14歳の自分に衝撃の事実を告げてください

仏教の開祖・《ゴータマ》さんは、《解脱者》なのかどうか?

ゴータマさん出家の動機が、《生・老・病・死》という《四苦》の克服であったことは、
多くの仏伝の伝えるところです。
しかし、
ゴータマさんは、
《老》い、《病》気になり、その病気がもとで《死》亡しています。
実際問題として、四苦を克服していない!!

はてはて、
これはどうしたことか???
という疑問が、
数日前、わたしの頭に浮かびました。

1 ゴータマさんは、《苦》を克服、超克できたのか?
2 《解脱》は何からの解脱であったのか?
3 ゴータマさんは、本当に《解脱者》であったのか?
4 成道後のゴータマさんに、《煩悩・klesa》はあったのか?

教えてください。
よろしくお願いします。


大乗的な観点、南伝上座部的観点、原始仏教的な観点、
スピリチュアルからのアプローチ、
わたしの《ゴータマさん論》、《ゴータマ観》、
「仏教の説く《苦・duhka》とは」
などなど、
この質問に多少なりとも縁のある回答ならば、
大歓迎です。

よろしくお願いします(ペコリ)。

A 回答 (16件中11~16件)

 すみません。

回答No.5は 《不老不死のファンタジー》をゴータマ氏は 少なくとも字面の上で 求めたということを示そうとしたものです。

 ちょっと けんか回答になっていて 申し開きが出来ませんが そういう一面が明らかになればと思い投稿しました。
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この回答へのお礼

こんばんは。


☆けんか回答になっていて
◇いえいえ。喧嘩だなんて、まったく思っていません。


☆《不老不死のファンタジー》をゴータマ氏は 少なくとも字面の上で 求めたということを示そうとしたものです。
◇いわゆる、《輪廻》説を抜きにしては、
ゴータマさんの説く《解脱》はありえないし、語り得ない。
成立し得ないと?

ゴータマさんの《解脱・mukti》は、
《release from rebirth》、
つまり、
《再生からの解脱》であると。
悟りを得て、もはや、再生が起きないから、
ニルヴァーナすることによって、
その後、
生老病死は成立しえず、
《四苦》から解放される。
これが、ゴータマさんの得た結論であると。

であるならば、
再生を信じない現代に生きる多くの日本人にとって、
ゴータマさんの教えは、まったく無意味であり、役に立たない、
ということになりそうです。


回答、ありがとうございました。

お礼日時:2013/10/26 22:45

 こんばんは。



 部分的な回答です。
 《不老不死》をめぐってです。

 ●( bonbonnier さん) ~~~~~~~~~~~~
 【Q:《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3454478.html
 回答No.19 BA

  ■不生不滅の境地

 「世を照らす人は、徹見して、あらゆる見地を超えたものを見た。かれは、最高のものを知り。さとって、それを五人に説き示した。」(Theragatha.1244)

 「これは不老でる。これは不死である。これは老い死ぬことのない境地である。敵なく、圧迫なく、過ちなく、恐怖なく、悩みがな
い。』(Therigatha511-512)

 「不老・不病・不死・不憂・不汚なる無上の安穏・安らぎを求めて、不老・不病・不死・不憂・不汚なる無上の安穏・安らぎを得た。そうしてわれに知と見が生じた、-「わが解脱は不動である。これは最後の生存である。もはや再び生存することはない。」『マッジマ・ニカーヤ』


 釈尊は古来の言い伝えではなく、「いま、眼のあたりに体得された法」を語ろうとします。それは、同じくスッタニパータ』に、「心を統一されたサキヤムニは、(煩悩の)消滅・離欲・不死・勝れたものに到達された、-その理法と等しいものは何も存在しない。」と説かれ、輪廻転生等の伝統的な古代思想からではなく、眼の当りに不死の境地を獲得したことが述べられているのです。

 中村元先生はその著『原始仏教の思想I』の中で、「この場合『不老』というのは、身体や霊魂が死滅しないという意味ではなく、死滅する動きの外側にあるという意味であろう。」と述べ、三世における生死の流れを外から覚知できる境地であると語っています。

 原始経典に説かれた、「不滅の境位」(『ダンマパダ225』)、「不死の領域」(『サンユッタ・ニカーヤ』)、「不死の境地」(『Therigatha97」)等、さまざまに説かれた釈尊の境地は同じ境地を意味しています。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
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この回答へのお礼

こんばんは。

引用なされた回答を読み、
ゴータマさんの発言、
これは《問題のすり替え》ではないか、
という感じがします。

食糧難で飢えに苦しむパリ市民に向かって発言されたとされる、
マリー・アントワネットの「パンがないなら、お菓子を食べたらよい」
と、たいして変わらないのでは?

