No.3ベストアンサー
- 回答日時:
徳川慶喜は水戸藩ですから尊皇派です。
つまり彼が将軍職につくということは彼も周囲の幕閣も幕府消滅は
織り込み済み。問題はどうスマートに幕を引くかでした。
例えば鳥羽伏見の戦い、慶喜は戦いたくはない、でも一戦を
交えなければ佐幕派が収まらないからガス抜きで戦わせ、自分は
初めからすぐに逃げる用意をしていた。
ちなみに彼が描いていた新政府案は天皇を盟主に大名会議をおく。
徳川が大名会議の議長におさまる。彼の政治思想は尊皇開国です
から当初の薩長政府より進歩的だった。
鳥羽伏見~五稜郭で幕府軍が勝つ可能性はあったのか?
答えはNo。理由の一は兵士の練度、薩長の官軍は欧米式兵制と訓練。
幕府軍も現代人が思う以上に欧米の兵制をとりいれているが多くの
兵は旧態依然の旗本・御家人たち。彼等は集団戦どころか行進も匍匐
もできない口は偉そうだけど実戦能力がない。理由の2幕府も諸藩も
財政的に倒産状態で戦をする資金がない。
(ちなみに僕が居住する市は西国の外様が攻め入るのを防ぐ任を負った
由緒ある譜代が治めていたのだけれど、お殿様は領内を通過する官軍
には藩士を全員城に集めて「軍勢の通過は知らなかった」ポーズ。そ
して対岸の官軍と幕府軍の戦闘にはお殿様の命で大砲をどちらにも当たら
ないように撃たせたそうです。つまりどちらが勝とうが自分は加勢したと
言い訳できる。政府はこの功績をみとめ明治初期、わが市は一市で一県
でした。)
徳川慶喜公はできるだけ徳川の勢力を保持しながら新政府樹立させたい
と思い、また彼みずからは政治よりも趣味に関心が強く、晩年の彼は穏やかに
写真家として人生をまっとうします。
>本気で戦いを、望んでいたら当然勝てるはずでした。敗因はなんだったのか、勝っていれば日本はどうなっ ていたと思ういますか。
いいえ、勝つ見込みがなかったのです。敗因は近代化の遅れ、幕府を援助したフランスより薩長を援助した
イギリスが強かった。どちらが勝つというよりもこの戊辰戦争が長引けば英仏の植民地になりかねなかった。
だから勝海舟など心ある幕臣は戦いに消極的だった。
No.8
- 回答日時:
「切れ者でインテリだった」かどうかは、判断しかねますが、少なくとも、「馬鹿」をとおりこして賢かったことは確かなような気がします。
(私も、本人とは面識がありませんので、何とも言えないところはあります。)「鳥居伏見の戦いで逃げ出した本当の理由は何だったのでしょうか」……理由は、いろいろだと思います。「自分のいのち」、「立場」、「日本の将来」などなど……この判断も難しいというよりも、本人に聞かないとわからないし、聞いても、本当のことは言わないかも知れないし、もしかすると、本人も分からないかも???この先、生き延びれることを念頭に置いて、「逃げ出した」のであれば、結果としては、「正しかった」というだけのことでしょう。
「また、本気で戦いを、望んでいたら当然勝てるはずでした。敗因はなんだったのか、勝っていれば日本はどうなっていたと思ういますか。」……これを書き出すと長くなるし、すべて「IF」の世界であって、意味がありません。
「12代将軍徳川家康はなぜ後継ぎを決めず死去したのでしょうか。」……???14代のことをいっているのですか???あなたは、きちんと「後継ぎ」を決めてから死ねますか???
