プロが教えるわが家の防犯対策術!

悪いことを想像したら、本当に何かしら悪い影響が及ぶのではないか。
というような強迫観念について質問させてください。

エイドリアン・ウェルズの思考と対象の混同(Thought object fusion:TOF)について、詳細を知りたいです。
・回答者様の知識
・説明されているウェブページ
・本からの引用
等々、よろしければ教えてください。

A 回答 (3件)

再度回答します。



(1)
唾恐怖は現実の不利益を避けたいがための神経症だと思います。現実での不利益を避けたくて、自我意識が放せなくなっていると思います。

全くその通りです。

神経症の中に『吃音』があります。是は『うまく話したい(うまく話せないから)』と言う理由で起きている現象です。吃音は治る時は『うまく話せなくとも良いや』と言う決心が出来た時です。

うまく話をしようとする『自意識過剰状態』が作り出している現象です。逆説的思考をうまく使えれば、即治ってしまいます。うまく話をしないようにする場合です。自意識過剰の状態で『下手に話をしようとする事』を意味します。自意識過剰の状態で願う事は『必ず叶わないからです。』

吃音者として自意識過剰の状態は『吃音で話をしてやろう』とする場合です。この場合では『吃音』を受け入れた状態になるからです。

強迫観念も全く一緒です。自我は天邪鬼に出来ていますので、しようとしない事をやって、するべき事はやらない時があります。誰でも貴方の強迫観念的な思考は知っています。

吃音が治る場合も強迫観念が治る場合でも同じ心的成長過程を通過します。完治する時には『症状』を完全に受け入れた時です。

症状があって苦しんでいる人に『症状を受け入れなさい』には無理が在るかも知れませんが、それしか方法はありません。今は無理としても、その方向性『症状の相手をしないでいる』方向性です。

それは神経症の解決を『症状の改善』以外から探る事です。

私の場合では『死に対する恐怖症』を入院森田療法で学ぶ事で解決出来ましたが、初めから『死に対する不安など消える筈など無い』と諦めていた事が幸いしたと思っています。

『初めから症状が改善する筈など無い』と諦めていた事が幸いしたと思っています。症状の改善を望まなかった、と言う言い方は嘘になるかも知れませんが、症状の改善方法という意味では求めなかったという事になります。


(2)
声にすることはないのですが、悪口やひどい命令などの言ってはいけないことを心の中で他に言ってしまうことがあります。尊敬する人や敵わない人などの前ほどそうなります。言ってはいけないとき、言ってはいけないことほどそうなります。強迫観念かと思います。

この場合の貴方が取る方法は、今書いた事柄全てを『書いたり、口に出したりして、話にしない事です。』そうする事で、何時しか自意識には上ってこなくなります。


恐怖症は、恐怖している事柄を受け入れた時が完治ですが、その受け入れる作業が、禅における『百尺の竿頭の先に上がって、更にその先に上がれ』という意味です。命を捨てるほどの覚悟が必要という意味ですが、この方法はとても無理があると思いますので。

1ー症状はもう治らないと諦めて、口にしたり書いたりしない事です。

2ー不安を相手にしない人間性が出来た時に治っていますので、湧き上る雑念の処理の仕方を学ぶ事です。このためには『良い事があっても喜び過ぎない訓練』『悪い事があっても落ち込み過ぎない訓練』をしてください。

3ー心の使い方(気の使い方)が間違っている現象ですので、心(気の使う処の方向性を)を足の裏全体に行き渡らせてください。この意味は『自分の心(気の使うところ)が、自分の内面観察ばかりですので、それ以外、四方八方に気を使って生きて下さい、という意味になります。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

仕方ないという他に、『~する筈などない』という言い方があると初めて知りました。

強迫観念や強迫行為を伝えてしまうことで、人間関係が逆にぎくしゃくしてしまうのは避けたいです。
ただ、また専門家に相談することはあるかもしれません。

『良いことがあっても喜び過ぎない訓練』『悪いことがあっても落ち込み過ぎない訓練』
喜んでも落ち込んでもいいけど浸りすぎたり何度も思い返したりしないでいいという意味にとりました。

