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気高く生きて行くためには個性的である必要があるが、画一的であることが重要視される世の中で、如何に個性的であることを護って行けば良いだろうか。
唯一無二であるために、時に取るべき超現実的な態度とはどのようであるだろう。

A 回答 (23件中11~20件)

>一人の人間としての尊厳が、揺らがざる一個人間としての個性に立脚している



つまり質問者さんにとっての非個性的とは社会の抑圧などで自分本来の個性を押し殺されて画一化した状態へ追い込まれていることであり、個性的とは自分本来の性質を抑圧されることなくはっきりと表現できる状態、ということでしょうか。
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この回答へのお礼

そうです。だいたい合っています。念のため申しておきますが、社会を逸脱することが個性的というのではないということです。

お礼日時:2014/03/06 13:51

個性はそのまますこし人とは差異のある傾向なのかなという感じだと思います。



心理学では個性化という言葉があり、人生前半が外から吸収したりするとすれば(ここは不確かですが)、人生後半に自分の内面を見て個性化していきます。

自分の持っている個性、差異が静的に自然に存在するんだと受け止めてはいかがでしょうか。

動的にすれば個性化で、強迫概念や囚われになっていくと思います。
結局、個性化って今までの自分の生きてきた伝統みたいなものを部分的に変化させるものなのかなと思います。

なんとなく、全体が個性的だとそれも変だったり、おかしな気がします。
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この回答へのお礼

ちょうど今、私もユングを読んでいます。個性化とはユングの提唱したことですが、例えば同じ人間でも、顔立ちは皆違います。同じ目鼻口がついていても、皆微妙に違っており、それぞれはユニークな顔立ちです。
人の心も同様に、皆、種々の原型群などを有してはいるが、それぞれのバランスが少しづつ異なり、それが個性を生み出しているというものです。おっしゃるように、静的に個性を持っていることを意識していることは、心の安定に繋がるとおもいます。それがおりに触れ発露する時、人はユニークな存在として知られるようになるのではないでしょうか。
時に社会におけるペルソナなどに抑圧され、自分自身を生きられないということもあると思います。そんな中でより良く生きるとはどう言ったことだろうか、という問いが生まれ、個性ある生き方や、(目だつのではなく)気高さのようなものにまで考察が及んだ次第です。
ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/03/06 02:28

こんにちは。


 私は次のように考えます。 
 人間として誇りをもって生きる。人間らしく生きる。素直に人間の個性を活かして生きる。そこに仮面の必要性を直視する必要が生じる。社交の範囲が広いほど人間存在に必要な仮面を維持するための虚飾が多かれ少なかれ避けて通れない。孤独を選択できれば。そのためには最低限の生活費が必要。つまりフェアに価値を為して対価をもらう。価値を為すためには大体において協調体制をとる必要がある。そのために近似の画一化の要素が強い中に身を置くのは避けて通れない。その先にしか個性を自由に発揮するための孤独を選択できる権利はあり得ない。その個性にも多様でいい範囲内でという制約はつく。同種の中に個体差という個性があるのは環境変動のふるいをクリアするために進化の過程で獲得してきた多様性による。
 そして、避けて通ることができない‘価値を為している段階での個性‘のキープには多かれ少なかれ制約がかかるのはやむを得ないことだと思います。その折り合いをつけながらの歩みが‘最終的に発揮できる個性‘の質を深めていくのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

筋のとおった、ある程度の納得のいく回答でした。ありがとうございます。
微調整のいる作業によって、完全とはいかないが、個性の温存は程度問題で解決できると。考えさせられます。

お礼日時:2014/03/06 00:13

 個性的がよくわかりません。

才能があること?自分勝手なこと?はみ出すこと?

 才能はおそらく評価として現れる。自分勝手は、無差別殺人などでも表現できます。そうするとここでいう個性とは画一の中で、はみ出すことをどう護るかですね。

 「出る杭は打たれる」

 やはり打たれ強いということでしょうか。私は打たれ弱いので、画一的側でもありますが、打たれ強い人は、打たれ弱い人を情けないといいます。打たれ弱い人は打たれ強い人はうっとうしい。結局打たれ弱い人がどうすれば打たれ強くなるかが一番重要だと思いますが、そのやり方を誰も教えてくれないんですね。(質問のくり返しになってしまいました。)
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この回答へのお礼

いえ、わかりやすい回答をありがとうございます。出る杭といえば少し否定的な見方になりますが、意味を持ってその集団のレベルを引き上げるような個性もあるかと思いました。個性ある人を観察して勉強するしかないでしょうか。
打たれ弱い人が打たれ強くなるには、それこそ自分という個性を認めるところから始まるのではないかと思いました。他の誰でもない自分自身、、というものです。

お礼日時:2014/03/06 00:16

>気高く生きて行くためには個性的である必要があるが



どうしてそう断言できるのでしょうか?説明不足です。

自分の個性を守るのに世の中のことを考える必要はありません。それら二つはまったく無関係です。まさか、貴方の個性で世直しをと考えておられるのでしょうか。それなら守るというよりも(政治家として)戦わねばなりません。けだかくいきる政治家はこれまでは存在できませんでした。みな途中で失敗するかキリストの様に個性に殉じています。
>唯一無二であるために、時に取るべき超現実的な態度とはどのようであるだろう。

