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古典の授業の目的は何ですか?

古典文学に触れる意味はなんとなく推測がつきますが、文法だの句法だの古語だの詰め込んで、古文を読めるように叩き込まれる意味が解りません。

しかも、中高6年じゃ大したこと習わないじゃないですか。
テストで聞かれる内容は、習った範囲で解けるような配慮されまくった注釈まみれの古文漢文の読解。

テストで聞かれるんで文法書片手に暗記などしますが、注釈まみれの古文が読める、というのは必要な技能なんですか?
何処で使うんですか?
全ての高校生に叩き込むほど重要なことですか?

A 回答 (11件中1~10件)

現代文・古文・漢文ともに、国語という教科は文学を教えるものではありません。

そもそも、文学などは教えられるものではなにのです。国語は、言葉を学ぶ教科です。

>何処で使うんですか?

では、数学も化学も物理も何処で使うんですか?

学んだことを使える者と使えない者がいるだけのことです。

貴方のご質問が伝わって来るのは、「私は古典が嫌い」だけです。早い話が、好みの問題でしかありません。
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 No.8です。

本音が聞けてうれしく思います。

「別に他にやりたいことはありますが、・・・」

 そう、自分の心の声に忠実に、自分のやりたいことに情熱を傾けるのが一番です。その過程で、必要になったことを学んでいけばよいのです。
 人の意見に耳を傾けることは必要ですが、他人の忠告が常にあなたにとって正解とは限りませんから。

 あなたの道を、信念と自信を持って進んで行ってください!
 
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 No.8です。

すみません、No.8の最後の方で「No.1やNo.2」と書いているのは、「No.1やNo.7」の間違いです。
 2か所あり、2か所とも訂正します。
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 No.1 & No.7 です。

何度もすみません。

 あなたの質問や「補足」をあらためて眺めてみると、どうやらあなたは

「テストでよい点を取ることが全ての目的で、授業はそのための手段である」

という風にお考えなのかな、と思いました。

 そして、「古典」に関しては、授業はテストでよい点を取るための手段になっていない、ということに不満と不安を抱いている。授業がこれでは、テストでどうやったらよい点が取れるのか、皆目見当がつかない、途方に暮れいている、ということでのご質問。
 違いますか?

 もしそうお考えなら、なんともつまらない学校生活ですね。ただひたすら良い点を取ることを目的に、ワクワクやドキドキや、ヤッタ~! といった喜びや充実感や達成感の全くない、禁欲的で、受け身で、滅私奉公の、灰色の毎日。ちっぽけで、つまらないのではありませんか?
 知らないことを知る喜び、問題解決の糸口やヒントの発見、未知のものにチャレンジするワクワクやドキドキ、そういったものはないでしょうか。
 授業で教わるのは、ホンのとっかかりと基本だけ。あとは、自分の力で未知の海に漕ぎ出すのですよ!

 私がNo.1やNo.2に書いたのは、そういった、もっと大局的・長期的な目的です。ちょっとかみ合わなかったかもしれませんね。
 でも、一度、No.1やNo.2に書いたような視点から眺め、考えてみてください。見える景色が全く変わると思いますよ。

この回答への補足

おっしゃる通り私は国語のテストが大嫌いです。
時間は足りないし答えははっきりしないし、結局実力がないので確実に点を取るにはテクニックで乗り切るしかなく、記述の答えを書きながら情けなくなります。

しかし、国語力がないせいでうまく伝わらないだけで、テストのために授業を受けるのだとは思っていません。
ただ、テストは授業のチェックなのだから、テスト問題は授業の目的を達成できているか問うものであるはずです。
授業の目的を達成した者に良い点が取れるようにテストはできている、はず。
テストのために授業があるわけでなくても、授業の内容を受けてテストが作られるのだから、内容はリンクしていて然るべきです。

英語の授業で先生は、「英語読めるようになれよ。」と言います。
テストで、「英語読めるようになったか?」と聞きます。
英語が読める人は良い点を取ります。

数学の授業で先生は、「微分できるようになれよ。」と言います。
テストで、「微分できるようになったか?」と聞きます。
微分ができる人は良い点を取ります。

古典の授業で先生は、「            。」何か言います。
テストで、「初見の古文を、注釈を活用しながら、文法的・内容的に理解できるようになったか?」と聞きます。
初見の古文を、注釈を活用しながら、文法的・内容的に理解できる人は良い点を取ります。

