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こんばんは。

仏教についても造詣の深い、ご回答者の皆様に、またご教示いただきたく。


「幸福」とは?

A 回答 (9件)

仏教を知りませんが、



個人的には「愛すること、愛を受け入れること、愛を感じること」です。
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この回答へのお礼

88i88444様、21世紀的ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2013/06/23 01:44

English-Pali Dictionary


by Metta Net, Sri Lanka

http://www.budsas.org/ebud/dict-ep/index.htm#top

happiness : (nt.) somanassa. (m.) ānanda. (f.) pīti; sampatti; samiddhi || bringing happiness: (adj.) sukhāvaha.
happy : (adj.) sukhita; santuṭṭha; pamudita; dhañña; bhāgyavantu.

これで、とりあえずのあたりをつけて、調べていけばいいのかもしれませんが。

ところでkurinalさんの「あわれ」の質問のほうに回答しようかと思ったんですが、

仏教に慈悲というのがあって、私が今のところ気になっているのが、
悲(karunā)なんです。

karunā Buddhist Dictionary by NYANATILOKA MAHATHERA
karunā:'compassion',is one of the 4 sublime abodes (brahma-vihāra,q.v.).

http://dictionary.online-dhamma.net/

調べてみると、karunāは英語でcompassionと訳されているようなんです。
それでcompassionで検索するとたくさんサイトが出てくるんですが、

こことか

煩悩(passion)と慈悲(compassion)
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/1356/kuru/ …


それで、さらに調べていると、「共に苦しむ」という意味があるようで、
compassionはキリスト教でもけっこう、使われているようなんです。

共苦(ミットライト)の思想といえば、哲学だとショーペンハウアーだし、
同情するなといえばニーチェだし、

どうも悲(karunā)が気になる。
さらに大悲(マハーカルナー)なんていうのもあるわけで。

私は、共に苦しむことが幸せとは言いませんが、
生きとし生けるもの、全人類の罪と苦悩を背負うなんてのが幸せともいいませんが
苦しみを無くすよりも、共に苦しむことを理想と考えた人たちもいるようです。

というわけで、カルナーについては現在、調べているところなので、
これ以上はなんとも。
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この回答へのお礼

kazamidori365様、ありがとうございます。


>「私は、共に苦しむことが幸せとは言いませんが、
生きとし生けるもの、全人類の罪と苦悩を背負うなんてのが幸せともいいませんが
苦しみを無くすよりも、共に苦しむことを理想と考えた人たちもいるようです。」

そうですか。


>「ところでkurinalさんの「あわれ」の質問のほうに回答しようかと思ったんですが、」

ありがとうございます。



>「カルナーについては現在、調べているところなので、これ以上はなんとも。」


ありがとうございます。

お礼日時:2013/06/23 04:39

仏教用語に幸福という言葉があるとは思いませんでした。


相対的幸福と絶対的幸福に分けて考えているようですな。
まぁそれは、仏教の専門家にお任せするとして、私は
橘曙覧の『独楽吟』を考えるヒントとして
提示することにします。
他、『Le Marchan de Bonheur(=幸せを売る男)』という
シャンソンがあります。you tube で聴けます。

何のご研究かは不明ですが
ご成功を祈っています。
Good Luck!
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この回答へのお礼

obrigadissimo様、おはようございます。


とりいそぎ、お礼まで。


いやぁ、それほどでも。


>「何のご研究かは不明ですが
ご成功を祈っています。
Good Luck!」

「~と、ともにあれ!」みたいな表現も、あるんですね。

お礼日時:2013/06/23 04:56

たとえば、色というのは存在しません。


光の波長の違いを色として捉える目や脳があるだけです。
犬などは、それができないので色は識別できませんが、
劣っているということではなく、捉えかたが違うということです。
色は存在せず、人間の脳が光の波長の違いを光というイメージとして
作りだしたのです。

幸福も同じです。幸福は存在せず、ある状況に出会った脳が幸福という
イメージ(幻想)を勝手に作ったにすぎません。
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この回答へのお礼

bagus3様、ご回答ありがとう御座います。


幸福=「ある状況に出会った脳が、勝手に作った、イメージ(幻想)」



「ある状況に出会った脳が、勝手に作った、イメージ(幻想)」
コレは別に、必ずしも「幸福」と名付けられなくてはならないものとは限らない、という気がします。

何でも「ある状況に出会った脳が、勝手に作った、イメージ(幻想)」ではないでしょうか。
で、「理論→実践」というようになるのでしょうか。

お礼日時:2013/06/28 22:56

例えば政治的な目指す方向性を考える場合に、『幸福の定義』は必要ですよね。



これが『自国民の幸福』であれば、「自国の優位性を保ち易い条約の締結」「その前提としての絶対的軍事力」とかです。

これはアメリカや中国やイスラエルの目指す幸福の方向性。

しかし幸福の定義が『万人の幸福』であるなら、自国のみの繁栄は無意味なので、
「世界平和」や「他国への完全無償援助」となります。

さらに仏教的ともなれば、『あらゆる生物の幸福』を求めるので、
「生物としての普遍的な幸福」が目指す方向性になるでしょう。

たぶんそれは「子孫繁栄」「生物の多様性」「選民思想のない世界」となるはず。

そう考えると選民と殺戮の一神教は除外し、「みんな違ってそれがいい」世界でなければいけません。
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この回答へのお礼

o-sai様、ご回答ありがとう御座います。


「「信教の自由」にも限界はある」と考えております。
また、政治的には、「公的機関」なるものは民主的憲法を度外視したりは出来ないわけですね。

お礼日時:2013/06/28 23:02

仏教ではないかも知れませんが...



