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ここの所 集団的自衛権とか日本に軍隊を認めるとか

命が惜しくなったから 殺される前に殺せるような体制が取られて来てますが

簡単に言って キリストも死んでも死んでないと言ったし 老荘思想でも生死に拘らない

たとえ殺される事があっても、人間的に生きていると言うような心で生きているか?

ガンジーの無抵抗主義やキリスト教の敵をも愛する愛を持って 

たとえ殺されても殺さない と言う覚悟があるか?これも命をかける事になりますが

殺されても平和を守れるような努力をして行けないものでしょうか?

A 回答 (20件中11~20件)

質問者さんは、発想が自分にこだわりすぎですよ。



半島や大陸から攻められたら、家族や地域、そして国をまもるために自分の命の犠牲も問わないというのが日本人の、サムライの心意気です。

自分の命ばかりにこだわり、自分さえよければという発想からは、家族も国も守れません。
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この回答へのお礼

なるほど そう言う考えも当然でしょうね

どうもありがとうございます。

お礼日時:2013/10/29 22:09

思考実験ですね。


考えてみられるとよいと思うのは、ある日突然通り魔に襲われて右脇腹を刺されて殺されたら、どうするのか。
殺されても生きているのだからヘッチャラよと笑って許すのか。
さらにキリスト教の教義にのっとり、その通り魔犯を愛するのか。
さらに右の頬を打たれたら左も出せとばかり、「左脇腹も刺してください」 と差し出すのか。
もしそうなら、軍隊をもたないのと同様、警察もいらないのではないか。
もし、通り魔犯はゆるさないけど侵略軍は許すなら、その線引きはどこにあるのか。
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この回答へのお礼

確かに私にも出来ないでしょう 左も刺して下さいと言うのは

ただ現実に 警察が居るとは言え 殺されるかもと思ってたら

アメリカのように銃でも持って歩かないと安心して歩けないでしょう。

アメリカのように殺しに行く様になったら泥沼だし

平和憲法って一体なんだったんでしょうねえ?

どうもありがとうございます。

お礼日時:2013/10/29 22:14

>たとえ殺される事があっても、人間的に生きていると言うような心で生きているか?



 殺されても生きているんだから殺されてもかまわない心ですね。

>ガンジーの無抵抗主義やキリスト教の敵をも愛する愛を持ってたとえ殺されても殺さないと言う覚悟があるか?

 愛する人から殺されるなら本望だということですね。

>殺されても平和を守れるような努力をして行けないものでしょうか?

 殺されないことが平和だと思っていました。
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この回答へのお礼

殺されないことが平和です 確かに

しかしもし 極端に言えば暴漢に襲われて死んでも

生きた証として納得の行く確かなものが残せているか?

分りやすく言えば 子共が立派に育ってて今死んでも生きた甲斐は在ったと言えるか?

私妻も子もないんですが(^^ゞ

どうもありがとうございます。

お礼日時:2013/10/29 22:18

殺されないまでも腕を切り落とされれば、死ぬのに


近い苦痛を感じるでしょう。
現代人は1人では生きられず、あなたの衣食住全て、
国内どころか世界中からやって来ている、世界中の
人々の助力によって生きている、社会生命なのです。
「あなたの生命は世界中に拡張している」とも言え
るでしょう。
そこで誰かを(目先の感情や短期的な私利のために)
殺すのは、あなた自身の体を切り落としているのと
同じ事なのです。
もちろん、世界どころか、同じ損益を共有する会社
の中でさえ、自分の個人的な出世や虚栄心のために
争い合う現代人です。

社会自体の原動力さえ(本来、生への意志そのもの
のはずが)、社会の需給をつなぎ調整する、助け合い
の感謝の気持ちをお金=物質化した途端に、それを
奪い合う事で結果的に社会行動をとる(お金をもら
うためにイヤイヤ働かされる)ようになってしまい、
本質的に助け合っている社会で、意識としては弱肉
強食の擬似ジャングルと化してしまっているのです。
であれば、本質的・長期的には自分も損をしても、
目先の競合(政治・経済)や個人的な感情(信条・
宗教)のために、人(真の自己の一部)を殺す事も
あり得るのです。
つまらないプライドの為に自殺するようなものです。

