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趣味で格闘技やっています。
組み技系なので、打撃はありませんが、
関節、絞めなどはあります。

やりはじめて1年ですが、
これまで2度試合にでたことがあります。
本当は嫌だったのですが、周りがでるので、
仲間意識で出場しました。

ワンマッチだったのですが、1回目の試合は
3回やって2回勝ち1回判定負け。

2回目の試合は、2回やって1回勝ち、2回負け。
といった戦績で、まあ弱くはないけど、普通以上はあるといった
強さです。

でも悩んでいることがあります。
私は元々そうなのですが、人を叩きのめしたりすることに
とてもストレスを感じてしまいます。

昔打撃もやっていたのですが、
殴ったりすることが嫌だしストレスになってやめてしまいました。
一言でいうと、いろんな意味でつらかったんです。

でも格闘技が好きで、男たるもの強くありたいと思っているので、
また格闘技に戻りました。
今度は殴ったり蹴ったりしない組技系の格闘技です。

基本組技なので、精神的ストレスも少なく、
楽しんで続けられています。
このままずっと練習を続けて強くなりたいなと思っています。

しかし、もう試合にはでたくありません。
2回試合にでてみて、勝ったりもしたのですが、
こんな試合相手に勝たしても別にいいや。
なんて思ってしまいます。

練習は好きです。相手が強いほど好きです。
ですが試合は嫌いなのです。
あの勝手やったぞ!という攻撃的な感じがあまり好きではないのです。

”試合にでなければ強くなれない”という意見もありますが、
果たしてそうなのでしょうか?

幸い私の道場の先生は、元々試合にでろでろ言っていたらしいのですが、試合はだれしもでたいものではないことに気づき、
あまり無理強いしたり薦めたりしないようになったそうです。

私の意見ですが、
試合に出た方がモチベーションも上がり短期間で強くなりやすい、
しかし試合にでていなくても強い人はいくらでもいる。というのが私の見解です。

みなさんのご意見をぜひお聞きしたいですm(_ _)m

A 回答 (9件)

僕はあなたに一つ思うところがあります。



試合とは、呼んで字のごとく、「己を試す」神聖な場所だと自分は思っています。
みんな、相手をぶちのめすことが大好きで試合してると思いますか?
自分が知らない相手にぶちのめされるかも知れない、下手をしたら大怪我させられるかもしれない、という恐怖心と戦いながら己の向上のために、試合の場に臨むんです。
なのに、「こんな試合相手に勝たしても別にいいや。なんて思ってしまいます。」
こんな態度で試合に出るのでしたら、もう出ないほうがいいでしょう。試合の相手に失礼です。

なぜそんな思いをしてまで試合に出ると思いますか?

試合なら相手も全力で勝ちに来る。だから、普通の練習では得られない稽古(試合もあくまで稽古の一環です)になるからです。

自分を試す場に立たなくても普段の練習で「自分は強くなったなあ」と思えるならそれでいいと思います。
しかし、普段の練習では強い先輩でも仲間でも、そんなに最初から最後まで本気ではやっていませんよ。


ただ、あなたのおっしゃる「あの勝手やったぞ!という攻撃的な感じがあまり好きではないのです。」
ということも判ります。
この間、空手の極真館の全日本の試合を見に行きまして、KO勝ちをしたウクライナ人がガッツポーズをしたことで反則負けを宣告されていました。(結局は厳重注意で収まりましたが)
柔術の試合も、元は礼儀を重んじる武道から生まれたのなら、そういうことも指導していくべきだとおもいますね。
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この回答へのお礼

武道的な考え方をされているようで、
久しぶりに武道家に出会った気がします。
たしかにそういう精神的な部分って大事ですね。
私も世の中にもまれましたから、そういった気持ちを忘れていました。

武道でなくスポーツをしている感覚だったのかもしれません。
ただ武道は私には少し厳しいので、スポーツ的にできるほうが気楽だったりしますが。

>試合なら相手も全力で勝ちに来る。だから、普通の練習では得られない稽古(試合もあくまで稽古の一環です)になるからです。

たしかにそうですね。普段の練習を全力でやっていたら最後まで持ちませんから。抜きながらですね。


>この間、空手の極真館の全日本の試合を見に行きまして、KO勝ちをしたウクライナ人がガッツポーズをしたことで反則負けを宣告されていました。(結局は厳重注意で収まりましたが)

