牛、豚、鶏、どれか一つ食べられなくなるとしたら?

私は、国政選挙でも地方選挙でも、入れるべき候補者がいないと自分が判断した場合は無記名(白票)投票をしています。
私はこれで選挙権を行使し、国民の責務を果たしていると考えていますが、白票は無効票なので、選挙権の行使も無効だと言う人もいます。
実際問題は、果たしているといえば果たしているし、果たしていないといえばそうなのかもしれません。
投票場へ行き、投票を実行しているので選挙権を行使していると認識しているのですが・・・。

A 回答 (16件中1~10件)

《 まず初めに、政治と経済の分野について考えてみましょう。


 人類の進歩を可能にするのは、どんな種類の人間でしょうか。それは天才たちです。ですから、あなたがたは天才たちを再評価して、彼らが地球を指導するのを可能にする必要があります。
 これまで権力を握ってきたのは、他の者より肉体的に力が強い野蛮人、こうした野蛮人をたくさん雇える資産家、希望を振りまいて、民主主義国家の国民の心を巧みに捉える政治家、といった人たちです。そして言うまでもなく、野蛮性を合理化する組織を踏み台にして、自分たちの勝利を勝ち取る軍人たちに、次々と権力を与えてきたのです。
 あなたがたが決して権力を与えてこなかった唯一のタイプの人間こそ、人類を進歩させてきた人たちです。車輪や火薬、内燃機関、原子力などを発明した人たちです。こうした天才による平和のための発明は、彼らより知性の劣る権力者が、しばしば殺人のために利用して恩恵を被ってきました。こういうことを変えなければなりません。
 そのためには、現在の形態のままでは、人類の進歩にとっては全く相応しくない選挙や、投票のシステムをやめなければなりません。人間は、人類という名の巨大な身体に有用な細胞の一つなのです。
手が、ある物体をつかむべきか否かを決定するのは、足の細胞ではなく頭脳でなければなりません。
そして、もしこの物体が有益なものであれば、足の細胞はその恩恵を被るでしょう。脳もその一部として、身体全体を前進させるように作られているとはいえ、足の細胞が投票をする必要はありませんし、また手が、つかめる物が有益か有害かを判断することはできません。
 投票は、知識と知性が等しい場合にのみ確実な効果があります。コペルニクスが大多数の無能な人々によって有罪を宣告されたのは、その時に彼だけが、理解力が十分で高い水準にあったからです。だから教会(多数派)が信じたように、地球が世界の中心であるという主張は間違いでしたし、本当は地球は太陽の周りを公転していて、コペルニクス(少数)の主張が正しかったのです。
 もし最初の自動車を走らせる時に、自動車を認めるか否かを全員に投票させていたら、どうなっていたでしょうか。大多数の、自動車に無知で、関心もなかった人々は否定的に反応して、あなたがたは今でも馬車を乗り回していたことでしょう。どうしたら、こういうことをすべて変えられるでしょうか。
 現在、心理学者は、個人の知性と適性を評価するテストを作成できるようになっています。幼い頃からこのテストを一貫して行って、個人の勉学の方向づけをし、その個人が責任を持てる年齢になったら、知性指数を最終的に特定して、身分証明書や選挙人名簿に記入するようにするのです。
 ある種の公職については、知性指数が平均より、少なくとも五〇パーセント以上の人だけが有資格者とし、知性指数が平均より、少なくとも一〇パーセント以上の人だけが投票できるようにします。
もしこの試験方法が現在あるのなら、今の政治家の多くは、その職務を遂行することはできないでしょう。これこそが完全に民主的なシステムです。
 一方では、知性が平均よりも劣っているのに、記憶力が優れているせいでたくさんの資格を取った技術者がいて、他方では、専門家ではないけれども、平均よりも五〇パーセント以上も優れた知性を持つ労働者や農民がいます。あなたがたが俗に「白痴」と呼んでいる人の声が、これからどう投票しようかと熟考している天才の声と同じ価値を持つということは、もう今では実に認めがたいことです。
 小さな町の選挙では、公約が素晴らしいからではなく、酒などを一番気前よく振る舞うからといった理由で当選します。だから、まず第一に投票権は、思考力に富み、問題を解決できる頭脳を持った、知性的なエリートだけが持てるようにします。何も、多くを勉強をした者がその人だと言っているわけではありません。大事なことは、天才に権力を与えることです。これをあなたがたは、「天才政治」と呼ぶことができます。
   ラエル著  》

 おっしゃる通り、選挙・投票ほど、難解なものはないのではないでしょうか。
それにより、人生のスランプに陥りそこから抜け出せない人々も数多存在することも社会現象として見受けられる。
 なぜでしょうか?
~人間は、人類という名の巨大な身体に有用な細胞の一つなのです~、と上記にありますが、社会を発展させる指導力に秀でた人たちに権力&指導力を与えることは、有意義ではないでしょうか。
また、~手が、ある物体をつかむべきか否かを決定するのは、足の細胞ではなく頭脳でなければなりません。そして、もしこの物体が有益なものであれば、足の細胞はその恩恵を被るでしょう。~、ともある。