先述のように産業は世界的に分業化し、また経済も
情報もグローバル化している時に、ひとり政治(+
市民の意識)だけが国境の中に囚われているのです。
人の意識を拝金主義の経済奴隷から救い、世界中と
助け合っている社会生命性の自覚化による自律的生
(愛による社会行動)を可能にし、自己存在の本質
に根差した生きる喜びを見出すべきでしょう。
その過程で、いかなる権力や改革によらず、内発的
に戦争はなくなります。

そこにおいて、社会全体の繁栄を目指す自己の意志
の達成=充足は、社会全体のものゆえ全ての人々と
共有され、また、そうした愛と信頼の限りにおいて
有限な肉体・死を超えて、宇宙の果て・永遠の未来
において、予め充たされ得るのです。
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ごく単純に考えてもことは明快です。


にわとりかたまごか、どちらが先に生まれたのか?
これを
攻撃か反撃か、どちらが先に発生したのか?
に置き換えればいいのです。

循環話法として正解はありません。
暴力という悪の鶏を殲滅するには、どこかでその連関を立たねばならないことは明白です。
不戦論、あるいは憲法9条はその具体化です。悪の連鎖を断ち切るのはこれしかないとわたしは思います。

もうひとつ前提があります。誰かが悪人と善人は悪人のほうが圧倒的に多いと書いていましたが、これは(内容自体疑問はありますが)話の筋として無意味です。これに置き換えて、殺されることを好む人間は殺すことを好む人間よりも圧倒的に少ないとしましょう。この言い方の方が納得できる人間は多いのではないでしょうか。攻撃することは攻撃されることである。ならば攻撃は出来ない。

亡国のイージスという映画がありましたが、ここで先制攻撃できない日本が貶められているのはおおいに問題ありとわたしは思いました。先制攻撃が出来るということは、戦争をはじめることが出来るということです。先の戦争で日本はこれをやってしまい、非常に大きなアドバンテージを向こうにやってしまいました。手を出したほうが責任を持たねばならないのは当然のことでしょう。はじめた以上、勝たねばなりませんしね。
ともかく
やられたらやり返す、これはどこの国でも鉄則になっていることです。
つまり
やったらやりかえされるということです。
そして無限にそれは続くでしょう。

国と国との戦争で、先制攻撃をされて(その一撃だけで)国が全滅することはありえません。核攻撃でもサンマリノならともかく日本なら残ります。
その無限の連鎖において全滅もありうるのです。
肝心なことは口火を切らないということでしょう。ヴァーチャルな見方として、先制攻撃は、万一ありえないことでは無いが、あっても瞬時に国が全滅することはない、ということです。もちろん、それをさせないためのあらゆる努力が必要でしょうし、人間として相手を信じてやることも必要でしょう。


>集団的自衛権とか日本に軍隊を認めるとか、命が惜しくなったから 殺される前に殺せるような体制が取られて来てますが

仰るとおりですね。安倍は間違っていると思います。
>殺されても平和を守れるような努力をして行けないものでしょうか?

出来ます。憲法9条がそれを保証してくれます。
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>殺される前に殺せるような体制が取られて来てますが



死人に口無しで、殺された方は決して殺す事(抵抗)は出来ない。

だから普通は世界中が例外無くその方針で行動しています。

日本だけなのですよ?

アメリカの核の傘の下にいたからこその世迷言です。


ガンジーの無抵抗主義は間違いで『非暴力・不服従』です。

ガンジーは宗教家では無く、政治家として発言していますので、その根本はインド(インド人による)の繁栄ですし、生命の危機の場合においてはその限りではないとの発言もあります。


殺されても殺さないとは仏教的で宗教的な思考法です。

心をそれで救われる方には適していますが、逆に心をそれにより壊される方には世迷言です。


戦争の起きる最大の理由は利益の圧縮が人口増加や、天候不順などにより発生し、生活が苦しくなったり、名誉を著しく損なったりした時です。

戦争は多くの場合、起すものでは無く、起きるものですので、それを事前に何処で止めれば良いかの判断は人の身では難しいでしょうね。

もし出来たら、それは恐ろしい独裁者で、自国民を見殺しにした理由で処刑でしょうね。


>殺されても平和を守れるような努力をして行けないものでしょうか

殺人が平気で起きている時点で、既に平和は守るどころか消えているとは思いますが。

インドでクシャーナ朝のカニシュカ王が仏教を弾圧した際、無抵抗主義を貫き、その後カニシュカ王は仏教に帰依したと言う話は伝説としてありますが。

しかし同じ仏教系のチベットは今どうなっているでしょう?