なんか武道って感じですね。国際JUDOも武道ならそうあるべきですが、私の考えでは、そこまで堅苦しくなくてもガッツポーズがでてしまうのは仕方がないのかなと思ったりしますが、極真はある意味日本古来の道を行っているので、いいのかなと思います。

柔術の試合ですか。ブラジル発祥なので、どうしても派手に喜ぶ雰囲気がありますね。ただそれだからいいところもあって、仲間意識がとても高くなります。厳しすぎる上下関係もありませんから、非常にフレンドリーに楽しんで鍛錬できます。

日本古来の武道。新しい形の武道。どちらがいいのかは人によって違うんでしょうね。

お礼日時:2009/12/23 14:24

既にその答えは書いてあるが、それを認めない&認められない君の「心の弱さ」が、この部分でも垣間見える。



私の回答は明快そのものであるが、君自身が私の回答を『非常に漠然としている部分もある』と感じるのは、君自身が「強さ」について具体的な定義をしてないからである。
一体君にとって「強くなった」とはどんな状態であるのか?
君の言う「強さ」が試合をしなくても得られるモノならば、そもそも既にここから私の「強さ」と違うのである。
(武道経験の浅い君が十分強くなったと感じるレベルでも、私や他の者にとっては、まだまだ全然低いレベルでどうしようもないと感じる事が、容易に予想される)
元々君の強さについての問い自体が、「非常に漠然としている」のである。
その事にすら気付いていない君は、行動の伴わない能書きだけで、ホント面倒臭い輩だ。

試合は重要な稽古の一つであり、その役目の割合は非常に大きい。
試合ができる環境にありながら、それを君はしない。
試合は「強さ」を客観的に評価する手段でもあり、その実績は良くも悪くも何らかの形で記録される。
その客観的手段を自ら避け、自己満足に走る。
(君が自己満足でも良いなら、この時点で私の思う「強さ」ではないし、また強くなれるかどうか問う必要もない)

元々心が弱く「試合が怖くて」とてもストレスを感じ、そんなに試合がしたくないなら、単に「試合が怖いから」と正直に言えば良いのモノを、自分の「心の弱さを認めず」、最終的に試合に出なくても「自分自身の自尊心や面目が保もたれる理由の裏付け」を、多くの人から得ようとしている行動そのものが、非常に女々しい。

しかも思ったより多くの人から「自分への賛同意見」が得られず、私の様な「否定的な意見」が多いため、「実践」という「非常に漠然とした」ワードを新たに出し、話の流れを混沌(自分の都合良い様に間違った方向に話の流れを持っていく意図)とさせようとしているのが見え見えで、更に女々しく感じる。
(「実践」という言葉は「回答番号:No.2この回答へのお礼」、つまり君から出た言葉である。私は試合の有益性に関しての一意見を単に述べたに過ぎない)

「回答番号:No.8この回答への補足」で私のIDネームに絡んで来た様に、『いろんな考え方がありますから』という事を君が理解しているのなら、仮に何らかの『考えが定着』していても別に不思議な事ではない。




君は客観的な評価を受ける試合しなくても「能書きだけは」十分強くなると思う。
ただ能書きばかりの輩は、「言葉狩り」や「相手の言葉を自分に都合良く抜き出し入れ替えたりする」傾向が強いので、君も十分に注意する様に。
私は行動の伴わない能書きだけの輩は、面倒臭いので本来あまり相手にはしないタイプである。

この回答への補足

>君の言う「強さ」が試合をしなくても得られるモノならば、そもそも既にここから私の「強さ」と違うのである。

はい。1回目の回答をいただいたときからそうですね。

>(武道経験の浅い君が十分強くなったと感じるレベルでも、私や他の者にとっては、まだまだ全然低いレベルでどうしようもないと感じる事が、容易に予想される)

goo_loveさんは何か格闘技をおやりになっているのですか?
そこのところは秘めていますね。
自分からは話さない美徳ですか?
ぜひこの格闘技でこれだけの戦績だ。強いだろ?って言ってみてください!

