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 (α) ブッダター(仏性)は 生命なのですか?

 あるいは
 (β) アートマン(霊我)は 神の霊であって 非経験・非思考だとおもわれる。か?

 (γ) ブッダターは けっきょく アートマンと同じなのではないか?

 (δ) 生命とは この神であり霊であるのか? そのようにただ想定されているものに過ぎないのか?

 (ε) それとも 自然科学によって検証され得るものですか? 経験事象ですか?

 (η) あるいは 非経験・非思考でもあり 経験事象でもある? そんなことはないかぁ。

 (θ) ヒトの自然本性は 身と心だと思われるが そして霊とは これらを超えたワケの分からないナゾだと思われるが では 生命とは何ですか?

 (ι) ヒト(あるいはほかの生物)に付属している(もしくはそのむしろみなもととしてある)チカラでありハタラキであるのですか 生命は? 遺伝子のハタラキですか?

A 回答 (31件中21~30件)

面白い人ですね。

釈迦に義理立てなどしていませんが、つまり言いたい事を言って良いという事と受け取りましたので、楽しみにしています。ただ、いつも思うのですが、質問者の言葉は一種自分語のようであり、読みにくいのです。しかしながら、対話しようという意思があるようなので、この際仏教への批判など飛び越えて、一個人として自由にお話ししたいものです。
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この回答へのお礼

 どうぞ。初めから望むところです。

 すでに前回の補足欄に 批判たっぷりにお応えしましたよ。

お礼日時:2013/05/04 20:09

こんにちはです。




☆ そうしますと もし《霊ないしアートマン》なる用語と同じかたちで使うという場合には (b) の生命といった意味を 特殊に想定して用いる。というようなことになりましょうか。

◇だと思います。
仏教の命を意味する《jivita》は、霊魂を意味する《jiva》から作られた言葉だと思います。
仏教の双子の宗教と言われるジャイナ教では、この《jiva》がアートマンです。
仏教とジャイナ教には、用語をはじめとして様々な共通点があります。
輪廻の主体を《jiva》とする先行思想があったのではないでしょうか。

jivaの意味は、以下のサイトで。
http://spokensanskrit.de/index.php?script=HK&beg …

《jiva》、《jivita》ともども、語根は《√jiv》で、これは英語の《live》の意味です。
おもしろいですね~、この語に関しては、ドイツ語よりもドイツ語の一方言を祖先にもつ英語の方が、印欧語の古形を保っているようなので。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ◇ 仏教の双子の宗教と言われるジャイナ教では、この《jiva》がアートマンです。
 ☆ これでさらに明確・明快になりました。情報は広く集めるものですね。まいりました。

 


 わたしのなじんでいる情報です。
 《 jiva 》は バイオグラフィの bio- と同根のようです。
 そこから 英語の クイック( quick )もそのまま現われて来ているようなのです。

 ▲ (Online Etymology Dictionary: bio- ) ~~~~
  http://www.etymonline.com/index.php?term=bio-&al …

 bio- :word-forming element, from Greek bio-,

 combining form of bios "one's life, course or way of living, lifetime"
 (as opposed to zoe "animal life, organic life"),

 from ProtoIndoEuropean root *gweie- "to live"
 (cf. Sanskrit     jivah "alive, living;"
  Old English      cwic "alive;"
  Latin         vivus "living, alive," vita "life;"
 Middle Persian    zhiwak "alive;"
 Old Church Slavonic  zivo "to live;"
 Lithuanian       gyvas "living, alive;"
 Old Irish        bethu "life,"  bith "age;"
 Welsh          byd "world").

 Equivalent of Latin vita. The correct usage is that in biography, but in modern science it has been extended to mean "organic life."

 * これは バイオロジの bio- であり それは 動物としての生命組織とそのハタラキを――それを意味していた zoe (つまり 動物園の zo- ですね)に代わって――担うようになったとか。 

 ▲ (ibid.: quick ) ~~~~~~~~
 quick (adj.)  Old English cwic   "living, alive,"

 from Proto-Germanic  *kwikwaz
 (cf. Old Frisian    quik,
 Old Norse      kvikr "living, alive,"
 Old High German   quec "lively,"
 German        keck "bold"),

 from PIE root    *gwiwo- "to live" (see bio-).