No.7
- 回答日時:
Wmwmwm313さん、こんばんわ。
徳川慶喜は、なかなかの切れ者でインテリだったと私は考えてます。
鳥居伏見の戦いで逃げ出した本当の理由は何だったのでしょうか。
また、本気で戦いを、望んでいたら当然勝てるはずでした。敗因はなんだったのか、勝っていれば日本はどうなっていたと思ういますか。
彼は側室ではなく、正室の出であることが影響していると思います。確かに多芸多趣味で玄人はだしなところがありますが、攘夷決行の日をきめておいて、江戸へ下向し、責任者の役をいとも簡単にやめる所業からもともと彼自身将軍になろうとしていなかったということが分かります。将軍になったのは孝明天皇の勅命によるものでした。彼の実家の水戸家は尊王の家でした。鳥羽伏見で錦の御旗がたった時点で勝利したとしても逆賊の汚名を着るのが怖かったのです。
12代将軍徳川家康はなぜ後継ぎを決めず死去したのでしょうか。
すでに家定という将軍世子がいました。名前を見れば歴然です。
No.6
- 回答日時:
潰れる寸前の会社の代表になるなんて、チョット普通の感覚の人だったらいやですよ。
彼は金持ちの息子で悠々自適ですから、好き勝手にゴルフとかして過ごしていたかったんです。しかし、周りに持ち上げられて、代表者に成らざるをえなかった。大政奉還を決めたのは彼ですからその部分は偉かった訳ですが、実際は 自分の配下にろくな人間が居らず行政としてやりたい事の少しも出来ない、革命勢力はイロイロ言うし、好きな様にやって下さいと投げ出したんです。少し前に安倍さんやらが、勝手にやってと辞めたしまったのとよく似ています。
彼は、国や幕府の為に正義感を持ち出し、我を張るような人間じゃなかったんです。ですんで、武力衝突に関しては、将軍様を慕うというか、時代変遷が嫌な連中が沢山居て、刀を抜いて興奮しまくっているのを見て失望、何を言っても無駄だと思ったのでさっさと抜け出したんです。大方こんな物でしょう。
No.5
- 回答日時:
徳川慶喜は、他の回答にあるように「尊皇」ですね。
天皇がトップになった体制がいいと思っていた。戦いの中で、倒幕側(新政府側)は、「錦の御旗」を持ち出してきました。
もし戦いを続ければ、徳川慶喜は逆臣になってしまいます。
質問者さんのいわれるように、本気で戦えば幕府は勝てたと思いますけど、それは徳川慶喜には、精神的に無理だったと思います。
そして、その戦いで勝てたとしても、続く戦いでは、勝利できなくて、日本の内戦が続き、そして疲弊したところで欧米の植民地になってしまっていたかもしれませんね。
中国のように、日本がいくつもに分割されて、植民地になり、日清・日露も大東亜戦争も無かったかも?そして、日本だけでなく、アジアとアフリカ諸国は植民地から解放されず、そのまま現在に至ったかも?
No.4
- 回答日時:
なぜかといわれたら、やっぱり「お坊ちゃんだった」からとなるのでしょうね。
部下を殺しても自分が権力の座に居座りたいっていうほどの根性はなかったのだと思います。質問者さんも今の豊かな暮らしを守るなら他人を殺しても構わないとまでは思わないでしょ?>本気で戦いを、望んでいたら当然勝てるはずでした。敗因はなんだったのか、勝っていれば日本はどうなっていたと思ういますか
鳥羽伏見の戦い程度は勝てたかもしれません。でも、戦術的勝利を得ることはできても、江戸幕府崩壊の流れそのものを止めることはできなかったでしょう。
当時はもう江戸幕府という政治システムは金属疲労を起こしていてどうしようもなかったのです。時代に合う政治、経済、軍事システムを作らなければならなかったのですが、江戸幕府というシステムではもう時代に対応できなくなっていたのです。
例えば、武士というのは名目上軍人という立場です。江戸には百万騎と号する旗本という将軍直轄の兵士が「いたはず」です。だけど、二百年の太平の世で旗本の誰もが「自分はいざとなったら身を張って戦う」ってことを忘れてしまっていたのですね。んで幕府も軍制改革を行うのですが、結局、幕府軍で使える部隊ってのは農民や町人を徴募した部隊だったのです。彼らを重用すれば幕府制度の根幹である身分制度崩壊に繋がる。彼らを軽んじれば幕府軍は弱くなる。そういうジレンマにいたのです。
歴史っていうのはそういうものなんです。いくらルイ16世が巧みに立ち回ったとしても、革命を起こさないで今でもフランス王国のままでいられたかというとそれは無理でしょう。同じように、江戸幕府がいくら巧みに立ち回っていたとしても、いつかは終わりがきたのです。
もしかしたら、頭のよかった慶喜はその先々まで見えていて「いくら俺が頑張ったところで、徳川体制はいずれもう持たねえよ」と思ったのかもしれないですね。ゆえに、権力の座に執着はしなかったのでしょう。
お坊ちゃんてそういうものだと思います。第一次安倍政権のときも、麻生さんも、福田さんも、鳩ポッポさんのときも、もっといえば細川さんも、みんな割と突然「やーめた。首相を、辞任しまーす」とあっさり辞めました。だけど、いち市民活動家から首相の座に登りつめた菅さんは徹底的に首相の座にしがみついたじゃないですか。一度は「辞任する」といって不信任案を潰して、「辞めるとはいったけど、いつ辞めるかとはいってない」ってね。
No.2
- 回答日時:
慶喜の心情は、記録が無いので判らないですが取り合えずの回答です。
これから新たに本人の日記なり、側近の記録なりが新しく発見されれば、新事実と言う事になるでしょうが、現状ではまだ耳にしません。
ですのでこれは飽くまで想像ですが、慶喜の本心は測りかねますが、行動の一つ一つを見ると一貫性を書いているようには思います。
只の「坊ちゃん」だったのではないでしょうか?(身も蓋も無いw)
本当は深謀遠慮の果ての決断かもしれませんが。
しかし本気で戦っても戦略(運用)その他全てがお粗末過ぎたので、結局、負けは確定です。
12代は家慶です。
後継は決めるも何も、家定一人しかいませんでしたから。
No.1
- 回答日時:
慶喜は中々の切れ者ですがいかんせん側近連中がショボイ
慶喜は側近を信頼はしていたけれど側近自体しょぼいからどうにもならなかった 笑
勝っても大政奉還してたでしょう
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