>元々君の強さについての問い自体が、「非常に漠然としている」のである。

これはそうかもしれないですね。強さを測る基準である試合にでたくないと言っているので。まあ普通の人より強ければいいので、極端な話筋トレでバキバキにしただけでもいいっちゃいいんです。
身体を鍛える一環として格闘技をしているだけですからね。

>その事にすら気付いていない君は、行動の伴わない能書きだけで、ホント面倒臭い輩だ。

そうきましたか。でも年末にこんなご回答をくれるあなたはありがたい存在です。

>試合は「強さ」を客観的に評価する手段でもあり、その実績は良くも悪くも何らかの形で記録される。
その客観的手段を自ら避け、自己満足に走る。

ここで1つ疑問が、、、。ここでのあなたのいう自己満足ってなんですか?自己満足の使い方が少し違うような気がしています。

>自分の「心の弱さを認めず」、

私は別に心が弱いと認めてもいいんです。
試合に出ない=心が弱いと言ってしまってもいいですが、
必ずしも万人がそうなのか?という疑問が残るのです。

試合にでなくてもあいつは強いという伝説的な人に出会ったことがないんです。きっとあなたもないんでしょうね。
おそらく試合に出ていて強い人にはあったことがあるんでしょうが。

ここでちょっと寄り道して、gooloveさんの過去の回答を見てみまして。興味深い回答がありました。

>若い時期は、型稽古しか行わない武道は、基本的にはお勧めしない。
しかし個人の性格故(心の弱い奴どの世界にもいるので)、どうしても試合勝負の世界がある武道が嫌なら、少林寺拳法をお勧めする。

たしかに今回の回答と同じ理屈ですので、gooloveさんが本当に思っている真実なのでしょう。ということは少林寺拳法では心は強くならないってことですか?

>私は試合の有益性に関しての一意見を単に述べたに過ぎない

そんな感じですね。ネットが好きな人に多いタイプです。

>仮に何らかの『考えが定着』していても別に不思議な事ではない。

これはネット上の回答を理解する上での前提条件です。
だから相手を選ぶ必要があります。
言葉の端々に相手を想像するキーワードはかいまみえてきます。
その中でおもしろい人がたまにいます。そんな人が私は好きなんです。おもしろくて(笑)

>君は客観的な評価を受ける試合しなくても「能書きだけは」十分強くなると思う。

またここで、漠然キーワードが!能書きってどういうことですか?
この種類の強さってなんですか?

>ただ能書きばかりの輩は、「言葉狩り」や「相手の言葉を自分に都合良く抜き出し入れ替えたりする」傾向が強いので、君も十分に注意する様に。

おお!師範代!ネット上での師範代ってある意味かっこいいかもです!

>私は行動の伴わない能書きだけの輩は、面倒臭いので本来あまり相手にはしないタイプである。

そうきましたか。一番相手にしてくださっているので、うけ狙いはやめてください!バラエティーの見すぎです(^^;)

こんなところでいかがでしょうか?

補足日時:2009/12/30 10:41
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そんなに試合したくないなら、しなくていいのではないのか?



試合も重要な稽古の一つである。
その重要な稽古ができていない段階で、中途半端な稽古内容であると言える。
試合に出る出ないに関係なく、厳しい練習をするのは当たり前。
トーナメント戦の様に、その厳しい練習を積み重ねてきた、見知らぬ者同士が競い合いをするから、より心技体が切磋琢磨される。

練習だけの奴が、強くなったか強くなってないか客観的に見る方法がない以上、結局は「自己満足で終わる」のがオチ。

イチイチ試合したくない「理由の逃げ道」を探してる段階で、非常に女々しい。
素直に試合するのが怖いから嫌だと言っていれば良い!

