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大河ドラマ「八重の桜」を楽しんで観ています。
ドラマの松平容保は、家臣思いで、聡明な殿様として描かれています。
ドラマが真実だと思っているわけではありませんが・・・。

松平容保は、なぜ恭順和睦の条件に自らの命を代償にしなかったのでしょうか?
戦国時代の敗戦処理では、城主の切腹が和睦の条件だったりしますよね。
会津藩は重臣のひとりが城主の肩代わりで死んでいます。

容保の会津戦争後の行動を調べると、戦争責任は感じているように思えるのですが・・・。
どなたか教えていただけないでしょうか。
よろしくお願いいたします。

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A 回答 (10件)

 戦国時代と江戸時代の倫理観を同一に論じるのはどうかと思いますよ…。



 まあ、戦国時代でも大名級の者が家臣の命を救う為に開城後に切腹するなんて、小田原城(北条氏直が自身が切腹するからと申し出て、実際には氏政・氏照が切腹)ぐらいしか思いつかないですし…。
 (清水宗治を初め、家臣の命を救う為に自害したのは、大名で無く城主や城代クラス。)

 信長さんみたいに、開城したのに約束破って皆殺しなんて例も多いですしね…。


 なお、江戸時代だと儒教の影響が強くなりすぎるので、大名クラスの対応は全く異なってきます。
 (家臣に無駄な犠牲を出したくなったら、大名は絶対に自ら死んでは成らない。)

 つまり、江戸時代の儒教の精神を元すると、自らの主が敵に殺されたら、その家臣は何がなんでもその敵を討たなければならないという思想です。
 (赤穂四十七士の忠臣蔵が典型的ですね。)

 ちなみに、幕末の桜田門外の変では、彦根藩主・井伊直弼を守れなかったとの理由で、死亡者の家には跡目相続が認められたが、重傷者は減知の上で幽閉。軽症者や無傷の者は処刑との厳しいさたが下りました。←主君が死んだのにその家臣がおめおと生き残るのは許されない風潮があった…。
 (無傷で逃れた者は親族まで罪に問われた。)

 とは言え、実際に主君の敵を取るなど殆ど困難ですから、遺臣達は世間から主君の敵すら取れない不忠者として肩身の狭い思いをしなければなりません。
 (極端な例だと、岡林直之みたいに「義挙に加わらなかったのは何事か、桜井松平家の恥さらし」と罵られた上で、無理やり切腹させられた。)

 敵対者の側にしても、大名を殺して恨みを買うよりも、適当な家臣に腹を切らせた上で「主君を身を挺して守るという立派な家臣をお持ちなのですから、当然その主も優れた方なのでしょう。機会があれば御家再興も考慮しましょう」などと含みを持たす事で、報復の連鎖を未然に防ぐ意図もあったのでしょう。
 (もちろん罪を背負った家臣の遺族には特別の配慮がされる。)

 あと、松平容保は別に死ぬのを恐れていた訳でなく、死覚悟の上で降伏したのですが敵方の桐野利秋や前原一誠らが、減刑嘆願の活動をしたから許されただけです。
 (戊辰戦争で大名自身が処刑された事例は確か無かった筈。大名自身が脱藩して新政府に反逆した林忠崇ですら一命だけは取り留めている。)
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この回答へのお礼

>なお、江戸時代だと儒教の影響が強くなりすぎるので、大名クラスの対応は全く異なってきます。
 (家臣に無駄な犠牲を出したくなったら、大名は絶対に自ら死んでは成らない。)

なるほど。江戸自体の倫理感では容保公が切腹したら、主だった家臣も切腹しないと格好がつきません。
確かに無駄に犠牲を増やすだけです。儒教が普及したから戦国時代とは倫理観が異なるんですね。

赤穂浪士の事件にもそういう倫理観が背景にあったと考えると腑に落ちます。
私は吉良様をお気の毒に思っていました。吉良様は地元の殿様で地元では名君と言われています。
小学校で社会科の教科書とは別に「赤い馬」という読本が配られ、吉良様は赤い馬に乗って
領地を見回り、領民にも気さくに声をかけた心優しい殿様であると記されています。
かなり地元目線の内容ではありますが(笑)

解りやすいご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2013/07/25 10:01

>松平容保はなぜ自らの命を引換にしなかったのですか?