  Sense of "lively, swift" developed by c.1300, on notion of "full of life."
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ わいわいがやがや は わやわやがやがや だったと推定され ワの子音( w )とガの子音( g )とは 互いに交替する音韻であるようです。

  ・ go -- went -- gone
  ・ William ∽ Guillaume

 子音/ w / は 子音/ v / とまたやはり交替しえます。ドイツ語などで一般的にそうです。

 そして 子音/ g / は 無声化して(清音となって) 子音/ k / にもなれば これらカ行・ガ行の子音は――《イの折れ》をともなってと言うのですが―― ギィ・キィとなると さらに母音イの強さに引っ張られて ヂィ・チィとなるようなのです。キミ(君)が チミとなるように。

 よって

   Latin: vio > vi-v-o
   Greek: bio
   
   PIE : *gwiwo-

   Old English : cwic > quick

   Sanskrit : jivah
   Middle Persian : zhiwak
   Old Church Slavonic : zivo

お礼日時:2013/05/04 14:59

NO10のついで、ついで。



仏教で《命(根)》を意味するサンスクリットはjivitaです。
jivitaの意味は、以下のサイトで。
http://spokensanskrit.de/index.php?script=HK&beg …

jivita:lifetime, lifeprotecter, livehood etc

で、仏教で《命》はどのように定義されるかというと、
生体維持機能とか生理機能
くらいでしょうか。
『倶舎論』では《煗(なん)》、つまり、体温維持の機能をもって、命を定義しています。それが失われる、体が冷たくなったのが《死》というわけです。
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この回答へのお礼

 つづきまして:

 (a) jivita: lifetime; duration of life

 これが 寿命でしょうか。

 その前に確かに《生命》としての

 (b) jivita: life

 という一般的な意味が見られます。

 (c) jivita: living being; alive; livelihood

 これらなどは 日常の生活あるいは《生きている》といった実際を感じさせる意味のようです。


 そうしますと もし《霊ないしアートマン》なる用語と同じかたちで使うという場合には (b) の生命といった意味を 特殊に想定して用いる。というようなことになりましょうか。
 

 ◇ ~~~~~
 で、仏教で《命》はどのように定義されるかというと、
 生体維持機能とか生理機能
 くらいでしょうか。
 『倶舎論』では《煗(なん)》、つまり、体温維持の機能をもって、命を定義しています。それが失われる、体が冷たくなったのが《死》というわけです。
 ~~~~~~~~~
 ☆ この場合は 《アートマンなる霊としての生命》の――そのチカラから派生するという想定の上での――具体的なハタラキを言う。とすれば よいでしょうか。




 わたしは すでに納得しているのですけれど いろいろ言いたいことが この生命なる主題には みなさんの側にあるようです。それに従いますが。

お礼日時:2013/05/04 13:34

こんにちはです。


例によって、横からしゃしゃり出ます。


命濁は「人の寿命が短くなること、短い寿命」の意味です。そして、この命は「寿命」の意味。


http://www.wikidharma.org/jp/index.php/%E3%81%94 …
─────────
仏教の世界観を表わす言葉で、世の中のけがれゆくさまを5つに分類したものである。順番は各経典で異なるが、掲げられているものは同じである。

人間の寿命が短くなり(命濁)
時代的な環境が腐敗し(劫濁)
煩悩が盛んとなり(煩悩濁)
思想が混乱をきたし(見濁)
人間の肉体,精神とも貧相,無気力になる(衆生濁)

という5つの段階を経て世の中が衰微すると考えられた。

釈迦牟尼仏、よく甚難希有の事をなして、よく娑婆国土の五濁悪世、劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁のなかにおいて、阿耨多羅三藐三菩提を得て、もろもろの衆生のために、この一切世間難信の法を説きたまふ     〔阿弥陀経 p.128〕

濁とは、存在が曖昧になること。「濁」ということの根本は、みずからにとって自分が曖昧になるということである。
─────────

命は汚い、命に対する執着するというような意味は、
《命濁》にありません。
『転輪聖王大獅子吼経》には、
(末法の時代では)本来長かった人の寿命は十歳まで低下し、女性は五歳で結婚すると書かれています。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 端折ったかたちになりますが:
 ◇ ~~~~
 命濁は「人の寿命が短くなること、短い寿命」の意味です。そして、この命は「寿命」の意味。


 命は汚い、命に対する執着するというような意味は、
 《命濁》にありません。
 ~~~~~~
 ☆ ですね。れいんとーくさんの見解について これで明らかになったと思います。

