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朝昼晩全てではありませんが、基本的に家族揃って食べるのが基本となっている家について
どう思いますか?
マナーというより、家族単位ということに重点をおいているようです。
家族単位というのも一つですが、自分勝手な行動や態度、
何でも好きかってして良いのではないのですよという教えが元だと思います。
ですが、「それを分かったうえで」時間に拘束されず、
自由に振る舞うのはいけないことでしょうか?



大人だったら良い・子供だったらダメというのではなく、
しっかり判断のできる人であれば自由に振る舞っても良いと思いますか?
個人的には、よその家の子ならば子供であろうと判断力があるのであれば
自由に振る舞うのは構わないと思うのです。
ですが、構わないというのは、勝手気まましても良いというのではなく、
勝手気ままになっていくのが良くないという前提でしたら、
そうなっていくのが悪い事となります。
周りに迷惑をかけるからです。
周りに迷惑をかける・かけないを判断できるのは、
まず、家庭に関しては大人(親)であると思います。




親がしっかりしていないのに、子供が聞く気を持たないのではないでしょうか?
仮に、子供は親が頼りないのは分かっていても、
「一生懸命生きてきている先輩として尊敬している」
そう思って家族揃ってという教えを守っているのであれば、
それは一つの親子の’大切な何か’があるからだと思います。

ですが、何故だかわからなくて、ただそう誰か(おそらく親)が
そうした方が良いと思ってやっているからやっているだけ、
本当はそんな事したくないのに…という気持ちの子が
いやいやそういう態度取らないといけないのってどう思いますか?

しっかりしてて、判断もできて、、周りに迷惑をかけないのなら
時間合わせて家族単位で朝昼晩の食事一緒にしなくても良いと思いませんか?

食事に限っていえばそう思います。
ですが、全てにおいてまでとはまだ言い切れません。

どう思うかだけ返事頂ければと思います。
お返事お願いします。

A 回答 (11件中1~10件)

>朝昼晩全てではありませんが、基本的に家族揃って食べるのが基本となっている家について


どう思いますか?
羨ましい限りです。
それが可能な環境であれば私もそのようにしたいと思います。

>しっかりしてて、判断もできて、、周りに迷惑をかけないのなら
>時間合わせて家族単位で朝昼晩の食事一緒にしなくても良いと思いませんか?
家族揃っての食事、というのは家庭の方針ですからそうしない家庭があることに異はありません。

ただし、家族揃って食事をするという方針の家庭内の子供が「しっかりしてて、判断もできて、周りに迷惑をかけないのなら」と自身について言っていたとしも、まあ信用しないでしょうね。
子供でなくても自己に対する評価は大甘になってしまうものなんですから。
坊ちゃんお嬢ちゃん、きみはまだ自分のことなんか分かっていないんだよ、と諭したくなるかもしれません。
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「頭で分かっている」ことと、「実際に行動に移す」の間には大きな隔たりがあります。

みんな、頭では分かっていてもなかなか行動には移せないものです。ひきこもりの人も「外に出なければならない」ってことは頭では分かってはいるんですよ。

社会性ってのは、場数を踏まないと身につかないんです。誰だって面倒くさいときもあるし、嫌なときもあります。だけど、嫌なことでも我慢をすることで社会性を身につけることができるんです。社会性って、要するにどれだけ我慢できるかみたいな部分でもあります。

崩壊している家庭って、個食ってイメージですよね。食事は、ただ単に食べるという行為だけではないと思います。デートだってさ、最初のデートって食事に行ったり飲みに行くってことが多いじゃないですか。ヒトという生き物は、食事を共にすることでコミュニケーションを深める動物なんでしょうね。
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子どもがそんなことしたくないのに… じゃあいいよ!


