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 斎藤利三は歴史上はあまり有名ではありませんが、本能寺の変の本当の
 主犯は彼に間違いないとしか思えません。

 信長の四国政策の変更(長宗我部から三好へ)
 家臣引きぬき問題からの死罪宣告(本能寺の変の四日前)
 四国遠征軍の渡海の前日に本能寺の変
 四国政策の窓口から明智光秀が外されたこと
 林佐渡や佐久間信盛、安藤守就の追放(光秀が高齢で子は若年)

 光秀が自分の未来に恐怖したのは紛れも無いでしょうが、
 さすがに死罪宣告をされた斎藤利三には時間がもっとなかったでしょう。
 今、謀反を起こさなければ自分はまもなく処刑なわけですから。
 あるいは、逆に、光秀が斎藤利三をかばうために謀反をおこしたのかもしれません。
 (引き金ではあります)

 ■そんな斎藤利光ですが異父妹は長宗我部元親の正室です。

 いくら縁続きだとは言ったって、わざわざ遠方から嫁に迎えるなら
 (本当は近い所で、役立つ所で妻を迎えたほうがよほどいいですが)
 それなりの格式の家ではないと釣り合わないと思います。

 見る限り、斎藤利三は明智の重臣ではありますが、さすがに長宗我部元親には
 釣り合わない気がします。斎藤利三の格はそれほどのもんだったんでしょうか?

 斎藤は美濃守護代の家柄、長宗我部は国人だから・・・なんていう発想なんですかね?
 わざわざ美濃から長宗我部が嫁を迎えには、あまり大したことない格のようなきがしますが
 どう思いますか?

 

A 回答 (6件)

nobuake さん、こんばんわ。




質問者様が言っておられるとおり、斎藤利三は家系的にもそれほど出自が悪いわけではありません。美濃守護代の家柄であり、それだけでも名門です。それだけではありません。彼の侍大将としての器量があることから、明智光秀も彼を重臣にしたのです。まさにそれだから土佐国主といっても国人上がりの長宗我部は京都に来て嫁取りをしたのかもしれません。
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この回答へのお礼

 こんばんは。御回答有り難うございます。

 確かに斎藤利三は家系は悪く無いと思います。
 本当は地元で強力な味方になる家と縁組したほうが
 メリットが大きいと思います。

 それを、遠方から嫁に迎えるなら、それなりのメリットが必要では・・
 と思うのですが、その割には、そこまでの格式でもないような・・・。

 例えば土佐七雄の安芸氏は一条氏から妻を迎えており
 一条氏は大友氏から妻を迎えております。

 香宗我部氏は長宗我部氏が乗っ取りますが、縁組があったから
 乗っ取りもできたのではないかと思います。

 そのようなメリットを得られないなら、格式などもいると思いますが
 (武田信玄の三条夫人、今川氏親の寿桂尼のように)そこまでの
 格でもないような・・・。

お礼日時:2013/06/03 22:12

 長宗我部元親が妻に貰ったのは、室町幕府の将軍直臣(奉公衆)である石谷光政(土岐氏)の娘だからですが…。


 (まだ、将軍の足利義輝は暗殺されていませんから権威はあります…。)

 斎藤利三の母が父である斎藤利賢と離縁して、石谷光政と再婚して出来た娘が長宗我部元親の正室になった訳ですから…。
 (輿入れした永禄6年(1563年)だと、明智光秀は浪人として他国を放浪中で、後に明智の重臣として名を馳せる斎藤利三も、この時点では注目される余地は無いのです…。←父親世代が現役なのですから…。)
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この回答へのお礼

 ご回答有難うございます。おっしゃるとおりです。

 婚姻の時の斎藤利三は格としては、問題になりませんね。
 石谷光政の格式が重要なわけですね・・・。

 ただ、石谷氏を通じて斎藤氏と長宗我部氏は強固に結びついており
 長宗我部元親の母も斎藤氏の出身です。

 ということは、縁組は一族の人間のなかから、
 中央とのパイプがある人の中から探そうという事だったんでしょうね。
 

お礼日時:2013/06/03 22:17

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E4%BD%90% …

1575年の四万十川の戦いで決着がつくまでは、国人レベルのどんぐりの背比べ。
尾張で言えば信秀の時代の感じではないでしょうか。

長宗我部スタンスで言えば、細川家のツテで得がたい嫁をもらったと思われます。

No2の方が指摘しているように、斉藤=石谷氏あたりは、幕府奉公衆。母親の出身である蜷川氏は、政所代
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%B7%E5%B7%9D% …