 ただし 次のご回答でほかの《いのち》の意味についても触れてもらっています。

お礼日時:2013/05/04 13:22

高邁に知識人ぶったりしないで、もっと素直に考えた方がいいとおもいます。


命は、命濁として、五濁のうちに数えられていますが、衆生なければ仏がない様に、迷いなければ覚りも無い様に、命なければ解脱もないと考えられます。
美醜、清濁などの相反する対の概念を超えたところにそれがあるのだと思います。
また、この質問で問われている生命と、命は別のものである印象をうけました。科学的にみた生命と、自然にみた生命と、人間的にみた命とは、受け取りが異なります。
たとえば、魚は鮮度が命、といったようないのちも、十分に効用のある言葉の用法と考えられるからです。

アートマンは、いわゆる形而上学的な概念で、魂に類するものと私は考えていますが、魂と言っても、実際に存在する魂といえば、たとえば職人魂みたいなもので、形而上学的概念は、あくまで形而上のみに考えられうるだけで、実際にはあるとかないとか言えない代物です。ですから、アートマンなど無いと言うのも、至って常識的な見解とも見れます。

さらに、仏性についてですが、覚れるのは人間だけで、犬や猫、樹木や岩石が覚って仏になるわけがないので、仏性があるのは人間だけと考えるのが妥当とおもいます。

霊や形而上学、あるいは科学と、仏教を混同されている様ですが、仏とは人格完成者のことをいうのであって、それら、ある種突飛な存在をいうのではないと考えれます。神とも関係ないとおもいます。
質問者の見解は、ある種突飛であり、現実離れした考えからきている、そう言った印象を受けます。
私も気をつけたい事ですが、形而上学は形而上学、神学は神学、仏教は仏教であり、それぞれ別のものとして扱って、混同しない方が良いのではないでしょうか。

以上、冒頭分はじめ、癇に障る事を言ったかもしれませんが、出来るだけ率直に述べたかったためです。ご容赦ください。

この回答への補足

 お礼欄からつづきます。

 ひとは ――そのときにはまだものごころも着いていませんが――

  (あ) 《わたしはわたしである》: 1=1

 という自然本性の状態で生まれて来ます。そのあと ものごころが着いて ひとはへそを曲げはじめます。ウソをつくようになり なかんづくおのれをだましおのれの心をいつわってへそ曲がりなことを仕出かすようになります。

 そこで ときにアヤマチを犯しマチガイに気づくなら・あるいはつまりむしろ他人(ひと)にあざむかれるなら はっとわれに還り (あ)のわたしに立ち帰ります。

  (い) 《わたしはわたしである》わたしがわたしする。: 1x1=1

 こうして やわらがしめられたわたしは わたしの文体をもって――なおもときにはウソをつきまたむしろ到るところであざむかれつつ したがって巡礼の旅路を送るがごとく――生きて行きます。わたしの自己表現がおこなわれるところに わたしの文体がかたちづくられて行きます。


  こういう自然本性の中核のわたしは すでに世界(世間)と和解をしています。もともと和解が成っています。むろん わたしみづからとも和解しています。




 だとしたら――だとしたら――

 (1) 生老病死をいちいちわざわざ自分の思うようにならないという苦だとは見ません。見ても そのままを受け留めます。言いかえると そのままを受け留めたときに すでにもし言うとすれば《解脱》は完成しています。だとすれば ニルワーナなどは 糞くらえなのです。わかりますよね。

 (2) 《高邁・素直》は このわれがわれであるわたし(エゴのことです)なる誰もの自然本性に 気づくかどうかを別にして・だから気づいたあとそれを大切にするかどうかを別として 初めからそなわっています。

 (3) 《知識人ぶる》というのは たとえばここでの回答に有名な哲学者を引き連れて来たりあるいはおお めづらしいと思われるような思想家を引き合いに出したりして悦に入っている場合です。
 もちろん 《知識〔がある〕人》ゆえにそうするのでしょうが もし《ぶる》という観点をあてはめるなら そういう問題となります。

 (4) ★ 命・命濁――☆ これについては 直後の回答No.10で ねこさんが説明してくれています。あなたの提出した論点は ここでの《生命》を問う問題と少し視点がずれているようです。

 (5) ★ 美醜、清濁などの相反する対の概念を超えたところにそれがあるのだと思います。
 ☆ この相い対立する二項の双対・そういう概念構成 これが いちばん《自然本性としてのわれ》に反するへそ曲がりの《思想》なのではないか?