唯一無二を目指すなら貴方が生き方を含めじぶんで工夫するしかないでしょうね。ここでそれが言えればそれはもう唯一無二ではないということです。
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この回答へのお礼

世間に紛れている人が輝いていることはないでしょう。そういう意味で個性的と言っています。質問後半についてのご回答は、回答になっていません。

お礼日時:2014/03/05 21:59

重要なのは気高く生きることであって個性的かどうかはどうでもいいんじゃないでしょうか。


気高く生きた結果、たまたま無個性になってしまったとしても別に問題ない気がします。

そもそも「気高く生きる」にも「個性的」にも具体性が全然ありませんけど、どのように考えているのでしょうか。それを明らかにしなかったら言葉遊びにしかならないですよね。
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この回答へのお礼

重要なのは気高いということがなぜ大切かであるかということであり、一人の人間としての尊厳が、揺らがざる一個人間としての個性に立脚しているのではないかという推察に基づいて問題提起されていることを、抽象概念をつかった言葉遊びに過ぎないものとするかどうかは対話の当事者によっている。気高いということは、例えば乏しき中からも分かち合えると言ったようなことであり、また、個性とは、ユングに言うようなユニークのことと私は理解しているが、これらについては他の意見もあるだろうから、あえて抽象概念のみの対話を、用いたいという所存です。

お礼日時:2014/03/05 20:45

 こんにちは。




 この問題は 意外と込み入っていると考えます。

 取り敢えず 《個性》とは何か? について考えるところを述べてみます。

 
 クリスマスツリー理論または樅ノ木理論と呼ぶものです。

 それ自体は かんたんです。

 樅の木が 〔特には 種が〕おのれの自然本性であり その育った姿がそのままその人の個性です。

 言いかえると その木にクリスマスツリーのように飾りをつけたものがおのおのの社会人としての姿になると考えます。
 社会人のすがたとしては カザリだけではなくゴミさえもがついて来ており おそらく勲章といった社会的なまさに飾りであっても 意外とそれは 広い意味でのシガラミである。(過去からのイキサツにかかわっているだけのカザリである部分も多いのではないか)。こうも考えます。



 自然科学における発見や発明といったかなりの程度に個人的な才能と努力によるものを別とすれば あとは いろんな意味での・つまり世の中は《必然の王国》であると見られるほどに過去からのつながりにおいてその評価がやむなくとしてでもくだされたという意味での勲章や飾りがあるわけです。

 つまり 単に過去からの必然的な継承としての人間関係とそこにおける努力の成果が 評価される。これは カザリではあるでしょうが かなり単なるシガラミであると見るしかない部分もある。こう考えます。



 かんたんな事例を一つ挙げます。
 なお抽象的にですが 信仰の偽造物である宗教のもとに いくつかの《献身的で崇高な内容を持つ社会貢献》が現われたわけです。その歴史的偉業でさえあると見なされるカザリは 単なるシガラミのもとに咲いた虚飾であるかも分からないわけです。マザーテレサは 帝国主義的なクリスチアニズムの歩いた道を あとでその単なる尻拭いをしただけだとも考えられます。
 これは 《偉業》をけなすためではなく そうではなくカザリが 過去からのシガラミの色濃く影響する情況のもとにあるのではないかという見方を問うためのものです。

 



 したがって ここで仮説的に《カザリ=シガラミ》説を提出してみます。


 ひとは 社会人として 《樅ノ木本体》にカザリ=シガラミ(つまり 《プラス α 》)をつけてそれぞれのクリスマスツリーのような姿を採〔らざるを得ないかたちで採〕って生きていますが そこで何がその人の固有の《人となり》であるかは もはや分からなくなっているのではないか。

 少なくとも
 ★ 個性的 / 画一的 / 超現実的な態度 
 ☆ を区別して捉える必要性またはその区別ができたとしてその重要性は どこまであるか? とも考えます。



 おそらくこの問いにこたえ得る理論なら それは しかるべきすぐれた《個性》理論になるのではないか? と思うところです。(もったいぶった・思わせぶりな投稿ですが まづは このような序論になるのではないでしょうか?)

