【死ぬ直前の感覚や雰囲気】の想像は、なぜミラクル?

いま、戦争ゲームが流行っているが、全神経を集中すれば、おそろしく、アクロバティックな攻撃「戦闘機・狙撃兵」が可能となる(まさにミタラクル!)。しかし、調子の悪いときは「先読み」ができないので、すぐに殺される。たかが、ゲームだが、「PS3 バトルフィールド1943・蒼の英雄(Birds of steel)」は、何か考えさせられるものが多い。

そこで、以下の思想を持ち出すと、
「【競争】という言葉はあれど、正しくは【(武術や戦術などのスキルを)競いこそすれ(=熟練度の競い合いは良い事)、争う(=領地や命、食糧の奪い合い・殺し合いは)必要はない】」という思想である。

私は巫女的な人間なので、第二次大戦で亡くなった人々の声が、いろんな方向から音やイメージとしてやってくるのを、受信可能な人間です。

何か感じた事を、自由に書いてください。

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A 回答 (2件)

>【死ぬ直前の感覚や雰囲気】の想像は、なぜミラクル?


⇒質問者様の意図から外れるかも知れませんが、自由に書かせていただきます。長文です。

 人間の脳には一生に一度しか働かないところがあるという。大脳の側面にある小さな間隙(解剖学上は外側溝という)に面したところである。「シルビウス裂」という名称で呼ばれている。で、一生に一度というのがいつかというと、それが何と事もあろうに人生の最後の一瞬、つまり死を迎えるときなのである。完全に死んでから生き返った人はいないので定かではないが、生から死へ渡って行くその間に、人間はえも言われぬ恍惚境を体験するものらしい。死の途中まで行って生き返った人たち、つまり九死に一生を得て奇跡的に黄泉の国の戸口から戻った人たちの話を要約すると、ほぼすべてに大同小異共通することであるという。その臨死体験における恍惚境の存在が、くだんのシルビウス裂の作用によるものであると推測される、というわけである。
 その次第は、例えばこうである。「暗闇の中に一筋の光明が見えるのでそれを目指して進んで行くと、急にパッと視界が開けて一面に美しい花の咲き乱れる場所に出る。花園の彼方には小川が流れており、その彼岸には先に逝った親類縁者がいてこちらを見ている。彼らの和やかな表情や周囲ののどかな雰囲気に誘われて彼岸へ向かって進みかけると、お前はまだここに来てはいけない、帰れ帰れ、と手で合図するではないか。それで仕方なく戻ってきたのだが、そのときの自分としては先へ進みたかった。なぜなら、そうすることが気持ちよかったから。それはそれは快適で、のどかで、うっとりするような状況であった…。云々」
 さて、ここで少なからず疑問が湧いてくる。このようなことが起こるのは神の意思なのであろうか。と言ってまずければ、自然の摂理に適っていることなのであろうか。あらゆる生物の営みに遍在する合目的性というものが、ここにも宿っているのであろうか。いるとすればその実体は何で、またいかなるメカニズムによって動かされるのであろうか。…と、縷々疑問を述べたあとで、いささか飛躍するのだが、ここで独断的に結論を先に述べてしまおう。生から死への旅路の途中にこのような桃源郷が存在し、そばし恍惚の境地を体験させるのは、まさしく神の意思そのものなのである。彼の被造物に細心の注意をもって施した『最終仕上げ細工』なのである。したがってそれは自然の摂理に充分適っており、明快な合目的性を持っているに違いないし、そのメカニズムも、ごく自然な成り行きの上に乗っているものと考えられる。
 では、神の目的とは何か。推測するに、死者が恍惚を体験する桃源郷は、実は死者を『完全な死』へいざなうための道標なのである。具体的に言えば、冷酷な表現だが「迷わず死んでもらう」ための腐心作なのである。「汝、ためらうなかれいざ逝かん。いさぎよいのが昔から、神の情けを買うものを。ためらうなかれいざ逝かん!」と桃源郷の入口には書いてある。シルビウス裂の作用によって恍惚境を演出する舞台―桃源郷―は、この世とあの世との接合点にあって、そこで死者があらゆる煩悩を捨て、この世とのしがらみを払拭し、魂の浄化をするところなのである。神が被造物にシルビウス裂の細工を施したことの目的はすなわち、死者が亡者にならないよう、彼に『全き死』を与えることだったのである。シルビウス裂は神の最高傑作と言わなければならないのかも知れない。