生まれつき「心が弱い奴」もいるから、きっとみんな分かってくれる。

この回答への補足

そうですね。試合って稽古の1つです。

いろいろな稽古がある中での1つの稽古ですね。
日頃と違う状況というのは、
試合でなく出稽古などでも同じような状況なのではないか。

それともう1つみなさんの回答で疑問に思うことが1つあります。
それは、「試合にでることで、実践が強くなれる。」というもの。

試合にたくさんでれば、実践って強くなれるのでしょうか。
ここが最大の論点です。後は枝葉なので、いろんな考え方の部分ですね。

>練習だけの奴が、強くなったか強くなってないか客観的に見る方法がない以上、結局は「自己満足で終わる」のがオチ。

自己満足でも強くなってればそれでいいんではないか。
自己満足できるってことは、それなりの感触があるってことではないですか?

>イチイチ試合したくない「理由の逃げ道」を探してる段階で、非常に女々しい。素直に試合するのが怖いから嫌だと言っていれば良い!
生まれつき「心が弱い奴」もいるから、きっとみんな分かってくれる。

理由の逃げ道ですか。これも重要なテーマです。
今のスポーツ業界
試合をしない=逃げることという考えが定着しているような気がします。

もっと楽しんで、その人のやりたいようにやることが、
一番その人が続けられて、少しずつ強くなっていく秘訣ではないでしょうか?

確かに試合にでろでろいうのは、強くなる近道かもしれません。
しかし、だれもが最強になりたいのではなく、ある程度強くなれればよい人。楽しんで格闘技、スポーツをやれればいい人には、
あなたのような考えの人が重荷になるのでは?

goo_loveさん。あなたはgooを愛しているようですが、
それが気持ち悪いと思う人もいるでしょう。
暇人と思う人もいるでしょう。
しかし、回答をくれる人を有益だと思う人もいることも事実です。
いろんな考え方がありますから。

goo_loveさんはgoo_loveで、がんばればいい。
私は私でがんばります。私のやり方で。
そのやり方を考える中で、質問をしたわけで、
やはりみなさん試合をしてきた人のようですので、
試合にはでろでろ派が多いようですね。

試合にでない=女々しい。ん~どうも納得できません。
どうか理論的に納得できる理由をください。

感情論抜きに頭を使ったような理論をください。
そうすれば理解できます。

>素直に試合するのが怖いから嫌だと言っていれば良い!

ん~一言ではいえないですね。
たしかに怖い部分もあります。大怪我をするかもしれないし。守るものもたくさんある。その中でまで趣味でやっている程度の格闘技にそこまで突っ込むって賢いですか?好きな人はでればいいですが。

ちらばった理屈をまとめると、
試合にでない=逃げている=女々しい=心が弱い=自己満足したいやつ
ということを主張されているのですね。

上の公式を数学のように理論的に説明してくださいね。
お待ちしております。

goo_loveさん。あなたの回答は、非常に漠然としている部分もありますが、真理をついているようで非常に興味深いです。

ぜひご回答を!

補足日時:2009/12/28 23:54
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試合をしないで強くなれるのかという事ならいくらでも強くなれます。


試合は練習の一つの方法で、それ以下でも以上でもありません。試合より激しい練習はいくらでもあります(普通の道場では試合より激しいことは、安全管理上しませんが)。

どのような強さを求めているのかは解りませんが、自分が望んでいる強さというものを具体的に考えて、それにあわせた練習をしていけば良いと思います。

ですが、一つだけいえることは、やっただけしか強くならないのが格闘技、武道というものだと思います。これは悲しいほどの現実です、なにもしなくても強い人間もいますが、だからといって自分がなにもしなくても強くなれるかという事とはまったく関係はありません、人によっては死んだ方がマシという練習をしてやっと人並みになるという方もおられます。ですから、あえて試合をせず、試合をバンバンしてる方と肩を並べるほど上達したいと思うのなら、それ以上の練習をするしかないということも覚えておいてほしいところです。
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この回答へのお礼