チベット人がこの世から消える前に中国が自ら、反省し、引き上げていく日が早く来ると良いですが、その日が訪れるまでチベットの方々は辛抱するのが当然なのでしょうか?(今の現実の選択肢はその他にありませんが、中国のチベット侵攻時には、ちゃんとチベット軍は解放軍と戦闘しています)


ご質問者様の発言は『戦争を知らない子供達』のものです。

安全な日本だから言える事で、シリアや北朝鮮では誰が聞いてくれると思いますか?
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この回答へのお礼

私はただ信条として 殺されても殺さないということが可能か?

という事を書いただけです

確かに現状は甘くなく アメリカの出方によっては日本(沖縄とか)は戦場にならないとは言いきれませんね

どうもありがとうございます。

お礼日時:2013/10/31 16:46

No.2です。

ちょっと追加

>>簡単に言って キリストも死んでも死んでないと言ったし 老荘思想でも生死に拘らない

キリスト教は転生輪廻を否定していますけど、聖書を見れば、それを認めているような記述もあります。
魂的、霊的にみれば、「(肉体的に)死んでも、(霊的には)死んでいない」というのは正しくて、魂は転生輪廻を繰り返しながら永遠に生き続けます。
転生輪廻をする必要がなく、悟った魂であっても、生きることに苦しむ人々を救うために、教師役として、「この世」に生まれてきます。(悟りを得たら、もうこの世に生まれないというのは誤り)

なので、悟った人にとっては、「自分は肉体的に死んでも、魂はあの世に戻るだけのこと。妻や子供たちの魂も、いずれは、あの世に戻ってくる。」という考え方で、無抵抗主義で殺されてもいいという考え方もあります。
ただし、日本で真面目に生きている人々が、現在の軍国主義で帝国主義的である中国のような国家に侵略されてしまうと、あの世からこの世に生まれてくる魂にとってみたら、
「すばらしい世界であるあの世から、中国が支配した地獄のような悪の支配する中国自治区となった日本に生まれるのか・・・それは嫌だなあ・・・」と思うようになるでしょうね。

ですから、「殺されても、魂は、死なない」と悟っている方であっても、悪の帝国である中国が攻めてきたら、「武器を取って戦え!敵を殺せ!祖国を守れ!」と号令をかけることになるでしょう。

ちなみに、10月25日から日本は、「国家安全保障会議(日本版NSC)創設に向けた関連法案」が衆議院本会議で審議されています。法案が成立すれば、直ちにNSCを発足させ「国家安全保障戦略」の策定や「防衛計画の大綱」の改定ができます。これにより、アルジェリアでの邦人人質事件などの緊迫した事態が生じた場合、迅速な判断と対処が可能になると思えます。

そして、この「NSC法案」に合わせるように、中国海軍は、西太平洋海域で大規模な演習を始めています。この演習は、敵味方に分かれて、水上、対潜、航空戦を行うものであり、25,26日は、爆撃機2機、早期警戒機2機が沖縄本島ー宮古島の上空を通過して、太平洋との往復飛行を行いました。中国軍が西太平洋で3艦隊(北海艦隊・東海艦隊・南海艦隊)による合同軍事演習を実施したのは初めてのことです。

この演習は、対日米軍を想定したものであり、中国の「2020年までに、第2列島線(伊豆諸島-小笠原-グアム・サイパン-パプアニューギニア)の内側の制海権確保を意図したものといわれています。
(中国は、「過去、日本がやろうとした大東亜共栄圏を中国が代わりに実現してやる!」という考え方みたいですね)

