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 (α) ブッダター(仏性)は 生命なのですか?

 あるいは
 (β) アートマン(霊我)は 神の霊であって 非経験・非思考だとおもわれる。か?

 (γ) ブッダターは けっきょく アートマンと同じなのではないか?

 (δ) 生命とは この神であり霊であるのか? そのようにただ想定されているものに過ぎないのか?

 (ε) それとも 自然科学によって検証され得るものですか? 経験事象ですか?

 (η) あるいは 非経験・非思考でもあり 経験事象でもある? そんなことはないかぁ。

 (θ) ヒトの自然本性は 身と心だと思われるが そして霊とは これらを超えたワケの分からないナゾだと思われるが では 生命とは何ですか?

 (ι) ヒト(あるいはほかの生物)に付属している(もしくはそのむしろみなもととしてある)チカラでありハタラキであるのですか 生命は? 遺伝子のハタラキですか?

A 回答 (31件中11~20件)

「ぶらじゅろんぬ」は判らない、と言う人達にとってブラジュロンヌさんが、今回ここに記した“定義”は、判るための資料となるかも知れません。



いろいろ考えているうちに、思い付いたことがあります。
生命(一般的な意味で)が単純なものから複雑かつ高度に段階を経て成長してきた様に、精神も同様なのではないかと。

アメーバにはアメーバレベルの精神が具わり、昆虫には昆虫に合った精神が宿り、こうして精神は肉体と共に成長し、そしてほ乳類としての精神が作り上げられてきた、と考えてくると、なかなか面白いですね。

時間がなくなったので一旦ここで、投稿しておきます。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 「ぶらじゅろんぬ」は判らない、と言う人達にとってブラジュロンヌさんが、今回ここに記した“定義”は、判るための資料となるかも知れません。
 ☆ そうですか。No.22お礼欄での定義ですね。

 あらましを述べました。そりゃあ 理解の糸口になれば それに越したことはありません。

 《生命》は 自然科学としてどう扱っているのか。これが分からなかったのが この質問の目的だっただけなんですが。



 ★ 生命(一般的な意味で)が単純なものから複雑かつ高度に段階を経て成長してきた様に、精神も同様なのではないかと。
 ☆ この点も 生物学やら知識があれば くわしいことが言えるのかも分かりませんが。つまりわたしは 残念ながら ああ そういう見方があるのだなぁというくらいなのですが。


 ひとの《精神》として特徴となるのは やはり自由意志だと思います。
 いまおこなっている行動のほかにも選択肢がある(あった)という事態ないし情況ですね。

 ほかの動物は 選択肢を持ったとしても おそらく水が低きに流れるように よさそうなものをえらぶというようなことであって ひとつ決めたら そのまま行動するのではないかと思います。

 途中では 外からその行動を妨げられないかぎり そのえらんだことをやり続けるのではないかと。

 おまけにヒトは 自分の心にさからってでも 何かをなそうとするようです。

お礼日時:2013/05/06 14:37

 仏性、という言葉は、仏(ほとけ)そのものとは切り離して、生命(肉体)に備わっていると思われる“仏の性”の事を言う時に使うのだと思います。


 生命、とはブラジュロンヌさんも言うように、身と心、と言うように捉えられます。

 この意味で使うところの“生命”という言葉を、何とかして非思考の世界に於ける精神、そのものをも生命と言いたいと云う事は、仏性=人間、と捉えたいという思いがあるから、と受け止めましたが?
 
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 そうですね。

 あらためて ここで定義した結果(内容)をしるします。

 1. 神は この世のものではありません。《非経験の場》と想定します。

 2. この世の《因果関係に影響をされない》といったふうに規定できます。

 3. この《神》は 雲をつかむようなナゾの何ものかであって これを《霊》とも呼びます。ワケが分からないものだからです。

 4. この神の霊は――最初の想定を伸ばして さらに――人間にも生まれつきそなわっていると想定します。

 5. 自然本性――生まれたままの《身と心》のことです――に神の霊がやどると表現します。

 6. あるいは 一切衆生 悉有仏性(あらゆる生き物は ことごとく仏性を持つ)というふうに聖霊のことを仏性とも言ってあらわします。

 7. これらの想定事項は 一般化した内容の《梵我一如》という類型だと捉えます。

 8. すなわち
 
  類型:梵我一如: 神========人 の一体
  _____________________
  ブラフマニズム:ブラフマン===アートマン:(梵我一如)
    
