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西南戦争の原因の一つに、江華島事件とそれに続く日鮮修好条規締結は入らないのでしょうか?
西南戦争の大きな原因の一つに、西郷隆盛らの遣韓論が大久保利通らの謀略によって否決され西郷らが下野したことが挙げられますよね。
明治8年、大久保らによって行われた江華島事件とそれに続く日鮮修好条規締結は、日本国内の問題としても、欧米列強や中国の動向としても、まさに西郷らの遣韓論が正しかった、もしくは間違いではなかったことを証明してみせ、西郷派の士族たちを憤慨させました。

ところで、ある人気小説家が書いた西郷と大久保を中心にした長編の歴史小説は、明治4年頃から西南戦争終結時までを書いているのですが、江華島事件とそれに続く日鮮修好条規締結のことが一言も書かれていませんでした。
もちろん、それは小説であって歴史書ではなく、さらにその作家は歴史学者ではないので、歴史を何もかも知っている必要はなく、さらに何もかも歴史に沿って史実を書く必要はないことは分かっています。

A 回答 (2件)

口実にはなっても、原因にはならないんじゃないかなと思いますね。

というか、あくまで個人的見解ですが征韓論云々も単なる口実に過ぎないと思います。

明治維新が革命であったかどうかは議論の余地が大いにありですが、その内容が革命的であったことは間違いはないです。そのひとつが「武士階級の廃止」でした。
武士が特権階級だったかどうかその実態は別にして、ある種の既得権益階級ではありました。多分に精神的なところが大きかったですけどね。明治政府は「もうそういう武士なんていうのは辞めますよ」と言い出したのです。
これは、西洋的な価値観の影響と近代国家建設のためというのも大きかったでしょうが、理由の半分くらいは「近代軍隊創設のため」だったと思います。明治政府としては、ゆくゆくは徴兵制による国民皆兵にしたかったのです。理由は、そっちのほうが安上がりだからです。数年で兵役を終えれば現役兵はいつでもフレッシュな若者ですし、兵役を終えた人たちを予備役兵にすればいざ戦争になったときに大量動員が可能です。つまり普段は兵員を抑えて軍事費も少なくし、いざ戦争のときに兵員を動員するのです。
実際に明治政府はそうしようとしたのですが、これがもう大反発を招いたのです。町民・農民階級からは当然「面倒くせえ」といわれます。一方、武士階級からも軍人になれば一生給料が貰えるのに徴兵制度になると一生お給料が貰えないわけです。
「だったら将校になればいいじゃない?」と思うかもしれませんが、近代軍隊の将校は高等教育を受けた者の一代限りで、「世襲」はできませんよね。「師団長の息子だから師団長になる」わけではありません。だけど、江戸時代の武士階級の常識からすると世襲が当たり前だし、町人農民の子が一軍の長になるなんてありえないわけです。
現代のサラリーマンに例えると、「正社員をやめて全部アルバイトにします。指揮官だけは契約社員ね」みたいなもんだったんですよ。

だから、各地で不平士族の反乱が起きます。反乱は不平士族だけじゃなくて、実は農民も「徴兵反対」で強訴つまり暴動騒ぎを各地で起こしたんですね。そういう「明治維新で不平・不満を持つ人の大物リーダー」としてお御輿に担がれたのが西郷隆盛だったんです。
西郷派の士族からすれば、島津の殿様や薩摩のために戦ったという人も大勢いたと思います。というか、薩摩の教育というのはそういうものでしたからね。ところが大久保利通らは「薩摩より天下国家だ」と言い始めたわけで、そりゃ失礼ながら田舎侍からすれば「裏切られた感」はハンパなかったと思います。そして情の人西郷隆盛はそういう人たちの悔しさを無視することはできなかったんですよ。
だから今でも鹿児島では西郷隆盛は英雄で、大久保利通は裏切者なのだと思います。

征韓論がどうであったとしても、西南戦争のような不平士族の大規模反乱は避けられなかったと思います。だいたい、西郷どんがいう「俺が朝鮮に乗りこんで殺されれば開戦の口実が立つ」ってちょっと情すぎますよね。「殺されなかったらどうする」という問題もありますが、「戦費はどうやって調達するのか」「勝つことはできるかもしれないけど、国内もまとまらない状態で外国を占領したら維持兵力はどこから調達するのか」っていうことを全無視なんですよ、征韓論って。乱暴にいやあ「占領すりゃあなんとかなるだろう」なんです。それにネット右翼がよくいいますけど、当時の朝鮮はすごく貧しかったので、占領したところでうまみなんかなかったんです。金山とかがあるわけじゃないですからね。破たん寸前の赤字会社と合併しても意味ないでしょ?後に日本が朝鮮に進出したのは、南下するロシアに対するけん制です。

ちなみに、江戸幕府も豊臣家を滅亡させて実質的な天下統一を果たした後に島原の乱という大規模な反乱に苦しめられました。島原の乱は名目としては天草四郎を首領とするキリシタンの反乱ということになっていますが、実際に中心になって戦ったのは天下統一により失業したフリーター武士だったんです。当時は合戦になるときだけ雇われていたフリーター武士ってのが結構いたんです。平和になると彼らは失業しまして、そんな彼らは島原に集まったんですね。んで、幕府側もこの際一網打尽にやっちまおうと考えたようで、あえてそういう浪人が島原に集まるのを止めようとしなかったのです。
それで戦いが始まると、もう幕府側はほとんど合戦を知らない官僚型武士ばかりで、一方反乱軍は実戦経験豊富な浪人が多かったので大苦戦することになったのです。

西南戦争も、戊辰戦争で実戦経験豊富な西郷軍に政府軍は大苦戦し、警察官という名目で雇った元武士も投入したのですね。かつての敵であった元新撰組の斉藤一も政府軍として参戦してるのはご存じだと思います。もう、なりふり構ってないですよね・笑。
結局勝敗を分けたのは、政府軍側が近代装備特に砲兵を持っていたことと、薩摩の兵器工場が海軍による攻撃で破壊され特に大量の弾薬を失ったことでした。谷干城の奮戦は白眉だけど、弾薬がなければどのみち戦争は継続できませんからね。
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西郷さんの「俺が殺されれば…」は無血開城を成し遂げ、相手の説得に自信のあった西郷さんが自分が交渉役に選ばれたいがための「誘い」だというのが定説だったはず。


朝鮮半島がしっかり独立国として強くなってくれないと日本はロシアの餌食だったから西郷さんも必死だったんでしょうね。

失礼しました。
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