 ところでこのような神の御業による恩恵(見方によっては罠)は、ひとり人間のみに与えられたものではないらしい。例えば、かつてある小さな島でネズミが異常増殖したことがあった。その結果、その限られた物理的空間の中で何が起こったか。共食い? 否。餓死? 否。ネズミ帝国の出現? 否々。何千何万というネズミの大群が次々と海へ飛び込んで、入水自殺をしたのであった! その光景をビデオテープで繰り返しリプレイしてみて驚いた。大群が列をなして、あたかも厚手の黒いカーペットが水中に滑り込むように沈んでゆく。泳ごうともしない。もちろん他の島を求めて水中に飛び込んだわけではない。いわんや落ちたのでもない。『神の御業による見えざる導き』がネズミたちの脳に仕組まれているとしか考えようがない。
 仮にこのような仕組み―ある種の事態に対応して生物に安らかな自然の死をもたらす仕組み―がなかったら、どのようなことが結果するだろうか。ある種の生物のみが、自然界の些細な異変に触発されて、いとも容易に過剰(もしくは過少)状態になり、共食いはもちろん、たとえ一時期当該生物の「帝国」が現出したとしても、いずれそのことは種の全滅へとつながるであろう。「過ぎたるは及ばざるがごとし」であって、過剰であっても過少であっても結果は同じである。すなわち、個体数の調節ができなくなって、その結果、種の保存が困難になってしまうのである。そのようなときに神は、いわゆる『間引き』などの手を施すのであろう。すなわち、「何割かの個体を逝かせることによって、より上位の、種の手当てをする」のである。上述のネズミの例と人間の場合とではまったく同一ではないかも知れないが、その原理ないし本質部分は共通している、と言えよう。
 それでは、くだんのシルビウス裂はいかなるメカニズムによって作動するのであろうか。もちろん推測の域を出ないが、これはおそらく『コンセントに差し込んだ非常灯』のように、周囲の活動が停止したときにはじめて作動するような仕組みになっているのに違いない。すなわち、シルビウス裂は、一番最後に死ぬか、自家発電ないし蓄電機能を備えているか、のどちらかである。ボクは大脳生理学などに関してはまったく無知なので、ぜひその道の専門家にお尋ねしてみたいところである。
 さて、うっとりするような恍惚境がある一方で、断末魔の苦しみがあるということはどう説明されるのであろうか。重ねて推測するに、断末魔の苦しみはすなわち肉体の苦痛であり、肉体の苦痛はそれを感じる主体すなわち脳が活動を継続していてはじめて苦痛として感知される。要するにその段階では脳は生きている。したがって脳に死因のある場合を除いて、通常は断末魔が先で、それに恍惚境が続くと考えられる。つまり生と死の接合部は二つのスペースに分かれており、生に近い側に断末魔が、死に近い側に恍惚境がある、ということになる。
 では断末魔の存在理由は何か。こりずにまた推測的解釈を施すなら、生の崩壊が始まったばかりの段階では、いろいろな程度に蘇生の可能性がありわけで、そこで神は、肉体的苦痛という形で当人に回復・蘇生を促している、と理解することができよう。「汝、あわてるなかれ。でき得べくんばいざ戻らん。逞しいのが昔から、人の誉れとなるものを。あわてるなかれ、いざ戻らん!」と断末魔境の入口には書いてある。肉体がさいなまれるとき、人は神の心知らずでこの上なく神を憎むが、一方神は当人の闘争心を鼓舞すべく、心を鬼にして「戻れ、戻れ、戻れ!」と叫ぶのである。神が「もはやこれまで。蘇生の可能性なし」と見たときは彼を速やかに恍惚境へといざなう、のである。
 例えば凍死の過程を見ると、始めは激しい肉体的苦痛に襲われるが、それを過ぎると今度は一転睡魔がやってくる。脳死の始まりである。くだんの恍惚境の体験はここでなされる。脳死の進行過程も、おそらくは肉体により近い菱脳に始まり、次いで小脳や中脳・間脳へと移っていくのではないかと推測される。そして最後に、大脳の残りの部分―くだんのシルビウス裂の所在部位が活動を停止するときに、生のすべてが終焉し、死が完了する。シルビウス裂は、つまるところ、魂が肉体から遊離するときの『へそ』であり、『魂の通り道』なのである。
 死期がそう遠くないと予感するボクは、これで幾分か死の恐怖から開放されたような気がする。しかしそれでもなお、ボクは死ぬのが怖い。
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この回答へのお礼

