を保つ為に作られたものと考えられているそうです。

部屋は帳(とばり)を引きつめて、炭櫃(すびつ)や火桶(ひおけ)を部屋に集めてがんがん焚けば、それなりにしのげたようです。

火桶(ひおけ)・火櫃(ひびつ)・炭櫃(すびつ)
木をくり抜いて金属製のおとしを入れ、その中に灰を入れ、炭火を焚いて暖を取る暖房機具。主に桐の木で作られる。炭への灰のかけ具合で暖かさを調整する。本来は円筒形のものを火桶、方形のものを火櫃と呼んでいたが早くから混同していたらしい。炭櫃は方形で脚のあるもの。または、据え付けの大きな角火鉢のこと。

建物の風雨を防ぐ物としては、格子(こうし)、蔀(しとみ)妻戸(つまど)等がありました。

   http://www.iz2.or.jp/kizoku/chodo.html

「家のつくりようは、夏をむねとすべし。冬は、いかなる所にも住まる。暑き比わろき住居は、堪へ難き事なり」これは鎌倉時代の終わり1330年ごろに兼好法師が「徒然草」に書いた、日本の気候風土と住まいについて書いた有名な一説です。

寝殿造(しんでんづくり)は、夏向けの建物です。そのかわり装束は冬向けに作られたといわれます。
寒さを凌ぐために、重ね着を着れるだけ着たでしょうし、綿衣(わたぎぬ)という真綿(まわた)を袷(あわせ)の中に入れた今でいう綿入れのような冬着もありました。舶来の...続きを読む

Qもし現代人が江戸時代で1ヶ月生活するとしたら、何で困るでしょうか?

空想の話で恐縮です。

時代小説を読んでいて時々思うのですが、もし今の日本人がタイムマシンか何かで数百年前の江戸時代に戻り、そこで1ヶ月ほど当時の一般庶民の家に滞在するとしたら、何で困ると思われますか? あるいは何も困る事はないでしょうか?

例えば食事。 衛生状態は今ほど清潔ではなかったはず。 もしかして最初の食事で腹痛や下痢をおこし、ギブアップになるでしょうか? それとか味付け。 現代人の口に合うでしょうか? 我慢しないで1ヶ月食べ続ける事に何も問題ないでしょうか? それとか、今のように肉食はそんなにしなかったはず。 せいぜい鳥や兎の肉くらいでしょうか? あと、お酒もそうですね。 現代人に飲めますか?

匂い。 どうでしょうか? 当時の家の中や、町全体、一体どんな匂いがしていたでしょうか? そして1ヶ月間、現代人に耐えられるでしょうか?

風呂。 現代人が躊躇なく当時の銭湯に入れますか? 当時は毎日入っていたんでしょうか?

トイレ。 現代人に当時のトイレで大・小できるでしょうか? 特に女性の場合。

人によって感じ方が違うと思いますが、上に挙げた以外で 「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?

空想の話で恐縮です。

時代小説を読んでいて時々思うのですが、もし今の日本人がタイムマシンか何かで数百年前の江戸時代に戻り、そこで1ヶ月ほど当時の一般庶民の家に滞在するとしたら、何で困ると思われますか? あるいは何も困る事はないでしょうか?

例えば食事。 衛生状態は今ほど清潔ではなかったはず。 もしかして最初の食事で腹痛や下痢をおこし、ギブアップになるでしょうか? それとか味付け。 現代人の口に合うでしょうか? 我慢しないで1ヶ月食べ続ける事に何も問題ないでしょうか? ...続きを読む