100年くらい時代は変わりますが
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%B7%9D% …
駿河守護に輿入れしたのは、幕府の取次衆である伊勢氏出身
守護職でこの程度だから、幕府の奉公衆の価値も100年で守護家への嫁から守護代家の嫁へと価値が下がったのかも。

土佐の国内問題で言えば、一条家が圧倒的な家格の高さを誇っていたので、対抗上別の権威を必要としたのかもしれません。
※ 元親の豊臣政権での位置の低さに関しては、
一条家の筆頭家老 長宗我部家
龍造寺家の筆頭家老 鍋島家
これくらいの差が実際にあり、長宗我部家としてはなんとか家格を上げる必要性があったのかもしれません。
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この回答へのお礼

 確かに伊勢氏の例を思い出しました。

 北条早雲が素浪人ではないことは、ほぼ間違いなく
 名門、伊勢氏の一族で、名門の今川に正室で嫁いでいることから

 幕府の取次衆は、相当の格式あったんですね・・・
 (今では、全然かえりみられませんが)

 ■ふと思いますが、戦国時代は身分がぐちゃぐちゃになっていない・・・
  そんなふうに感じます。

  戦国時代は、身分にかかわらず・・・下克上と言われましたが
  以外にそうでもないですね。

  代表的な下克上の北条早雲は実は名門出身で、斎藤道三だって
  個人で成り上がりではないです。織田信長の家臣だって、
  滝川一益と豊臣秀吉以外は素性は確かです。

  戦国時代は、実は実力主義ではなく格式がモノを言う時代だったのかも・・・
  という気がして来ました。 
  

お礼日時:2013/06/03 22:24

いや…本能寺の黒幕は朝廷なんですが…

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この回答へのお礼

 御回答有り難うございます。ご意見は受けたまわりますが
 ちょっと受け入れがたい気がしますね。

お礼日時:2013/06/03 22:25

元親室は幕府奉公人の石谷氏出身ですので、家格としては十分釣り合うと思います。

母親は幕府政所代の蜷川氏出身ですし。
時期的に美濃からではなく、おそらく京都から嫁いだものでしょう。中央との関係を重視していたことがうかがえる婚姻関係ですね。

本能寺の変の利三主犯説は黒幕説に比べて説得力があると思います。
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この回答へのお礼

 御回答有り難うございます。

 家格は釣り合う以上だったんですね。

 (今川に幕府の取次衆から正室で嫁ぐ例からすると
  国人の長宗我部氏が、幕府奉公衆から嫁を貰うのは 
  出来過ぎですね・・)

 おまけに、ある意味、一族と言ってもいいくらいですしね。
 
 ■意外に戦国時代は、家格がかなり生きているなあ、と感じます。

  今の時代では、弱い室町幕府の奉公衆や取次衆なんて、なんの役にも
  たたなかったように思いますが、そうでもなかったんですね。

 ■それにしても本能寺の変の原因は、四国の問題が原因と思いますね・・・。

  (豊臣秀吉=当時は羽柴秀吉との織田政権内部の権力闘争に
   光秀は負けたんでしょう。)
 
   羽柴秀吉=三好 グループが勝ち
     光秀=長宗我部 グループが負け

   織田信長の政策が、変更となり、織田信孝に広い領地、讃岐を
   与えて、直轄地に近い形を取るには、長宗我部氏に四国統一されるのは
   困リますからね。となると、長宗我部氏とつながりがある斎藤利三は
   邪魔ですから、稲葉一鉄との引き抜き問題にかこつけて粛清してしまおうという
   ことなんでしょうね。

   信長は直轄地構想をおそらく持っていて、美濃尾張=信忠、伊勢=信雄、讃岐=信孝
   近江=信長自身が掌握。そのために佐久間信盛、安藤守就、水野信元は追放か粛清
   されたんじゃないでしょうか。

 ■信長の近隣直轄地化構想、重臣追放、四国政策変更、秀吉と光秀の権力闘争

   もう先がない光秀と、死刑宣告の斎藤利三としたら一か八かやるしかありません。
   やっぱり、これが原因だったんでしょうね。
  
  
   

お礼日時:2013/06/03 22:41

受け入れがたい…


もちろん実行犯は光秀で利三は家老ですから共犯でしょうが
黒幕は朝廷です

本能寺の変の後に公家衆と誠仁親王は祝杯を上げていたんです
信長が消えて一番喜ぶのは他ならぬ朝廷ですから

6月9日に光秀が朝廷から征夷大将軍の奏上を受けていたんです
もしも光秀の単独犯行なら逆賊の光秀に朝廷は将軍職を与えるでしょうか?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/06/04 21:54

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