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股間を蹴ってはいけないルールだから、股間のガードをおそそかにしていいか。
武道であるなら、たとえルールで禁じられていても、股間を蹴られてKOされて人間が勝ちになるということはおかしい。
ではどうすればいいか。
この答えをください。

A 回答 (16件中1~10件)

>股間を蹴られてKOされて人間が勝ちになるということはおかしい。


これは、ルールのある「スポーツ」での判定です。
武道は武術から派生した「競技」ですから、反則とされている行為を行った者はルール違反で負けです。
これは、当然の事ですね。競技ですから。

本来の武術は、真剣での戦い方、組み手等「戦闘」に特化した技術を指します。

反則を行うと負けるルールの競技に「武術」は存在しません。

この回答への補足

それは武道・武術ではないのですね。極論すればスポーツだと。
では、武道の試合はどうあるべきでしょうか。いらないのでしょうか。そうは思えません。試合なしでは上達はしません。試合をやるならルールが必要です。たとえば柔道なら、投げ、極めで倒そうという武道なのに、殴ったり蹴ったりしていては柔道の稽古になりません。殴るな蹴るなと言うルールがつきます。もし、股間を蹴ったら反則です。負けです。
試合はどうあるべきでしょうか。

補足日時:2004/03/24 16:06
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No.3です。

回答に対する補足ですが、遅くなりました。

この場合生死を分ける闘いで無いにしても、顔面攻撃禁止だからと言って完全ノーガードはもし顔面に打撃等が当った場合ダメージが残るの不利ですから考えられません。
(サッカー等のイエローとは訳が違いますから)
ダメージで戦えなくては意味が有りません。
又、そこに出てくる選手はノーガードに見えても対応出来る能力が有る、それなりの練習をしてきたものであると思います。ルールにのった試合ですからそれなりの形になると思いますが、戦い、勝つ、為には相手の不意の攻撃にも対応するということです。
後、寝技防御に亀。これは自分も攻撃出来ませんもんね。

この質問の元になるのは何でしょう?
○-1の、武○ですか?あれだとすると完全に武道では無いですね。格闘スポーツであって武道では無い。
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ルールで禁じている事を試合で使うような人は、実力が無い証拠だと思います。

本当に実力があれば、ルールの範囲で勝てると思います。

私は武道の攻撃は、護身の為の技であると思います。「空手に先手なし」と言われる事ありますし、空手の型は全て受けから始まります。また、武道の鍛錬を積んでいる人には、あえて襲おうとは思わないでしょう。空手の技は「一撃必殺」などと言われますが、できるのと、実際に使うのは違うと思います。

ちなみに骨法は何でもありの実践を想定しているものなので、参考にしてみて下さい。
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Gです。



誤字がありましたので訂正させてください.

三戦立ちの意味は? 体の重心をどちらかの足に打つ事により自然に体が回転すると言う事が分かりますね. 



三戦立ちの意味は? 体の重心をどちらかの足に移す事により自然に体が回転すると言う事が分かりますね.

また、

一つ一つの技や方に何百もの意味を持つと言う事は必然的なものでなくてはならないのです. 



一つ一つの技や型・形が何百もの意味を持つと言う事は必然的なものでなくてはならないのです. 

と言いたかったのです.

ごめんなさい.
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Gです。

 もう一度書かせてくださいね.

試合(組み手・乱取り)は練習の一部であると私たちは見ます. あくまでも練習の一部であり、型どおりの技や型・形では学べない事を習うツールです.

相手の動きを感じ取り自分の体を動かすと言う事は一人ではできない事です. (稽古)試合しかないわけですね.

型の試合にしても、結局何をやっているのだろうかとお考えになった事があるでしょうか. 今では結局決まりきった動きをするダンスに成り下がった、と言う事でもあるわけです.