Aベストアンサー

 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキのバケツではなく、木の桶で運びますから重たい。道具は何でも重たくて大変。飯炊きの釜や薬缶もアルミ製のものはありません。みんな鉄か瀬戸物です。
(4)カマドに火を着けます。火打ち石でやります。なかなか火が着かず難しいです。火吹き竹で空気を送り込んでやっと景気よく燃え出しました。飯を炊きます。一人当たり三匹の目刺をあぶります。
(5)雨戸を開けます。障子はみな紙です。ガラスではありませんので、吹き降りの日だと雨戸を閉めないといけません。昼間でも暗いです。
(6)家族そろって朝食。
(7)食器などを洗います。油の着いた食器を洗うのは大変です。ママレモンはありませんのでギトギトがなかなか取れません。水道の水でジャージャーやるわけのもいきません。
(8)井戸端で盥で洗濯します。これも大変です。

・・・女性は大変でしょう。田舎の明治生まれの女は、以上のようなことをやっていました。江戸時代とそんなに変わりません。電気(裸電球)とマッチだけが江戸時代よりマシなだけです。

>「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?
・・・夏場の暑いときに一ヶ月滞在すれば、参るでしょう。
・網戸がないので蚊に食われる。
・ハエがブンブン飛び回る。食卓の食べ物にハエがたかる。
・冷房や扇風機がないので暑い。雨の日は雨戸を閉めるのでこれも暑い。
・便所が臭く、人の体も臭い。
 夏場でいいことは、行水などで女性の裸を見る機会が多いことくらいかな。

 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキ...続きを読む

Q戦国時代の服装

戦国時代~安土桃山時代の服飾に触れている資料を探しています。武士だけでなく、女性、庶民や僧侶などまで網羅しているものはないでしょうか

Aベストアンサー

やっぱり、このサイトじゃないでしょうか・・・
有名なので、もうご存知かも知れませんが・・・

http://www.iz2.or.jp/fukushoku/f_disp.php?page_no=0000100

Q昔の日本人の冬の服装

昔の日本人は冬にどんな服装していたのですか?
化繊なんて最近できたものですよね?
一体何を着て体を暖めていたんですか?

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

「家の作りやうは 夏をむねとすべし 冬はいかなる所にも住まる」
兼好法師の「徒然草」の有名な一節。

現代では、冷暖房機や扇風機などがあり、温度調整ができるようになりましたが、昔は、暑さから逃れるすべはなく、せいぜい団扇や扇子で風を取り込む以外に方法はありませんでした。

さて、本題の
>>昔の日本人の冬の服装

とにかく「厚着」をしました。
薄い木綿の着物から順番に重ね着をしていって、最後は、綿入れの「かいまき」まで着込んで寒さをしのぎました。
足袋は、一般庶民では、やや高価のために、冠婚葬祭用として用いられる程度で、普段は「はだし」でした。

また、火鉢やこたつがありました。
火鉢にも箱型あり、丸火鉢ありで、安いのは陶器製の丸火鉢でした。しかし、火鉢は手先しか温まらず、こたつを使用する者も多かった。だが、現代のようにこたつ板の工夫がなかったので、こたつの上には物が置けない。そこへいくと、箱型火鉢は、湯茶などの道具類が置けたので、人気もあった。

囲炉裏は、江戸市中では「御法度」でした。火を炊くことは、火災の原因にもなり、一度火事が起きると広範囲に燃えたためです。
それでも、河岸の料亭などでは許可をされていましたが、火を燃やすことはせず、せいぜい「炭」を置く程度でした。
炭も近隣の農家から買いましたが、非常に高かった。

絵をアップロードしてみます。
ここでは、囲炉裏がありますが、炭を置いています。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

「家の作りやうは 夏をむねとすべし 冬はいかなる所にも住まる」
兼好法師の「徒然草」の有名な一節。

現代では、冷暖房機や扇風機などがあり、温度調整ができるようになりましたが、昔は、暑さから逃れるすべはなく、せいぜい団扇や扇子で風を取り込む以外に方法はありませんでした。

