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股間を蹴ってはいけないルールだから、股間のガードをおそそかにしていいか。
武道であるなら、たとえルールで禁じられていても、股間を蹴られてKOされて人間が勝ちになるということはおかしい。
ではどうすればいいか。
この答えをください。

A 回答 (16件中11~16件)

Gです。



補足質問を読ませてもらいました.

私はこう考えています.

強くなればなるほど、いかに人間の体と言う物がもろいかが分かります. つまり、相手の関節をはずしたり壊したり、骨を折ったり、首を折ることの容易さは自然に分かる物です. その自分の力が分かる様になれば自然に相手の命、体を大切にするようになるわけです. ここの武道なるものが自然に養われていくわけです.

一種の悟りと言っては大げさかもしませんが、闘うことの知らない人と戦って勝って、不髄にして何が勝ったということでしょう. 普通の人が幼児と戦うような物です.

だからこそ、武道に「戦わずにして勝つ」「拳無しで勝つ」「鞘の中で勝つ」「活人拳・剣(かつにんけん)」と言う言葉が自然に生まれてくるわけです. しかしきれい事で武道といっている人たちはこのことが単なる知識として、悪く言えば「口だけの知ったかぶり」「単なるきれい事」「武道だと言い聞かせたい」と言う事になってしまうのです.

武道の試合は「稽古試合」しかありません. つまり、試合によってお互いの実力をあげる手段としかありません. 相手と競うものではない、と言う事です.

だからこそ、武道は「自分を磨く物」と言えるわけです. 自分を磨きまわりを磨く、そのための訓練が武道であるはずです.

それをするから、武道と言う物が教養的な意味あいを持つ事にもなるし、戦闘的な部分を控えるものとなるわけです. よって、武道と言う道徳心、人生観と言う物が自然と生まれ育つわけです. 言い回しを覚えて口先で言うだけの物ではない、と言う事ですね.

よって、私は、柔道や剣道は武道と呼ばれるものではなくあくまでもスポーツだと言う事になるわけです. 受身の合気道ですら、殺し合いに十分使える物であり、植芝翁も非常に苦労した所でもあるわけです. 嘉納治五郎翁も柔術として教えていた時は柔術ほど人をいとも簡単に殺せる物はないと言っていた事も理解できるわけです.

相手と言う人間を心理的にそして物理的にこちらの攻撃(反撃)を防ぐことができない様にするから勝てる、と言う事が武術の基本の基本です. 相手が防御できないから勝てる方法を考え出して体系付けた物が武術なわけです.

言ってみればこれ以上「汚い勝ち方」はないのです. しかしこの「汚い勝ち方」と言う言い方をなぜしないのか. それはするだけの自覚がない、できるだけきれい事でことを説明しよう、人から悪く思われたくない、など、結局意識的にまたな無教育から来る無意識的に言わないのです.

私は私の流派(ある古い伝統空手の一流派)は世界で一番アンフェアな武道だとはっきり言って教えています.

これが、相手が打ち込んでくる前に(打ち込んでくる余裕を与える前に)切り込む居合にしろ剣道にしろ、また、防御をしながらそのすきを狙って反撃をする空手、痛みと生体的な限界を狙っての関節技を使って反撃の隙を作る柔術・合気道、全て、相手から見れば「人間の急所」を使っての「汚い勝ち方」です. 頭から投げられて防御する事の難しさを考えればよく分かる事ですね.

体履きとは? くずしとは? ジャブとは? 全てこの「汚い勝ち方」ですね.

だから、武道を基礎からやれば負けないわけです. 相手を必ず負ける状況にもっていくことを訓練するからです.

そのためにも、部外者には教えない、と言う事にもなるわけです. しかし、グレーシー柔術が始めは負かすものがいなかったけど今では勝てないということになるわけですね. 「汚い勝ち方」が全て知られてしまったからです.

ですから、武道では試合はあくまでも道場内での稽古試合であって、勝ち負けを決める試合であってはいけない、ということになるわけです.