戦国期・幕末動乱期の双方を比較可能な現代人としては、当然持つであろう疑問ではあるのですが、一方明確に法人化した徳川中期以降の大名家に於いて、藩主の委託を受けた家老以下が政務を代行し、その責任の全てを負うというのは、極めて明快な論理でありました。

学問・歴史的素養他、恐らく容保公は平均以上の殿様ではあったのでしょう、但し彼とて世の慣習の埒外では在り得なかった、即ち藩を代表しての自刃という選択肢が、そもそも容保公のそして会津藩士の頭の片隅にすら無かった、そう考えるのが妥当な推論かと思われます。

一方何れの歴史書にも明確に記されてはおりませんが、私個人が捉える幕末の動乱とは、或る意味朱子学を基調とする佐幕派と、陽明学の流れを汲む薩長尊皇派の争い、無論その他の要因も加味されるのでしょうが・・。

つまり徳川家康が天下を取った後、荒々しい戦国の気風を残す大名諸侯の思想的な去勢を目論み、林羅山らを重用して、武家政治の基礎理念として幕府の正学に定められたのが、建武の新政以降長らく市井に埋もれてはいたが、忠孝を一義的に説く朱子学。
(但しこの朱子学から派生した尊皇攘夷思想が、討幕運動の引き鉄となったのは或る意味歴史の皮肉ではありますが・・。)

一方に於いて、陽明学に傾倒した(と思われる)吉田松陰の系譜を引く長州藩に於いては、暴発前後の段階では藩主の存在など殆んど無視、最早藩主・藩すらどうなっても良いとの兆候すら窺える。
他方薩摩藩は、西郷隆盛一派と島津久光系の藩至上主義という二頭立ての馬車であり、陽明学と戦国群雄割拠意識の混成部隊。

尚以下は余談ですが、徳川中期以降完全に法人化した大名家に於いて、藩主はおろか閨閥家老ですら御飾りと成し、一部の例外を除き実質的な決定機関は、現代企業の役員会・常務会に相当する「衆議」でしょう。

そしてその傾向は明治維新以降も明確に引き継がれ、一体全体あの日米開戦のスイッチを誰が押したのかすら今以って判然としない、即ち責任の所在が誠に持って不明確な日本型政治の一典型となり、未曾有の敗戦に依り、殆んど全ての諸制度が形骸化した戦後社会すら生き延びて、今に至ります。
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この回答へのお礼

>法人化した徳川中期以降の大名家に於いて、藩主の委託を受けた家老以下が政務を代行し、その責任の全てを負うというのは、極めて明快な論理でありました。

現代憲法が規定する天皇の権限に少し似ていますね。
(国民は選挙権を行使して自分たちの代表(議員)を選ぶ。多数を占めた議員の集団(与党)が
総理大臣を選ぶ。天皇は総理大臣を形のみ任命するものの、天皇の国事行為は全て内閣の決定に従って
行われる。天皇は実質的な権限は全くないかわり政治責任も負わない)。

>日米開戦のスイッチを誰が押したのかすら今以って判然としない、即ち責任の所在が誠に持って不明確な日本型政治の一典型となり、未曾有の敗戦に依り、殆んど全ての諸制度が形骸化した戦後社会すら生き延びて、今に至ります。

大日本帝国憲法ではそうだったかもしれませんが、議会制民主主義を明確に定義づけて現代憲法では、
今後万一戦争が起きても(ないとは思いますが)、戦争責任は内閣(もしくは議会制民主主義に
基づく選挙で内閣総理大臣を選んだ議員集団=与党を選んだ国民全体)にあるのではいでしょうか。

>法人化した大名家に於いて、藩主はおろか閨閥家老ですら御飾りと成し、一部の例外を除き実質的な決定機関は、現代企業の役員会・常務会に相当する「衆議」でしょう。

容保公の頃の会津藩では、世襲制家老が力を持っていて、門閥以外の実力派の意見が取り入れられにくく、
保守傾向が強かったため、軍制の改革が遅れたとの説もありますね。
その点、薩摩藩・長州藩はある意味、実力主義だったのでしょうか?
攘夷思想は海外と密貿易をして富を得ていた薩摩藩では醸成されにくかったかもしれませんね。
(外国の実力を早くから知っていた?)

