【お題】引っかけ問題(締め切り10月27日(日)23時)

 (1) 宗教は 個人の信仰とはまったく別の社会現象である。

 (2) そのオシエが もし《信じる》べきものであると言うのなら それは 精神錯乱に落ち入ることを意味する。

 (3) オシエは 命題(人間の思考し判断したもの)としてあるからには 《考える》ものであって そのような思考ないし理性の問題であるものを どうして信じる(つまり 神として受け容れる)ことが出来ようか。

 (4) 《信じる》と《考える》とを区別するべきである。

  ○ オシエは 信じるものではない ~~~~~~~~~

  非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰
  ________________________
  思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教
  感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)
  ________________________

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 (5) 《信じる》とは 神をわが心に受け容れることである。神は 非経験の場だから 《考える》ことも認識することも出来ない。わづかに信仰の何たるかを説明するために ヒラメキから得た知識を理論として形成するとき この説明理論は 神を知るための補助線となる。

 (6) この補助線たる説明書きが オシエと見なされ得る。《神は愛である》なり《至高の善である》なりの取扱説明書を オシエとして さらにはこの思考内容ないし概念を神として 信じよと言うのが 宗教である。

 (7) この宗教は 信仰としての蝉の 抜け殻である。百害あって一利なし。


 これを問います。出来れば 確定させたいと考えます。

A 回答 (19件中11~19件)

今回思ったことであるが、質問者の言う補助線というものこそが実は主線であり、神とも言うべきものを作り出しているのではないかと思う。


雲をつかむような話の、雲たる神を信じるのではなく、しっかりと形のある言葉を信じることによって、言葉に力が与えられて、信じた人を元気にするのではないだろうかと。
始めから神ありきではなく、一種、人の希求によって生まれたものが神ではないだろうか。
対象の不明瞭な、質問者の言う神を信じるというのは出来ることなのかもしれないが、それをしても対象の善なる事は証明できない。
一方で、対象があらかじめ善なるものであると言葉によって支持されているゆえに信じる事もできるのではないか。
質問者の中で、後付けとされている一連の言葉の群、善や愛などと言ったものの方こそが、主たるものである気がする。
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この回答へのお礼

 ★ しっかりと形のある言葉を信じることによって
 ☆ 一体全体 こんなことが出来ると どうして言えますか。言葉を信じる たとえば神は愛であると言いますから この愛にしろ慈悲にしろ このような言葉を信じるということが どうして人間に出来ますか?


 まづは ご回答をありがとうございます。

 前回に この信じるを文学的なあやを出すために使うことはあると言いましたが そのような例外的用法のほかに どんな《信じる》がありますか? すべて 言葉はそしてオシエも 考えるのです。

 考えて その結果その内容はよいと判断したなら その言葉をあたかも文学的な表現としては――つまり哲学としての推論にもとづく思考からは離れて――信じると言って その《よさを噛みしめており よさを大いにとうとぶのだ》という強めの意味合いを出しているだけです。すべては 《思考の緑野》という領域の問題です。

 

 ★ 言葉に力が与えられて、信じた人を元気にするのではないだろうかと。
 ☆ そのように概念や思想内容に感銘を受けて しばらくは元気が出ることは 経験上あり得ます。それだけのことだと言っています。

 なぜ一時的な元気でしかないか? それは その信じるが・つまり信じるの対象が 経験的な概念や事物でしかないからです。
 ★ 始めから神ありきではなく、一種、人の希求によって生まれたものが神ではないだろうか。
 ☆ 愛や慈悲やの言葉をそしてその概念内容を――つまり 補助線を――神としてしまっている。人間のつくった神であるからには 元気の出るのは 一時的なものに限られます。人間の存在が 移ろいゆかざるを得ない・限りあるものだからです。

 思考や想像の産物を神としている。これは 精神錯乱でないなら 世に精神の混乱はまるで無くなります。



 ★ 対象の不明瞭な、質問者の言う神を信じるというのは出来ることなのかもしれないが、それをしても対象の善なる事は証明できない。
 ☆ 出来るわけがありません。《思考に非ず》というのですから 善だの悪だのという判定は いっさいしませんし ありません。