型の動きは防御であり攻撃であると言う人が多くいます. 本当でしょうか. 型の本質はそんなところにあるはずはないとわたしは考えます. 型の動きの一つ一つを見て、誰が本当の防御であり反撃である、と言えるのでしょうか. もしあのような動きで攻撃してくる相手がいるとしたらどんなに楽な事でしょう.

型はわざと同じように、そのものに植え付けられている事を学び取るツールだと私は信じます. つまり、型には技ではまた組み手・乱取りでは学び取れない事柄が無数に取り組まれていて、それを指導員が教えるものとなんですね. 動きだけを教えるのであれば、ダンスの動きを教えるインストラクターと同じではないかと考えるわけです.

例えば空手の型には、向きを変えるときに、簡単な135度に回るのではなく225度回りますね. 135度であれば相手の動きを見つづける事ができるわけです. しかし、逆方向に225度回るということは、一瞬でも相手を見失う、ということですね. これに武道の意味があると言う事を教えなくてはならないのが指導員の勤めなはずです.

ただ単に、135度より225度の方が体のバランスをとるのが難しいからやるんだ、じゃ、「もったいない」のです.

三戦立ちの意味は? 体の重心をどちらかの足に打つ事により自然に体が回転すると言う事が分かりますね. このように、技や型には、弟子のレベルによって、使って教えられる事が当然のごとく含まれているわけです. それを教えるのが指導なんではないでしょうか.

なぜ、先輩・後輩と言うシステムがあるのでしょうか. それがないアメリカでは説明する必要があります. 説明することによって単なる「習慣」ではなく、武道家として意味のある事を教える事になります. 先輩としての責任感や思いやり、後輩としてのへりくだりや礼儀など無数に教えられる事があるわけです.
 
何百万という人間の動きに対して、ほんの数十個の技と型で習おうと言うわけです. 一つ一つの技や方に何百もの意味を持つと言う事は必然的なものでなくてはならないのです. でも、なぜか、(師範レベルであっても)分かっていない人もいるようで残念と感じてはいけないのでしょうか.

人それぞれの価値観や理解と言う物があります. その価値観に意味のあるものということを指導によって作り上げる事で武道と言う物を普及させる事ができると信じています. つまり、動きだけを習って何の意味・価値があるのか、と感じさせては、普及どころの話しではない事になるわけです. 

技は習うけど試合には使わないのはなぜ? 現実に近づこうとする試合に習った技や型の動きが使えない、使われていない(使うのはパンチと回しげりだけ?)、と知るだけで、技や型にもっともっと大事な意味があるんだということに気がつく土台を作ってあげなくてはならなのが先輩であるし指導員であると私は信じるわけです.

スポーツとして普及させる事も日本の現代人には魅力的なことかもしれません. また、外国人にしてみれば彼らの文化にない物として神秘的な魅力と言うものもあるでしょう. また、彼らにとって、「使える武道」として、精神面においてもまた護身術の一貫としての実力にも魅力を感じる所でもあります. よって実力(自分ができるということだけでなく教える事のできる能力も)がなく、知識の浅い指導員では指導できない、つまりだれもついてこないと言う事になるわけです.

先の回答者がおっしゃっているように、単語の定義そのものにギャップがあるように思われます.

武道とは、人間の生活を支える事のできるものと私は定義しています. 社会での協調性もそうでしょうし、個人の頑張り力もそうでしょう、そして、必要とあれば精神面のまた物理的な攻撃にも反撃・逃避できる実力も含まれますね. これは気にいらない上司との関係もありますね.

と言う事で、また、全くの個人主張をさせてもらいました.

