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覚上公覚書と言う書物に 越中魚津に明智光秀からの使者が訪れ「御当方無二御馳走相なるべき事」と述べたとあります
無二御馳走とは最大限の援助をせよ という意味で 日付は5月28日とあります
と言う事はこの時点で上杉家は明智光秀に何らかの不穏な策動がある事を察知していたのでしょうか?

A 回答 (4件)

どうでしょうね…


タイムマシンがあるなら
ぜひきいてみたいものです。、
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2013/12/30 16:31

azuki-7 さん、こんにちわ。




覚上公覚書というのは覚上公、つまり上杉景勝のメモという意味です。「御当方無二御馳走相なるべき事」ということは上杉家にとってとても助けになることという意味です。
日付は5月28日とありますから、可能性はありますね。確か、上杉景勝は柴田勝家と交戦中だったはずですから…
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この回答へのお礼

そう考えるとたとえ知ったところでどうにもなりませんよね

お礼日時:2013/12/30 16:31

no.2です。

申し訳ありません。

URLをはるのを忘れました。
どうやら、魚津城の戦いは上杉家のお家の存亡のかかった戦の最中だったようですね。

柴田勝家
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B4%E7%94%B0% …
上杉景勝
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89% …
魚津城の戦い
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%9A%E6%B4%A5% …
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この回答へのお礼

再度ありがとうございます

お礼日時:2013/12/30 16:30

こんにちは。



まず、結論から述べますと、不穏な動きは「察知していなかった」、あるいは、「察知できなかった」、「察知する余裕がなかった」、
と考えます。

また、私は、その書状のことは知りませんでした。
果たして、天正10年の書状でしょうか。
天正10年5月28日であるとすると、また、そうでなくとも、以下の状況から景勝は光秀の動きに目を向けていられなかった、と考えます。

天正9(1581)、織田に仕える小島職鎮が上杉景勝と手を組み、神保長住の富山城を急襲して乗っ取った。
それに腹を立てた信長は、天正10年3月11日、柴田、佐々、前田、佐久間を各大将として1万の軍勢で富山城を奪還した。
さらに、その足で軍勢を4万に増員して、上杉景勝の支配下にあった魚津城へ進撃した。
魚津城側は野戦では勝ち目がないことから、3800の兵で籠城をすると同時に、魚津城の城代中条景泰は春日山の上杉景勝へ援軍を求めた。

しかし、武田征伐を終えた織田軍が信濃国は川中島辺りまで、、および、上野国では三国峠辺りまでに軍勢を駐屯させ、さらには、越後国新発田城主新発田重家が謀反の動きがあり、次は春日山城と睨んでいたため、上杉景勝は魚津城への援軍を送ることができなかった。

景勝はとりあえず新発田を抑え込み、領内が一応安定化したため、信濃国や上野国の織田軍を気にしつつも、天正10年5月4日に魚津城救援に自らが指揮して春日山を出発し、5月19日、魚津城東側の天神山城に入り陣を張った。
だが、織田軍はすでに5月6日に魚津城二ノ丸を占拠していたため、景勝は手がだせないまま滞留する。

そうした中で、景勝に信濃国海津城の森長可と上野国厩橋城の滝川一益が景勝の留守を狙い侵攻する動きが伝えられ、5月27日、景勝は魚津城を見殺しにすること止む無しとして退陣をした。

魚津城では6月3日に最早これまでと感じ取って、守将山本寺孝長ら主だった者12人が自刃して果て陥落した。
信長の死が6月2日、魚津城へはこの報せは届いていなかった。
もし、光秀の動きを景勝が察知していれば、魚津城へ
「信長が死んだぞ!」
あるいは、
「6月2日に信長が討たれるから、今少し踏み止まれ」
などと言う急報が届き、魚津城は持ちこたえたと考えます。

と言う状況から考えると、景勝は越後国の四方八方から織田軍に抑え込まれており、明智光秀の動静まで探る余裕は無かったと思います。

(参考)
「急度申届候 仍而当月二日 於京都信長父子三人切腹 依之越中能州諸要害打明 美濃尾張之者共悉遁失候 然間国仲相残国人等 皆々復先忠之間 為仕置与令出馬候 各為疑心之到来之書中一書差越候 日出吉左右弥可申候 恐々謹言  景勝 (花押)  六月十二日」

上記の書状は、佐渡を分割統治する主だった城主7人に宛てたもので現存しています。

内容は、あなたならだいたいのことは解るとおもいますので省略しますが、

景勝も秀吉からの6月2日付とも6月3日付とも言われる書状で初めて信長の死を知ったと言われています。
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この回答へのお礼

ありがとうございます
これは天正10年の書状です

お礼日時:2013/12/30 16:30

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