映画のエンドロール観る派?観ない派?

1598年から1605年くらいの家康と秀頼・淀の方との関係はどうだったんですか?
秀吉の死後も、そして関が原の合戦後も、立場上は依然として家康は豊臣の家臣だったわけですが、お互いの関係はどうだったのでしょうか?どんな空気間で過ごしていたのでしょう?
どう思っていたのでしょう?
好きとか嫌いとか、この時はどう思っていたとか、あるいは意外と仲が良かったとか、
人間臭い話を聞いてみたいです。

A 回答 (3件)

『看羊録』や『多聞院日記』あるいは毛利輝元の書状など、複数の一級史料に豊臣秀吉の遺言が残ってますが、そこでは、「自分の死後は、東を家康に、西を輝元にに任せる」と言った事が明記されてます。



彼らが、それぞれ東西の将軍となり、その上に関白という地位の秀頼が君臨するというのが秀吉の構想だったので、関ヶ原の直後は、家康はあくまで豊臣の家臣の一人で(関ヶ原から12日後の9月27日には大坂城に入って、本丸にて秀頼と謁見し、戦勝報告するとともに、今後の忠誠を誓っています)、そのポーズのままで征夷大将軍に任命されますが、その後、輝元の将軍就任や秀頼の関白就任の前に家康が事を起こす(大坂の陣)ので、結局、実現されませんでした。

また、上記のような複数の史料には、同じく秀吉の遺言として「秀吉亡き後は、淀殿と家康が結婚してともに秀頼を盛りたてるように」という項目もあり、慶長四年(1599年)9月10日に祝言を挙げる予定だったのが、淀殿が拒否し、大野治長が淀殿を連れて高野山に逃げたので、その話が無くなったとあります。

質問者さまのお望みの人間臭いエピソードではないか?と思って回答させていただきました。

現在、多くの史料が徳川幕府によって末梢されてしまっているので、あたかも、関ヶ原後に家康が将軍就任した時点で江戸幕府が成立したような印象になってますが、実は、大坂の陣の直前までグレーゾーンだったようです。
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この回答へのお礼

面白い話でした。淀殿と家康が結婚してともに秀頼を盛りたてるように、とはすごい遺言ですね。
これは当時は普通なんですか?それとも秀吉なりの苦肉の策なんでしょうか?
家康は淀殿に相当嫌われてますね。家康が秀吉の定めたルールを守らなかったからでしょうか。
それとも、自分より下の家臣に過ぎない家康とくっつくのはプライドが許さなかったのかもしれません。
大坂の陣の直前までグレーゾーンとは、すごく納得できる話です。
立場上は豊臣の天下で、実質は徳川で、秀頼が生存する中でどう切り替わって行ったのかに興味がありました。
淀殿の性格に関しても、徳川幕府によってゆがめられている部分があるかもしれません。

お礼日時:2014/02/19 14:52

そこそこ尊重はしているんじゃないかな? 邪魔ならば関ヶ原の後に処刑してますよ。


まあ、殺すメリットがあまり無かったぐらい。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2014/02/17 22:03

少なくとも秀頼と家康が会見するまで両者は会ったことが無いのですから


関係も何も無いと思います この時期なら淀と家康の関係が主だと思いますよ

ただ家康は秀頼に対してはそれなりに尊敬の念があったようです
まぁ千姫の旦那だし
実際大阪夏の陣では最後まで秀頼を助けようとしましたから
あの淀婆が居なければ すべてうまく行ったのです
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
そうですね。そういえば秀頼とは会ってないですね。
淀の方との関係の話でも良いです。
立場上は豊臣の家臣、実質は徳川の天下という状況で、まだまだ豊臣の権威があったのではないかと思います。微妙な関係がありそうで興味を持ちました。

お礼日時:2014/02/17 21:58

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