《不死の境地》、《甘露界》は、
死の恐怖への気休めにはなるかもしれませんけれど。。。

歴史上実在したゴータマさんが説いたとされるお経を読むと、
ゴータマさんの回答には、
こうした問題のすり替え、意味のすり替えなどが、非常~に多い!!
ゴータマさんの生きた時代の人たちは、これで納得できたのでしょうか?


しかも、
不死の境地を口にしておきながら、
ゴータマさんは、
いざ、死が目前に迫ると、
「アーナンダ、お前のせいで、俺は死んじまうんだ!!
一体、どうしてくれるんだ!!」
ともとれる御発言をなさっていたように記憶していますけれど・・・。
───と言いますか、
弟子たちには、賭博を禁止しておきながら、
ご自身は、ご自身の命をかけて、悪魔さんと博打をなさっている。
言行が一致していないようにも感じられます。
教祖様だから、オキテから自由、《解脱・mukti》
なさっていらっしゃるのでしょうか───


21 つとめ励むのは不死の境地である。
(ダンマパダ)

目連は、タコ殴りにされ、非業の死を遂げますし、
シャーリプトラは、「じゃー、俺も一緒に死ぬ」と自殺しますし。。。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%AE%E9%80%A3
自殺は、ゴータマさんによって、禁止されていたはずなのですが・・・。

はてはて・・・。
謎はますます深まるばかりです。

回答、ありがとうございました。

中村元の《解脱・mukti》を《心の平安・santi》ととらえる解釈は、ちょっと・・・。

http://spokensanskrit.de/index.php?script=HK&beg …

お礼日時:2013/10/26 22:07

>実際問題として、四苦を克服していない!!



釈迦の目指した解脱とは苦痛や執着、欲望などにとらわれない精神的な境地に至ることであって不老不死などのファンタジーではありませんから。
釈迦自体、その手の超能力などの非現実的なものを求めることを否定しているという話が残っています。厳密には否定というよりは考えるだけ無駄と切り捨てるニュアンスですが。

>1 ゴータマさんは、《苦》を克服、超克できたのか?
肉体的な苦しみにとらわれない精神的な境地には至ったようです。
物理的に肉体が存在する以上は肉体の物理的な損傷は避けられませんので神経が生み出す苦痛そのものを消し去ることは不可能とされていますね。
釈迦は肉体そのものを無敵にするようなファンタジーは求めていなかったようです。

>2 《解脱》は何からの解脱であったのか?
苦しみからの精神的な解脱かと思います。

>3 ゴータマさんは、本当に《解脱者》であったのか?
こればかりはタイムマシンとテレパシーでもなければ証明は不可能でしょうね。
仏典も後世に追加されたものも多いですし、案外全部創作かもしれませんね。

4 成道後のゴータマさんに、《煩悩・klesa》はあったのか?
あったとされています。ただ、その煩悩を制御していてとらわれることはなかったとされています。
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この回答へのお礼

こんばんは。

要するに、
部分的ではあるけれど、
欲望などはコントロール、征服できた。
しかし、
歴史上実在したゴータマさんは、《ブッダ》でも、《解脱者》でもなかった。
せいぜい、
欲望などの征服者という意味での《勝者・jina》程度である。。。

このように理解してよろしいでしょうか?
実在のゴータマさんは、徳の高い遊行者程度であると?

お礼日時:2013/10/26 21:19

生老病死を解決するのに


ゴータマ・ブッダは出家したわけだけど
これは昔のインドだからでしょう。

今日の我々が生老病死を解決する方法は
医療だと思う。

再生医療が進歩すれば、肉体を交換して
いわば輪廻転生のようなことまで可能になると思う。

でも、解脱を望むものは、肉体を再生してまで生きるのは
安らぎではないと考えるはずです。

ここで、再生医療と対立してきそうなきもしますが、

肉体が健康で不老不死になればこそ、
心の安らぎを得られると考える人たちもいるでしょうから
こちらは仙人でしょうか。

ここで考えてみたいのは、
なぜゴータマ・ブッダは医師のところへ行かなかったのか?

ゴータマ・ブッダは心の問題を解決したかったのだ、
当時に精神科医もカウンセラーもいない、となるかもしれない。

私は、仏教が、安らぎを説いていながら
医療の思想があまり発展していないような気がしている。

ゴータマ・ブッダは病気治しをしたりはしない。
神格化されても、そんな奇跡をしていない、はず。

それなのに、安らぎを説いている。

それが不思議で仕方ない。

人間にとって、健康こそが安らぎではないか?
医療以外に人を癒せるのか?
ゴータマ・ブッダよ、
乞食になるくらいなら
医師になるべきではなかったか?