何かの参考になれば嬉しいです.
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「武道であるなら」とか考えるから、ややこしくなるんだと思います。


試合は、お互いがルールを理解し、その条件を飲んで行うわけですから、その条件を破った人は、ルール違反として負けになるだけで、他の色んなスポーツと同じ様に考えないといけないと思います。
選手は、そのルールに勝つために練習してるわけですから、ルールに合わせて戦い方を考えています。そのルールの大会で勝つことを一番の目的として練習しているからです。
だけど、そんな中でも実戦を想定してたり、実戦で強くなりたくて、やっている人もいると思います。ただ、人によって実戦に対する考え方も違うと思います。
だから、そんな人達で試合とかしても試合にならないと思いますよ。
例えば、嘘で参ったして、後から殴って倒したりしても実戦では勝ったことになるという人も居るだろうし、ナイフでも何でも使ってでも勝てばいいんだ、という人も居るだろうし…。
だから、そういう人同士が試合や練習試合するときには、お互いに「こうしよう、ああしよう。」ってある程度、そういうのを想定してからしないと、とんでもない事故とかになると思います。
そういう人で試合に出る人は、自分の考えの中で、「この大会(試合)は、最高だ」とか「この大会(試合)は、実戦的だ」とか思ってるから出るんだろうし。そんな中で自分の力を試したかったり、人に力(実力)を見せたかったりして、大会や試合に出るんだと思います。本当に実戦だけで強ければいいんだと思う人はあんまりそういうのには出ないと思うし。
だから、結局は、自分の心構えしだいだと思います。どんなに「俺は実戦的でどんな状況でも勝てる」とか思っててもピストルで撃たれたりしたら負けなんですから…。
あと、そういう武道的に考えている人は、金的を蹴られて勝ったとしても嬉しくないと思うし、すごい反省して、そういうことが再び起こらないように、また練習に励むと思います。
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試合はどうあるべきかについて、理想ですが・


試合は練習の一部と見なすことが重要だと思います。
ある意味、柔道でいう乱取りにとどまるべきと言うことです。
何の練習か。その武道で使われている技法の練習です。禁じ手はそういう実践的な練習はすべきではないかもしれません。その辺はわかりません。ただし、この武道にはないが、相手が使うであろうというわざや禁じ手の、防御は練習すべきです。そういうわざの防御を考えて試合をすべきです。
しかし、試合となるとやはり勝ちたいものです。相手がしてこれない技を警戒する必要はあるのかという疑問も生じます。そこは、日々試合は練習の一環、勝つのが目的ではなく、学ぶのが目的だと言い聞かせるのがよいでしょう。
試合はどうあるべきか、極論すれば勝ち負けを競う試合はいらないと思います。あくまで練習の一環として禁じ手も警戒する乱取りをすべきだと思います。
ただ、現代だと道場生募集とかでこういう武道一辺倒というのはやっていけないんでしょうね。こういう考え方をする人は少なくて、武道を格闘するスポーツ(格闘技)とのみとらえている人が多いですし。

この回答への補足

試合をメインに考えるなと言うことでしょうか。
>現代だと道場生募集とかでこういう武道一辺倒というのはやっていけないんでしょうね
普及と武道観は両立できないとうことでしょうか。

補足日時:2004/03/26 02:07
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深く考えたら負けです。

(笑)

それでも答えを出そうとするならば、少なくともある程度条件を限定する必要がありますし、言葉の定義を明確にしてからでないと、まともな議論にならないかと。

極論するなら、真のノールールだとナイフだろうが、拳銃だろうが、大勢でボコろうが何でもありになりますし。

あと、自流派自慢になりやす話題、、というか、それぞれの価値観、信念でそれを選んでいるのだから当然と言えば当然なので、結局のところ自分がどの意見に納得するするかどうかの問題で、数学のように客観的な真理には到達しないかと。
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武道の試合は、どうしたらいいか? という問いにだけ答えます。



武術と武道という言葉の使い分けを、
武術 : 戦国時代のころの人を殺傷するための術
武道 : 江戸期以降の礼を重んじるもの
とすると、おそらく質問者8472さんの思うものは武術に近いと思うので、ここでは言葉を武術とします。

武術の試合とは、殺し合い(もしくは相手が死に可能性を考えた試合)になるのではないでしょうか?
きれいごとの入る余地はありません。
汚い手をつかっても、勝てば勝ちです。
ルールにより没収試合になることもなければ、審判により反則を犯したものが負けとなることもありません。
スキを見せたのならば、そちらの負けです。