まあ、上記のような動きが中国にあるので、集団的自衛権、NSC法案とか、日本政府が慌てて対応しているのでしょう。
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この回答へのお礼

中国の台頭でちょっと緊張が走っているようですね

中国にしてみれば、アヘン戦争以来ろくな目には遇ってないので

今までの恨みもあるのかもしれません

アメリカもしょっちゅうやり過ぎてるので物騒です。

日本は戦争を止める方向に力を入れなければなりませんね

抑止力と言うのは 本当は平和外交などの事を言う筈です。

どうもありがとうございます。

お礼日時:2013/10/31 16:13

不可能です。


この世に生きている人間は、善人より
悪人の数のほうが圧倒的に多いのです。

そして、善と悪とは1か0かというような簡単な判断が
できません。

「他人の幸せ」と「自分の幸せ」の、どちらを
どのくらい優先させているかが、どのくらい善であり
どのくらい悪であるかの判断材料になります。

したがって、完全なる善、完全なる悪は存在し得ません。
人間とは、それほど多様性を持った存在なのです。

悪人だからといってひとつもいい所がない人間は
いませんし、善人だからといってひとつも悪い所がない
人間はいません。

しかし、「自分の幸せ」と「他人の幸せ」のどちらを
優先している人間が多いかを単純に比べてみると、
「自分の幸せ」を優先している人間のほうが圧倒的に多いはずです。

あなたの今日一日の行動を、すべてノートに書いてみてください。
顔を洗った、歯を磨いた、などなど。

そのうち、他人のためにしたことに丸をつけてみてください。
いくつつくでしょう?

ほとんどの行動が自分のためであることに気づくはずです。
この世の人間はほとんどそうした人間ばかりなのです。

しかし、ごくまれに、「他人の幸せ」ばかり考えてしまう
人間がいるのも事実です。

その人たちは、平和のために、自分ができることに
努力を惜しみません。

おそらく、我々が生きているうちには
本当の平和は訪れることがないでしょう。

しかし、それでも行動せずにはいられない人間が、
少ないながらも存在するのです。

いつか世界は変わる。
今はそう信じるだけで十分なのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

私も微力を尽くしたつもりでしたが これと言った成果はありませんでした

いつか世界は変わると信じたいです。

どうもありがとうございます。

お礼日時:2013/10/29 21:52

>>殺されても平和を守れるような努力をして行けないものでしょうか?



そういう「殺すなかれ」の教えを貫いたのが、仏陀(シッダールダ)を生み出した釈迦族です。釈迦族は、その教えを守ったために隣国のコーサラ国の大軍に攻められ滅亡しました。
「殺されても平和を守る」というのは、まさに憲法9条の精神です。「私たち日本人は、皆殺しにされても抵抗しません。戦いません!」ということを宣言しているんです。

まあ、そういう憲法を守って死んで行く本人は満足かもしれませんけど、それは同時に、その人の愛する妻や子供、両親や友人までもが殺されることを「良し」と認めることでもあります。
また、「日本」という国が世界地図から消えることを認めることでもあります。

そこまで覚悟するなら、その努力をされればいいと思います。
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この回答へのお礼

仰るとおりですね。妻子親兄弟も同じく平和の為なら戦争で死んだと思って平和精神を貫くと覚悟出来れば

憲法九条も成り立つのでしょう。

しかし現実はそう言う考えの人はごく僅かでしょうね

私は人を殺すくらいなら自分が死んだほうがましだと思いますが・・・

どうもありがとうございます。

お礼日時:2013/10/28 22:44

この宗教に入ったら楽できるよ。


死んでも生き返るよ。
あなたも来なさい。
てこでも連れて行く。
撃ち殺されたいのか、と言って連れて行く。




という宗教戦争はどうしたら止まるでしょうね。
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この回答へのお礼

人間とは何か 人間とは精神の事であり 精神の目的は皆同じであるという事が分って

それが互いに理解され 合意を見れば宗教戦争を解消できると考えています。

その時宗教は宗教でなくなり 真理を求め続けて進化する哲学に成ると思っています。

しかし現実に止まりませんねえ 困ったものです。

どうもありがとうございます。

お礼日時:2013/10/28 22:39

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