  ブディズム:アミターバ・ブッダ===仏性:(仏仏一如)
 
  イスラーム:アッラーフ=======霊:(霊霊一如)

  クリスチアニズム:クリストス====霊:(霊霊一如)
  
  ・・・・・

 9. これらの《神 / 神の霊》そして《アートマン / ブッダター(仏性) / 聖霊》が それとしての《生命》です。呼び代えるかたちです。

 10. ただし 《生命》と言えば 生きている人や動物あるいは植物などについてそのチカラを捉えて よぶ場合もあります。寿命であったり 活動力であったりする場合です。

 11. すなわち 次の《ひとの内面》の図解としては 《霊ないしその信仰》をめぐっての《非思考の庭》における生命を言うとする場合(狭義で特殊)もあれば その存在の全体をとらえてそのチカラを生命とする場合(ふつう一般)もあるとなります。

   ○ (ワタシなる存在における自然本性の内実) ~~~
 
   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)
   ____________________
   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)
   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)
   ____________________

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 こんな感じでしょうか。

お礼日時:2013/05/06 04:48

残念ながら貴兄とは話が成り立たないようです。

またいつか機会がないとも言えませんが、今回は通じない部分が多すぎたのでしょう。楽しく話ができる時がくることを願って、申し訳ないが、私からはこのレスで終わりにしたいとおもいます。
最後に回答が物足りなかったようですので追記しておきます。
先ほど申し上げた働き、仏性とは、言うなれば見えざる方向性、と言ったようなもので、それは生命とも、霊とも、神とも言えないものではないでしょうか。
以上、引き続き探求されてください。
ご満足の行く回答にめぐり合うことを祈っています。
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この回答へのお礼

 

  はづかしめとあなどりをおまえはこうむっているのだぞと
  わたしがあなたの明かしを問い求めるたびに
  言って来る者がいます。
   (Psalmos 118:22〔または 119:22〕)

お礼日時:2013/05/05 08:57

命我で検索したらこういうサイトがありました。


ジャイナ教は相対主義だけどアートマンはある。らしい。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

マーダヴァ『ジャイナ教綱要』を解読する
http://www.philosophyguides.org/decoding-of-madh …


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
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この回答へのお礼

 つづいてです。


 ▼ (マーダヴァ『ジャイナ教綱要』を解読する ) ~~~~

 § 4 でもアートマンは存在する

 このようにマーダヴァは「相対主義に基づくジャイナ教最強!」と言うわけだが、当然ここで「では、アートマンも解脱も無いのでは?」という反論が想定される。あるといえばあるし、ないといえばない、というのがジャイナ教的“正解”なのだが、マーダヴァは「いや、アートマンはある」と強弁する。


  ――アートマンがなければ、現世と来世の果報のために準備することは無意味となってしまうだろう。したがって、来世まで持続する我(アートマン)は存在するのだ。

 この言い方は強引であるばかりか、論理として成立していない。来世のためにどれだけ苦行しようが、そのことはアートマンの存在を証明しないからだ。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 輪廻転生は わたしは受けつけません。
 けれども 《命我( これが jivah でしょうか)》をアートマンと言っているということで そのことは 《生命》という言葉の用い方が分かったと思っています。

 ありがとうございました。

お礼日時:2013/05/05 04:35

犢子部


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%A2%E5%AD%90% …

この派は、輪廻の主体としての人格的主体である「補特伽羅(ほとがら)」(Skt.Pudgala)を、五薀のほかに想定したことが特徴である。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