1991年の極真空手第5回世界大会でこんなことがありました。アンディ・フグとフランシスコ・フィリョの試合においてです。
アンディ・フグが主審の「待て」のコールを聞いて気を抜いた直後、フィリョの回し蹴りを食らって失神一本負け。フグ側のセコンドは抗議したが、極真会館総裁、大山倍達最高審判長は
「待てというのはルール上のこと。そこで気を抜いてガードを下げたのなら、それはフグがよくない。極真は武道なのだから」
と諭したといいます。

フィリョはそのつもりでやったわけではないのでしょうが、武術としてなら相手がスキを見せればその瞬間をつくのは当然です。
武術の試合とは、股間だろうが眼球だろうが、あらゆる手段をつかって相手から戦闘能力を奪うためのものだと思います。
武術の負けとは、死ぬことです。
死なないまでも、戦闘を続ける能力、意志を奪われることです。

ついでにいいますが、ぼくは宮本武蔵を見れば武術とは何かがよくわかると思います。
吉岡道場との対決では幼い子供(吉岡又七郎)を初めから狙ったり、佐々木小次郎との対決の時には、2時間以上も遅刻してきたり、息を吹き返した小次郎を弟子をつかって撲殺したり、まぁ卑怯なことをしています。
でも、宮本武蔵こそが正しいのだと思うのです。

試合前に毒入りジュース飲ませて不戦勝でも、正々堂々の大勝利だと思いますよ。

この回答への補足

なるほど。
武道になり、攻めるときはきれいであろうと言うようになったのでしょうか。毒入り飲料とか人質はやめよう。えぐい攻撃もやめようと。
ただ、武道であろうとも、最低限、金的・打撃・つかみなどの禁じ手とかやめの合図後は警戒すべきだと思います。
こう考えていくと、武道と、スポーツ的な試合概念は相容れませんね。ルールの中で最大限動くというスポーツと、ルールは礼のために設けられたもの敵は守ってはくれないという武道では。
わかってきた気がします。

補足日時:2004/03/26 01:59
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>試合なしでは上達はしません。


試合は、練習の成果を出す場です。
上達は稽古(練習)でするものですから試合無しでも上達はします。
極端な話ですが、一年中稽古もせずに試合をしている人は強くなれません。
稽古を行い、上達して、結果『試合に勝てる』だけです。

特殊な例ですが「居合道」の場合は、相手と戦う試合はありません。
演舞という形で、競い合うわけです。

空手でも、フルコンタクトの試合もありますが、寸止めでも試合は成り立ちます。
当然、型で競う試合もあります。

>試合はどうあるべきでしょうか。
当然、ルールで縛って行うべきです。
そうでないなら、柔道はコンクリートの上で行い、剣道は防具無しの木刀差し、空手は目つぶし、金的OK でやれば良いのです。
そうなったら、誰も、その競技をやらなくなると思いますが(笑)

>武道の試合はどうあるべきでしょうか。いらないのでしょうか。
私は剣道経験者ですが、試合は嫌いでした。
強くなるなら、普段の稽古で充分ですから、個人的には要らないですね。
私は「試合=発表の場」だと思います。

この回答への補足

>>試合なしでは上達しません。
ちょっと言葉足らずでした。型稽古のみをやっていては、実践の機微がわからず、上達は遅れます。自由に技を出し合う組み手が必要だと思います。フルコン空手家と伝統空手家が喧嘩したら、フルコンの方が有利でしょうし。
しかし、私が自由な組み手=試合という思いこみをしていたことがわかりました。
>誰も、その競技をやらなくなると思います
同感です。でもルールを作ると禁じ手でKOされた方が勝ちになるという事態になるので考え込んでいます。
>試合=発表の場
いい発想ですね。試合=メイン、でなくあくまで発表と。

補足日時:2004/03/26 01:52
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