その稽古試合が、最終的には何でもあり(反則や急所を含めて)の稽古試合になるのは必然とも言えることです. 初心者では何でもありは誰かが命を落とす事と同じことです. それをやらせる指導員はいないでしょう. 最終的な何でもありでもお互いに事故を防ぐ力と言う物も実力の一つとなり、結果的には、道場外で戦わなくてはならない時でも「最善を尽くして相手(人)の体・命を尊ぶ」と言う事に繋がるわけです. これが出来てこそ武道と言える物が身についた、と言う事にもなるわけです.

つまり、武道は、種目ではなく、やる人間であると言う事にもなります. だから、武道であるはずの種目が道場外試合をすれば武道ではなくなる、と言う事でもあるわけです. 今日の多くの日本の空手がそうですね。

何かご参考になりましたでしょうか.
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蹴った方が負けになるのは、いいですよね。


精神修養、人格形成の場でもある武道の試合で、禁じ手をわざとやったのですから。かなり悪質ですし。
たとえその人が他流派であろうと、その流派の試合では禁じ手なのですから、負けです。
しかし、蹴られてKOされた方が勝ちというのは難しいところですね。スポーツならそれでいいのでしょうが、武道ですから。禁じ手だからしてはいけないという発想は正しくとも、禁じ手だから警戒しなくていいという発想は間違いです。
そういう形で決着が付いたら、没収試合にすべきだと思います。
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もし、戦場における武術を実践しているというのなら、そりゃ股間がら空きは論外でしょう。

(^^;

しかし、武道とは何だとお考えでしょうか。

武道とは「道」がつくとおり、戦場における何でもありの世界、試合でない死合の世界から派生・変質して、人間の修養のための一手段になったもの、を指すものだと思います。

したがって、武道にはルールがあり、ルール違反は単にルール上で咎められるだけでなく、人間としての修養が足らないと見なされる恥ずべき行為となります。

そういう価値観に立つのなら、禁じ手は反則負けでいいのではないでしょうか。

この回答への補足

なるほど、武道は修養手段でもあるのですよね。戦闘手段と言うことしか考慮に入れてませんでした。
しかし、実際に禁じ手を使わなくても、ば禁じ手を考慮に入れて試合をしている人と、考慮に入れないで試合をしている人が戦えば、試合では考慮していない方が有利ですよね。
たとえば、柔道で寝技防御に亀?の体勢がありませすけど、蹴られる可能性を考慮している人は亀にはなれませんよね。
ルールを利用して試合している人が有利になることをどう考えますか。

補足日時:2004/03/24 16:20
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アメリカで使える伝統空手と護身術を教えている者です。



スポーツだからルールがある、ルールがあるからスポーツなのですね. ルールに反した事をすればルールによって判決が下ります. 

だから私は、今の日本の多くの「武道」と呼びたがっているスポーツは武道ではない、と言うわけです.

武道・武術はあくまでも「何でもあり」が基本になっていなくてはならないと私は信じます. 

私個人として、もし武道と言いたいのであれば、股間をけられると言う事は負けに値すると自覚しなくてはならないと思うわけです. ルールとして、両方とも武道にともなう実力を持たないと判断します. 可能性はゼロでしょうが、もし私が退会の主催者であれば、その場で両方を「負け」とします.

股間への攻撃が単なる事故であるとするのであれば、試合でよくある「まぐれ当たり」も事故のひとつとしてスコア~になるはずはないのです. しかし、私の知っている限りでは、反則となる急所でなければ得点とすると言う矛盾が武道からの考えからは考えられない事がおこるわけです.

ではどうしたらいいか. 簡単な事です. ルールのある試合は武道ではない、と認めればいいことです. きれい事ではなく、レスリングと同じように、フェンシングと同じように、スポーツなんだと認める事です.

しかし、スポーツとなった過程や歴史的なものにかじりついていつになっての武道だ、武術だといっているから問題が起きるのです.

股間に攻撃する事はルールに反するとするスポーツなのです.