 問題は、足の細胞が投票をすることも有り得る選挙制度において、その選挙のその精度、人類に恩恵をもたらす天才の抽出精度にあるのではないでしょうか?
 立候補名簿に、意中の人がいなければ、無理に投票する義務は無い。
その選挙区が人類の足の部分を形成している場合もある。それは、社会・文化・科学的に遅れた過去の政治選挙と同レベルの投票を余儀なくされる時代遅れの選挙区かもしれない。それも、充分あるのではないでしょうか。
 現行の選挙後の騒ぎ(問題と障害)は、ここにあるのではないでしょうか?
なぜ、社会と人類に有益な立候補者が出てこないのか、火山の下に潜伏する溶岩のような選挙制度、あえて、そんな感じではないでしょうか?
 無記名(白票)投票であっても、将来の天才政治家を待つ不動の決意 、意としたいものです。
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 マンガの主人公気取りの冷笑家がいるようだが、このやからは「投票行動」の意味を理解できていない様子である。


 >×無記名投票は棄権です。
  ◯白票投票は棄権です。
この質問の場合の「無記名」とは「投票用紙」に支持したい候補者がいない場合の「選択肢なし」との意味であるから「棄権」とはならない。「棄権」とは「投票行動」を行わないとの意味であり、貴兄のように短絡的な発想のやからはこの質問者殿の誠実な質問に回答する資格すらないといえる。
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訂正


×無記名投票は棄権です。
◯白票投票は棄権です。
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私は選挙における投票という物は、有権者の意思を候補者に伝える為に有ると考えます。


気持ちとしてはそういう意味も有るかとは思いますが、ではその意思が伝わっているでしょうか。
何らかの意思を込めた棄権は、選挙に関心が無い人と区別されません。
白票もまた、書き間違い等の無効票と一緒くたですね。
政治家も、自分への賛意(得票)と批判(対立候補の得票)は気にするでしょうが、全体の投票率以上に無効票の比率など気にもしないでしょう。
という訳で、残念ながら現在の選挙制度ではその意思が伝わる事は無いと考えざるを得ません。
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他の人に指摘されてるけど、


無記名投票の意味を知らない人が「入れるべき候補者がいないと判断」なんていえた口かい?
前も白票がなんて質問してた質問者も無記名投票の意味を間違えてとってたけど、
「白票投票しました」なんていう人の政治の知識はまともとはいえません。
結果論から言えば、白票もデタラメな投票をした奴も棄権した奴も同じです。
無記名投票は棄権です。
どんなに御託を並べて白票した意義を言っても痛いだけです。
おそらく、回答者も「また痛い奴が湧いてきた」と思ってるはずだよ。

国政選挙でも地方選挙でも入れるべき候補者てどこの選挙区だい。
バカしか住んでない選挙区は?
何県何市てちゃんと言えば?
議会に送るべき政治家がいないなら、お前が立候補して、ちゃんと有効な投票をしている有権者の判断を仰いでみれば?
それに選挙は議会に送る人を決めるだけ。候補者が議会に送られる資質があるかないかを決めているのではない。
入れるべき候補者がいなくても、選ばなくてはいけない。
それができない奴は選挙してないとことだよ。


政治家を批判することは天に唾するのと同じ。
入れるべき候補者いない=俺達に選挙区はバカしまいませんて言ってるのと同じだよ。
無記名投票の意味を知らないてことからそれは裏付けられてるけど。
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行使できてないでしょうな・・・



ただ、この質問を読んだら、白紙票の代わりに落選させる投票権があったらいいな。。。と思ったりした。
多くの人に好かれつつ多くの人に嫌われてる議員は一部の人に好かれてるだけで選挙に勝てる訳だから公平とは言えない。
+票とー票、両方で加味する必要性があるのではないかと。
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選挙権の行使というのは、国民主権において


自分の政治的意思を表現するという意味を持ちます。

で、白紙投票ですが、これは無記名投票とは違います。
無記名投票というのは、記名投票に対する概念で
投票者の名前を記載しない選挙のことです。
白紙投票とは異なります。

それはさておいて、白紙投票には次のような意味が
あります。

まず、民主制を認めない、という立場があります。
思想は自由ですし、民主制というのは、民主制を
認めない自由も認めるのが基本です。
例え白紙であっても、投票行動をする、という
ことは、民主制は認める、という政治的意思を
表しています。

次に、質問者さんのように、適切な候補者が
いない、という意思も表示しています。
あるいは、不平等選挙だから、それに対する抗議だ
という立場も考えられます。

白紙投票にはこのような政治的意思が表明されて
いますので、不十分ながらも、選挙権を行使した
ことになると思われます。
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成ります、投票所に行って白紙投票は棄権をして白紙委任状を出して入る有権者とは



内容は変わらなくても場へ足を運んで適当な候補者が居なかったからの白票とは違うと私は
思ってます。

投票率には確実にカウントされますからね。

極端な話では投票率が100パで立候補者が0表何て事は確立的に0では有りませんから
そんな事がもし有ったら小さな村の出来事でもトップニュースは間違い有りません。
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投票に行くという行動がしっかり考えての行動でしょうから。

全く投票にも行かない人よりはましです。
 私は行使していると思います。

 前回、さすがに選べないので比例区では白票を入れました。

 白票では無効票だから結果には反映されないけど、曖昧な書き方でこの票は誰々のという事もされたくないですからね。


 行っている人から、言われるのならそうだね。行かない人から言われたら、行きもしないで文句をたれるなと言いたいですが。
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投票の自由、という言葉の中には「投票しない自由」が内包されている


という解釈が現在のところは一般的です。
意思を持って白紙を投票箱へと投じる事、意図して投票にいかない事、どちらをとっても権利を行使したと解釈できると私なら考えます。

地方選はともかく、国政選挙ともなればCMも盛んに流れます。その中において
「選挙がある事を知らなかった」という人がいれば、その人こそが権利を行使しなかった人に該当するのではないでしょうか。
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