さて、本題の
>>昔の日本人の冬の服装

とにかく「厚着」をしました。
薄い木綿の着物から順番に重ね着をしていって、最後は、綿入れの「かいまき」まで着込んで寒さをしのぎ...続きを読む

Q昔の寝具についてー薄すぎませんかー

テレビなどで見る限りにおいてですが、かなり高貴な人の場合でも、寝具は季節に関りなくとても薄くて、特に敷布団が全く厚みのないものの上に寝ています。
あれでは暖房もない時代、絶対風邪を引いてしまうと思うのですが、実際のところ、どうなのでしょうか。
庶民の方が「わら布団」という言葉もあるくらいで、ずっと温かく眠れた様に思います。
となりの市に、律令時代の「県庁」に当る建物が復元されているのですが、それをみても、よくもこんな風通しの良すぎる建物に滞在できたものだなと、信じられません。
そういうところに、タオルケットのような物一枚を敷いて、上にも、薄絹のようなものを掛けただけで休んだのでしょうか。
(もう少し時代が下がって、平安時代くらいの映像で、そのような寝具が良くでてきますので)
今より、ずっと冬は寒かっただろうと思うのですが。
夏以外は、とてもそういう状態では眠られないだろうと、他人事ながら気になっています。
高貴な人は畳一枚をベッドのように敷いて、その上に布を引いていたりしますが、それでも寒いと思いますし、寝苦しいと思います。
それとも、そういう形は時代劇の「お約束」のようなものでしょうか。
些事で、つまらない質問かもしれませんが、ご存知の方教えてください。

テレビなどで見る限りにおいてですが、かなり高貴な人の場合でも、寝具は季節に関りなくとても薄くて、特に敷布団が全く厚みのないものの上に寝ています。
あれでは暖房もない時代、絶対風邪を引いてしまうと思うのですが、実際のところ、どうなのでしょうか。
庶民の方が「わら布団」という言葉もあるくらいで、ずっと温かく眠れた様に思います。
となりの市に、律令時代の「県庁」に当る建物が復元されているのですが、それをみても、よくもこんな風通しの良すぎる建物に滞在できたものだなと、信じられませ...続きを読む

Aベストアンサー

竪穴式住居では土の上に藁などを編んだ菰(こも)や莚(むしろ)を敷きその上で、着のみ着のままで寝ていました。     冬は焚き火を絶やさず、結構暖かったでしょう。
板張りの床の家ができると、その上に莚や茣蓙(ござ)など敷いて、昼間の着物を掛けて寝ました。     二人並んで寝るときは、お互いの着物の袖が重なるようにしたそうですが、寝相が悪いとどうなるか。   庶民は囲炉裏や温石などあり、そんなに寒くはなかったでしょう。
高位の人の方が家が広く寒さはこたえたでしょう。    そこで莚をたたんで重ねた畳が作られました。    いぐさ莚を表に萱を芯にした上等なものも作られました。      畳の上の褥(しとね)という敷物の上で寝ました。    始めは草を編んだものが、芯に真綿を入れた高級品も使われました。
平安時代から衾(ふすま)と呼ばれる掛け具が使われ始めました。  伏す裳(も)寝る時に着る意味です。     衣服と異なり長方形の布で中に真綿を入れるようになりました。
布団と夜着の寝具になるのは、木綿の生産が進んだ、室町以降と言われています。     もっとも戦国の武将たちは板敷きの床の上にそのまま寝ていたようです。     戦場では土の上のごろ寝ですから。
一方庶民の方は菰、莚、茣蓙の時代が永く続いたと云われています。    昔の人は貴賤とも寒さには鍛えられ、強かった事は確かです。    幼児の方は耐えられず、夭折が多かったのは止むを得ません。  

竪穴式住居では土の上に藁などを編んだ菰(こも)や莚(むしろ)を敷きその上で、着のみ着のままで寝ていました。     冬は焚き火を絶やさず、結構暖かったでしょう。
板張りの床の家ができると、その上に莚や茣蓙(ござ)など敷いて、昼間の着物を掛けて寝ました。     二人並んで寝るときは、お互いの着物の袖が重なるようにしたそうですが、寝相が悪いとどうなるか。   庶民は囲炉裏や温石などあり、そんなに寒くはなかったでしょう。
高位の人の方が家が広く寒さはこたえたでしょう。    ...続きを読む

Qお米1合はご飯何グラムですか?