プドガラというのがあるようですね。

pudgala
http://spokensanskrit.de/index.php?script=HK&beg …


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


根本有部律『出家事』に見る「外道」 (1)
http://ayiva.sakura.ne.jp/doc/gedou/id-cl/pvinay …

「外道者は、 我々の法と律に沿って育っていかないのでプドガラにするのだ」


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


プドガラにするとはどういうことなんでしょうか?
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ 輪廻
 ☆ については議論し終わっていると思いますが。

お礼日時:2013/05/05 04:29

いえ、別に喧嘩を売っているのではないのです。

質問には正直に答えたいのですが、質問文自体が、何を言っているのかがなかなか読み取れないのです。たとえば、質問者にとっての神や霊、あるいは生命というものを理解しないと答えられないのです。私個人としては、仏性とは、人ならば誰しもに備わる目覚めようとする働き、ではないかと捉えています。人生に苦楽、諸々のことがあって、迷い多い世の中ですが、それかから目覚めようとするはたらきです。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 私個人としては、仏性とは、人ならば誰しもに備わる目覚めようとする働き、ではないかと捉えています。人生に苦楽、諸々のことがあって、迷い多い世の中ですが、それかから目覚めようとするはたらきです。
 ☆ ならば その見地から 仏性を生命と呼べるか? この問いにご自分の見解として回答なさればよいはずです。

 それでも 質問の趣旨がわかりにくければ 回答の前の段階で それをよすか それとも趣旨をさらに説明せよと要求すればよい。


 あとは――ほかの文章は―― もし定義が分からないから答えられないのだとすれば 感想程度のですが批判〔にしろ賛同にしろの評価〕が持ててそれを表明したということが くるっています。

お礼日時:2013/05/05 04:26

 生命体の“体”は有機質と言うようですが、この有機質が自身を維持するために自身で活動するのを生命と言うならば、精神のみの活動を生命とは言いにくい。



 精神であるアートマン(霊我)を生命と呼ぶのはかえって紛らわしくなります。
 こう呼んでみたいと云う事は“生命”という言葉に、ある思いを込めようという意があるから。

 仏性=生命=自然本性=人間

 この図式に拘っていますか?

 
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この回答へのお礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ 精神のみの活動を生命とは言いにくい。
 ☆ つまり生命活動の中に とうぜん身と心とがあるでしょうね。


 ★ 精神であるアートマン(霊我)を生命と呼ぶのはかえって紛らわしくなります。
 ★ こう呼んでみたいと云う事は“生命”という言葉に、ある思いを込めようという意があるから。

 ☆ いえ ひとそれぞれに定義があると思うのですが いちおう質問者としての取り決めを申しますと:


 1. ひとの存在: 身と心 / 身体と精神 / 感性と理性

 2. 自然本性: 身と心それぞれの性質と能力を言う。

 3. 感性: 身の五感が知覚すること。

 4. 悟性: 知覚を認識する。知覚は 世界事実に接して起こるゆえ 悟性は 世界の事実認識である。

 5. 理性: 悟性の成した事実認識ないしその情報を整理しつつ――その一つひとつの意味内容を整理しつつ―― そこからさらにあらたな(或る意味で将来へ向けての)意味を捉えようとする。この場合 しばしば意味の連絡は 感性を括弧に入れておいての論理的なつながりに収斂していく。

 6. 判断: 理性のおこなった推論とその結果について 或る基準によって取捨選択する。その判断基準は 一般に主観的な《よいかわるいか》である。おおむね善悪である。

 7. 知解: 感性の得た感覚を認識して知識ないし情報として捉えたあと理性がこれを意味づけさらにあらたな意味連関をみちびきだす。

 7-1. あるいはさらに理性は 事実認識としての情報を概念として整理し この概念をすでに――感性から一たん離したかたちの――観念としこの観念を 想像力にまかせてあやつりつつ 或る種の推論をみちびく場合もある。こうして 選択肢をととのえ 判断過程へと送る。
 ここまでが 知解という作業である。

 8. 意志: 判断能力とその行為を言う。選択肢の中から 一般によいものをえらぶのであるが 良し悪しの評価と判断は やはり主観的なものである。(学習過程を経つつ くせ・ならわしとして培うようになる)。