>学問・歴史的素養他、恐らく容保公は平均以上の殿様ではあったのでしょう、但し彼とて世の慣習の埒外では在り得なかった、即ち藩を代表しての自刃という選択肢が、そもそも容保公のそして会津藩士の頭の片隅にすら無かった、そう考えるのが妥当な推論かと思われます。

みなさまのご意見を伺って、そうかもしれないと思うようになりました。もう少し自分でも勉強してみます。
詳しいご回答をありがとうございました。

お礼日時:2013/07/27 06:26

No.3です。



秩父宮妃と高松宮妃(容保の孫娘、慶喜の孫娘)は、とても仲が良く、二人で皇居を抜け出して、東京見物を

よくしておられたそうです。

はとバスに乗って楽しんでおられたそうですよ。

民間人から出られた美智子皇后を相当虐められたそうですが

清子内親王はとても可愛がっておられたそうです。


せっかく「八重の桜」を見らておられるのですから

早乙女貢著「会津志魂」を読んで見られたらどうでしょうか?

10巻?くらいありますが、当時の会津が何故、京都守護職につかなければならなかったのが

慶喜の裏切りに苦しんだ容保公のことなど詳しく、分かりやすく書かれています。

この本を読むと、八重の桜も数倍楽しく見ることができます。

ただ、薩長による会津藩士へのいたぶり方は、半端なく

山口県民、鹿児島県民を嫌いになってしまいますが、、(笑)


何故、西郷隆盛に人気があるのか理解に苦しみます。

会津藩士を痛ぶったぶん、西郷も殺されてしまいますが、、。

自業自得ですかね。
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この回答へのお礼

>民間人から出られた美智子皇后を相当虐められたそうですが
>清子内親王はとても可愛がっておられたそうです。

皇室はやはり特別な存在なんですね。私が中学生の時、社会科のテストで「明治天皇は○○○と呼ばれた」
「○○○を漢字三文字で埋めなさい」という出題がありました。正解は「現人神」なんですが、
なんと「非国民」と回答した強者がいて、教師が「予想外の回答が出た」と話題にしていました。
回答した子に不敬の念はなく、解らない時は何でもいいから書けという受験セオリーに従っただけの
ようでしたが、それにしてもねぇ・・・。

>早乙女貢著「会津志魂」を読んで見られたらどうでしょうか?

読んでみます。会津戦争についてはテレビドラマくらいの知識しかなく、こうやって頓珍漢な質問を
させていただいているような有り様ですので。

>ただ、薩長による会津藩士へのいたぶり方は、半端なく山口県民、鹿児島県民を嫌いになってしまいますが、、(笑)

そんな回答者様に大河ドラマ「獅子の時代」(山田太一脚本)をお勧めします(ご存じでしたらごめんなさい)。
加藤剛(薩摩藩士)、菅原文太(会津藩士)ダブル主演で、双方の視点から明治維新を描いています。
会津の悲哀も、薩摩の動乱も描かれていますので、どちらにもシンパシーを感じられます。
西南戦争のシーンで西郷隆盛も少し出てきますが、容貌が激似のキャスティングにある意味笑えますよ。
番組後半で加藤剛(薩摩)に菅原文太(会津)の妹=大竹しのぶ(会津戦争で祖母と母が自害、薩摩を
敵視している)が嫁ぎ和解の象徴になりますが、その後、悲劇が・・・ネタバレはここまでにします。
全編DVD化されており、レンタルでも借りられます。私のお薦め大河です。

再度のご回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/07/25 14:18

>江戸時代では基本的は大名(=城主)が責任を取らずに、家老が責任をとる制度になっていた。



そうなんですね。不勉強で知りませんでした。家名存続の手段だったのでしょうか?


