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気高く生きて行くためには個性的である必要があるが、画一的であることが重要視される世の中で、如何に個性的であることを護って行けば良いだろうか。
唯一無二であるために、時に取るべき超現実的な態度とはどのようであるだろう。

A 回答 (23件中1~10件)

こんにちは。



気高く生きて行くために個性を尊重するうえでは、自分のみならず他者に対しても尊重し容認することが肝要と存じます。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。どうしても自分本位になりがちですし、それしかできないような気さえしますが、相手についても同等に尊重するのは、条件としてある気がします。

お礼日時:2014/03/09 18:35

お礼、ありがとうございました。



>理性的であるが、それだけで終わらない、なにか人間的飛躍のある態度が存在するのではないかと常々思っていました。

具体的な態度でしょうか?
当たり前のことを、当たり前にやっていくことだと思います。
自分の問題を自分で片付けていくことや、人の問題はその人に任せたりですね。

大切なのは、自分と向き合って自分のことを理解し、その思いをひとつずつ叶えていくことでしょうか。
そこに個性は自ずと出てきますからね。


>私は、個性というものが、自分の真っ直ぐな思いや気持ちに宿っているのではないかと推測しています。

私も、そのように思います。
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この回答へのお礼

それはそうかもしれません。当たり前の事を当たり前にすることが難しいことですが、揺らぎの中では静止がユニークであるように、世間の中では、当たり前ということが、個性なのかもしれません。無論、個性的であることが目的ではないのですが、ひとつの目標にはなりえるかと思いました。

お礼日時:2014/03/09 18:38

難しい問題ですよね。


超現実的な態度ですよね。

これには唯一無二についての、明確な理解こそが大事なんだろうと観ています。お尋ねしたいのですが、a_honaさんは、唯一無二はどの様に理解されてらっしゃるんですか?
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この回答へのお礼

逆に言えば、なにか代え難い問題を解決するために、超現実的な態度を取ることによって、結果的に唯一無二になってしまう、このような経緯が考えられると思います。その時の唯一無二とは、現実的なありとあらゆる手段には属さない、平面的な平等を超えた、しかしもちろん空想ではない、何か、というものです。
拙い表現となりましたが、。

お礼日時:2014/03/09 15:01

>唯一無二であるために、時に取るべき超現実的な態度とはどのようであるだろう。



理論を踏まえて、自分の思いや気持ちに真っ直ぐに従うこと。
個によって選択肢も違えば選択基準も違うので、それを個性と言えるのではないかと思う次第です。
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この回答へのお礼

簡潔なお答えをありがとうございます。最も自分の抱く理想に近いご回答かなと思いました。理性的であるが、それだけで終わらない、なにか人間的飛躍のある態度が存在するのではないかと常々思っていました。
私は、個性というものが、自分の真っ直ぐな思いや気持ちに宿っているのではないかと推測しています。

お礼日時:2014/03/08 22:55

 ★ (No.19お礼欄) 川が海へと流れる如く、自然本性の為す志向に従うことが、個性ある生き方、即ちユニークなのではないかと思い至りました。


 ☆ たぶん・おそらくその個性ある生き方は 考えてみれば 誰もに当てはまるとまで言える普遍性を持つと思われます。

 いま現在では あまり見当たらないので《ユニーク》であると見えます。ところが その内容としては 普遍性があると考えられます。


 言ってみれば 《普遍的な個性(?!?!)》としての生き方ではないかと思われます。



 たいていの人も 《画一的》であってよいとは 思っていないのでしょうよ。
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この回答へのお礼

普遍的な個性、矛盾しているようですが、言い得ていると思います。
大抵のひとも、内心ではそれを目指しているのかもしれません。

お礼日時:2014/03/08 13:27

 No.17を 二点 おぎないます。




 ★ しがらみは、何の役に立つのか不明ですが、恐らくは統率を執るのに役に立つと思われます。ユニフォームのようなものでしょうか。
 ☆ クリスマスツリーとしての人間存在の全体を受け容れると言ったのは あくまでも《一たん》としてです。
 