はい、天魔の質問ですかね

たぶん、病院のベッドで死にたくなかったんでしょう。

自分で呼吸器をはずすタイプかも。
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この回答へのお礼

回答、ありがとうございます。


☆人間にとって、健康こそが安らぎではないか?
 医療以外に人を癒せるのか?
 ゴータマ・ブッダよ、
 乞食になるくらいなら
 医師になるべきではなかったか?
◇時代的な背景はあるけれど、
ゴータマさんは、進むべき道を誤った。
本当は、沙門ではなく、
医師や薬師、セラピストになるべきであったと。

なるほど、なるほど。

しかし、
医療で病気や怪我は癒せるけれど、
人は癒せるのか?
という問題が新たに出てきそうな感じもしますけれど。。。

再生医療によって、
もし、
「老い」や「死」を克服できたとして、
それは、その人は幸せなのか?
「死」を望んだり、しませんかね~。
死ねないツラさというものが、出てきたりしませんかね~。

ソクラテスがいうように、
「死」は案外いいものなのかもしれませんよ(ニコニコ)。

本題から外れてしまったようです。
「しかし」以降は、忘れてください。

お礼日時:2013/10/26 21:12

んー?、開祖の話にわざわざみっともない?ような逸話


の捏造もないでしょうから、ほんとなのかもしれません
が?

最終段階の秘教家が、毒キノコにも気付かずに食します
かね?
病気や処刑・拷問などは予知もし、敢えて苦痛などのコ
ントロールもせずに受け入れるという事などはあるよう
ですが、

毒キノコを食す事を敢えて受け入れる必要性というのも
、なかなか"?"ですし?・・・
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この回答へのお礼

こんばんは。


☆んー?、開祖の話にわざわざみっともない?ような逸話
の捏造もないでしょうから、ほんとなのかもしれません
が?
◇チュンダのお話ですね。


☆最終段階の秘教家が、毒キノコにも気付かずに食します
かね?
◇これには《豚肉》説もあります。
例えば、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%94%E9%99%80



☆毒キノコを食す事を敢えて受け入れる必要性というのも
、なかなか"?"ですし?・・・
◇おそらく、この件については、『法華経』読みの方、あるいは、日蓮系の仏教を信仰されている方から、回答があるように思われます。

ほら、わたし、質問者ですから(笑い)。
《お・し・え》を請う立場!!


そして、
この回答は
ゴータマは解脱者ではない、
と理解してよろしいですか?



回答、ありがとうございました。

お礼日時:2013/10/26 17:53

こんにちは。

素人なりのイメージですが、釈迦も超人などではなく一人の人間であるということを前提にしながら考えてみました。
1「苦」に対して気持ちを煩わせないという感覚にはなれていたのだと思います。
2、3「~しなければならない」というような使命感や義務感から解放されて、自由に気楽な感覚にはなれていたのだと思います。
4自分が生まれた時代の中で、人間に過ぎない生き物として基本的に肩の力を抜きながらできることはやるが、その結果については心を煩わせずに時の流れが決めるものだと腹をくくっていた、つまりその意味で煩悩はなかったのだと思います。
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この回答へのお礼

回答、ありがとうございます。

☆1「苦」に対して気持ちを煩わせないという感覚にはなれていたのだと思います。
◇《病》などの苦痛は存在していた、と。
それをありのままに受け入れ、受け止めていたが、
それによって《こころ》の平安のごときものは、乱されることはなかった・・・。
なるほど、なるほど。


☆2、3「~しなければならない」というような使命感や義務感から解放されて、自由に気楽な感覚にはなれていたのだと思います。
◇となりますと、
ゴータマさんが《教え》を説いたのは、義務感や使命感というものではなかった、となりますが、
そのように理解してよろしいでしょうか。


☆4自分が生まれた時代の中で、人間に過ぎない生き物として基本的に肩の力を抜きながらできることはやるが、その結果については心を煩わせずに時の流れが決めるものだと腹をくくっていた、つまりその意味で煩悩はなかったのだと思います。
◇《生(せい)・bhava》とそれに付随する《渇愛・「サンスクリット語:trsna・トリシュナー」or「パーリ語:tanha・タンハー」》はなかった、と。
その意味で、煩悩はない、と。。。
なるほど、なるほど。


回答、
ありがとうございました。


─────────
かつ‐あい 【渇愛】

のどがかわいて水を求めるように、激しく執着すること。

http://kotobank.jp/word/%E6%B8%87%E6%84%9B
─────────

お礼日時:2013/10/26 15:55

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