 だから
 ★ 一方で、対象があらかじめ善なるものであると言葉によって支持されているゆえに信じる事もできるのではないか。
 ☆ これを 思考や想像の産物としての神であると言っています。いやしくも人間が考えることを神にすることが出来るのなら そこらじゅうに神がうようよいて 町を歩いてもいることでしょうよ。



 ★ 質問者の中で、後付けとされている一連の言葉の群、善や愛などと言ったものの方こそが、主たるものである気がする。
 ☆ 経験事象については――因果の関係や有る無しや善悪や真偽やとしてのものごとについては―― 人間が理性やときには感性で考えることを成す。考えるということは それなりに判断をともなうことがある。認識だけではなく判断をもともなうなら 人間は分かったという部分が大きくなる。――こう言っているだけのことです。

 そういう判断力に頼ることは さらにそこから信念や信条としてその理念などを奉ずることとしてあり得ます。それだけのことです。

 理性の光 あるいは感性のかがやき これを世にもたらすことさえがあり得ます。そして それだけのことです。
 人間の心の奥なる闇の夜に光を差してこれを あかるい昼に転換するのは 思考や理念の光ではなく 非思考のひかりである。こういう見解です。《信じる》というなら こういう結論に落ち着きます。

 宗教が 《信じる》とかあるいは《神》とかの言葉を出さずにいるならば それは 理性の光と感性のかがやきの問題ですから 何も物言いは出ません。
 経験的なものごとについての概念や理念を《神》としたりそれを《信じる》というのは よほど精神の錯乱が 蔓延している。こう指摘します。

お礼日時:2013/12/05 15:55

B様、こんにちは。




「確定」は無理なのでは。

そのうち、「B様の公会議」なるものが催されて、異端とされる者が出るのでしょうか?
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この回答へのお礼

 くりなるさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 確定は 個々の命題・副主題について 具体的にです。

 一つひとつ検証していけばよいと考えます。

 既成の宗教の側から むしろいますでに常識に反することとして・その意味では この宗教観は 異端とされています。そう見なされていることを 回答者の幾人かからは 示されています。

 この異端視を無くすこと。これのみが 目的です。

お礼日時:2013/12/05 14:45

 


>非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰

非思考の庭=考えない=本能=動物の世界
だから逃げ回る。
ただそれだけのことでないのかい。
 
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ 非思考の庭=考えない
 ☆ この規定は あいまいです。

 《考えない》と言えば ふつうは《考えることがあるところを 何らかの事由によって考えないようにしよう》という意味だと思います。
 
 つまりそのような判断をくだしたなら その判断のための選択肢を じつは考えていたということになります。考えようか それとももう打っちゃっておこうかと選択肢を並べて いろいろ考えたはずです。

 ならば 《思考に非ず》ではありません。

 ★ ・・・考えない=本能=動物の世界
 ☆ こういう連想しか出来ませんか。

お礼日時:2013/12/05 09:47

しかし、信心深い者の中には、マザーテレサのような人もいるわけで、一概に百害あって一利なしとは言えない。


信仰する宗教があって、有意義な人生を送る者もあれば、無宗教であって破滅的な人生を送る者もある。その逆も然り。
結局はその人それぞれの個人のありようによって、利害のあるなしは左右されているように思う。
その意味で、こう言っては信心深い方から怒られるかもしれないが、宗教とは肩書きのようなものに過ぎず、その人の人間性を表すものではないだろう。多かれ少なかれ、人は蒙昧の中に生きているものであって、宗教もその一つに数えられる。しかし一方で、宗教は、幾ばくかの高潔な精神の持ち主を排出してきたのも事実としてある。宗教であるからと言ってその一面のみを指示し弾劾することは難しいだろう。
質問者の言う信仰の定義の違いはわからないでもないが、それを通用して信仰とはかかるものであり宗教とは無縁であると言い切ったとしても、世間に通用する言葉の用法としては適わないだろう。
私は一般論を言っているのではない。言葉として、教えを信じるというのは、体験的にも理解されるところであり、まさしく言葉の用法としては不足ないと捉えられるのである。
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この回答へのお礼