 カザリ≒シガラミをも受け容れるというのは 《一たんとして》のみです。

 要らないシガラミは 打ち捨てて欲しいとは思っているわけです。




 ★ 人間にとっては、飾りの解釈はさほど難しくはなく、モミの木本体、自然本性の解釈の方が、難しいものかとも思われます。
 ☆ 《自然本性》は その要素ないしハタラキの要因としては ヒトにみな共通です。個性は たとえば《意志》のハタラキを その人それぞれに用いる・その用い方にあるかと思われます。

 【Q:感性は 理性よりもえらい。】 
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7437802.html

 ○ (趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~
  自然本性を 次のように捉えていますので 参考にどうぞ。

  1. ひとの存在: 身と心 / 身体と精神 / 感性と理性

 2. 自然本性: 身と心それぞれの性質と能力を言う。

 3. 感性: 身の五感が知覚すること。

 4. 悟性: 知覚を認識する。知覚は 世界事実に接して起こるゆえ 悟性は 世界の事実認識である。

 5. 理性: 悟性の成した事実認識ないしその情報を整理しつつ――その一つひとつの意味内容を整理しつつ―― そこからさらにあらたな(或る意味で将来へ向けての)意味を捉えようとする。この場合 しばしば意味の連絡は 感性を括弧に入れておいての論理的なつながりに収斂していく。

 6. 判断: 理性のおこなった推論とその結果について 或る基準によって取捨選択する。その判断基準は 一般に主観的な《よいかわるいか》である。おおむね善悪である。

 7. 知解: 感性の得た感覚を認識して知識ないし情報として捉えたあと理性がこれを意味づけさらにあらたな意味連関をみちびきだす。
 あるいはさらに理性は 事実認識としての情報を概念として整理し この概念をすでに――感性から一たん離したかたちの――観念としこの観念を 想像力にまかせてあやつりつつ 或る種の推論をみちびく場合もある。こうして 選択肢をととのえ 判断過程へと送る。
 ここまでが 知解という作業である。

 8. 意志: 判断能力とその行為を言う。選択肢の中から 一般によいものをえらぶのであるが 良し悪しの評価と判断は やはり主観的なものである。(学習過程を経つつ くせ・ならわしとして培うようになる)。

 8-1. 自由意志は 周知のように 必ずしも善と思うものをえらぶとは限らない。おのれの心にさからって負の善(つまり悪)をえらぶことも 少なくない。

 9. 記憶: ただしこれら知解および意志に或る種の仕方で先行する自然本性の能力として 記憶がある。おぼえるというよりは 存在にかんするすべての(つまり本性としてすべての性質および能力の)あり方の秩序作用である。自己組織化のハタラキである。

 9-1. 記憶は 悟性が認識した知識としての情報を むろん整序してその倉庫におさめる。

 9-2. たぶん 狭義の理性による論理的な情報整理とは違った《身と心の全体にとっての》整序作用を持つというように思われる。

 9-3. 言いかえると 《わたし》が意識していないハタラキであり 直接に意図(意志)もしていないそれであろうと思われる。

 9-4. 記憶は 取捨選択した判断とその内容を実際に行為したという意志行為の実績を整序しつつ記憶し その記憶の中にとうとぶべき意味内容のたくわえを持つ。これは 知恵だと考えられる。

 10. 知性: これは 知解という行為能力を言う場合が一般である。ただし 知恵をもふくめて言うこともあるか。

 11. 境地: 《記憶・知解および意志》の三つの行為能力の全体を言う。つまり 自然本性の――特には 精神にかかわる――全体のことで 特定の《わたし》の実際の存在形式である。その状態である。知恵と知識とそして判断力あるいは度胸などを含めたかたちである。