足の裏全体に行き渡らせてください
自分にもわかりやすくありがとうございます。

よろしければ、最後にもう一つだけ質問させてください。

私はあがり症でしたが、緊張や赤面は他人に迷惑をかけているわけでないので気にしなくなりました。たまに吃音してもなんのそのです。

けれど、唾音口音だけはその場面で気にします。気にするというより気を張ります。舌打ちや嫌がらせととられることがあります。他人を嫌な気分にさせたり、甘く見ていると思わせてしまったりしないよう、唾音口音が出ないように制御しています。

社会ではだいたい、弱い者にはやさしく擦れた者には擦れた態度かと思います。弱い者として見られやすい赤面や吃音を認めるのと、擦れた悪者として見られやすい唾音口音が出ることを認めるのとでは、自分を認めるにしても性質が少し異なるように思えます。

唾音口音恐怖の症状を認めるには、自分を擦れた悪者として他人からそのまま引き受けなければならないのですか?一番気になっていたこの点について、助言をいただきたいです。

回答者さんはいまとなっては安楽とのことですが、他者から誤解して見られたとき、その他者から見た回答者さんのことを認めるのでしょうか。他者がそうやって回答者さんを見ているだけだと認めるのでしょうか。

四方八方に気を使うと、他者の私への見方を真に受けます。(舌打ちしたからには)お仕置きなどされても仕方ないだろうと他者が私を見るとき、私は舌打ちしたくなかったのだとしても、そのような自分までも受け入れるべきでしょうか?他者が見る通りだと受け入れるべきでしょうか?

お礼日時:2013/04/10 03:12

『エイドリアン・ウェルズの思考と対象の混同』と言う事は知りませんが、強迫観念 や、神経症的な観念に付いて述べてみます。



是は精神科医のV.E.フランクル博士が書いた本の中に出ていた話ですが、或る妻が『自分の夫が自分から去ってゆくのではないだろうか?』と言う不安な心が湧き上がって、精神科医の元に訪れた話です。

その妻はこの話を夫にも話をして、予期不安に悩まされると言う話です。その妻にとっての不安を解消したいために『夫にも協力してもらって』夫が去らないと言う約束をして貰っても、尚その不安が消えないために、更なる協力を夫に求めるようになります。

不安な毎日を送る事から、その協力は毎日してもらう結果になります。その内にその夫はその妻の元から去る事になります。

悪いことを想像したら、本当に何かしら悪い影響が及ぶのではないか。というような強迫観念(予期不安)の例です。

この場合での対応の仕方を振り返った場合、夫から可愛い妻や、良い妻と思われる対応が出来た場合では夫が去ってゆく事は無かった筈です。

この妻の対応の失敗は『心配事』を大事にするあまり、本当に大事な事を見失った点です。頭の中に湧き上る『現実には無い事』を恰も現実の事のように対応した点です。

強迫観念も予期不安も同じく『頭の中に湧き上る感情や考え』に過ぎません。いわば妄想に近いものと思います、現実の出来事と頭の中の出来事の区別が付き難くなる事が『強迫観念や、予期不安』にあたると思います。

人間が望む事を望むままに手にする場合と、望みながらも望む事が逆に遠のいて行く場合と二通りに分かれてゆく場合があります

この違いは仕事をする場合にも当てはまります、或いは恋愛の場合でも対人の場合にもです。特に健康を強く望む場合では特にこの傾向は強く出る場合がありますので、健康、幸福、自由と言う事を特に強く意識した場合での二つに分かれてゆく場合での違いを書いてみます。

簡単に書いてみますので、、質問があったら又受け付けたいと思いますので概要だけ書いてみます。

その違いは、この世は『二つの違う世界が交錯しているからです。』一つは真実一路の世界ですが、もう一つは『頭の中で再構築された、仮の世界』です。いわゆる妄想が支配している『虚』の世界です。