武道を教えるのであれば、何でもありが基本の基本となる事を身にしみて教えなくてはならないと私は信じます. そして、そのなんでもありの攻撃を防ぐ実力がなければ教える事も出来ないし武道だと言う事も出来ないと思います.

その上で武道としての教えをすればいいわけです.

この混同が存在する限りこの矛盾は永久に存在する事になるわけですね.

もちろん私はスポーツとしていま存在するかつて武術であったものを否定することも批判する事もしません. しかし、スポーツとしてスポーツ精神を養う事を武道の精神と言う人は何か分かっていないことがあるのではないかと思うわけです.

日本人の空手の黒帯がいとも簡単にアメリカで酔っ払いに殺されたりするのは、武術ではなくあくまでもスポーツの熟練者に過ぎない、と言う事にもなります.

武士道と言われる人間が作った道徳的なものがなかった戦国時代までの武士たちは、自分を守る、相手を殺す武術しかありませんでした. 戦場では何でもアリだったわけです. きれい事は存在する隙間や余裕はなかったはずです.

しかし、徳川幕府としては、武士が武士たる武術を使い手では悪影響のあるものとしか見る事が出来なかったわけです. だからこそ、幕府にとって武士どうなる物を重宝する事が方針として非常に便利な物だったわけです.

この武士道なる物は太平洋戦争でも十分以上に働きをしましたね. しかし、相手を殺す為の行動に対しては「きれい事」は使われませんでしたね. 武士道と言うものはそんなものなのです. つまり、武術の汚い事を「隠す」為に作られた物と言う事でもあるわけです. 良く見れば矛盾と言う物に気がつくはずです、しかし、武道といいながらスポーツごとをやっている指導員は全く其の事に気がついていないわけです.

だからこそ、今流行りの格闘技に「武士道」と言う単語が使われてもほんの少数の人しかおかしいと思わないのですね.

全くの個人主張でしたが、これでいかがでしょうか。 分かりにくい点がありましたら、補足質問してください。

この回答への補足

>ルールのある試合は武道ではない、と認めればいいことです。
そうですね。そう思います。
違う質問ですが、では武道の試合はどうしたらいいのでしょうか。
試合はやめるべきでしょうか。ルールなしにすべきでしょうか。

補足日時:2004/03/24 16:15
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武道(武士道)には正々堂々と戦うとあります。


スポーツでは反則(ファール)を誘うという事がテクニックとされますし、ファールに逃げるということもテクニックでしょう。しかし武道ではその両方が恥ずべき行為です。実際はファール(場外)で凌ぐ事も有りますが、やはりあからさまなものは…。
審判も武道では反則をさせない為に反則を取るのだと考えます(相手にポイントを与える為でなく)
現代社会の中で競技として試合を行う訳ですから規則は当然必要ですから(武道に規則が無ければ命のやり取りです)その中で『正々堂々と戦う』という考えを重視する物だと思います。

この回答への補足

よくわかりました。戦闘術という面だけでなく、精神面もあるんだということですね。
違う質問になるのですが。
顔を殴らないというルールがあると、顔のガードは不要になります。ガードを胸あたりに下げて戦った方が有利です。打撃禁止というルールがあると、寝技防御に亀の体勢が可能になります。
本来なんでもありの戦闘術のはずの武道が、禁じ手を考慮しないで戦った方が有利になるということはどうすればいいのでしょうか

補足日時:2004/03/24 16:24
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武道のルールは武士道です。

西洋なら騎士道かな。
それは武士道に反しないことです。
スポーツのルールは楽しむためのルールです。最低、相手を傷つけないことです。
武道とスポーツを混同すると、わけが分からなくなります。

この回答への補足

股間を蹴った方が負けというのは武士道精神の正々堂々と言うのに反するというのでわかりました。
しかし、蹴られてKOになっているのが勝ちというのはどうでしょうか。精神面もありますが、戦闘術という面もあるのですから、禁じ手だから考慮に入れないで試合をしていいと言うことではないでしょう。

補足日時:2004/03/24 16:33
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