大名&その家来という属人的な集団から、○○家中というような組織存続を目的とする集団に変容した事が大きな流れかと思います。
江戸時代初期には、主君を見限って浪人になるというのがかなりあります。大名取り潰しもある一方で新規取り立てなどもありましたので、江戸時代初期は、解雇も多ければ新規採用も多い時代だったという背景もあります。
中期くらいからは、主君押込などが進みます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%BB%E5%90%9B% …

またお家騒動が
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E5%AE%B6% …
17世紀には頻発しているのに対して、18世紀には件数が減るのは大名自体の藩政に対する指導力がなくなった≒責任がなくなったとも読み取れます

>戦国時代の敗戦処理において、城主が切腹するというのは戦国時代でもかなり終盤、天正時代も最後の方です

なるほど。信長、秀吉時代のイメージが強かったので、そう思い込んでいました。
ご教示ありがとうございました。

http://www.m-network.com/sengoku/sen-08.html
資料としての強さはありませんが、TOP3のすべてが秀吉関連であるのは、彼の性向かもしれません。
同時代の魚津城の戦いでは、講和ではなく落城によって主な武将が自刃しています。
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この回答へのお礼

>大名&その家来という属人的な集団から、○○家中というような組織存続を目的とする集団に変容した事が大きな流れかと思います。

強力なリーダーに心酔する(利害関係も込みで)集団から、お家大事の組織に移行した感じでしょうか。

>資料としての強さはありませんが、TOP3のすべてが秀吉関連であるのは、彼の性向かもしれません。

教えていただいたURLの城主の方々がまさに私のイメージを形成していました。
若いころの秀吉公は人殺しを嫌ったイメージもあるのですが、そうでもなかったのか、はたまた
そういう時代だったんでしょうか。いずれにせよ、江戸時代の殿様とは立ち位置が違ったんですね。
再度のご回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/07/24 21:04

故人の内心など行動からしか類推することはできませんが、はっきり言えば家臣より自分の立場を重視した人間と私には見受けられます。



そもそも京都守護職などという無茶な役割をなぜ引き受けたのでしょうか?
常識的に考えて、京都の警備は畿内近くの藩の役割でしょう。
越前松平や桑名あたりです。
まあだからこそ春嶽侯におしつけられたわけですが、このような無茶な命令普通なら引き受けません。
なぜに引き受けたかというと、西郷頼母に指摘された通り(史実かどうか知りません)容保が養子で藩内に基盤がなかったからです。だからこそ幕府の覚えをめでたくすることにより、藩主としての基盤を確立したかったわけです。
どう考えても守護職を引き受けることが会津藩のためとはなりえません。

京都守護職として、彼は新撰組を使い志士を問答無用で切りまくってます。
それまでの当時の慣習では、たとえ役職を負ってても京都守護職の一存で他国の武士(どころか農民でさえ)斬る権限などありえません。幕府であってもそうです。
もし浮浪に見える何某かが例えば土佐藩藩士名乗ったら、京都守護職にできることはそのものを捕え土佐藩に身分照会をし、もし罪に問うような行いがあれば土佐藩の手で切腹をさせる、そこまでです。
問答無用でいきなり切るなど他藩から見ればただの虐殺行為で、越権行為の暴走以外の何物でもありません。

この辺の行動を見ると、容保は自分の政治的地盤や功を確保することに焦った人間で、あまり会津藩や会津藩士のために自分が腹を切るようなタイプの人間ではないように思います。
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この回答へのお礼

回答者様のお考えに近い感想を、実は私も持っていました。
しかしそれは、先の回答者様へのお礼に書かせていただいたように「現代感覚」なのかとも思いました。

>自分の政治的地盤や功を確保することに焦った人間で、あまり会津藩や会津藩士のために自分が腹を切るようなタイプの人間ではないように思います。

政治地盤や功を確保するというより、容保公の「若さ」が原因なのかと私は思っていました。
「遺訓に絡め捕られたこと」「天皇のお言葉に感激し、その後の道を誤ったこと」などが若さゆえの
ある意味、過ちだったのではないかと。新選組も正直「ちょっとどうかな?」と思ったりするので。
浅学な私がこんなことを言うのはおこがましいのは承知していますが。

ここで、いろいろな方のご教示を受け、さらに勉強してみたいと思います。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/07/24 20:58