数学や英語の例に従えば、空欄には「初見の古文を、注釈を活用しながら、内容的・文法的に理解できるようになれよ。」という一文が来るはずです。
しかし、その能力は数学や英語と同列に扱われていながら、数学や英語の求めているものに比べればはるかに実用性が低く、さらにテストでは問われない「心を豊かにし教養を高める」ということの方掲げる目標として言葉が綺麗です。

それでもテストは「注釈はつけてやるから初見の古文を読解しろ。」と言い続けるので、受験生はそれに対応せねばならず、授業はそんな受験生に優しい内容です。
源氏物語は、古典の中の敬語の使い方を学ぶ教材であり、漢詩は、句法と修辞をマスターするための教材である。
テストはそう言っているような問題を出します。
平安貴族の恋模様も、孔子のありがたいお言葉も、全く理解も共感もできなくたって、「修辞と句法と文法と古語」テストで聞かれるのはそれだけです。
国語の先生は、そのテストを解くすべを授業します。

テストと授業の内容が一致するとして、テストの内容が重要ならば、私は何故そんなものが重要なのか解りません。
重要でないなら、なぜ重要でないものを習うのか、理解できません。

テストと授業の内容が何故だか一致しないとして、授業の内容が重要で、テストの内容が重要でないというなら、なぜ重要でもないことをテストするのか解りません。
重要な授業の内容の方をテストにすればいいのに、そうしないで文法事項を問う理由が解りません。
重要でもないテストに、授業が圧迫されているなんて、もっと理解に苦しみます。



学校生活は楽しいですよ。
言うだけ言いましたが、勉強する理由を考える時間より、勉強する時間の方が短いし、ものを考えている時間より、部室で遊んでいる時間の方がずっと長いので・・。
中学生の頃はかしこぶりたくて、「何かを知るって楽しい、数学って美しい☆彡」とか考えてたんですが、高校に入って勉強が嫌いなことに気づきました。
勉強が本当に好きで「将来はK大の理学部に行って研究職に就きたい。」と言っているような人たちを見ていて、「私は勉強が嫌いだな。」と。
世界は広く、私は小さく、できることなんかたかが知れている。と思ったら、そんなことに負けないで宇宙への夢を追っている友人が、とても遠くに見えました。
尊敬するけど、私には無理。めいいっぱい努力する原動力になるほどのドキドキを感じない。

別に他にやりたいことはありますが、それに勉強が実用的な道具として必要なだけで、少なくとも勉強そのものは嫌いです。
「未知の領域へのロマン」みたいなものを、持ってると勝手に思い込んで、勉強を楽しんでいる振りに必死でしたが、よく考えなおしてみたら、全く未知の世界への高揚感など持てていませんでした。
ピーマンをプリンに見立ててなんとか食べる、といった、楽しく取り組む工夫ぐらいしますが、やっぱり勉強嫌いです。
計算するのも応用するのも暗記するのも理解するのも、何も楽しいと思えない。
思う努力はしますが、勉強は嫌いなものとして付き合っていくつもりです。
嫌いなものとうまく付き合っている人は他にもいますから、それでなんとかなるのではないかなあ。と。

将来、勉強は楽しい、と声を大にして言うような人から「バーカ」って思われたりするのは悔しいですが、それぐらいは我慢します。

補足日時:2014/03/26 23:35
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 No.1です。

「補足」に書かれてことについて。

 あなたは、英語や音楽や美術や化学の授業には、自分なりの目的を見出しているのに、古典だけには目的が見いだせないのですね。
 それは、あなたが単に「古典が嫌い」と思っているからにすぎません。嫌いだから、つき合いたくない、だから目的も何の意味も見出せない・・・。単に、「シカトしたいから」というだけですよ。