  如是我聞 ねこ・むに曰く:

  ◇◇(【Q:《南無妙法蓮華経》は・・・】回答No.4) ~~~~~~~~~
   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8066155.html

  漢訳の般若心経にはありませんけれども、《無無明。無無明尽》の前に、サンスクリット原典には
 《na-vidya・明知はない》
 ってチャンと書いているんだけれどね~。
 《無明ないよ~。無明尽きないよ~》
 なんですけれどね~。

 《般若・prajna》は、む・ふ・ん・べ・つ・智!!
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ということは

   無明知      明知はない
   無無明      無明はない  
   亦無無明尽    また無明の尽くることがない  

 となるのでしょうか。自信はありませんが 問題は 《明知と無明》との二項対立をはじめに――すなわち《自然本性としてのわれ》におけるがごとく――持ち出して来ることが マチガイである。言いかえると 解脱などというのは 初めのボタンの掛け違いから出発したときの解である。となりましょう。

 《無分別なる智》とは われがわれであるわれがわれなる文体として自己表現して生きるその主観真実であり わが心の知性のことでありましょう。分別とは へそ曲がりなる理屈をこねることであり 自然本性をゆがめてしまう《知識人ぶり》なのでしょう。

 (6) ★ いわゆる形而上学的な概念――☆ これは 思考の緑野での知解および意志行為に属します。想像力もともなわれているでしょう。つまりそれとしての《魂》は 単なる想像の産物であるとなります。

 《霊》にしろその意味での《たましい》にしろ ここで《生命》に当てはめるのは あくまで《非経験・非思考》として《想定する》場合のそれらです。想定するのでなければ 想像の産物となります。単なる言葉のアヤとして文学の問題となります。哲学にはなじみません。
 アートマンは 想定じょうの霊でありたましいです。要するに神です。その意味での《生命》として ここでは理解しました。

 (7) ★ さらに、仏性についてですが、覚れるのは人間だけで、犬や猫、樹木や岩石が覚って仏になるわけがないので、仏性があるのは人間だけと考えるのが妥当とおもいます。
 ☆ わたしはあまり関心が深くありませんが:

 ▼ (ヰキぺ:大般涅槃経) ~~~~
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%88%AC% …

 § 4 大乗の涅槃経
 § 4.3 基本的教理

 大乗涅槃経の基本的教理は、
   1. 如来常住(にょらいじょうじゅう)

 ● 2. 一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)

  3. 常楽我浄(じょうらくがじょう)
  4. 一闡提成仏(いっせんだいじょうぶつ)

 以上の4つを柱として要約される。

 ▲ (コトバンク:一切衆生悉有仏性) ~~~~~~
    http://kotobank.jp/word/%E4%B8%80%E5%88%87%E8%A1 …

 生きとし生けるものはすべて生まれながらにして仏となりうる素質をもつということ。
 涅槃経に説く。
 一切皆成。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち 《山川草木悉皆成仏》はどうか知りませんが 《一切衆生》とは 生物ぜんぶを言うようですよ。

 (8)★ 仏とは人格完成者のことをいうのであって、――☆ こういう道徳は どうでもよいことです。
 それこそ対機説法なのであって 道徳規範に文字どおり合った文体ないし人格をそのまま保ってくづさない。というのは 相手によっては かえって誠実ではなくなるかも分かりません。
 
 縁起共生と言いますか はじめの《自然本性としてのわれ》 これを誰もが生きること。そのように互いに互いの自由やその意志をおもんぱかって ちょっとは――相手より一秒は――道をゆづるということ。こういう問題なのであって 人格がどうした道徳がこうしたといった問題ではない。こう断言しておきましょう。



 (9) ★ 質問者の見解は、ある種突飛であり、現実離れした考えからきている、そう言った印象を受けます。
 ☆ その例示や検証・論証をおこなうこと それが回答者のなすことです。

 ★ 仏とは人格完成者のことをいうのであって
 ☆ これほど月並みであり 現実離れした考えはありません。それを例証した人間がいないと言ってもよいのですが それより何より たとえその完成者が 現実にいたとしても 《人格》とは 経験思考の領域にとどまるものだからです。言いかえると すべては相対性の世界における程度問題だということだからです。どんぐりの背比べをいちいちあげつらっても おもしろくありません。
 これほど哲学離れした哲学はありません。
  