ですよね。
何もしなくても強い人っていますよね。


>人によっては死んだ方がマシという練習をしてやっと人並みになるという方もおられます。

スポーツの世界は厳しいですね。

>あえて試合をせず、試合をバンバンしてる方と肩を並べるほど上達したいと思うのなら、それ以上の練習をするしかないということも覚えておいてほしいところです。

その通りだと思います。

試合で優勝するような人は、練習では何倍もきついトレーニングをしているようですね。

練習の方が試合よりずっと厳しいという人も多いですね。
やはり普段の練習があってこそですね。

お礼日時:2009/12/26 13:14

君が微妙に矛盾しと感じた様なので補足する。



単に強さといっても、人によっても示すモノが変わる。
普段みなれた仲間同士の練習で、確かに「技は上手くなる」かもしれない。
その「技が上手くなった」部分だけを君の言う「強さ」というなら十分強くなるだろう。
しかし上手くなった技を、普段の練習とは違った環境の中でも、普段通りに出せるとは限らない。
それには「心の強さ」が必要だからだ。

その心の強さを養う訓練のためもに、何度も試合を行い、恐怖心や苦痛等を乗り越えた貴重な体験を積み重ねていき、底力をつけていくしかない。
(回答で君から「実践」という言葉が出たが、君が試合はやらないが喧嘩や何らかの格闘をしている&これからすると言うなら、また話は変わるだろう)
どんな状況になっても慌てない、いわゆる「肝がすわった状態」に少しでも近付ける努力をしなくては、私が思う「強さ」ではないからだ。

ただどうしても元々心が弱く、ストレスを感じる人はいるので、無理に試合に出る必要はない。
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私は既に初老を超えていますし、勝敗だけにこだわる試合の風潮も嫌いなので、試合には出ません。



攻撃パターンや即応力は、できるだけ多くの人と戦わなければ養われない反射神経です。
従って、モチベーションも練習と試合では雲泥の差がありますから、「試合に出た方が強くなり易い」いうのは確かでしょう。

でも、「強い」と言う言葉の解釈によって、その正解は変わると思います。説明し辛いので私のやっている合気道で説明します。
富木(合気道協会)では乱捕りといって、試合形式の練習があり、大会ではポイント制で勝敗を決めます。一方は模擬短刀を持って攻撃します。一方は徒手で対抗します。
あくまでも技の競技なので、本来ならば、相当共に技としての完成度が低ければ、相手を倒しても(短刀は短刀でヒットしても)得点にはなりません。
しかし、昨今は技の出来より力でねじ伏せる傾向が強くなってきています。
足を掛けたり手を添えたりして相手を倒しても、それは本来の「技」ではありません。(実戦では使いますが、あくまでも「乱捕り稽古」の延長ですから)
でも、審判自体がそのような環境で育っている為、技で不完全な有効ではポイントにならず、力で倒す方が一本になったりします。
つまり、技を修得する合気道では試合に勝っても完成度としては強くなれない。仮に実戦で自分より力が強い人が来たら負けてしまいます。逆に試合になかなか勝てなくても、技をしっかり身につけていけば多少の力の差は問題にならないのです。
もちろん、最近では力技に対抗する応用技(試合でしか通用しない技)も増えてきているので、力だけでは勝てなくなってきています。
・・・種目が違うので、判りにくいかもしれませんが、そういう事です。

試合は有効な練習方法ですから、試合を経験しないより遥かに上達する早さも違うでしょう。しかし、試合は完全ではありません。基礎を身につけておかなければ、いずれ壁に当ります。
勝つ事を目的としてしまっては、かえって技として下手になる事すらあります。
つまり、特定の競技の中で判断するとすれば、強くなるのに必ずしも試合が必須では無いということです。
試合も稽古の一種「乱捕り稽古」だと考えれば、試合も、さほど苦ではないでしょう。でも、勝敗だけを誇る風潮がいやなら、無理に出場する必要も無いと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

合気道ですか。私も見学だけ言ったことがあります。
たしかに試合で勝つことと、実践で勝つことの意味は違いますね。

>勝つ事を目的としてしまっては、かえって技として下手になる事すらあります。

これ私も経験があります。気楽になった方がうまくできたりしますね。

>つまり、特定の競技の中で判断するとすれば、強くなるのに必ずしも試合が必須では無いということです。

>試合も稽古の一種「乱捕り稽古」だと考えれば、試合も、さほど苦ではないでしょう。でも、勝敗だけを誇る風潮がいやなら、無理に出場する必要も無いと思います。

このご意見に励まされました。たしかに乱捕り稽古ですね。
ただでるからには勝たなくてはとなってしまうときもあります。
でもその感じもあまり自分では好きではないです。