お米1合(150g)は炊きあがり後の「ご飯」になった時は大体何グラムでしょうか?
また、炊飯ジャーなどで、容量6L等とありますが、このリットルはどの状態の事を差すのでしょうか?(米?ご飯?、容積?)

Aベストアンサー

一合150gのたきあがりは約300gです。ちなみにお茶碗一杯150gおにぎり一個100gすし一貫20gカレー一人前300g弁当一個220gが標準です。

Qいわゆる江戸時代の娼婦はどうやって避妊してたんでしょうか

コンドームのない時代にどうやってたのかな?
とよく思うんです。

事のあとで洗浄するとか、外出しですか?
(あの時代にはピンと来ない方法ですが…)
それとも妊娠の都度、堕胎したんでしょうか?

ご存知の方いらっしゃったら、教えてください。

Aベストアンサー

吉原細見というHP(http://yosiwarasaiken.net/)に「遊女と避妊(http://yosiwarasaiken.net/moyou/hinin.html)」というサイトページがあります。それによりますと…

遊女(吉原の花魁などの幕府公認遊興場の売春婦=女郎;深川・辰巳などの岡場所の売春婦は売女と言った)の世界では妊娠は恥とされていた。当時は絶頂を迎えると妊娠しやすいと言われていたため「男に負けた」的な捉え方をしていたようです。
避妊の方法は「洗浄」「薬」「灸」それに「道具」。道具は男性用として大人のおもちゃのようなものと、女性用として御簾紙という薄い髪を丸めたタンポンのようなものとがあったそうです。いずれも紙製の頼りないもので避妊率は極めて低い、ほんの気持ち程度のものでしかなかったようです。
それでも妊娠すると堕胎する場合がほとんどだったそうで、場合によっては遣り手(遊女を取り仕切る年寄り女…「遣り手ババア」は吉原のこの役職の女性が語源)に強引に堕胎させられていたとか。当然ダメージを負った女性の中には性病や容姿の悪さなどで追いやられた遊女達と一緒に羅生門河岸という最下級の場所に送られたとか。

…というと江戸時代=昔=封建社会という背景も助長して「女性がとても虐げられている」というイメージが強いですが、実は江戸市中でも最も女性が強かった地域でもあるのです。特に花魁ともなると容姿はもちろん最高級の教育を受けた教養の高い女性であり、「源氏物語は、全部読んでありんす」というスーパーウーマンであり、それぞれの廓屋の看板であり、身分の高い武家階級や大金持ちの大店の主人を相手にするにふさわしい女性であったのです。
廓屋が大枚を叩いて徹底的な教育を仕込む所なんざ映画「プリティ・ウーマン」を思い起こさせますが、あの程度の金の掛け方では花魁の簪ひとつ分くらいじゃない?というくらい破格のものでした。今風に言えば伊東美咲に叶姉妹やマリエやデヴィ夫人や西川先生の持っているそれぞれ10倍くらいのものを与えちゃった、って感じです。
おまけにこれだけのスーパーウーマンだから、誰でも床入りできるような「安い女じゃない」のです。なんと花魁が気に入らなかったら床入りを拒否出来ちゃったんです。「いっくら金積んだって、あちきはあんたみたいな下衆とは、お断りでありんす」だったんですな。それだけに花魁目的で廓屋に通う男達は身だしなみに気を使いセンス良く知的におしゃれして花魁に気に入られようと必死だったのです。事実一生処女のまま生涯を閉じた花魁もいたのです。