 あ_ほなさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ☆ 信心深い者の中には、マザーテレサのような人もいるわけで
 ★ (1) この人の事例が 宗教の有益性を語るということでしょうか? そんなことくらいは 信仰があれば出来るのではないでしょうか。そして おどろくなかれ 信仰が自覚においてなくても 出来るのではないでしょうか。

 (2) つまり マザー・テレサを買い被っていませんか? 問題は 元気が出るということですよ? その場で一時的に出るのは 信仰の自覚とは関係なくあり得ます。溶鉱炉に火を入れるかのごとく(そしてその例では まだふさわしくないのですが) 生涯にわたってつづくわが心の燈心への点火 これが 成ったかどうかです。つまり マザーテレサは ご自身の成すわざを世界に見せつけたのでしょうが 言ってみればキリスト・イエスなる泉の水のことを 人びとに伝えたでしょうか?――わたしは どこかで話が違って来ているところがある。こう考えます。

 (3) そんなことを言ったら 新興宗教だって おカネを出して貧しい人たちを支援していますよ。


 ★ 信仰する宗教があって
 ☆ (4) この表現じたいが マチガイであると言っています。宗教は オシエであって オシエは これを思考するものです。信じるものではありません。憲法だって オシエがあります。自由の問題など。ですが これは 考えるものであって 信じるものではありません。――宗教は――その組織宗教じしんは 《信じる》ということを主張していますが―― 信じるとは何の関係もありません。


 ★ 結局はその人それぞれの個人のありようによって、利害のあるなしは左右されているように思う。
 ☆ (5) というように すでに宗教によって 《信仰》の何たるかが分からなくなっているぢゃありませんか。信じると考えるとは違うのだと趣旨説明で述べています。そのことについて 批判をあたえてください。その箇所を素通りせずに 回答を寄せてください。

 (6) 宗教は もし組織がない場合でもそのオシエの社会慣習化などをつうじて じゅうぶん人びとの考え方や生き方に影響をおよぼしています。信じるとは何か? について勝手にゆがんだことを広めています。その影響は 害のみです。


 ★ 信心深い
 ☆ (7) この表現もいただけません。意味が 手垢がついたものになってしまっています。おとなしい羊であるというほどの意味合いしかありません。《信じる》とは何かを見失い もうきちんと捉えられなくなっているからです。《敬虔なクリスチャン》といった表現も もう腐っています。(いえ 初めからでしょう)。たとえば 神は 世界中で あらゆる名の神があっても 全体としてひとつであると知ったのでないと《信じる》ということは 始まりません。うんぬん。


 ★ 宗教とは肩書きのようなものに過ぎず、その人の人間性を表すものではないだろう。
 ☆ (8) つまり 《ただ群れているだけ》です。肩書が カザリであるかシガラミなのかは それぞれの事情によっていることでしょう。つまり おおむねおつき合いである。そしてわざわざそこに入っておつき合いするのは ただ群れたがるというだけのことです。ほかには 何の意味もありません。宗教でなくても出来ることばかりだからです。



 ★ しかし一方で、宗教は、幾ばくかの高潔な精神の持ち主を排出してきたのも事実としてある。
 ☆ (9) その見方は マチガイです。《高潔な精神の持ち主》が たまたまその宗教に おつきあいで入っていたというだけのことです。そうでなければ その宗教に入っている人たちはみな 多かれ少なかれ その高潔な精神の片りんをでも見せていることでしょう。そしてそれは ウソです。より一層わるいことを行なっていると言わないとすれば 世間の人びとと同じように まじめなよい人もいれば よくないことを仕出かす人もいると見なければなりません。つまり 宗教の効用は ゼロです。


 ★ 宗教であるからと言ってその一面のみを指示し弾劾することは難しいだろう。
 ☆ (10) この《一面》というのは 商売になってしまっていて おまけにインチキや詐欺をはたらくといった一面であろうと推測しますが ここでは そうではなく《オシエを あろうことか 信じるという精神錯乱に落ち入っている》という一面をもって弾劾しています。趣旨を把握して ご回答くださるとありがたいです。