会津戊辰戦争ほど日本史上における過酷な戦争は無い、基本的な起こりの要因は何処から始まったか知っていますか?それは水戸藩士(一人薩摩藩士含む)が桜田門外で大老・井伊直弼を殺害した事に端を発し、実質ここから約10年にも及ぶ国内戦争は始まる、この時点で会津中将松平容保は、まさか!わが会津藩が幕府の盾に成ろうとは知る由も無かった、孝明天皇からの絶大なる信頼があった容保公は孝明帝より名誉ある御しんかんを享け賜る(天皇から歴代将軍が御しんかんの名誉を享けた者は誰もいない)、しかし孝明天皇は突然の崩御!(死因は天然痘とされるが実際は岩倉具視による毒殺説の可能性大)、失意のどん底に叩き落された容保公は気を取り直して職務(実質国務)に励むが、更に勢力を増した郎党過激連合(薩長土肥安芸連合)の謀略に巻き込まれてゆく、そして愚かな徳川慶喜公は将軍職を投げ出してサッサと隠遁生活に入る(これほどブザマな将軍は足利幕府以来だろう!)、足蹴にされた容保公は会津に戻り戦争に備えるが、怒涛のごとく調子づいた郎党連合は強姦・略奪・放火の限りを尽くし、会津藩を完膚なまでに叩きのめす!徳川宗家に尽くし自らの国許を守り抜こうとした容保公に責任は無い!100%完全なる戦争責任があるのは(薩長土肥安芸連合)の桂・大久保・西郷どもだろう、そして幕府海軍司令官・榎本武揚にも責任はある、どうして品川沖で艦砲射撃を行わなかったのか?どうして彰義隊を見殺しにしたのか?どうして勝を殺さなかったのか?この男への三大不思議だ、最後まで慶喜公の尻拭いをした会津中将松平容保は正にお釈迦様である、正しい史実のドラマ制作をしないNHKの罪も深い、オッと!面白い歴史フィクション小説をお教えする(大逆説!戊辰戦争、上下巻/著者・志茂田景樹)。

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この回答へのお礼

宸翰は容保公にとって非常に名誉な事だったんでしょうね。死ぬまで手放さなかったと聞いています。
でも・・・ただの紙(ごめんなさい)より、家臣の命、領地の民の安寧の方が大事なんじゃ・・・と
思ってしまう私は平和ボケした現代人なんでしょうね。その時代に生きていたら容保公の生き方も
すんなり理解できたかもしれません。教えていただいた小説、是非読んでみたいと思います。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/07/24 20:50

松平容保は、なぜ恭順和睦の条件に自らの命を代償にしなかったのでしょうか?


戦国時代の敗戦処理では、城主の切腹が和睦の条件だったりしますよね。
会津藩は重臣のひとりが城主の肩代わりで死んでいます。


戦国時代と江戸時代を経過しあとの幕末では「制度」が違ったから。

終戦の制度
戦国時代の敗戦処理において、城主が切腹するというのは戦国時代でもかなり終盤、天正時代も最後の方です
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A3
上記URLでの「天正期に起きた出来事」でも


だいたい天正時代を通じて制度化された。

江戸時代では基本的は大名(=城主)が責任を取らずに、家老が責任をとる制度になっていた。

幕末の他の例でも
安政の大獄では、大名は隠居謹慎。
長州征伐でも、毛利の殿様は腹を切っておりません。切ったのは家老。切腹した家老の数では長州征伐の時のほうが多い。
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この回答へのお礼

>江戸時代では基本的は大名(=城主)が責任を取らずに、家老が責任をとる制度になっていた。

そうなんですね。不勉強で知りませんでした。家名存続の手段だったのでしょうか?