長文の回答、ありがとう。
あなたは「いま自分が生きている」ことが、当たり前のように言いますが「我々が幻覚である」という科学的な事実を知らない。私は元々いなかった。だから、そこへ戻る事=死は、「目が覚める」のと同じこと。あなたも大病を抱えているようだ。貴方に、真実を教えます。あなたが死ねば、この宇宙は相対的に消滅します。観測者がいてこそ、の宇宙の派生があるのです。実は神様などは存在しないことが科学的に証明されています。全知全能とは「絶対無」を意味します。宇宙が先にあるのではなく、「認識(観測)すること」が、実は宇宙の誕生を意味します。宇宙138億年は「常に【いま】という一瞬に折り畳まれて」おり、「自我の認識」と「時空の発生」は同時に起きる。表面的には量子という最小粒子の交換、なだけです。なんでも先入観を持って考えては間違った思考回路を生むだけです。ここで回答されている psytex さん(サイコロジカル・テクノロジー=認識工学)は、20年後は、大賢人と言われてしまう人物なので、彼の「回答履歴」を読んでみて、自分に何かを与えてくれる、と直感する「問答」ならば、ぜひ読んでみてください。ありがとね。身体は大丈夫かい? 入院中? 今日から心配してあげよう。では!^^/

お礼日時:2013/11/05 01:39

こんばんは。




>「死ぬ直前の感覚や雰囲気」

厳密に言えば、「それ」は誰も知らないのでは。


>「「【競争】という言葉はあれど、正しくは【(武術や戦術などのスキルを)競いこそすれ(=熟練度の競い合いは良い事)、争う(=領地や命、食糧の奪い合い・殺し合いは)必要はない】」という思想」

そうですねえ、「騎士道」とか「武士道」とか?
いや、「競う」のも、どうなんですか。
「保証」の問題ですか。
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『交感神経と副交感神経』の違いと『運動神経と感覚神経』の二つずつの違いならわかるのですが
『交感神経と感覚神経』の違いがわかりません。

交感神経の中に運動神経と感覚神経が含まれるのでしょうか?

回答よろしくお願いします。

Aベストアンサー

こんにちは。
交感神経の中に運動神経と感覚神経は含まれないです。これは中学の理科でやることですがちょっと整理してみて下さい。
動物の神経系は「中枢神経系」と「末梢神経系」に分けられ、末梢神経には以下の三種類があります。
「感覚神経(感覚機能)」
「運動神経(運動機能)」
「自律神経(自律機能)」
そして、自律神経はその働きによって「交感神経系」と「副交感神経系」に分けられます。ですから、この三系統はそれぞれに役割の異なる末梢神経であり、交感神経が副交感神経と共に「自律神経系」に含まれます。

運動神経は「運動中枢」から身体の骨格筋に接続されている「遠心性末梢神経」です。では、自律神経の中には内臓の平滑筋や心筋に接続されているものもありますが、これは「自律中枢」から伸びているものであり、心臓や肺などの動きを自動で調節します。そして、感覚神経といいますのは身体末梢から中枢に向かって感覚情報を送る「求心性末梢神経」であり、運動神経や自律神経とは向きが全く逆になります。