こんなのは親ではありません。
子どもの望みだけ聞いてたら世間知らずの裸の王様の出来上がりです。
損な育児は親として大人として落第です。

自由と言いうのは迷惑とか判断ではないのですよ?
自由とは自分の行動の結果起きることのすべての責任を取るかわりに保証されるものです。
その答えでは社会人としたら50点です。

まあ取り切れない部分は法が手助けてしてくれるわけですが。
それも結局前持った覚悟と行動のスタートがなければまず助けてくれませんからね。

ちなみに食事を一緒に取る家族はトラブルが少なく情緒豊かな子どもに育ちやすいという統計が昔に出ています。
何より食事とは生きること、そして命を奪うことです。
命を奪い我々は生きていることを忘れてはいけませんし、犠牲になった命への感謝も忘れてはいけません。
ライオンですら空腹でなければ無用な殺生はしませんから。
日本人が命を奪い食事としていただくとき、いただきますとごちそうさまといいます。
これは命と作ってくれた人に感謝する言葉、お祈りの儀式のようなものです。
ちゃんとやってますか?
私は多くの小さな子どもとよく接する機会を持ってますが、食事にはっきり人間性が出ます。
やはり素行に問題があるなと思う子は犬のようにルール無用で食べるし感謝の欠片も見えません。
逆に迷惑をかけない子というのは丁寧に食事をし準備や後片付け、準備への感謝もしてますしね。

食事というのは人間性を測る簡単お手軽な、しかも確実なものだと大人は経験上悟っているんですよ。
だから我が子にも食事に関してはしっかりしたい! そう思うのは自然でしょう。
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質問者さんが大学生で、彼女と食事をしたいけど許されないというなら話は変わってきます。


社会人なら段々食事がばらけていくでしょうね。
質問単体で見れば、みんなで食事はある意味普通かなと思います。
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バラバラに食事をするなら、それは家族ではなく単なる同居人ですよ。


同じ食卓を囲むことが、家族を家族足らしめるのだと思います。

しかし現実は、勉強や仕事などでどうしても時間が合わなくなりがちです。
そこを何とかして「家族揃って食事」しようとすると、掛け声が大きくなるのは仕方ありません。

>しっかりしてて、判断もできて、周りに迷惑をかけないのなら
そうであればあるほど、家族が培ってきた習慣も尊重する大人にならなければいけません。
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家族が一緒に揃って、ご飯を食べるのは50年位の昔までは当たり前のような一般的家庭の光景でした。



我が家も、父親が揃うまでは「ご飯はお預け」で、一家の家長である父親より先に子供達がご飯を食べることなんて許されないことでした。

そして、家族全員が揃ってから「いただきます!」と感謝の意を込めて、食べ終えたら「ごちそうさま!」という当たり前のような常識的挨拶は、このような家族団欒の一幕から学んでました。

それが、家族でバラバラな時間帯に自由に食べてたら、物事に感謝の気持ちを持つことや元気な挨拶の言葉を発する習慣も学ばずに社会に出ることになり、自らの「子供達にも常識的な躾が出来ない」ようなダメ親になるだけではないでしょうか?

この回答への補足

言いたい事は分かるのですが、自分の学んできた習慣に基づいて子育てをしようというような
考え方は私(わたくし)とは合いません。
自分の生活態度がきちんとしていれば、食事態度がきちんとしているからこそ
常識的な躾ができるというものでもないと思います。
間違いだとは思いませんが、「食事態度」に限りきちんとしていればというのはどうかと思います。
要は、きちんとした生活習慣が大事だとおっしゃりたいのでしょうか?

補足日時:2013/08/03 15:52
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こんにちは。



無理してでも時間を合わせる必要は、ないと思います。
仕事などで時間がどうしても合わないこともありますし。

理由にもよると思います。
単に「そうしなければならない」というルールにも理由があると思いますから。
家族単位での食事がお嫌ならば、誰かに食事を準備してもらったり
片づけをしてもらったりはするべきではありません。

それをしてもらっておきながらルールには反する・・・というのは自分勝手な行為に思えます。

うちも私が幼いころから家族そろってご飯は食べます。
母は仕事をしているし、帰宅してから食事の用意や家事もこなしていたので、
ゲームやってようが宿題してようが、早く食べちゃって!ってよく怒られました^^;
大人になって、母の気持ちは良くわかるようになりました。

一人ひとり別々に食べる→片づけがいつまでも終わらない→次の家事にいけない

これって母に対して迷惑をかけていることになりますよね。
しっかりしてるか判断ができるか、ではなくて全部ご自分でやれば誰も文句言わないのでは。

ですが孤立無援の状態で取る食事はさみしいものですよ。

この回答への補足

全部自分でやるというのは、自分の金で、自分で食材を選び、自分で料理をして
自分で洗い物までするということ?
片付けがいつまでも終わらないということに対して思うことがあるんだけど。
別に、一人後からたべたり、たべなかっても片付けはできるのでは?
一人で食べて一人で片づければ家族と揃わなくても良いと思う?
自分で作って自分で食べればそれでよいと思う?