 8-1. 自由意志は 周知のように 必ずしも善と思うものをえらぶとは限らない。おのれの心にさからって負の善(つまり悪)をえらぶことも 少なくない。

 9. 記憶: ただしこれら知解および意志に或る種の仕方で先行する自然本性の能力として 記憶がある。おぼえるというよりは 存在にかんするすべての(つまり本性としてすべての性質および能力の)あり方の秩序作用である。自己組織化のハタラキである。

 9-1. 記憶は 悟性が認識した知識としての情報を むろん整序してその倉庫におさめる。

 9-2. たぶん 狭義の理性による論理的な情報整理とは違った《身と心の全体にとっての》整序作用を持つというように思われる。

 9-3. 言いかえると 《わたし》が意識していないハタラキであり 直接に意図(意志)もしていないそれであろうと思われる。

 9-4. 記憶は 取捨選択した判断とその内容を実際に行為したという意志行為の実績を整序しつつ記憶し その記憶の中にとうとぶべき意味内容のたくわえを持つ。これは 知恵だと考えられる。

 10. 知性: これは 知解という行為能力を言う場合が一般である。ただし 知恵をもふくめて言うこともあるか。

 11. 境地: 《記憶・知解および意志》の三つの行為能力の全体を言う。つまり 自然本性の――特には 精神にかかわる――全体のことで 特定の《わたし》の実際の存在形式である。その状態である。知恵と知識とそして判断力あるいは度胸などを含めたかたちである。

 11-1. 境地と言うときには 特には 《信じる》という契機をふくめて言うものと思われる。

 11-2. これは 《非思考の庭》がわが心に成るといった状態――そしてそれは 動態――だと考えられる。

 11-3. それは 《神》が《非経験の場》として想定されるところから来るものと思われる。
 



 12. 生命: これらすべてが 生命の活動だと思われる。

 12-1. いくつかの範囲の異なる定義をするなら まづ上の全体としての生命は 次のように簡略に区分される。

   ○ (ワタシなる存在における自然本性の内実) ~~~
 
   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)
   ____________________
   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)
   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)
   ____________________

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 12-2. すなわち 《非思考の庭》が 《霊としての生命》である。

 12-3. 《思考および感性》が 生命活動の領域であり 経験事象に属する。

 12-4. ひょっとすると 《生命》は これら両方をふくめて言う場合があるだろうか?

お礼日時:2013/05/05 00:02

霊だとすると6gという話もありますが・・



と こんばんわ

相変わらず と言っては失礼になりますが
言っちゃえ・・やっちゃえ・・
といった感じみたいな
お元気でなりよりです。



生命の不思議さ・・
解明できたらいいですね
分かったという人がいたら聞いてみたい
なぜ?
心臓は動いているんだろう?
心臓に聞いたって分からない

田植えの時期で
田んぼに行って、水や泥を見ていて
なぜ?
水はあるんだろう?

風に吹かれて 気が付いて
なぜ?
風があるんだろう?

雲を見ていて 白い雲がきれいに見えて
なぜ?
雲や空があるんだろう?



>ヒトの自然本性は 身と心だと思われるが

身という体、「たい」というものなんですが
やはり 「たい」というもの 目に見えるものから入っていったほうが分かり易いのかもしれませんね
自然の「たい」の実感という 拙いところから入ってゆく・・

と言うと 仙人みたいな言葉になりますが
たぶん・・
仰っている 非思考の庭の領域である・・と一蹴なんでしょうね

感性の領域からのトライ 以外に何らかの方法がありますかね
きれいな答えとしての言葉はいくらでもあると ご存じでしょうから
方法論の一つとして上げておきますよ

いつも
だいたい だ
と叱られそうです
でも
すこしは
さらっ と言える訳もある・・といえばあるような
濁しておきましょうか
先回りして言っていただいても結構です

Bさんは いつも結論を先にもってきますね
Aというやつは いつも結論を最後に言うという根性の悪さ・・が売り物なんでしょう
そんなところで ご勘弁を・・
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この回答へのお礼