この二つの違う世界がそっくりそのまま目の前に展開しています。  

先の神経症的な判断で生きていた、或る妻の話で説明すると分かり易いと思いますので、この線から書いてみます。この妻の対応のしかやは二通りあったはずです。

一つは『夫のために夫の必要な事に気を使い夫のための妻として行動する事です。』例え夫が去るのではないか?と言う不安があったとしても『その不安を相手にしないで』

一つは『夫が去らないため、その不安を大事にして』夫にも協力を願って、その不安を解消する事を先にして生きる事、つまり、夫の事は後回しにしてです。夫の世話をなおざりにして『夫が去る事を心配して何もしないで、不安と戦う事』を大事にして生きる事を意味します。

この二つの生き方の違いは『現実の対応をするのか?』『現実の対応を後回しにして、頭の中の不安の相手をするのか?』と言う違いです。

話を変えてビジネスの例で話を進めます。ビジネスの究極は戦争と言う事で、戦争の話で説明します。織田信長の例です。

自分よりも兵隊の数では、十倍以上の軍勢が自分の領地を通過しようとしています。普通の考えでは自分が戦争に敗れて、『自分の首が飛ぶかもしれません』その心配をしないで(例えしたとしても)現実の対応は『今川義元の首を取るための現実の対応を』着実に推し進める事をします。

今川軍では『自分の首が飛ぶ事』は無い事として、現実の対応を怠った事が命取りになります。

何が大事と言う話をしています。

頭の中の心配事を大事にして生きるのか?或いは拙いとしても今此処での現実の対応を大事にして生きるのか?と言う話です。

人間には『意識する力』が有りますが、その『意識する力が、人間の生きる力を相殺してしまう場合があります。』事、不安に対して戦う場合に特に顕著に出ています。

その不安の元は本人が自覚していたとしても自覚出来ないとしても『人生に対しての不安や疑問です。』或いは『生命』に対しての不安や疑問です。或いは『自分自身に対しての不安や疑問です。』

と言う事で、自分自身の『考えや感情が湧き上るシステム』に付いての科学的な証拠です。

『”ロジャースペリー 分離脳
ノーベル賞受賞者
受賞年:1981年
受賞部門:ノーベル生理学・医学賞
受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究

ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。”』

この記事を補完するために、脳科学者が『その体験を』動画で語っているものがありますので載せてみます。

URL:

この脳科学者が語っている体験は、宗教的な体験です、『禅』では、自分自身を知るという体験です。見性体験です。キリスト教に於いては『神に会って、和解しているところ』です。

右脳の人格は心臓を動かしている人格です、或いは感情や考えを『湧き上がらせている人格です。』或いは、人間の行動を自由自在にしてくれている者、と言う存在です。

言葉にするなら『命そのものの働き』です。

メンタル面が強いと言う場合では『自我意識が出ないようにしていた時』代わりに出て働いてくれている人格です。

メンタル面が弱いと言う場合では『自我意識が出たままになって』出てこれなくなっている人格です。

その人格は『無意識の中に封印された形で』存在しています。危急存亡の時には『自我意識を抑えても』勝手に出て来て、自我意識の変わりに『身体も心も支配してくれる場合があります。』

火事場のくそ力と言う場合や、『思わずに勝手に身体や心が動く場合です。』目にごみが入ろうとする場合などです。

この働きは『生命の維持装置』として働く事によって『人間の生命活動』と『精神活動』と『行動に於いての自在性』確保出来ています。

人間の自我意識は『自分の無意識』と交替制がキープされている場合に『健常者』としての生活が保障されています。この交替制があまりにも巧妙に出来ているために、その切り替わりに気が付きません。