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 『スッタ・ニパータ』の中で、釈尊は、次のように述べられています。


 
 『この世における人々の命は、定まった相(すがた)なく、どれだけ生きられるか解らない。惨ましく、短くて、苦悩をともなっている。

 生まれたものどもは、死を遁(のが)れる道はない。老いに達しては、死ぬ。実に生あるものどもの定めは、このとおりである。

 熟した果実は落ちる。それと同じく、生まれた人々は、死なねばならぬ。かれらにはつねに死の怖れがある。

 例えば、陶工のつくった土の器が終わりにはすべては破壊されてしまうように、人々の命もまたそのとおりである。

 若い人も壮年の人も、愚者も賢者も、すべてしに屈服してしまう。すべての者は必ず死に至る。

 かれらは死に捉えられてあの世に去っていくが、父もその子を救わず、親族もその親族を救わない。

 見よ。見まもっている親族がとめどなく悲嘆に暮れているのに、人は屠所(としょ)に引かれる牛のように、一人ずつ、連れ去られる。

 このように世間に人々は死と老いとによって害われる。それ故に賢者は、世のなりゆきを知って悲しまない。」

 汝は、来た人の道を知らず、また去った人の道を知らない。汝は(生と死の)両極を見きわめないで、いたずらに泣き悲しむ。

 迷妄にとらわれた自己を害っている人が、もしも泣き悲しんでなんらかの利を得ることがあるならば、賢者もそうするがよかろう。

 泣き悲しんでは、心の安らぎは得られない。ただかれらにはますます苦しみが生じ、身体がやつれるだけである。

 みずから自己を害いながら、身は瘠(や)せて醜くなる。そうしたからとて、死んだ人々はどうにもならない。嘆き悲しむのは無益である。

 人が悲しむのをやめないならば、ますます苦悩を受けることになる。亡くなった人のことを嘆くならば、悲しみに捕われてしまったのだ。

 みよ、他の[生きている]人々は、また自分のつくった業にしたがって死んで行く。かれら生あるものどもは死に捕えられて、この世で慄(ふる)えおののいている。

 ひとびとがいろいろと考えてみても、結局は意図とは異なったものとなる。壊(やぶ)れて消え去るのは、このとおりである。世の成りゆくさまを見よ。

 たとい人が百年生きようとも、あるいはそれ以上生きようとも、終には親族の人々から離れて、この世の生命を捨てるに至る。

 だから<尊敬されるべき人>の教えを聞いて、人が死んで亡くなったのを見ては、「かれらはもうわたしの力に及ばぬものだ」とさとって、嘆き悲しむのを去れ。

 たとえば家に火がついているのを水で消し止めるように、そのように智慧ある聡明な賢者、立派な人は、悲しみが怒ったのを速やかに滅ぼしてしまいなさい。―譬えば風が綿を吹き払うように。

 己が悲嘆と愛執と憂いとを除け。己(おの)が楽しみを求める人は、己が(煩悩の)矢を抜くべし。

 (煩悩の)矢を抜き去って、こだわることなく、心の安らぎを得たならば、あらゆる悲しみを超越して、悲しみなき者となり、安らぎに帰する。』

        『スッタ・ニパータ』第3章・574~593


要約するならば、

死はどのような生き物にも避けることは出来ない。
だから、それを嘆き苦しむことには意味がない。
嘆き苦しむのは執着があるからで、それを捨てれば
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 熟した果実は落ちる。それと同じく、生まれた人々は、死なねばならぬ。かれらにはつねに死の怖れがある。

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Q感覚で決断

感覚に頼って決断すると遅くなる気がします。また感覚を狂わせるとうまくできない気がします。長い期間のものは感覚はやっぱり必要ですか。公共投資など最近巨費にかんじたり収益性もかんじません。感覚にたよって決断するのですが自信ありません。どうすればいいでしょうか。とくに今の時勢自信もてません。