 ★ 質問者の言う信仰の定義の違いはわからないでもないが、それを通用して信仰とはかかるものであり宗教とは無縁であると言い切ったとしても、世間に通用する言葉の用法としては適わないだろう。
 ☆ (11) 哲学というものが分かっていらっしゃらない。常識がこうだから それと違うことを言うのは 控えろと言われても おまえさんこそ そうやっていつまでもほざいていろと返すしかありません。世間がまちがっていたら ただす。これだけのことです。――こんなことは 哲学のいろはのいです。かなわんなあ もう。


 ★ 言葉として、教えを信じるというのは、体験的にも理解されるところであり、まさしく言葉の用法としては不足ないと捉えられるのである。
 ☆ (12) もしそのことを せっかく言って来ているのであるから重んじるとすれば この場合の《オシエを信じる》というその信じるの意味は 《とうとび まなび そのよいと考えるところをみづからも実践する》といったところのことでしょう。しかも この《よいと考える》という意味を表わすのに 言わば強めの表現として 別次元から《信じる》という言葉を持って来て当てはめた。こういう事情であると知るべきです。決してひとは オシエを信じることはありません。

 (13) 言葉の用法としては タトエの語法です。強めのための文学的なアヤです。
 オシエについては それをとうといと知るなら そのとき《考える》ことをおこなっています。信じるのではないのです。考えた結果 そのオシエを重んじるまたは くだらんと見て棄てる。こういうことです。ですが 信じるの場合は まったく別です。思考に非ずして その神を受け容れるか もしくは受け容れない(つまり 無い神として受け容れる)ということでしかないわけです。

 (14) 受け容れるかどうかは 思考に非ずしてと規定しているのですから 考えるためのオシエではありません。――神を受け容れたそのあとでいろいろ考えることをも為すかも知れませんが それは 言わば補助線の問題に移行しています。補助線としてなら 考えることをします。つまり 大きく広く言った場合のオシエです。このオシエは 信じるものではありません。補助線を答えとしてしまうマチガイをおかしているわけではありませんか。

お礼日時:2013/12/05 08:35

「信じてこそ私は私の存在をかみしめる事が出来る」


こう言いたいのならば、それなりにあなたの見解は理解できる。
ところで、なんとなくだが、神がその人の存在を認める(赦す)という事は、人間の言い回しでは、神が信じてくれる人になる、と言う事ではないか、私はそのための関門を人と人がお互いに信じ合う事においているよ。
その範疇で宗教たる悪の結社の結成を容認しているよ。
人は悪をぬぐいきれないが、そんな悪人同士でも助けあう善人ではないかとね。
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この回答へのお礼

 ★ 人と人がお互いに信じ合う事において
 ★ 宗教たる悪の結社の結成
 ☆ が成り立っている。――こういう意味でしょうか?

 つまり

  ○ 悪の結社の中で 人と人とが互いに信じあう〔ことができる〕

 という意味でしょうか?
 もしたとえ そうであったとしても その《悪の結社》がなくても 互いにコミュニケーションにおいて信頼し合えるのでなければ ダメであろうし そのふつうの生活日常の中で信頼し合えているのなら わざわざ《悪の結社》をもうけてその中で 信じあえるようになることも必要ないでしょう。



 ★ 人は悪をぬぐいきれないが、そんな悪人同士でも助けあう善人ではないかとね。
 ☆ 《悪をぬぐい切れない》人たちは 悪の結社たる宗教組織の中で 互いに助け合う善人になるということでしょうか?

 それとも ひとはみな《悪をぬぐい切れない》のだから すべからく宗教組織に入って 悪人どうしとしてでも助け合い 善人になるのがよい。ということでしょうか。


 初耳です。ご回答をありがとうございました。

お礼日時:2013/12/04 23:23

その通り。



 
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2013/12/05 14:49

 


>宗教は 百害あって一利なし。

キリスト教もイスラム教もヒンズー教も宗教であるから、百害あって一利なし。
これでよいのかな。
しかしここで無い神は有る、無宗教も宗教であるとゆーたのでは、全人類が百害あって一利なしとゆーことにはならんのかい。
 