     *

 さて 《感性は 理性よりえらい》について 次のように問います。


 12. 狭義には理性は 良し悪しにかかわる判断を含まないから そのような倫理としての意志行為とは別である。

 13. 広義には 意志やら知恵やらを含めた精神全般を指して言うのなら 理性は 善悪判断をおこなう倫理や道徳にかかわっている。

 14. ただし この善悪の判断というのは 自然本性のあり方としてそれぞれの《わたし》の意志にもとづく主観的なものだと考えられるゆえ その主観としてはむしろ基本的には身体の感性において 良し悪しが――ひそかに・言葉に先行するようなかたちで――告げられていると思われる。

 15. わが心にさからってウソをつくなら 顔をあからめることになる。さらにイツワリをはたらこうものなら 発言に際して言葉はしどろもどろになり 冷や汗が出る。

 16. たぶんこのように感性は 理性に先行してハタラキを成し 理性よりえらいと思われる。

 17. なぜなら ウソをつくにもイツワリをしでかそうとするにも ポーカーフェイスをよそおうのは バレるのを避けるという推論の結果であって そのように――むろん意志による判断とともにであるが――理性がチョンボをおこなっているのだと見られる。

 18. ひとは 感情に流されるのではなく・ほんとうにはそうではなく そのような様相を呈しながら むしろ理性が意志を巻き込んでそれを欲し横暴をきわめるのだと考えられる。すべて理性のしわざだと見られる。意志をしのいでしまうようである。

 19. この生身の存在にかんするかぎり社会力学上で 何が何でも 有力になるということ そうなれば勝ちなのだという理性のくだした安易な推論を 意志もつい負けて飲んでしまうようである。感性は そのウソに気づいているのではないか。
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この回答へのお礼

サンプルのご提示ありがとうございます。一言で行ってしまえば、感性の方が理性よりも、自然本性に近い、ということでしょうか。冷や汗などの例示はわかりやすかったです。私も、機能としては、理性が補うのは精々一割であり、その他の機能が残りである気がします。イメージングや、おっしゃるところの感性などが、生きることの実際においては占めているのではないかと。
自然本性を機能として分析されているのは興味深かったです。
私にとっては、固有の色を帯びたモナドといったイメージだったからです。たしかにそのアプローチだと、具体的で意義深いと思います。
ブラジェロンヌさんほど細かに定義はできないですが、川が海へと流れる如く、自然本性の為す志向に従うことが、個性ある生き方、即ちユニークなのではないかと思い至りました。
ありがとうございます。
また何かあればご回答お待ちしています。、

お礼日時:2014/03/08 00:15

空気を読まないこと。


そして、「空気が読めないやつ」という批判にさらされる覚悟を持つこと。
ではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ユニークであるとは、孤高とは少し違う気がします。周りに迎合するのではなく、しかも孤立しない、そんな存在かと思いました。

お礼日時:2014/03/07 20:07

 No.8の序論を承けて かんたんな本論です。



 1.
 人生は マラソンのように折り返して生きるという側面があります。

 げんみつにはマチガイでしょうが これを往相・還相の理論に当てはめてみています。

 行き帰りの帰りとしての還相の過程では ひとは《個性はない》という見方をしています。人間・無個性説です。


 もっとも マラソンでも行きっ放しの道程もあれば 折り返し地点は無くぐるっと回って来て出発点にもどる場合もあるようですから 《還相》のあり方も 人それぞれなのですが。


 2.
 かんたんに言って 往復の往路では ひとはクリスマスツリーのごとく樅ノ木本体としての自然本性にいろんな飾り≒柵(しがらみ)をつけるようです。

 むろん このプラス α には 自然本性としては記憶力を増し 知解力を磨き 意志を自由度を増した状態の中でおのれの考えにもとづき安定して発揮できるチカラを得るという・人生に欠かすべからざるわざも入っています。入っていますが 考えてみれば これは 生まれつきそなわった自然本性の能力を そのまま自由にしかもまともに伸ばすという事態であるかも分かりません。

 プラスなのでしょうが 必ずしもカザリ≒シガラミではないかも知れません。つまりは 樅の木そのものが すくすくと育ったその姿なのだという見方も成り立つかに思われます。

 つまりは ほとんど《要らない》と見られるカザリ≒シガラミをどうするか? これが問題になるのではないか?