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いまの感覚が、先に来るあなたの思考では、誰も説得できませんし、理解できませんよ。
文の構成も無茶苦茶、あなたの思考も無茶苦茶では。。。

Qなぜ人は死ぬのに頑張るのですか? 最近死についてずっと考え辛くなり。 何とか耐えてさぁ頑張ろうとなる

なぜ人は死ぬのに頑張るのですか?
最近死についてずっと考え辛くなり。
何とか耐えてさぁ頑張ろうとなると次はなぜ死ぬのに頑張るの?とブレーキがかかってしまいます。
どうせ最終的には努力してきた人もしてこなかった人も何も考えられなくなるのに頑張るのかと言う質問です。
これは思春期の悩みによくある事なのか、
教えてください。

Aベストアンサー

初めまして

死んだら、すべてが無になるのに、なぜ頑張るのか?・・・という事でしょうか?

だとしたら、それは、死んでもなにも無しには、ならないからだと思います

人は、近代において、科学を発達させ、科学の発達において、何も根拠のない、非科学的な事を排除してきました

しかし、ある意味で、その結果ともいえる現代の状況は、その科学的な見解が、人類に幸せをもたらしたといえるのでしょうか?

ただ言えることは、物理的な環境は、確かにめざましく発達しましたが、精神的なものは、不安だらけで、希望的な未来さえ、夢見る事も出来ないのが、現状ではないでしょうか・・・

だとしたら、その原因は、死んだら、すべて無になる・・・という考え方にあると思います

人類は、死んだらすべて無になる・・・という考えをもとに、利己的な、今さえ良ければいいというような発想で、地球の資源を消費してきました・・・その結果、人間の物理的環境は、めざましく発達しましたが、自然環境は、破壊され尽くし、深刻な自然災害の原因となっています

今の世界環境を、素晴らしい・・・と思える方は、そのままの破壊を続ければいいのですが・・・もし、危機感を感じるのでしたら、まず、死ねばすべて無になる・・・という考え方から、改める必要があると思います

すべて無になる・・・という考え方から、今さえ良ければいいという考えが生まれます・・・死んでも終わりではないと考えれば、これから先の事も、心配しなければなりません・・・そこに、未来を危惧する考え方が出てくると思います

死ねばすべて無になる・・・という考え方は、今までの過程を見直し、そろそろ決別すべき考え方ではないかと思います

初めまして

死んだら、すべてが無になるのに、なぜ頑張るのか?・・・という事でしょうか?

だとしたら、それは、死んでもなにも無しには、ならないからだと思います

人は、近代において、科学を発達させ、科学の発達において、何も根拠のない、非科学的な事を排除してきました

しかし、ある意味で、その結果ともいえる現代の状況は、その科学的な見解が、人類に幸せをもたらしたといえるのでしょうか?

ただ言えることは、物理的な環境は、確かにめざましく発達しましたが、精神的なものは、不安だらけで、...続きを読む

Q感覚野と連合野の役目について

 大脳の感覚野と連合野の役目についてそれぞれ教えてください。
 ある問題で、手である物体に触ったとき神経の連絡経路は、

「皮膚→感覚神経→脊髄→感覚野→連合野→運動神経→筋肉」

と書いてあったのですが、この経路で感覚野と連合野で、伝わった興奮に対して、どのような情報処理が行われているのですか?

Aベストアンサー

こんにちは。
この入力経路では「感覚神経―脊髄―感覚野―連合野」となっていいますので、この流れてゆきますと出力側は、厳密には「連合野―運動野―脊髄―運動神経」でなければなりません。
まずここで、連合野の機能といいますのは「感覚連合野(入力処理)」と「運動前野(出力処理)」に分けられます。そして、この二つの間には「前頭連合野」の機能が働かなければなりません。この前頭連合野は感覚入力の終着点であると同時に運動出力の出発点でありますから、果たして脳内ではここが最高次の連合野ということになります。