 ★ Bさんは いつも結論を先にもってきますね
 ☆ これは トレードマークでしょうね。
 と確認して まづはご回答をありがとうございます。


 今回は じらし戦術と見られてもしょうのない回答速度ですね。



 そして ただしですね。すでにやり取りの中で触れて来ているように この質問の問い求めとしては わたしに納得の行く回答は得られています。

 ということは みなさんが《生命》について 哲学しておきたいという志向性を持っておられる。そういう延長線になっています。



 それから さらに確認としては 《非思考の庭》は あくまで《想定する》というかたちで そういう概念を持ち出しているということです。つまりは もともと《神》が《想定》による概念であると捉えるところから出ています。


 言いかえると 一たん想定した上では たとえば《アートマン》は 《神の霊》として 《非思考の庭》の問題だと見る。そういうことになります。仮説としては もうはっきりした概念での世界認識となって行きます。

 つまり 《生命》も それが《仏性》の言い換えとして用いられる〔と思われる〕ときには この非思考の庭に呼応するところの《アートマン=神の霊》にひとしいと想定し定義する。ということになります。


 その上で 《生命》なる霊? 活動? あるいは まぼろし? をめぐって 探究の道をすすめてください。ということになるかと思います。

 じっさいもんだいとして 日常に活動しているものも生命と言いますからね。



 うちは 都会の中でも 郊外とのあいだにあって 近くではところどころに田んぼも畑もあります。
 つまり それらは さすがいまは小さい狭い区画に残っているという程度なのですが。

 ところが 割り合い広い区画で残っていた田んぼが このたび 埋め立てがおこなわれ ぜんぶそこに家が建つことになりました。一戸建てがいくつかとマンション風のアパートがいくつか。

 しばらくそこを通らなかったら 見る見るうちに もう三階か四階まで伸びていました。(田んぼを埋め立てたとき そこに盛った土の上にただちに家を建ててもいいんでしょうかねぇ。土の土台が固まっているんでしょうか)。

 つまり要するに 自然のいのちが うしなわれていくのか。それとも 人間の生存のチカラとしてのいのちのほうがまさっているのか。生きることも 自然本性の内。なのか。
 

お礼日時:2013/05/04 23:20

 真珠ができるのは貝の体内に“核”なるものが偶然入り込むから、との事のようですが人の心にも“核”としての精神があるように思います。


 そして人の“核”は同質あるいは同等、あるいは共通しているのではないかと考えます。
 同じだ、と云う事です。

 ただ、単純な生命体とは違って人の個体差は大きく、それは“核”に張り付く精神が、何らかの因によってある性質と言うべきものを含んでいるから。そしてそれを私は霊、あるいは霊魂と言ってみたい。
 この“核”と“霊”の結合が生命誕生の瞬間!

 そして“核”にくっついた“霊”は成長と共に日常生活で活躍する“我”が出来てきてそれを普通“私”と言うのだろうと思います。

 したがって“霊”あるいは“魂”と呼ぶものは自身では最も変えることの出来ない“性質”であり、個性のみなもとかとも思います。
 そう考えると“私”という心は成長過程で育つもの、あるいは育てるものと言えそうです。