 世の中、好き嫌いだけでは済ませないことがたくさんあります。
 あなたが嫌いで、その存在の意味を全く認められないものであっても、それが大好きで、それに命をかけている人だっているのです。そういう存在も、認めてあげることが必要です。


>古典の授業と、古典のテストの目的は何ですか?
>一致するんですか?
>一致しないなら、なぜ一致しないんでしょうか。

 No.1の最初に書いたように、授業はテストのためにあるのではありません。
 だから、古典の授業と、古典のテストの目的は一致しません。

 古典の授業は、「古典」のことを知って、あなたが興味を持つかどうか、もし興味を持ったら、一生にわたって自分でチャレンジして行けるように、歩き方・進み方の基本を伝授することにあります。「古典に興味がないことが分かった」「古典はとても読めない、自分には読む能力や才能がないことが分かった」というのも、授業の立派な成果ですよ。
 でも、「古典が面白いことが分かった」「日本の伝統をもっと知りたい」という人もたくさんいますよ。

 テストは、「どれだけ授業が役に立ったか」「授業がどれだけ理解できたか」を生徒自身と先生が知るための、単なるチェックです。

 授業の目的はあなたの一生を豊かにする種をまくこと、テストの目的は授業の成果をチェックすることだけです。


 ついでなのでもう一言。

>英語の授業の目的は、英語を使えるようになることです。

 そうです。でもそこで言う「英語を使えるようになる」とは、直後のテストで良い点をとることではありませんよね? 外国の人とコミュニケーションを取って、海外の人の考えていること、歴史や文化や人間としての営みを直接知るためですよね。
 そのとき、あなたは外国人が知りたいと思う「日本人の考えていること、日本の歴史や文化、日本の心」を本当に伝えられますか? というよりも、「日本人としての自分」をきちんと持っていますか?
 英語はツールであって、「話すべき内容」があって初めて役に立ちます。話すことが何もないなら、テクニックとしての英語が上手でも、何の役にも立ちません。

 「百人一首」や「和歌」「俳句」ぐらい知っておくことが、外国人に「日本の心」を伝えるのに、必須の常識だと思います。京都や鎌倉のお寺や神社に行って、そこにあるものや歴史を説明できるのも、日本人の常識でしょう。そういったことが「おもてなし」ですよ。
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》 古典の授業の目的は何ですか?



教養を高めるためです。正確に言えば、古典を勉強しておくが教養を高めることに役に立つからです。

何のために教養を高めるかといえば、人生を豊かに生きるためです。
 

この回答への補足

古典文学を鑑賞するのが教養を高めることになる、というのは解ります。
しかし、文法事項を詰め込まれて、注釈まみれの古文を読めるようになる訓練をする理由が解りません。
センター試験をはじめ、殆どの古典のテストは、「文法を理解し、注釈を活用して読解する能力」を問うものです。
授業には目的があり、その目的の達成具合を見るのがテスト。
授業で学ぶからテストで聞かれるんでしょう?

その能力の有無を聞くからには、その能力に何らかの価値があるんですよね?
地歴が選択制で、日本史を取れば、ウズぺキスタンがどこにあるか知らなくても大学に入れてくれる。
理科も選択制で、物理を取ると、人体の構造もよく知らぬまま医学部に行ける。
しかし、注釈だらけの古文の読解ができない者は落とされます。

助動詞の判別や係り結びが、世界地図や人体の構造とは比べ物にならないほど重要な教養だとは、思えません。

古典の授業の目的は何ですか?

補足日時:2014/03/25 19:08
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自国の歴史と文化の習得ではないでしょうか。



たしかに意味はないようなことかもしれません。 徒然草を原文で読めても、万葉集を原文で読めても、現代では意味をなさないのは事実です。

わたしは英国人と結婚していますが、彼女は、シェークスピアの原文を読みます。
正直すごいないと思います。


英文学の原文も古くなると、現代英語では一言ことも読めません。
不信に思われるなら、原文を見られるとわかると思います。
ロミオとジュリエットでさえ、何を書いているのか、(内容が有名なだけに)一言も読めず、がっかりすると思います。