 3.
 すなわち 往復の復路では カザリ≒シガラミの処理が わが実存にとっての課題となります。

 細かい議論を端折って先へすすみますが 復路の主題は 往相・還相の理論も説くごとく 往路で培った自然本性の磨きとして成ったわれを おのれにも他人(ひと)にも つまり社会に 還元することである。

 4. 
 還相のわざを それでは どのようにおこなうか?

 それこそそれぞれ《個性》を発揮して 人の数だけその方法があるかも分かりません。

 けれどもおそらく――《無個性論》の見方としては―― それは類型としてひとつであると考えます。

 すなわち 《樅ノ木(自然本性) + 人生のカザリ≒シガラミ》から成るクリスマスツリーとしてのような《人間》を そのまま・その姿のまま人格の全部を 受け容れること。この姿勢としての類型においては ひとつである。誰もにあてはまる。


 ですから もし個性があるとすれば 互いに人格の全体を受け容れあうというひとつの類型の中で いろんな工夫がひとそれぞれによって成される。そのあり方が 個性であるかと思われます。

 
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この回答へのお礼

再度ご回答ありがとうございます。
そうですね、私の見方としましては、同じモミの木はない、つまり同じ人間はいない、という点に注目したいと思いました。たしかに種族としては同じ人類なのですが、個体としては違います。無個性論では平等と言った事柄にメリットはありますが、そういった平面的とも言えるメリットを一度放棄しまして、人類という皮を一枚めくった状態を見てみたいと思います。そこには、個性と呼びうる様々な構成物、その人の遺伝的オリジナリティやら経験的オリジナリティがあり、それらをまた類型に分類することができます。しかしそれらの構成物のバランスは固有の様相を呈すると考えられ、人生を構成するものを類型として共有しつつも、同じ人生ではない、といったことになると思います。
しがらみは、何の役に立つのか不明ですが、恐らくは統率を執るのに役に立つと思われます。ユニフォームのようなものでしょうか。しかし同じユニフォームを着ていても、個性はかきけせないはずでして、過度に統率を強要すれば、飾り付けられ過ぎたモミの木のように歪になると思います。
おっしゃるように、飾りも含めた全人格的な許容が、個性を生み出す基であるような気がします。余計な摩擦を生じないためにも、そのような視点は必要でしょう。
人間にとっては、飾りの解釈はさほど難しくはなく、モミの木本体、自然本性の解釈の方が、難しいものかとも思われます。

お礼日時:2014/03/07 20:28

>「人を大切にするという意味でも、人生をかけがえのないものにするという意味でも、唯一無二性は必要な性質ではないかと。


無論、なにも目立てばいいと言っているのではないです。」

そう、来られると、どうでしょうか。
むしろ「目立って、なんぼ」というふうに、見受けられます。
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この回答へのお礼

それは誤解してらっしゃる。個性とはユニークのことと思っていただけると。

お礼日時:2014/03/07 01:02

a_hona様、こんばんは。




別に、個性とは、「唯一無二」でまである必要は無い、と思います。


>「気高く生きていくためには個性的である必要がある」

「あるがまま」で、何故、ダメなのか。
・・・むしろ、「画一的」を求めるほど、
「あるがまま」は否定されるのではないだろうか


>「唯一無二であるために、時に取るべき超現実的な態度とはどのようであるだろう。」

「無理」なんじゃない
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この回答へのお礼

そうですね、なんと言いますか、もともと唯一無二であるのが、色々の生活によって隠されているのではないか、という疑問があります。おっしゃるところも分かってはいるつもりですが、人を大切にするという意味でも、人生をかけがえのないものにするという意味でも、唯一無二性は必要な性質ではないかと。
無論、なにも目立てばいいと言っているのではないです。

お礼日時:2014/03/07 00:17

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