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 戦国時代の戦いをドラマで見ていると、
 戦は、みな、野原で起こっています。

 きれいな草が生えた、まるでサッカーでもできるような
 グランドが戦いの場所です。人家も全然ありません。

 でも、そんなことありえたのでしょうか?

 関ヶ原、桶狭間、設楽ケ原、川中島、摺上原、などなど
 今の地図を見てみると、みな水田か住宅地になっています。

 大軍が戦うなら、山の中では戦えないでしょう。
 でも、平らな土地だったら、当然、戦国時代だって真っ先に
 水田か畑になっていたんじゃないでしょうか?

 戦国時代の戦いは、現実にはどんな場所だったんでしょうか?

 実際は、結構、畑になっている場所で戦っているような
 気がしますが、どうなんでしょうか?

A 回答 (9件)

「川周辺なら周囲に水田があるはず」というのは、半分当たりで半分ハズレです。



確かにおっしゃるとおりに水田には水が必要なので、近くに川なりなんなりの水源がないと水田は作れません。それは正解です。
じゃあ半分ハズレはなんなのか。

戦国時代、関東平野はほぼひたすら荒れ地ばかりの不毛の大地でした。関東平野はほぼ平らだし、利根川やら荒川やら多くの川が流れていますよね。そしたら、関東平野は肥沃な水田地帯でもよかったはずですよね。
考えるべきことは、当時の川にはほとんど堤防がなかったということです。堤防で川がコントロールされていたのはごくごく一部だったんですね。日本各地に「暴れ川」と呼ばれた川が多くあったことをどこかで聞いたことがあると思います。
だから関東平野では、雪解け水や大雨が降ったりすると、すぐ川が氾濫したのです。さらに平らだからなかなか水が引かない。つまり関東平野は湿地帯が多かったのです。ウソーと思うかもしれないけど、もし東京周辺に住んでるなら、案外に「谷」「窪」なんて地名が多いことに気づくでしょう。世田谷、渋谷、荻窪・・・みーんな湿地や窪地だったんです。湿地や窪地は水はけが悪いので、水田に向きません。

おっしゃるとおりに、実は戦国時代というのは高度成長時代で、耕作地というのはじゃんじゃん増えていました。増えてはいたけど、今の田舎のように見渡す限りの水田地帯ってのは限られた地域だけだったんです。また米というのは南からやってきた植物なので、冷害に弱いのです。当時の品種だと、南の静岡県から西は米作りに適していても、それより以東(以北)は米が思うように米が育ってくれないのです。それなら麦やそばを作ったほうが確実に作れるというのもあります。
摺上原あたりなら、何もない荒野の大地だったとしても不思議はないと思いますよ。あの辺りは、住んでいる人そのものが少なかったでしょうからね。

もっと突っ込むなら、大軍同士が激突する戦いってことそのものが戦国時代の戦いとしてはマレで、最も頻繁に行われていたのが、「敵の場所に行って麦や米を刈り取ったり踏み倒すような嫌がらせをする」ことです。これは「苅田」と呼ばれました。
このあたりの事情は「戦国合戦の舞台裏」という本に詳細に書いてあります。初心者向きの本ではありませんけれどもね(初心者には難解で地味で少々退屈な内容です)。

なお蛇足ながら、ドラマや映画では野っぱらで合戦が行われているのは、後ろにビルや電線が映ってはイカンからです。海外で撮影されるケースもありますよね。

この回答への補足

 ご回答ありがとうございます。

 関東平野は、湿地帯だったというのは知っておりまして
 古代のルートは湿地帯を歩けないから、房総半島に渡るのが
 主要ルートで、だから、下総より遠方に上総がある。

 利根川の流れの変遷、荒川の変遷も知っています。

 ただ、武蔵は石高がかなりある国です。
 
 武蔵の生産力の中心は、おそらくもっと山沿いにあったんでしょうね。
 古くは畠山重忠、比企一族、上杉諸家、みな、武蔵の西側で 
 大きな川周辺ではありません。当時の技術では、利根川や
 荒川をコントロールできなかったんでしょう。
 (江戸時代の伊奈氏の登場により、埼玉東部の開発は進みます)