>戦国時代の敗戦処理において、城主が切腹するというのは戦国時代でもかなり終盤、天正時代も最後の方です

なるほど。信長、秀吉時代のイメージが強かったので、そう思い込んでいました。
ご教示ありがとうございました。

お礼日時:2013/07/24 05:08

私も、No.2さんと同意です。



べつに、逆賊ではなかったので、容保公が切腹する必要はありません。

会津は「売られた喧嘩は買った」だけのことです。

売られた喧嘩を買ったら、最後まで戦うことが会津武士の誇りだったのです。

が、それも、力尽きてしまいました。



後に、容保公は、日光東照宮の宮司になりますが、亡くなるまで戦いで亡くなっていった

家臣の菩提を弔い続けたそうです。

が、歴史の流れって凄いですね。

容保公の孫娘が皇室に入って昭和天皇の弟宮の秩父宮の妃になるのですから。

その下の弟宮 高松宮の妃には、徳川慶喜公の孫娘が皇室に入られましたね。


21日の「八重の桜」での、尚之介が「ここに女がいる」と言ったシーンには

胸がジーンときましたね。

謡曲が流れてきてきて、自分達の祝言(結婚式)のときに詠ってもらった!と八重が尚之介に語りかける。

身なりは、男の格好をしてるが、やはり八重は女だったのですね。

男は、ああいう時に、「祝言」なんて思い出しもしませんから。

尚之介の、八重への精一杯の愛情なんですね。

尚之介の気持ちを思ったら泣けてきました。
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この回答へのお礼

>容保公の孫娘が皇室に入って昭和天皇の弟宮の秩父宮の妃になるのですから。
>その下の弟宮 高松宮の妃には、徳川慶喜公の孫娘が皇室に入られましたね。

政治的和睦の象徴だったんでしょうね。
嫁いだご本人はどう思われたのか、お幸せだったのか気になります。

>尚之介の、八重への精一杯の愛情なんですね。

ドラマでは好感度の高い美男美女が演じていますから、余計ジーンと来ますね。
「女がいる」と言ったのが、尚之介だったという事実は確認できていないようですが、
ドラマ的には良いシーンだと思いました。

写真の八重さんや晩年の借金癖のエピソードを知ると、ちょっとだけガッカリしますね(笑)
先駆的な女性だった事は間違いないので、これからも綾瀬はるかさんに脳内変換して
ドラマを楽しもうと思います。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/07/24 05:06

別に会津藩が好きこのんで戦争を吹っ掛けたわけではなく、


一橋慶喜さんに、対攘夷派との抗争の駒として良いように使われ
あげくに江戸無血開城の代償としての会津戦争だから
藩主が首を差し出さなければならない理由は最初から無い

徳川さんは、当主の慶喜さんが隠居の上で蟄居して家禄を減じる事で納まった
会津も同様に、容保さんが隠居して当主の座を降りて謹慎するので、徳川家と同様の処遇にして欲しいと願ったのに、何故か戦を仕掛けられた

売られた喧嘩を買わなければ、武士の沽券に関わるので受けて立った

デモまぁ多勢に無勢という事で、精一杯の抵抗を示した上で降服した

さて、容保さんに戦争責任がそもそもあるのだろうか?
他のどこの藩に対しても行われなかった、藩主の首を差し出せという命令に『了解しました!』と応諾するなんてことがあるんだろうか?

容保さんは、不条理さを感じながらも表だった反論をせずに、孝明天皇から下された御宸翰と御製と共にその後半生を過ごしたと言われている

戦国時代の合戦は、双方で領地の奪い合いや支配体制の確立の為に行われ戦闘行動だから、性質がちがう
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この回答へのお礼

>何故か戦を仕掛けられた
>他のどこの藩に対しても行われなかった、藩主の首を差し出せという命令

これは私も疑問に思っています。
江戸城は無血開城で慶喜公は首を差し出せとは言われていないのに。

>さて、容保さんに戦争責任がそもそもあるのだろうか?

戦争責任という言い方が不適切だったかもしれません。
多くの家臣やその家族を犠牲にしてしまったことへの責任という意味でした。

>戦国時代の合戦は、双方で領地の奪い合いや支配体制の確立の為に行われ戦闘行動だから、性質がちがう

なるほど。納得です。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/07/24 04:58

ええっとごめんなさい、意味がよく分からないのですが、松平容保は降伏後、嫡男が華族(貴族)として取り立てられているので「切腹しなかったゆえに家名を汚した」ということはありません。

つまり、彼が切腹して責任をとらないと収まらなかった事情というのはなかったと思いますがどうでしょうか。

代わりに重臣が切腹していますが、上司(会社)を守るために部下が腹を切る(自殺する)ってのは現代日本でもよくある話です。
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この回答へのお礼

容保公が家臣思いの殿様なら、家名を汚した事実はなくても、
家臣に責任を負わせるのは、不思議な気がしたので、家臣思い云々はドラマの創作かな?と
思って質問させていただきました。ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/07/24 04:52

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