感覚連合野といいますのは各々の感覚野のほぼ近隣にあり、感覚野で知覚処理された情報を脳内の感覚記憶などと照合することによって「感覚認知」を行います。この場合でしたら手からの感覚入力に基づく「体性感覚認知」ですね。
ここでは神経回路を形成する細胞群の「多次元並列バターンによる選択的情報処理」が行われていると考えられています。つまり、記憶されている並列バターンと一致する情報に反応した神経回路だけが次の細胞群に情報を受け渡すということですね。
この認知結果は頭頂葉連合野から前頭連合野に至るまでの間に視覚や聴覚などといった他の感覚入力と統合され、更に前頭連合野では脳内に記憶されている体験学習などと照合されます。これにより、「状況の把握」「行動の目的」「結果の予測」といった、前頭連合野での極めて秩序立った情報の統合が行われます。そして、この結果は「運動計画」として運動前野に引き継がれ、一次運動野から各運動神経系に対して具体的な運動命令が出力されます。

近年では、我々の感覚入力がどのような経路を辿ってどの連合野に達しているかといったことは解剖学的に活発に調べられています。これを「皮質内接続」と言いますが、果たして、接続経路が分かったというだけであり、そこで具体的にどのような情報処理が成されているかといったことはまだほとんど解明されていません。ただ、我々の脳内で感覚入力が運動命令に変換されるためには、最低でも上記で述べましたような手続きが必要であることはほぼ間違いのないことです。

こんにちは。
この入力経路では「感覚神経―脊髄―感覚野―連合野」となっていいますので、この流れてゆきますと出力側は、厳密には「連合野―運動野―脊髄―運動神経」でなければなりません。
まずここで、連合野の機能といいますのは「感覚連合野(入力処理)」と「運動前野(出力処理)」に分けられます。そして、この二つの間には「前頭連合野」の機能が働かなければなりません。この前頭連合野は感覚入力の終着点であると同時に運動出力の出発点でありますから、果たして脳内ではここが最高次の連合野ということに...続きを読む

Q【仏教の御霊信仰はなぜ生まれたのですか?】人を恨んで、人を怨んで死んだ呪いと祟りで構成された人物がな

【仏教の御霊信仰はなぜ生まれたのですか?】人を恨んで、人を怨んで死んだ呪いと祟りで構成された人物がなぜ神様になって礼拝されるのでしょう?

普通に考えたら、祈りに言ったら、もっと悪い事態になると思いませんか?

キリスト教もイスラム教も悪魔を神様として扱っているのだろうか。

他宗教は悪魔の取り扱い、立ち位置をどこに置いているのでしょう。

キリスト教の聖書の絵画には悪魔が描かれているので神様的な扱いなのかな。

Aベストアンサー

まず、第一に日本に伝来した仏教が御霊信仰を生み出したわけではありません。
仏教伝来以前から、祟り神や怨霊などは存在していました。
また、祟り神を祀る信仰は存在していたわけです。
仏教伝来以後は、仏教により、祟り神を鎮める事が可能となったので、仏教が重用されただけですよ。
仏教の発想としては、祟り神が神になるという思想は無いです。(仏教においては、神は無記として、それには触れません)
廃仏毀釈が行われる前までは、神仏習合だったので、神社に寺院が併設されたりしていたので、神道と仏教は、日本では混合されていたわけです。
これは、日本独特の事なので、日本以外の仏教ではそのような事は無いです。
何故、怨霊が神になるかと言うと、強い恨みを持ったものは、それだけ強い霊力を持つという発想でしょう。
つまり、強い怨霊ほど、神となれば、より強い御利益を与える存在になると言う事です。(祟り神は、神への供犠として、神の仲間になるとの学説を出している人もいます)
もちろん、怨霊の祟りを鎮める意味もあります。
怨霊は、悪魔とは違います。(別に悪いことをしたから怨霊になるわけではないです)
怨霊になって、祟るのが問題なだけですから、善・悪とかの問題では無いですよ。
一神教である、アブラハムの宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)の場合は、悪魔も「神」の被造物ですから、当然神に匹敵する存在では無いです。(ユダヤ教やキリスト教の場合は、異教徒の神を悪魔とみなしている場合もあります)
ゾロアスター教や、グノーシスの場合は、善・悪二元論ですから、神に対抗できる能力は持っているでしょう。(グノーシスの場合は、創造する能力も持っています)