全ての生命が、根源でつながっており、たった一つの大いなる存在であることを、知識としてではなく、自分自身で体感すると、絶対の幸福が得られるという。

それが悟り。

自分を愛する事は、全ての生命を愛する事と同義であり、その逆もまたしかり。
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この回答へのお礼

nToTn様、ご回答ありがとう御座います。


>「全ての生命が、根源でつながっており、たった一つの大いなる存在であることを、知識としてではなく、自分自身で体感すると、絶対の幸福が得られるという。

それが悟り。

自分を愛する事は、全ての生命を愛する事と同義であり、その逆もまたしかり。」

「絶対の幸福」ですか。
「コレ=「絶対の幸福」」というのがあったとして、どれくらいの人を説得し得るでしょうか?

お礼日時:2013/06/28 23:11

物体の持つエントロピー増大(無秩序な方向に進む)は淘汰として、


生物の進化(存続性の追求)を導く。
それは我々において、根源的な生きる本能として先入化している。
それは脳の発達による環境情報の処理において、生きる意志の
充足を欲する=快楽の追求となる。
認識の発達において、そうした短絡的な衝動の充足から、深い
認識性に基づいた長期的な目的の達成としての、幸福感へと
昇華される。

短絡的な「快楽の追求」は、即物的な刺激への反射的な対応
として、複数の充足が対立し、また刹那的であって断片的で
小さな充足感となるだけなく、それを感じる基盤となる意識自体
の希薄さにおいても、充足量の最大化の目的に反する。
その「充足量の最大化」を、人生の通算において最大化し、また
環境条件との調和(環境との物質循環、人々との助け合い)に
おいて対立や障害をなくし、またその「人生を通算した」目的に
おける深い認識における一貫した強い意志の達成は、真の
充足量の最大化を可能にする。
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この回答へのお礼

psytex様、ありがとうございます。


>「「人生を通算した」目的における深い認識における一貫した強い意志の達成は、真の充足量の最大化を可能にする。」

なるほど。「人々との助け合い」これがですね、額面通り可能かどうか?・・・「助けろ!」という命令形の応酬になってしまわないか?


仰る「一貫した強い意思の達成」が、人権侵害を引き起こしてしまわないか。

お礼日時:2013/06/28 23:21

まずは、快食快眠快便が達成・維持できている事。



そのうえで、家族や隣人が屈託なく笑っている姿を観ることが幸福です。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。


立派に頼もしいお姿です。

お礼日時:2013/06/28 23:57

No.6です。



>「コレ=「絶対の幸福」」というのがあったとして、どれくらいの人を説得し得るでしょうか?

説得できるかどうかは、不明ですが、機会があれば、匿名で説明しています。
現実社会でこんな話をすると、頭を疑われますので。

かなりの数のスピ系の本と、少しの仏教系の本を読みましたが、だいたいがNo.6の内容に行き着いているようです。

実は15年ほど前、あるきっかけで、まるまる1ヶ月間、この上もない幸福感に包まれたことがあります。
自分では頭がおかしくなったのではないかとも思いましたが、周りからの評価は非常に良く、別におかしいところは無いと言われました。
逆に、急に仕事が良くできるようになった、との事。

心がシンと落ち着き、何も恐れるものが無い。
どんな人に会っても、相手に対して慈愛の気持ちがわき起こる。
多分、その時の脳波を測ると、アルファー波だったでしょう。
以前は何をするにも、うじうじと優柔不断に悩んでいたのが、すっぱりと行動ができる様になりました。

ある人は、私が、なにか急にすっきりした顔つきになったと言いました。
また、ある取引先を訪問中、そこの社長さんが、今まで話をしたことも無かったのに、急に私を呼び出して、話をしたがりました。
地方線の電車の車掌さんが、なぜか私に話しかけて来たりもしました。

科学的に言えば、単に、脳内麻薬が多めに出ていただけかも知れません。
しかし、躁状態との違いは、底抜けの落ち着きと安心感でした。

残念ながら、それは1ヶ月ほどで終わりました。
その状態が普通になって慣れてしまったのか、それとも魔法が解けたのか。
多分半々でしょう。
その半年後、職を辞して、タイ人と結婚してタイに渡り、さらに1年半後に現地で起業し、今に至ります。
その幸福感以前の自分には、とてもじゃないが、考えられないような行動でした。

当時は、その幸福感が、何の事やらよく分かりませんでした。
しかしその後、色々な本を読みあさって、自分の経験と似た内容を探し当てたのが、No.6で述べた「絶対の幸福」です。

ちなみに、私自身は、自分が悟っているなどとは、口が裂けても言えません。
全く普通の人間です。

しかし、15年前のあの幸福感を再び味わいたいというのが、人生の目標の一つになりました。

以上、特に、信じて頂かなくても結構ですが、興味深い話ではありませんか?
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この回答へのお礼

nToTn様、ありがとうございます。


Ano.4様との応答をご参照下さい。

お礼日時:2013/06/29 01:22

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