No.2
- 回答日時:
現代風に言うと
厚生労働省の役人が監督する失業対策プロジェクトの、警備員
(清川八郎の提案で、将軍上洛に備え、先行上洛して京の警備という構想)
↓
京都府警本部長が、裏予算と、どこぞから調達してきた資金で
個人的に 運営する 非正規雇用の京都市民祇園伏見自警団
(京都守護職松平容保が同情して、守護職御預かりとして会津藩がスポンサーとなる)
↓
近畿管区警察局付属選抜警備機動隊、ニュー・セレクト・ポリスとして
晴れて、国家公務員に
(正式に幕臣となっのは、ようやく慶応三年になってから)
zzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzz
スポンサーだから命令できるが
不正規雇用で会津藩も幕府も、身分保障してくれません。
正式の警察は、京都町奉行所、
これを京都所司代付き・京都見廻役付き(見廻組})・会津藩士が
補助し、その一切を京都守護職が、仕切るわけですが、
手が回りきらなかったため、剣の腕が立ち、士気厳正な、新選組を
会津藩の金で雇いいれたんですね。
最後は幕臣になったので、江戸の町奉行所と、火付け盗賊改め方
のような関係になりましたが・・
幕臣と言っても蔵米支給の微禄でして、
所領なんてのは甲陽鎮撫隊の時に、近藤を大名にしてやるという
空手形もらっただけです。
No.3
- 回答日時:
”新撰組と松平容保はどういう関係なのでしょうか?”
↑
新選組は、当初は会津藩お預かりで
新選組はいわば契約社員みたいなものでした。
正社員である藩士とは異なる立場にあります。
あるいは、親会社と子会社の関係に近い
とも言えます。
後に幕臣となりましたが、幕臣になれば、会津藩とは
同格です。
”池田屋事件で容保は待機命令を出したのに勝手に
新鮮組が切り込みを行ったのは事実でしょうか。”
↑
平和ぼけのために、事務手続きが遅くて間に合わず
それで業を煮やした新選組が斬り込んだ、ということです。
”松平容保は新撰組に対する明確な指揮権があったのでしょうか?”
↑
抽象的な指揮権はあったと思います。
いざとなれば、契約の打ち切りが出来たのですから。
ただ具体的な指揮権は、新選組内部に委ねていたと
思われます。
幕臣後は指揮は出来ません。
”引きたてたり処分をする権利はあったのでしょうか?”
↑
会津藩の正社員として引き立てる権限は当然に
あったと思われます。
ただ、処分は新選組内部に委ねていたでしょう。
しかし、親会社のトップですから、あいつを何とかして
欲しい、
と言えば、それは非常に重い意味を持ちます。
芹沢鴨排除は、会津藩の意向だという話もあります。
下請けとしては、親会社の意向は無視できません。
”新撰組はおそらく所領を幕府から貰っていたのだと思いますが”
↑
新選組に所領などありません。
会津藩から資金が出ていましたが、幕府からは
もらっていません。
旗本でも所領を有するのは大身の旗本だけで
後はサラリーでした。
”容保に加増や減俸、召し上げをする権利はあったのでしょうか? ”
↑
会津藩お預かりの時代なら、資金引き上げ、援助停止は
当然できました。
後に幕臣になりましたが、そうなると会津藩では
手が出ません。
意見を具申するぐらいでしょう。
No.4
- 回答日時:
会津中将松平容保が、直接池田屋襲撃作戦を指揮したのは嘘で家臣の野村佐兵衛が新撰組を管理していた、一方で新撰組に対抗する形で切磋琢磨
していたのが、京都見廻組で頭取が同じ家臣の手代木直右衛門、弟の佐々木只三郎(旗本)が見廻組頭であり当初、見廻組が探索していていざ襲撃の段取りがすんだ時、新撰組にしてやられたというのが真相!容保は野村に指示して毎月新撰組へ数百両の金を支給していた、従って会津藩が元締であり新撰組は仕置人の立場である、ちなみに当時の京都の治安は非常に悪く、強姦、殺戮、略奪、放火(まるで戦国時代)が蔓延していて京都守護職松平容保は頭を痛めていた、それで別戦闘部隊として組織されたのが新撰組でありその主旨は、毒には毒を持って征すべし!No.5
- 回答日時:
この当時の新撰組の立場は「会津藩お預り」なので、正式な主従関係はないですし、雇用関係も発生していません。
もちろん幕臣でもないので、幕府から所領を貰うということもありません。のちに幕臣に取り立てられ、鳥羽伏見の戦闘から函館戦争に至る過程で所領を与える旨の打診はあったようですが、結果的に実現してはいません。容保との関係では、新撰組との間には主従も雇用もないわけですから、加増や減俸、召し上げ自体の可能性が存在しません。指揮命令についても、家臣でもお雇いでもないものに藩主が直接行うとは思えません。日常的な連絡指揮は藩の用人レベルが行っていたはずです。
当然、藩士でもお雇いでもない新撰組には、会津藩からの正規の給与のようなものもありません。だからこそ結成当初は商家に対して押し借りをやって運営経費をまかなっていました。後に手柄を立てたときに報償のかたちでそれなりの金額が与えられたとされています。
関係としては、現代で言う新規下請け業者に近いのかなと思います。容保は親会社の会長、新撰組は新規参入の下請け会社と。
そういう立場の新撰組としては、手柄を立てることは死活問題ですから、なんとかして実績を作って契約をとらなくてはなりません。各藩と同時に動いていれば手柄も立て難いですし、報償の額も違ってくるでしょう。
藩兵の出動が遅れたのを幸いに、「逃げてしまう恐れがあった」という口実で独断専行と、出来高払いを狙ったというかたちに走ったのも無理はないかなと思います。、
この回答へのお礼
お礼日時:2013/03/16 18:15
>家臣でもお雇いでもないものに藩主が直接行うとは思えません。
ここでの質問は指揮系統の問題であって、容保の家臣経由であれば直接かどうかは問題ではありません。
して池田屋事件では報償をもらったのでしょうか?
御回答ありがとうございました。
No.6
- 回答日時:
No.7
- 回答日時:
jkpawapuro さん、こんにちわ。
明確な指揮権があったと思います京都守護職は新撰組のほかに京都所司代、東西町奉行所、京都に在番している大番、幕臣で新編された見廻り組などを指揮下に置いていました。設置理由はもう京都所司代では治安が乱れきった京都を治めることができないと判断されたためです。
また、特に浪士組出身の新選組には経済的な援助をしていたと思われます。「新撰組はおそらく所領を幕府から貰っていたのだと」ということになったのはずっとのちのことです。しかし、京都守護職との指揮下にあったので引きたてたり処分をする権利はあったでしょうが、彼らはもともと会津藩の家臣ではないため、加増や減俸、召し上げをする権利はなかったと思います。これは幕府の権限だと思います。また、新撰組内での問題は新撰組内で解決していたと思います。
勝手に切り込んだのはたぶん、手柄を新撰組で独占しようとする土方や近藤の思惑によって武士の先駆けの功名を気取ったのだと思います。
関連URLを参照してください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD% …
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E9%81%B8% …
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0% …
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