まず、第一に日本に伝来した仏教が御霊信仰を生み出したわけではありません。
仏教伝来以前から、祟り神や怨霊などは存在していました。
また、祟り神を祀る信仰は存在していたわけです。
仏教伝来以後は、仏教により、祟り神を鎮める事が可能となったので、仏教が重用されただけですよ。
仏教の発想としては、祟り神が神になるという思想は無いです。(仏教においては、神は無記として、それには触れません)
廃仏毀釈が行われる前までは、神仏習合だったので、神社に寺院が併設されたりしていたので、神道と仏教...続きを読む

Q感情と感覚は違う?

厳密な心理学用語の質問というより日本語の使い方の質問と受け取って構わないのですが「感情と感覚は別のもの」と理解してよいのでしょうか、あるいは「感情は感覚の一部」とか「もともと重なり合っている用語」と理解したたらよいのでしょうか。どなたか教えて下さい。
ちなみに私の個人的意見は「感情と感覚は別のもの」というものです。
たとえば
悲しいは感情で感覚ではない。
痛い は感覚で感情ではない。
などです。ただ、ムカツクとか頭に来る、などの表現は両方を含んでいるように思うので、二つの関係がいま一つ、分りにくいのです。

Aベストアンサー

知覚・触覚・嗅覚・味覚・視覚など感覚には人間の体の一部が関わり、大きく影響しています。

ある物を見て(視覚)大きな恐怖を覚えた時に、その人の心の中には「恐れ」「拒否」「拒絶」「忌避」⇒「嫌う」「イヤ」などの感情が湧き出してきます。

またあるものに触れて(触覚)今までに無い快さを覚えたとき、その人には「快さ」「快感」「心地よさ」⇒「好く」「喜び」という感情が湧き出してきます。

このように感覚で捉えて、喜怒哀楽という感情で受け止めるのが人間の常です。

「感覚無きところに感情なし」
「感覚あるところに感情あり」とでも言いましょうか。
しかし、感情無きところでも感覚はあると思います。

人間の感情は好きだ、嫌いだと、感覚を経てきた物事を瞬時に判断し、反応します。
この「瞬時」というのは、その人が過去の感覚を覚えていて、ある種の条件反射のように感覚を経ないでも感情が湧き出すということも含まれるのです。
あの時あの嫌な感覚を経験したから、今回は遠くに見てきただけでも「イヤだ」という感情をむき出しにして避けようとしたりするのがこの例です。

かつての体験で得た「大きな感情の起伏」は、次には改めて感覚で捉えなくても感情が反応してしまうことがあり、このことが人間の人生を大きく左右することに発展させてしまうこともあるのです。

質問にある「ムカつく」「頭にくる」などは「酷いことを言われたことで怒りの感情が吹き荒れた」わけでしょうが、又次にもその相手が目の前に現れただけでも、今度は何にも言わないのに、あの時のことが頭を過ぎり、あの時と同じように「怒りの嵐が吹き荒れてしまう」わけで、感覚をベースにして感情が表れてくる好例かもしれません。

知覚・触覚・嗅覚・味覚・視覚など感覚には人間の体の一部が関わり、大きく影響しています。

ある物を見て(視覚)大きな恐怖を覚えた時に、その人の心の中には「恐れ」「拒否」「拒絶」「忌避」⇒「嫌う」「イヤ」などの感情が湧き出してきます。

またあるものに触れて(触覚)今までに無い快さを覚えたとき、その人には「快さ」「快感」「心地よさ」⇒「好く」「喜び」という感情が湧き出してきます。

このように感覚で捉えて、喜怒哀楽という感情で受け止めるのが人間の常です。

「感覚無きところに...続きを読む

Q自殺者は、なぜ楽な方法で死ぬのでしょうか?