補足日時:2013/08/03 15:42
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食事なんて、みんなが一緒に揃って同じ時間に食べたほうが、支度するのも片付けるのも楽に決まってるでしょう。

周りに迷惑を掛けないということは、当然食材を買ってくるところから自分でやって食事も自分で作って後片付けまで全部自分でするということですよね?

なんていう、枝葉末節はおいといて・・・

親に限らず年長者が勧める事柄って、ほとんどは、
1)自分がそのようにしてきて良かったと思うこと
2)自分がそのようにせず(できず)悪かったと思うこと
です。

逆に勧めない事柄は、
1)自分がやって悪かったと思うこと
2)自分がやらずに良かったと思うこと
です。

それでほとんど事柄は、明確な理由とか理論なんて存在しません。
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こんにちは。

私は家族で食事を取ると言うのは、親子でコミュニュケーションする場だと思います。食事の時に気軽に会話出来るから、と思いますが。もちろん三食一緒でなくていいと思います。忙しい家庭もあるので、週一でも。会話が出来れば、食事に限らなくてもいいと思いますね。あなたは何か不満をお持ちですよね?ご両親に対してですか?まあ私は親の立場として、子供が未成年ならそれなりの責任がありますので、子供の必要最低限の情報だけは確保しています。どこの親御さんも基本は一緒だと思います。ただ接し方が違うのではないかと思います。もしあなたが御両親に不満がおありなら、話をされてはどうですか?あなたの考えは間違ってはいませんよ。ただ食事なので、気軽に楽しくって訳にはいかないのですか?
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それは少し違います。



家族で食卓を囲む意味の主なものは「コミュニケーション」のためです。
家族それぞれの顔色を見て、何かトラブルを抱えてはいないか、話したいことはないのか、また自分が話せる場所として、家族が揃う時間が限定されてしまうからこそ、食事はみんなで食べなければ、ということなのです。
意思確認の場、自分の発言の場、という意味合いが強いですよね。
そうじゃないと、わざわざ家族が集まる機会が無くなりますからね。

大家族制だった昔は「家長」の権限は、今とは比較にならないくらいに大きなものでした。
家長の命令は絶対に近く、命令に従わないということは、つまり「家から出る」くらいの覚悟が要るものだったのです。
家から出る、ということは、単に一人暮らしを指すことではなく、家長を頂点とする繋がり…それは自分の属する集落との繋がりをも拒否するという意味合いでもあります。
なぜなら、家長はその家の代表であり、家長に背くということは、同時に「集落の代表者の一人に背く」ことなのです。
その場所にいられなくなる、ということですね。
昔の話ではありますが、それくらいに「家」というものは重く、家族というものの繋がりは濃かったのです。

現在は核家族ですし、家長の存在もあやふやです。
個性化という名のもとに、家族間での自分のポジションというものを考えないで済む時代になってしまいました。
なので「家族で食卓を囲む意味」というのが、薄れてきているのも無理はありません。
ただ、これはある意味「文化」だと思いますし、人は一人で生きられませんし、一番身近な他人は家族ですから、他者との結束を図っていく意味で、家族間のコミュニケーションを拒否することは、あまり得策であるとは思えません。

無論、さまざまな家がありますし、家族がありますので、その全てに適合する話でもありませんが「基本的に」家族が食卓を囲むということは「良いこと」だというのが私の意見です。
…ただ、現在はあまりにも「何かを行う意味」というものを考えない、もしくは「知ろうとしない」人が多くなってしまいました。
それゆえに「意味がわからない」「わからないことをなんでしなけりゃいけないんだ?」という流れになってきているのは残念な限りです。
大人が知ろうとしていないのですから…ある意味、情けない話ではありますね。
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