 結論。
 ブラジュロンヌさんの言う「非思考の庭」は“核”の事。
 “核”は宇宙の精神そのもの。
 この“核”を仏性と言う。

 こんな感じでどうでしょうか。
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この回答へのお礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~
 結論。
 ブラジュロンヌさんの言う「非思考の庭」は“核”の事。
 “核”は宇宙の精神そのもの。
 この“核”を仏性と言う。
 ~~~~~~~~
 ☆ ええ。《仏性》が《非思考の庭》にあると想定されるということ。この点で 見方を同じくします。



 ただし この定義は やっかいではないとしても いちいちはっきりさせておかないと あいまいになります。

 つまり問い求めは 《仏性》を《生命》と言いかえてよいか? から出発していますが

 たとえば ねこさんの見解は 

   けっきょくアートマンと同じ《神の霊》として
   《生命(もしくは いのち)》を定義しておくなら 
   仏性は生命であると言いかえることができる。

 です。これにわたしも同道しています。

 つまりいちいちの定義というのは 《生命》には じっさいに《生きている》であるとか《生活している》だったりあるいは《寿命》のことを言ったりする意味がある。そしてこれらは 実際にひとが経験することがらです。ゆえに 《霊としての 生命》はそれらとは別箇に定義をしておく必要がある。非経験を想定するかたちでです。――こういうことでした。




 つまりはつまり わいわいえいとさんがここで用いた《霊》は ちょっと別となっています。
 ★ ~~~
 ただ、単純な生命体とは違って人の個体差は大きく、それは“核”に張り付く精神が、何らかの因によってある性質と言うべきものを含んでいるから。そしてそれを私は霊、あるいは霊魂と言ってみたい。
 ~~~~
 ☆ 微妙のようですが これは むしろ《この経験世界において 具体的に活動する生命》として《霊・霊魂》を定義し用いておられる。のではないか?

 いえ確かに微妙なので そしていろいろであってよいのでしょうが 《核》も《精神》も どうも非経験と経験との両方にまたがっているかも知れないですね。
 ★ この“核”と“霊”の結合が生命誕生の瞬間!
 ☆ というように むしろ両方にわたるという見方を目指しておられるのかも分かりません。



 わたしの使う物差しとしては 次のようですと記しておきます。

   経験事象か 非経験か

 もしくは

   非思考の庭(信じる)か 思考の緑野(考える)か

 で区分しているというかたちです。

 認識行為(悟性)やその知解としての整理(理性)やあるいは最終の選択をおこなう判断(意志)やとして活動している《精神》は 経験事象です。
 非思考の庭にあってあたかも宇宙霊魂としてあると想定される意味での《精神》もあるかも知れません。


 《核》は 《非思考の庭》と呼応していると定義しておられます。

お礼日時:2013/05/04 22:54

あなたとは話をしたいと思ったが、最初からわけのわからぬ算数の比喩がでてきて(モナド?)、質問者の言いたいことの意味が不明です。

また、誰か他の回答者のウィキのソースを見て、それによる命濁についての知識を正当と思って受け入れたり、随分不用意なことをされているようですが。出だしがこれなので先が思いやられます。

和解しているというキーワードが最初に出ましたが、それならば結構、それで?ということになります。
私にとっては世間はあまりにも広大で知り切ることなどできないが、闘争も和解も存在しているものとして受け取らざるをえない、そんなところの解釈です。世間に関してはこのようです。

(1)生老病死について
生老病死は受け入れがたい苦です。そのまま受け留めると簡単に言い切れるほどやさしくはない。質問者は甘いと思います。大きな病気もされることなく、また、大きな病気のある人、或いは老人の苦などを思いやったことがあるのでしょうか。疑問です。

(2)高邁、素直について
高邁でもあり素直でもあるということでしょうか。おっしゃっているところの意味がよくわかりませんでした。

(3)知識人ぶることについて
私が思ったのは、本当に理解した考えないし思想を引き合いに出しているのかどうかということです。
生半可な理解しかしていないのに引き合いに出して、話を混乱させているのではないかと。

(4)命濁について
わたしはneko氏が引き合いに出したウィキダーマを信用していませんし、それを読んでも納得がいきません。どんなソースであれ、それが正しいといえるだけの見解を氏はお持ちなのでしょうか。私がウィキ、或いは経典などを読む場合には、あくまで、そういう見解もある、程度にとどめています。

(5)対の概念について
へそ曲がりと言うよりは、その立場に立って、、と言う意味です。
醜いといわれる形をもし自分がしていたら、濁りというものが自分にあるとしたならば、、そういう仮定が存在する故に、その相反する二つのものを越えたいという気持ちが起こるのです。
あと、誰が書いたかもわからない経典を引き合いに出して批判してはしゃぐのはやめてください。子供じみていてうんざりします。自分の言葉で責任持って語っていただきたい。そうでなければ私は話をする気にもなれない。