死ぬ方法は数々あれど、大方は(飛び込みにしても、練炭や睡眠薬、首吊りにしても)痛みなどの苦痛にもだえながら亡くなっていくイメージはありません。
そこで、自殺者は、なぜ楽な方法で死ぬのでしょうか?
死を目前にして逡巡しているのでしょうか?
痛みがあると、我に返ってしまう(あるいは、思いとどまってしまう)ということを自覚しているからでしょうか?
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Aベストアンサー

生きる目的は、人生を通算した精神的充足量の最大化であり、それは自殺者でも同じことです。
自殺が楽しいから死ぬのではなく、生きていくことが苦しいから死ぬのです(逃避)。
であれば、たとえ死を選ぶにしても、できるだけ苦しくない方法を選ぶのは当然です。
(逆にもし、自ら苦しい死に方を選ぶほどMなら、自殺するほど追い込まれる事もないでしょう)

Q感覚様相(感覚モダリティ)について

感覚様相(感覚モダリティ)を調べたところ、「感覚の種類とそれに即した体験内容」と書いてあったのですが、説明文が理解できません。簡単に言うとどういうことなのでしょうか?
どなたか、わかりやすく説明していただけるとありがたいです。

Aベストアンサー

#1です。
3行目を修正させてください。

△ 現在では皮膚感覚をさらに触覚,圧覚,痛覚,温覚,冷覚に分類しますし,
○ 現在では皮膚感覚をさらに触覚・圧覚,痛覚,温覚・冷覚に分類しますし,

「触覚・圧覚」は「触圧覚」,「機械(受容)感覚」とも呼ばれ,
「触覚」,「圧覚」,「振動覚」に下位分類することがあります。
「くすぐったさ」をこれに加えることもあります。
機械受容器には多様なものがありますが,
応答特性の違いによって4種類に分かれることがわかっています。

「温覚・冷覚」は「温冷覚」,「温度(感)覚」とも呼ばれ,
「温覚」,「冷覚」に下位分類されます。
応答特性の異なる温受容器,冷受容器の2種類が確認されています。

ついでながら「痒み」について。
以前は「痛覚」の一種とする説が有力でしたが,
近年,化学的刺激に応答して特異的に痒みの感覚を生じる経路の存在が明らかになってきました。
「痒み感覚」という独立した感覚としての扱いがふさわしいようです。

もうひとつ。
感覚受容器の種類に応じて感覚様相を細分化することについては議論があります。
これは皮膚感覚だけの話ではなく,たとえば視覚についても細かく見てみると,
光の波長に対して応答特性の異なる4~5種類の光受容細胞(桿体と3~4種類の錐体)が
網膜上に異なる分布で存在することがわかっています。
だからといって感覚様相を4ないし5種類に細分化することに妥当性があるだろうかということです。
これは受容器や伝達経路の相違という生理学的基準を優先するか,
感覚経験の非連続性という心理学的基準を優先するかの問題とも言えます。

#1です。
3行目を修正させてください。

△ 現在では皮膚感覚をさらに触覚,圧覚,痛覚,温覚,冷覚に分類しますし,
○ 現在では皮膚感覚をさらに触覚・圧覚,痛覚,温覚・冷覚に分類しますし,

「触覚・圧覚」は「触圧覚」,「機械(受容)感覚」とも呼ばれ,
「触覚」,「圧覚」,「振動覚」に下位分類することがあります。
「くすぐったさ」をこれに加えることもあります。
機械受容器には多様なものがありますが,
応答特性の違いによって4種類に分かれることがわかっています。

「温覚・冷...続きを読む

Q【哲学・未来とは?】想像できる世界は未来ではない。この考えどう思いますか?

【哲学・未来とは?】想像できる世界は未来ではない。この考えどう思いますか?

Aベストアンサー

一つの真理ではありますが、すべてではないですね。

例えば、想像もせず眠っているだけでも未来はやってきます。
このことはどう説明するのでしょう?


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