補足日時:2013/05/04 13:17
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この回答へのお礼

 れいんとーくさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 これから午前中は野暮用があります。


 まぁ 老婆心から言うのですが あなたは つつましやかでおとなしく人前では半歩引き下がって相対するというクセ(エートス)をつけたのでしょうか どうもそれがさらに度を増して来ているように思われます。

 こういうことも遠慮なく言う――わたしは――人間ですが しかしながら わたしのようにがらっぱちで――それでも繊細な内容を随所にちりばめていますが――ものごとをズケズケという場合には・つまりそういうクセに出会った場合には むしろあなたの中の少しは《遠慮》していた部分が 出かかってくる。――このようにわたしは見ました。

 つまりわたしの文章に出会って 表出するべきものは表出してくる。湧き出す泉を止めることは出来ない。おそらく いい・あたらしいクセの始まりなのでしょう。


 そう言えば ゴータマ氏にだったか誰だったかに 義理立てしているのではないかと問うたことがありました。
 この義理立ては まだなおりませんね。

 その点は 理論の問題です。

 昼ごろ帰ってきたら 補足欄に 思う存分じゅうにぶんに書き込みましょう。


 もっと自由に。もっともっと自由に。

 いえ もっともっともっと自由に。これが 老婆心の真相です。

お礼日時:2013/05/04 08:50

 本当に生命とは不思議なものです。



 この想像を絶する広大な宇宙に、たった一つしか確認できていない地球上の生命、と云うものについて考えるとき、それは不思議以外の何ものでもありません。

 この宇宙の出来事が“因果という秩序”に縛られているとするならば、地球上に現れた生命も“因果”に依るのでしょう。

 「“人間”が現われなければ“精神”なんて存在しないも同然。
 人間のみが精神なるものを“意識”する。
 精神にも因果はあるんだろうか?」

 こんなことを考えてしまうような、今回の質問です。
 
 言ってみたい。
 精神も因果に左右される、影響を受ける、あるいは因果の反応である、と。

 仏性?

 ブラジュロンヌさんが、今回使うところの仏性って、なに?

 
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この回答へのお礼

 わいわいえいとさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。


 ブッダ-ダートゥないしブッダターは けっきょく霊我なるアートマンと同じものであり 神でありそれは 人間にはワケの分からないもの・その意味での霊である。ということに いまは落ち着いています。果たして わいわいえいとさんには いかがでしょう?


 つまりは 《この経験世界における因果関係から自由である》 そういう存在を想定している。ということだと見ます。
 経験事象というのは 有るか無いかであり・あるいは想像しているものかどうかだったりするわけですが この《有る無い》を超えている。つまり霊としての神と――生命は――同じものだという結論なのですが どうでしょう?

 つまり 思考の緑野や感性の原野ではなく それらを超えた《非思考の庭》だという見立てです。

 このスレは 意外と伸びますね。

お礼日時:2013/05/04 05:29

~~~~~~


 ◇ インドの仏教には、阿摩羅識はないんですけれどね。
 ☆ そうなんですか。唯識でも 中国産なんですか。

 でも ますます アマラ識も――身の一部としてではなく 霊としてやどるものとして―― 如来蔵でありブッダターであり アートマンであり 神の霊である。と考えられて来ます。
~~~~~~
僕の記憶に間違いがなければ、アマラ識を作った(?)のは、インド出身の真諦(Paramartha)というお坊さんです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E8%AB%A6

実はこの人、自分の考えを経典や論書の翻訳文に入れちゃう少し困ったところがあって、それで、中国や日本では、阿摩羅識が仏説ということになってしまった(笑い)。
鳩摩羅汁も実は、そういう困った癖をもっていた。。。
なので、鳩摩羅汁の翻訳はちょっと危ない、これを迂闊に信用したりすると、大変な目にあったりする。
ほら、前に《一念三千》のお話をしたでしょう。
天台チギさんは、この少し困ったところのある鳩摩羅汁さんの被害者だった!?