(6)形而上学的概念について
ここについては想像の世界のものとして、うんぬんという記述がありますが、それについては同意します。

(7)仏性について
衆生とは人々のこと、大衆のことです。私はそのように理解しています。また、一切の生けとし生けるものを言う場合は、生類という言葉を用いていることがあります。いろいろな経典がありますから、私もほとんどを把握はできていません。総量からすれば僅かの経典を読んだくらいでしょう。

(8)人格の完成について
同意できる部分もありますが、道徳はともかくも人格の問題ではないというのは疑問が残ります。なぜなら、こういった事柄はまさに人格の話で有るからです。

(9)突飛な見解について
人格完成者という意味が、なにかガチガチの神にも似た何かと誤解されているのでしょうか。あるいは、そうでないならば、どんぐりの背比べというのもちょっとどうかなとおもいます。世間には、立派な人々というのは確かに存在しているからです。
また、ご自分のお話が哲学的だと誤解してしまっているようですが、かなり突飛ですよ、非思考の庭だとかいう表現は独自ではありますが、何をぶっ飛んじゃってるの、と言う印象です。(思考回路に逃げ道を作って立てこもっているような)
しかしながら、あなたは実名も出しているし、対話を諦めない姿勢も持ち合わせているし、(ご自分で思っているほど荒っぽい文体でもありませんし、)私はその点で、話をしてみたいと思ったのです。
この質問は仏性についてですから、仏教の話を出さざるをえないですが、仏教や神学、哲学等々を抜きにして、いつかは素で話してみたいなと思いました。(おしゃべり広場というのもあるそうです。スレッドを立てていただければ訪問したく思います)

以上です。
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この回答へのお礼

 なあんだ。ここでは話したいのではない。こういうことでした。

 ご回答をありがとうございます。

 ブログという手段はあるにはありますが どうもお見受けしたところ ケンカ腰と言いますか 水掛け論による殴り込みと言いますかであると すでに看板をかかげておられるようです。


 事実認識をただすのみの応答としては:

 ▲(デジタル大辞泉:衆生) ~~~~
 http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/105482/m0u/

 《(梵)sattvaの訳。音写は薩埵》 仏語。生命のあるものすべて。特に、人間をいう。有情(うじょう)。

 ▼(コトバンク:衆生) ~~~~
  http://kotobank.jp/word/%E8%A1%86%E7%94%9F
  (世界大百科事典 第2版の解説)

 サンスクリットのサットバsattva,ジャントゥjantu,ジャガットjagat,バフジャナbahujanaなどの訳。とくにサットバの訳語として用いられることが多い。

 サットバとは存在するもの,また心識をもつものの意で,有情(うじよう),含識(がんじき)などとも訳される。

 古くは衆生と漢訳し,唐代の玄奘以後のいわゆる新訳では有情と訳されている。

 またいのちあるもの,存生するもの,いのちをもって存在するもの,生きとし生けるもの,一切のいきもの,一切の人類や動物,とくに人間,人々,もろびとなどというように,さまざまな意味がある。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~


 ☆ こういったところがあります。
 この《衆生》については 《特には人間を言う》という意味合いを 突出させた。こういうことのようです。
 



 ほかにも問題はありますが すでにNo.9の補足欄にて るる応答・説明しています。


 もう少し継ぎましょう。

 あなたは ここで問題としているときの視点をずらして 別の見方を それぞれの主題についておこなっています。《仏性を 生命と言いかえることが出来るか? 仏性は アートマンと同じくけっきょく神の霊であるのではないか?》 この問いを筋としてやり取りをしていると捉えるなら ふつうに受け留めわたしの言い分を受け取ってもらえると思っています。そんなにむつかしいことではありません。


 そのように視点をずらしているという例示・例証はやめにして もうひとつ別のことがらを示しましょう。
 単純な話です。

 ★ 生半可な理解しかしていないのに引き合いに出して、話を混乱させているのではないかと。
 ☆ 相手の文章を具体的に取り上げ検証するという姿勢がないからでしょうか けっきょく肝心の議論はほとんどいつも抜きになっています。
 《生半可な理解しかしていない》と判断し規定しつまりは批判したのなら その検証をするのが 最低限のひととしてのつとめです。

お礼日時:2013/05/04 22:24

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