 【Q:ひとの個性とは 何でしょう。】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4120187.html
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この回答へのお礼

いわゆる社会におけるペルソナと自分自身を区別することは容易です。しかし、自然本性を善なるものとみてそれを発揮することは難しい。
私は、テレサ自身はとても素朴な人間であったのではないかと推察します。ですから、彼女が宗教者であったかどうかはこの際どうでも良く、暴論ですが何をしたのかというところに、超個性的な人生の体現者であったと見ることができないだろうかと。
ブラジェロンヌさんとは、自然本性をキーワードに、論を勧められたらと思っています。

お礼日時:2014/03/05 15:46

フーコーの「言葉と物」によれば、18世紀の啓蒙以前は「類似」が、つまり自分と他人の同一性が重んじられ、啓蒙以後は「差異」が、つまり他人と違う個性が重んじられるようになりました。


だから、人間が他人と違う個性がある、という考えが人々にもたれるようになったのは、たかだかここ300年のことにすぎません。
19世紀の資本主義の登場とともに商品は他の商品との「差異」を競うものになり、その「差異」によって生み出されたものが人間の個性です。
いいかえると人間が個性的であることを求めて個性的になったのではなく、商品の消費のために人間の個性が必要になったのです。
個人というのは消費社会の単なる記号にすぎません。
自分と他人との間に本来的に個性の違いがあるのではなく、資本主義が個性を必要としたから、その結果個人が生まれたので、啓蒙以後の社会が「差異」によって成り立っているからです。
たとえば、車がありますが、私たちは車を買っているのではなく、ステータスを買っているのです。
車と車の「差異」、軽自動車と高級車の違いはステータスという社会的「記号」を表わしています。
人間と人間の「差異」がその所有する商品の「差異」によって表わされているのです。
私たちの欲望は自分の生命を維持するモノから、「差異」を欲望するものになっており、他人に「誇示」するものになっています。
なぜ、みんながベンツやBMWなどの高級車を持とうとするのか、自分と他人の「差異」を誇示するためです。
女性がファッションに熱中するのも、単に寒さ暑さを防ぐというよりも、ブランド品を所有することで、自分が他人とは違うのだということを、個性を持った人間だということを、他人に誇示するためです。
いいかえると現代の社会では私たちは物を消費しているのではなく、「差異」を消費しているのです。
他人との違い、個性を示すために商品の「差異」が求められています。
だけど、個性は、たとえば人間が無人島にただ一人で住まなければならなくなったら意味がないように、他人がいて初めて個性であり、他人との「差異」があって初めて個性ですから、それから切り離されたら空虚なものです。
つまり、実体が何もない。
中身は空っぽ。
個性というのは関係概念で、実体概念ではないから、関係から切り離されたら、中身は何もない。
私たちはユニクロなどで最新流行のファッションを求め、それを身にまとうことで、周囲の人間に記号を発信しています。
しかし、誰もがユニクロのファッションを身にまとうようになると「差異」がなくなり、自分の個性もなくなるような嫌な感じに襲われます。
街中を歩いていて、みんな同じユニクロの洋服を着ていると、いやな感じになります。
ブランド品も同じで、みんなが同じブランド品を持つようになると、「差異」がなくなるので、もっと違うブランド品を求めるようになります。
こうして資本主義社会は人々の欲望をあおり、次々と「差異」を求めて商品を買う羽目に陥り、家の部屋の中はブランド品であふれるようになります。
ぜんぜん使いもしない商品の山ができます。
個性というものの実体がなく、空虚だから、それを埋め合わせしようと次々に商品を買って「差異」を、個性を誇示しようとするから無間地獄に陥ります。
私はこの無間地獄を抜け出すためには、個性などと言うものは放棄するしかないと思います。
なぜ、他人の違わなければならないのか、なぜ個性が必要なのか、なぜ他人との「差異」を求めるのか。
18世紀以降のすう勢だから避けられないということもあり、資本主義がそれを必要としているということもありますが、もし個性的であろうとしたならば、資本主義の「ワナ」にはまり、無間地獄から抜け出ることはできません。
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この回答へのお礼

もし、ステータスが個性の証明であるならば、ステータスをさほど持たない私には個性というものが乏しく、無間地獄にははまっていないということになります。しかし、海外へ出れば日本人ということで個性を付与されるでしょう。
しかし唯一無二の個性というものを考えた場合はどうでしょうか。
私が富豪であれ貧者であれ、それは変わらない気がします。日本人であれ外国人であれ変わらないと思うのです。そのような個性について考えた場合は、ウリガダイ様のお答えはどのようになるでしょうか。

お礼日時:2014/03/05 15:55

バカに必要なものは普通であること。


知者に必要なものは普通であること。
バカは普通であれ。間違っていても普通であれ。バカの責任。
しかたがないじゃないか。バカなのだから。
知者の普通はバカと似ている。
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この回答へのお礼

普通であることは意外に難しいことだが、賢愚の別を超えたところに個性というものがある気がします。
知者というのは至極真っ当な人であり、バカとは似ないと私は思うが、前言の意味ではドロップヨークさんの意見とは接点があるだろうか。

お礼日時:2014/03/05 16:06

個人の資質、社会状況の要請によって、個性的


であった方が良い場合(社会の生産性に寄与)も、
画一的であった方が良い場合もある。
そうした社会全体と自己の生との相関の中で、
自律的に生きるならば、個性的も画一的もどうでも
良い事だ。
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この回答へのお礼

注目すべき点は自律的であるか、しあわせであるかであり、個性的か画一的かは問うところではないということでしょうか。

お礼日時:2014/03/05 15:59

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