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この回答へのお礼

 排中律から始めてください。

 ご回答をありがとうございました。

お礼日時:2013/12/04 22:18

No.1 追



> よく読んでよ。
いや、ぶっちゃけ「よく読んでも理解の外」です。

私の宗教観では、神を「信じる」とかオシエを「信じる」という行為を必要としない。
私の前には、「信じる」ではなく「『崇拝』『畏敬』といった念」があるのです。

つまり私の考えるものとしては、
1)まず崇拝の対象があり、そこに信仰が生じる。
 対象は神である必要もなく、太陽や月でも、岩や巨木でも、パワースポットでも有名人でも何だっていい。
2)2人以上の信者が集まれば「宗教」となり、『共通のタブー』が設定される。
といったもの。その後の「宗教活動」は崇拝とは直接関係のない、人間臭い「ファンクラブ活動」ですね。
その「ファンクラブ活動」を指してセミの抜け殻と言われるのなら結構同意もできそうですね。宗教は個人の信仰の集まりに過ぎないわけですから。社会集団としての『宗教』と、生き方を示す概念的なものとしての『宗教』は別に分けて考えるべきとしたのは、その思いからです。
特定のファンクラブに入らなくても誰かのファンでいるのは自由ですよね。

オシエとは「信じるべきもの」ではなく、「(自発的に)守るもの、犯すべきではない」もの。従って、「オシエを信じるなんてことはナンセンスである」というのは傍らから見て言えるだけの事であって、実際にそのタブーを犯す事は個人の信仰を否定するという『個人的な事柄』に過ぎず、「宗教」とは直接関係したものではない。
「信じる」も「考える」もない。オシエを守らないのならそれはその人がその宗教というカテゴリーの信仰から外れているというだけのこと、つまり異教徒ってことですね。


うん、やっぱりスタート地点から随分違うようです。
どうぞ先に行って下さい。私ゃそちらのスタートラインを越える事からして無さそうです(^^;
結局、私の回答は「私はこう見ますが、表現の自由の範疇で気のすむまで推し進めて良いでしょうよ」というコメントに過ぎなかったわけです。
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この回答へのお礼

 ★ いや、ぶっちゃけ「よく読んでも理解の外」です。
 ☆ ぢゃあ それだけを書いておしまいとなります。まいか?


 ご回答をありがとうございました。

お礼日時:2013/12/04 21:54

お好きに確定させればよいです。



仰っている事はあなたの説く『オシエ』であり、それに準じてご質問のように行動している事は『信仰』の現れ、その考えを誰かれなく広めようとするならば、その行為は『宗教活動』と同じ事。つまりお考えになるのは自由ですが、それを他人に広めるようとすると『百害あって一利なし』と思う人はいるでしょう、ということです。あと、もっと万人に分かりやすい言葉でないと、オシエが広く知られる事も無いでしょうね。そのへんもまた宗教と同じですか。

ちなみに、仰るような『宗教』とは異なるものもありますね。民間伝承や自然崇拝のようなものも、宗教の一種でしょう。
御神木など「祀られる存在」もあれば、ナマハゲなどの伝承もあり、教訓を含むことわざやおとぎ話だって『オシエ』を説いた『取扱説明書』と言えるでしょうね。
人の心にどこで線引きするかは難しいですね。



>(1) 宗教は 個人の信仰とはまったく別の社会現象である。
社会集団としての『宗教』と、生き方を示す概念的なものとしての『宗教』は別に分けて考えるべきでしょう。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ☆☆(趣旨説明欄) (6) この補助線たる説明書きが オシエと見なされ得る。《神は愛である》なり《至高の善である》なりの取扱説明書を オシエとして さらにはこの思考内容ないし概念を神として 信じよと言うのが 宗教である。
 ☆ つまり煮詰めて言えば

 
  ○ 補助線たる説明書としてのオシエを信ぜよというのが 宗教である。

 というこちらの説明です。

 ★ 社会集団としての『宗教』と、生き方を示す概念的なものとしての『宗教』は別に分けて考えるべきでしょう。
 ☆ 分けて考えた結果を・そのひとつのあり方を取り上げて 問うています。よ。よく読んでね。

  ○ オシエを信じるなんてことは ナンセンスである。

 と言っています。たとえわたしの文章がオシエと見なされたとしても そういう内容を含んでいます。よ。
 よく読んでよ。

 ★ お好きに確定させればよいです。
 ☆ と投げやりにならずに。


 先を越されたことが そんなにあたまに来ますか?

お礼日時:2013/12/04 17:20

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