この切り替わりがスムーズに行こなわれている為に、切り替わりに気付かない場合に『健常者』と読んでいます。

この切り替わりがスムーズに行かなくなった場合、その切り替わりがスムーズに行かなくなった箇所別に』名称が変わってきます。

身体の機能の切り替わりに気付いた場合に『自律神経失調症や過敏性腸症候群』等の身体の機能に付いて『違和感や機能低下』を執拗に訴える事になります。


『湧き上る考えや感情』に気付いた場合では『心を病む』と表現しています。

自分の行動に違和感を抱く場合では『行動の自由が利かなくなる場合があります。』神経症と言う事を意味します。

共に違和感を感じています、人間の意識する力が『自分の命の働き』と仲違いしている事を意味します。処が検査では『身体にも脳にも』機能的な異常は見つける事が出来ません、何故なら正常だからです。

只一つだけの違いは『意識する自分』『無意識の自分』の交替制がスムーズに行かなくなっただけだからです

この回答への補足

「臨済宗の作法がわかるサイト、本」の回答がちょうどないので、お礼中の追加質問についてそちらで回答をいただけるとお二人をベストアンサーにすることができるので

補足日時:2013/04/06 10:50
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答いただいてありがとうございます。回答者さんのホームページで質問したいのですが、ネット規制の環境に滞在していて掲示板だけは表示されませんでした。Okwaveで「臨済宗の作法がわかるサイト、本」という質問をさせてもらっているので、そちらで回答をいただけると助かります。恐れ入りますがよろしくお願いします。

(1)
唾恐怖は現実の不利益を避けたいがための神経症だと思います。現実での不利益を避けたくて、自我意識が放せなくなっていると思います。

舌打ちには悪者がしていい人はしないという社会的な側面がありますが、これが難しいです。望まない舌打ちをしてしまうことが嫌です。口の音を気にしはじめたら、他者に舌打ちのような口の音を聞かせないためには、私が自我意識によって制御しつづけるしかないです。

他者から「いい人、堅気、純粋」、として見られて、「容赦、勘弁、手加減」などをしてもらわないと、私には自尊の危機だからかもしれません。
唾恐怖に関して、助言をいただけるとありがたいです。

(2)
声にすることはないのですが、悪口やひどい命令などの言ってはいけないことを心の中で他に言ってしまうことがあります。尊敬する人や敵わない人などの前ほどそうなります。言ってはいけないとき、言ってはいけないことほどそうなります。強迫観念かと思います。

出家は一つの選択なのですが、このことがネックになって踏み出せません。
お寺には声に出していない声まで聞いてしまう僧もいるかもしれません。
一般生活でも、自分にすらわからないように抑えておくという方法によって、他からも私のそういう部分を隠しています。

想像は一種の自我意識でしょうか?想像があるとき(想像が浮かぶとき)は逆に楽です。想像が浮かばず自我意識があるとき、きついです。たとえば(1)や(2)の懸念のために、自我意識で悪口が浮かぶことや口の音が出ることを制御しつづけるときは、イメージとして浮かぶような想像がないのできついです。引っ込めて抑えているので、必要なはずの不安や疑念なども感じません。

修行では負けや折られるのを覚悟で汚いままぶつけていくのも方法かと思いますが、社会生活ではどうしたらいいでしょうか?
自我意識によって制御しないと他者に迷惑をかけてしまうのではないかという強迫神経症には、どう対処すればいいでしょうか?

お礼日時:2013/04/06 10:43

私にこの質問に関する事柄の知識はありません。


この回答はエイドリアン・ウェルズさんの提示内容をわかって回答しているのではなくて、片鱗から想像を膨らましているだけです。
 
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
次の論文は参考になりませんか。
http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s …
 
Adrian Wellsさんは、「妄想」と「妄想が起きることを気にすること」とを考察したのではないですか?
http://ameblo.jp/l-counseling/entry-10145241919. …
 