─────────
一部の経典において、大胆な創作や意訳の疑いが指摘されるものの、彼の翻訳によって後代の仏教界に与えた影響は計り知れない。なお、唐の玄奘三蔵による訳経を「新訳」(しんやく)と呼び、鳩摩羅什から新訳までの訳経を「旧訳」(くやく)それ以前を古訳と呼ぶ。
─────────
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A9%E6%91%A9% …
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 アマラ識が そういうあたらしい知見と言いますかだったら それを仏説として採用したということは どうなるんでしょうかねぇ。

 ◆(日蓮:日女御前御返事) ~~~~
  http://www.sokanet.jp/kaiin/gosho_search/page.ph …

 此の御本尊 全く余所に求る事なかれ・
 只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、
 是を九識心王真如の都とは申すなり、
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 でも アートマンにひとしいとすれば 怪我の功名なのでしょうか。

お礼日時:2013/05/03 23:03

日蓮さんは、九識説をとるのですか。

。。
阿頼耶識の上に無垢清浄のアマラ識(amala-vijnana)を立てるヤツですね。
ということで、例によってWikipedia。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%91%A9% …
─────────
天台宗以下、日蓮宗やその各派でもこの九識論に依り、これを九識心王真如の都と呼んでいる。日蓮は日向記で「究竟即(くきょうそく)とは九識本覚の異名なり、九識本法の都とは法華の行者の住所なり」、「此の九識法性とは、如何なる所の法界を指すや。法界とは十界なり。十界即諸法なり、此の諸法の当体、本有の妙法蓮華経なり。此の重に迷う衆生のために一仏現じて分別説三するは、九識本法の都を立出するなり。さて終に本の九識に引入する。それを法華経とは云うなり」、また日女御前返事でも「此の御本尊全く余所(よそ)に求むる事なかれ。只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱なうる胸中の肉団におはしますなり。是を九識心王真如の都とは申すなり」と述べている。
─────────

やっぱ、如来蔵を説いているじゃないですか、
日蓮さん(ニコニコ)。
阿摩羅識とは、如来蔵の別名!!

インドの仏教には、阿摩羅識はないんですけれどね。
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この回答へのお礼

 つづいてです。

 ◇ ~~~~
 やっぱ、如来蔵を説いているじゃないですか、
 日蓮さん(ニコニコ)。
 阿摩羅識とは、如来蔵の別名!!
 ~~~~~~~~
 ☆ ですから 《真実の神ではないのか?》ともっと問い詰めていかなきゃ。


 ◇ インドの仏教には、阿摩羅識はないんですけれどね。
 ☆ そうなんですか。唯識でも 中国産なんですか。

 でも ますます アマラ識も――身の一部としてではなく 霊としてやどるものとして―― 如来蔵でありブッダターであり アートマンであり 神の霊である。と考えられて来ます。


 けいえすさんらに対して 逆折伏がなりますように!

お礼日時:2013/05/03 21:34

☆ つまり ゴータマはアン‐アートマンと言い この経文は アートマンだぞーと言うってわけでしょう?


◇ゴータマさんは、「確かに、《無為・縁起で作られないもの、つまり、清浄なモノ》はある」と言った。
 勝鬘経は、それを《如来蔵》と言った。
ですかね。


☆☆ 粒と波とは どちらも経験事象なわけですね。両方の性質を持つモノは? まぼろしですか。説明原理としてある。のみ。
◇幻かもしれないです。
量子と名づけた、数学的な手法・量子化もした。で、色々な計算ができるようになった。観測結果とも一致する。
でも、その正体は誰にもわからないです。
数学的な定式化が行われたことをもって分かったというのならば、まぁ、分かったということになるのかも知れませんが。。。
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この回答へのお礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ◇ ~~~~~~~
 ゴータマさんは、「確かに、《無為・縁起で作られないもの、つまり、清浄なモノ》はある」と言った。
 勝鬘経は、それを《如来蔵》と言った。
 ですかね。
 ~~~~~~~~
 ☆ そうなんですか。つまり 《無為》を言っているのですか。つまり それだと 実際問題としてアートマンのことですよね。所謂る《実体》として。なんだかおかしいなア。




 ◇ 数学的な定式化が行われたことをもって分かったというのならば、まぁ、分かったということになるのかも知れませんが。。。
 ◇ 観測結果とも一致する。

 ☆ 検証が出来ているということですね。えらいもんですね。例外も これといったものは ないのですね。
 すでに電子製品などいろんなものに利用されているとか。
 むむ。ますます分からなくなったなア。

 ありがとうございます。

お礼日時:2013/05/03 21:29

以前、『生命』について疑問を持ちましたので、貼っておきます。



タイトルは、『哲学的『生命』とは、何を指しているのか?』です。

科学的、医学的『生命』ということと、哲学的な意味合いでは全く認識が違う為です。
最終的には、《念心》と捉える事にしました。
これは、もちろん一念三千・処具仏性・九識心王真如の都の事です。