それなりに格のある身分の遊女はおいそれと抱く事はできなかった、というわけですが…今の時代もそうですね。銀座の高級クラブはもちろん六本木の超有名キャバクラ嬢だって、気に入らなきゃ「おめえとなんか寝ないよ、バーカ」です。故杉浦日向子さんは「江戸時代の江戸市中は女性主導の社会だった」と指摘している通り、実は花のお江戸は女性によって成り立っていたようです。それが男尊女卑に一変したのは明治維新以後…長州と薩摩の習慣が入ってきたせいかなぁ、と個人的には考えています。
もちろん廓屋という特異な世界では劇になるような悲惨な面もありますが、実は現代とさほど変わらない面もたくさんあるんですね。

吉原細見というHP(http://yosiwarasaiken.net/)に「遊女と避妊(http://yosiwarasaiken.net/moyou/hinin.html)」というサイトページがあります。それによりますと…

遊女(吉原の花魁などの幕府公認遊興場の売春婦=女郎;深川・辰巳などの岡場所の売春婦は売女と言った)の世界では妊娠は恥とされていた。当時は絶頂を迎えると妊娠しやすいと言われていたため「男に負けた」的な捉え方をしていたようです。
避妊の方法は「洗浄」「薬」「灸」それに「道具」。道具は男性用として大人のおもちゃのようなもの...続きを読む

Q昔の防寒対策

私は普段、老人介護職に携わるものなのですが・・・
この時期のお決まりの挨拶「寒いですね~」と言うような話をしていたら、
昔の方が寒かったと言われた方がいました。
(まぁ地球温暖化とか、問題になっていますけど(._.))

そんなとき、ふと思うのですが、昔の方はどうやって防寒対策してたのでしょう?
もちろん職場のお年寄りにも聞きました。
出てきたのは「火鉢」と「ホリゴタツ」と「囲炉裏」ですね。

もし他にも御存知の方、もっと詳しいこと御存知の方があれば、
どんなことでもよろしいので、教えて下さい。
それと昔は風邪をひいた時(熱が出た時)、どうしてたのかというのも知りたいです。
なぜならお年寄りとのコミュニケーションの参考にしたいので。

Aベストアンサー

これは、私の祖母の家の話ですが、冬泊まりに行ったら
いつも練炭アンカを作ってくれました。
火を付けた豆炭を入れられる、石綿(?)が中に敷き詰められた
金属のお弁当箱みたいなものです。(枕サイズ)
それをネルのさわり心地のいい布地でつくった巾着に入れてお布団の足元に入れます。

暖房にも、練炭ストープ、練炭火鉢を使ってました。
一酸化炭素がでますから、最近の密閉性のいい家ではつかえませんね。
でも、安くて臭いもしないし、かなりの熱量がありますし(原料は石炭です)
大好きでした。
黒い練炭が熱い鉄のように赤く焼けているのを見るのは子供心にとても楽しかったです
(私にとっては珍しいし)

ここ数年でやっと(?)灯油ストーブになりました。ちょっと残念です。
昔々は練炭七厘(しちりん)とかあって、それで煮炊きもしたようです。
いまどきのおばあちゃんなら、現役で使ってた世代だと思います。

ちなみに北朝鮮ではまだバリバリ現役らしいです。韓国ではガス・灯油に代わったらしいですが。
練炭の事は韓国では「ヨンタン」と言うらしいです。かわい~♪

ばあちゃん90にして、まだ頭はっきりすっきりです。
今のうちに扱い方ならっとくかなぁ・・・。

参考URL:http://home3.highway.ne.jp/hasu/anka.htm

これは、私の祖母の家の話ですが、冬泊まりに行ったら
いつも練炭アンカを作ってくれました。
火を付けた豆炭を入れられる、石綿(?)が中に敷き詰められた
金属のお弁当箱みたいなものです。(枕サイズ)
それをネルのさわり心地のいい布地でつくった巾着に入れてお布団の足元に入れます。

暖房にも、練炭ストープ、練炭火鉢を使ってました。
一酸化炭素がでますから、最近の密閉性のいい家ではつかえませんね。
でも、安くて臭いもしないし、かなりの熱量がありますし(原料は石炭です)
大好きでし...続きを読む


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