古文学は自国の歴史ですから、現代では意味がないと言われればそれまでです。

では、第二次世界大戦や、第一次世界大戦時の、日本の歴史を、日本語で読むのと、また、同じ時代のものを英米が記述した原文(英文)は、当時の日本人の考え(いや現代日本人も含めて)と、すごいへだたりがあります。

妻でさえ、広島長崎の原爆投下は、悲劇であるが、やむをえない手段であったといいます。 ナチスドイツ原爆投下をしなかったのは、一種の人種偏見ではなかったのかの問いにも、人種差別などはしないと、顔を真っ赤にして反論してきます。


むかしのことを学ぶのは、一種のわれわれの歴史を学ぶようなものです。 「驚く」にしたところで、古文では「目覚めた」という意味のように、現代日本語とは変わっているし、また、現代日本語も、日に日に変わっていきます。 「食べられない」が正当なのに「食べれない」が、もはや、正しい日本語となっていたり、「早急」にしても、「そうきゅう」と読む人のほうが多くなっています。


そういう無意味だと思われることが、のちに、いろいろなことを考えたり、試案したりするうえに、役立つものです。 徒然草にしたところで、そこに書いている概念は、現代にも十分通用する概念です。


無意味だといえば無意味ですが、意味があるといえば、意味はあります。
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前の質問と同じ本質的な疑問だと思いますが。


・テストの目的と
・高校の古典文学の授業で本来修めるべき目的
というそれぞれ目的の違うことが含まれていると考えるべきでしょう。

私は高校の古文の目的は古典名作の原文に触れて誰でも知ってるようなさわりの部分や筋書きを知っておくことだと思っています。それと大学受験のためのテスト対策だとか、成績表をつけたり成績順に振り分けるための点つけは一致しない面もあるのではないでしょうか。
実際昔の文章が読めないとかなり不便なことはあると思います。
江戸時代には町人の行く大学なんて物はなかったわけですが、古典文学(江戸時代から見たら上代とか平安時代の文学なんてのは相当古典でしょう)は知ってる人はちゃんと知っていて、芝居のような大衆的な娯楽にもその引用やもじりがあります。テストが無くても古典の勉強が無かったわけではないように思います。

質問の
>「古文を読めるように叩き込まれる」

>「習った範囲で解けるような配慮されまくった注釈まみれの古文漢文」
は矛盾しているように思います。

たぶんあなたの学校はいわゆる「いい学校」なので少し高度な内容をやっているのでしょうね。

高校を最終学歴だと考えたら、知的好奇心を満たして楽しめる好い機会である授業内容はけっこうあると思うのですが、「高校が最終学歴である」ような学校ではそんな授業はしてないのかななどとも思います。これも最初に述べたテストのためのテストや選別のためテストの事と関係あると思いますが。
教師も誠実にやったらなかなか高度な仕事と思います。
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日本の伝統文化を学ぶことがひとつの目的だとかんが


えられます。

長年いきてきておもうのですが、天才というのは数がす
くなく、めったにでないものです。それは、才能というも
のがうまれもった資質に努力がくわわって開花するもの
だからです。

そういう意味でいうと、名作と呼ばれる作品は100年に
二つ程度でればいいということもいえるわけです。

そう考えると現代の100年くらいでは読むべき価値のあ
る作品は実はほとんどない、ということになります。

つまり、古典を加えて国語を構成すると名作にふれられ
る度合がたかまるということです。

それと中高6年ではたいしたことないといいますが、ひと
によっては、2年程度まなんだだけで古典はすらすらよ
めるようになります。同じことはほかの科目にもいえるの
ですが・・・

全員みにつかなくてもよいのが、高校以降の学習項目
なのです。
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 現代文と古典を学ぶ意義について、それぞれのNo.1な方のお答えは、素晴らしい内容と深みのあるものなので、これから述べることは、蛇足かもしれませんし、抽象的かもしれません。


 あなたが高齢となったときに、例えば「源氏物語」を読んだ経験から「セクハラを言わぬ源氏の女人たち」真弓明子 出典「新類題別別番傘川柳一万句集 創元社」のおおよその意味と、21世紀の女性のしなやかな心情が理解できるようになるために勉強してほしいと思います。
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