ネガティブな感情は、「悪いことを想像してしまった」ことそれ自体の影響ではなくて、「本当に何かしら悪い影響が及ぶのではないかと心配する」ことによって生じるのだという理解はよくわかります。
こうした「質問-回答サイト」にも、こんな夢を見てしまった。夢占い・夢の分析をしてくださいという投稿がしばしばあります。 夢は、もともと滅茶苦茶で連続性もなければ、想像力をいくら発揮したところでも無理なほど無茶苦茶なコラージュなので、それを気にしてもなにも本人には合理的な感覚は生まれるわけがありません。 問題は、それを強く気にし、何かに結びつけようとすることにあります。 「気にすることで気になるスパイラル」が起きます。
そのあげくが強迫観念といわれることになりますが、上記PDFの論文P17/169には次のような記述があります。 
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
心配は,イメージとして,または,「もし~なら」といった自問の形(「もし試験に落ちたらどうしよう」など)で生じる侵入思考によって,引き起こされる。例えば,ニュースといったような外的な要因をきっかけとして,最初の侵入思考が生じる。一旦きっかけに遭遇すると,心配に関するポジティブなメタ認知的信念が活性化する。この信念は,「心配することは対処するのに役立つ」,「心配しているおかげで,安全でいられる」や,「心配することで,準備ができる」といったように,「心配は対処方略として有用である」というポジティブな内容を含んだメタ認知的信念である。このポジティブなメタ認知的信念によって,タイプ1の心配が導かれるのである。
さらに,GAD において問題となるのは,タイプ1の心配が持続した結果,心配のプロセスや結果に関するネガティブなメタ認知的信念により生成されるタイプ2 の心配である。ネガティブなメタ認知的信念とは,「心配のせいで,気が狂ってしまう」,「心配をコントロールしなければならない,さもないと,何もできなくなる」や,「心配は制御困難である」といった信念である。タイプ1の心配をしている間に,ネガティブなメタ認知的信念は活性化し,タイプ2 である心配のプロセスへのネガティブな評価を引き起こす。タイプ2 の心配は,一旦活性化すると,不安感情や不安行動をより一層強化する。さらに,高まった不安反応を,脅威への対処の失敗のサインとして解釈してしまうため,タイプ1 の心配を持続させる悪循環に陥り,結果的に心配が長引くことになる(Wells, 2000)。
このように,心配が持続し,制御困難になるプロセスにおいて,心配に関するメタ認知的信念は,不安症状を悪化させる重要な役割を果たしている。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「思考と対象の混同(Thought object fusion: TOF)」というのは、「{[想起した内容]と[想起したという事実についての懸念]が分離せず、渾然として本人を混乱させ悩まししていること}と{そうした混乱に基づく脅迫行為が起きていることをカウンセラーやセラピストが理解していないこと}との結合による新治療法における無茶苦茶な混沌fusion」ということではないのでしょうか。 
メタのメタみたいですが、メタ認知が人にも社会にも大きな影響を与える原因であることを考えると、何となく、そんな気がします。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

治療者が患者と一緒に無茶苦茶な混沌fusionしているとなると、治療法は回答者さんの指摘するようなひにくなことになってしまいそうです。
メタ認知療法(第3世代の行動認知療法らしいです)がそのようなことも乗り越えてくれれば、患者の立場として助かります。

論文とウェブページを紹介してくださってありがとうございます。
『侵入思考そのものよりも,侵入思考へのメタ認知的評価が苦痛をもたらす』ことは興味深いです。
「妄想に現実との関連を見出すことで苦痛がもたらされる」ということですよね。
私の場合は妄想と現実とが関連したとき、なにか不利益が予測されて、その不利益が嫌で回避してしまいます。
1、妄想に現実との関連を見出す
2、現実の不利益を嫌がる
2が解消されれば1の解消はたぶん不要です。思考と対象の混同(TOF)はどちらかというと1に対処するようで、エイドリアン・ウェルズのTOFだけでは2に対処することが難しいのではないかと思いました。紹介いただいた論文とウェブページの思考と行動の混同(TAF)についても今後調べてみます。ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2013/04/06 10:17

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!