是非、論議を深めていただければと思います。


http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6841336.html
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 けいえす5518さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 そうなんですか。
 つまり回答No.3までをもらって いちおう《ブッダターが 霊である》という意味で《生命(また いのち)》と呼びうると知った段階で よしとしていましたが まだ問題は残っていましたか。


 ■ 念心
 ☆ これは 初めて聞く言葉です。思念のふつうよりいっそう深い心なのでしょうか。

 でもそれだと 霊ではなく またアートマンやブッダターではないとなります。経験世界における心的現象だと捉えられますから。

 ■ 一念三千
 ☆ これは すでにそのときそのときの意志行為のあり方を言っていると思われ そういう意味で実存の動態のひとコマごとのその姿勢のようなものだと思われます。つまり 経験存在の動態する姿であるように思います。

 ■ 処具仏性
 ☆ これも知りませんでした。しかも 検索でも出て来ませんね。
 仏性をそなえるところ ですかね。
 仏性そのもののことだと――生命はですが―― 分かりやすいのですが。


 ■ 九識心王真如の都
 ▼ (ヰキぺ:阿摩羅識) ~~~~
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%91%A9% …

 阿摩羅識(あまらしき、skt:amala-vijñāna、菴摩羅識とも)は、大乗仏教の論の一つ。

 唯識思想(法相宗)では、八識を説く。 すべては阿頼耶識より縁起するとし、主に迷いの世界であるが悟りも阿頼耶識より生じるとする。 一方、心は本来清浄であるとする如来蔵思想があった。

 これらの思想を止揚するため、天台宗や華厳宗などの法性(ほっしょう)宗は、この阿摩羅識を加えて新たに九識を立てた。

 天台宗では、阿摩羅識をけがれが無い無垢識・清浄識、また真如である真我、如来蔵、心王であるとし、すべての現象はこの阿摩羅識から生れると位置づけた。

 したがってこれを「真如縁起」などともいう。真如は絶対なる真我なれば「識」とは言い難いが、前の八識に隋縁生起する本源なることから阿摩羅識と名づけられた。したがって法性宗における仏性の異名である。

 なお、法相宗では玄奘がこの説に対し摂論を釈して、第八の阿摩羅識のみを立てて、それは阿頼耶識の果上に至りし時の名称であり、また阿頼耶識が無垢になったものであるとするので九識を別に分けて立てない。 

 天台宗以下、日蓮宗やその各派でもこの九識論に依り、これを九識心王真如の都と呼んでいる。


 日蓮は日向記で

  「究竟即(くきょうそく)とは九識本覚の異名なり、
  九識本法の都とは法華の行者の住所なり」、

  「此の九識法性とは、如何なる所の法界を指すや。
   法界とは十界なり。
   十界即諸法なり、此の諸法の当体、本有の妙法蓮華経なり。
   此の重に迷う衆生のために一仏現じて分別説三するは、
  九識本法の都を立出するなり。

   さて終に本の九識に引入する。それを法華経とは云うなり」、

 また日女御前返事でも

   「此の御本尊全く余所(よそ)に求むる事なかれ。
   只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱なうる胸中の肉団に
   おはしますなり。
    是を九識心王真如の都とは申すなり」

 と述べている。
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 ☆ これでしたら 次の指摘に注目します。

  ▼ すべての現象はこの阿摩羅識から生れると位置づけた。
  ▼ 真如は絶対なる真我なれば
  ▼ 法性宗における仏性の異名である。

 すなわち 

  ○ アマラ識=真我=アートマン=仏性=如来蔵=自性清浄心:生命

 であると。わづかに ヰキぺつまりブディズムの説くところと違うのは これは霊であって・つまり人間にはワケの分からないナゾの何ものかであって それは 身のどこかに存在するというのではなく 〔霊が〕やどるという想定としての見方に立とうと ここ(この質問)では しているところです。


 やはり ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理の簡略版を引き合いに出します。

 ○ (ワタシなる存在における自然本性の内実) ~~~
 
   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)
   ____________________
   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)
   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)
   ____________________

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 つまり ブッダター・アートマンとしての生命は 《非思考の庭》にやどるという想定です。神のことです。 
 たしかに
 ■ 科学的、医学的『生命』
 ☆ とは違っていると考えます。

お礼日時:2013/05/03 21:23

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