今の競技は最低5年やるつもりなので、
気長に模索していきたいと思います。
これからまた変るかもしれませんしね(^^;)

お礼日時:2009/12/21 18:24

どうやら「強い」事には憧れがあるようだから、妄想の中でのみ強くあれば良いって事だよね?強そうだったら良いんでしょ。


だって普通は技を身につけたら真剣勝負の中で自分の技の有効性を確かめたくなるのが格闘家の本能だもの。
それに2戦して五分の成績を普通より強いと自分で底上げして説明している事からもそれは判ります。
だったら一番良い方法があるよ、それは、今後強くなりそうな後輩がまだ君より弱いうちに試合して勝って置く。
で、二度と試合しない、つまり勝ち逃げ。その後後輩が強くなればその後輩に勝った事実は変わらないので、君の自己評価ぐらいには周りからも評価されるかもしれないな。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

強い者への憧れですか。たしかにありますね。
小さいときからあるような気がします。

>妄想の中でのみ強くあれば良いって事だよね?

これは若干ずれちゃってます(^^;)

>強そうだったら良いんでしょ。

これもちょっとずれてます。文章を理解してからご回答くだされば幸いです。

>強そうだったら良いんでしょ。
今後強くなりそうな後輩がまだ君より弱いうちに試合して勝って置く。
で、二度と試合しない、つまり勝ち逃げ。その後後輩が強くなればその後輩に勝った事実は変わらないので、君の自己評価ぐらいには周りからも評価されるかもしれないな。

これはあなたがされた方法でしょうか?
やっぱりちょっとずれています(^^;)
真剣に答えてくださっている回答者様に失礼ですので、
きちんと読んでくださっている方もいるので、こういうのはご遠慮ください。

お礼日時:2009/12/21 18:26

試合は練習の何倍もの経験になるから、試合をやった方が強くなるのは間違いない。


試合前の恐怖心やプレッシャーを押し殺し、自分よりも遥かに強いかもしれない相手に、一歩前に進み挑んでいくだけでも全然違う。
また試合中の肉体的苦痛や精神的苦痛を乗り越え、勝ちをもぎ取る闘争心。
これらは普段みなれた仲間同士の練習や型稽古の武道では、到底味わえない貴重な体験だ。
これらの積み重ねが底力につながる。

もちろん試合に出てなくても強い者も中にはいるが、誰もが普段の練習とは全然違う試合というプレッシャーの圧し掛かる環境の中で、普段通りの力が出せるとは限らない。
試合は普段とは違った環境の中で、己の力を発揮する訓練になる。

だから本当に強くなりたいなら、型稽古武道より、まず競技武道をやるのが良い理由でもある。
試合ができる環境なら、どんどんやるべきである。
それが力になる。

別に強くならなくても良いなら、試合に出なくても良いとは思うが・・・。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>試合は練習の何倍もの経験になるから、試合をやった方が強くなるのは間違いない。

これは私も同感です。
貴重な体験というのも納得できます

>試合は普段とは違った環境の中で、己の力を発揮する訓練になる。

いいことをおっしゃいますね。
実践とはまた違う感覚だとは思いますが、
いつもと違う状況で自分の力を発揮するというのは、大事だと思います。


だから本当に強くなりたいなら、型稽古武道より、まず競技武道をやるのが良い理由でもある。
試合ができる環境なら、どんどんやるべきである。
それが力になる。

たしかにその通りです。

>別に強くならなくても良いなら、試合に出なくても良いとは思うが・・・。

ということは、試合にでなければ強くなれないというご意見ですね。
冒頭で>試合は練習の何倍もの経験になるから、試合をやった方が強くなるのは間違いない。とおっしゃっているので、
微妙に矛盾しますが、文脈から解釈すると、
試合にでなければ、ある程度までしか強くなれない。
ということでしょうか。

お礼日時:2009/12/21 18:29

試合のない格闘技もあります。

少林寺拳法です。
試合ではなく演舞ですからかっこよく技を使えればいいようです。
いかがですか。
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