 ただ、東京の西側は武蔵野台地上で、世田谷、荻窪、渋谷というのは
 台地の谷間、ということで、そこ自体が湿地帯だったとは
 ちょっと思えません。

 湿地帯だったのは、現在の荒川・入間川より東側だと思います。
 
 ただ、いずれにせよ戦国時代では、荒地が多かった・・
 だから、結果的に決戦はそこで行われた・・ということなんですね。
 

補足日時:2014/05/05 23:24
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>ただ、大軍が戦える、荒地や畑が結構あったのでしょうか



結構あったと思いますよ。今と違って灌漑が難しい土地の多くは手つかずだったと思います。
水が引けないのなら畑にすればいいじゃないかとも思うでしょうが、そんな所に住んでると日照りでまったく作物がとれない年が来ると全員餓死してしまいますので、なかなか定住は難しいです。

>長篠の戦では、間に連呉川が流れており、屏風図でも川が書かれています。
そうなると、その周辺は水田があったのではないでしょうか?

もちろんまったく水田がなかったとは思いません。
ただ梅雨時の水田上で行動するのが最悪な時期に勝頼が決戦場に選び火力に勝る織田家と真っ向から対峙したからには、荒れ地が主だったと思います。水田が多い土地となると梅雨時の水田は歩けるものではないので限られた通路しか通行できず、細くなった大軍を鉄砲で打ち放題となる最悪の状況になります。どんなに馬鹿な指揮官でもそんなところでは戦わないですよ。

>戦国時代の戦場は、水田や荒地が入り乱れ、そのなかで
 戦いもあったように思えるのですが、どうでしょうか?

戦国時代の多くの戦いは収穫物の略奪が目的に含まれていますので、多くの戦いはnobuakeさんが思う通り水田が多い土地での争いになると思います。
ただnobuakeさんが選んだ戦いのうち川中島以外は決戦となる大きな戦なので、どちらかというと荒野のような場所が多いのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

 ご回答ありがとうございます。

 戦国時代の戦いは、荒地で行われていたのですね。
 
 水田や畑では、足元がぬかるんで戦えないですものね。

お礼日時:2014/05/05 23:00

http://www.maff.go.jp/primaff/koho/seika/nosoken …

昭和元年 520万町歩(都府県、つまり北海道を抜いた全国)
慶長年間 150万町歩

昭和元年というのが、日本の史上、都府県における耕地面積の最大値らしい。

住宅地などを無視しても、昭和元年の耕地のうち70%程度は慶長年間ではまだ耕地になっていないと推測されます。
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この回答へのお礼

 なるほど、耕地はかなり限られており、荒地が相当あったのですね。

 大規模な戦闘は、荒地で行われたんですね・・。

お礼日時:2014/05/05 22:39

耕地面積


慶長3年 160万町歩 
江戸後期 300万町歩
昭和36年600万ヘクタール
平成年間 460万ヘクタール

1町歩 ≒ 1ヘクタール

http://www2.ttcn.ne.jp/kazumatsu/sub219.htm
http://www.maff.go.jp/j/tokei/sokuhou/kouti2008/

ざっくり言っちゃうと 昭和36年の耕地面積の1/4でしかないのです、戦国直後の慶長3年で。
あるいは、現在の耕地面積460万ヘクタールに匹敵する面積(600万ヘクタール - 160万町歩)が耕地になっていなかったとも言えます。

水田やら畑地 ≒ ほぼ平面 なのに耕地になっていなかったのは、水がありすぎる あるいは なさすぎるということです。
ありすぎるということは、沼地ということで

沖田畷の戦いってのは少数の島津が、大軍の龍造寺軍を倒すために、ヨコに広がれない場所を戦場に選ばせています。

なさすぎると原野のママ
http://suido-ishizue.jp/suido/01/0301.html
例えば 愛知用水が潤して農地にした地域
まさに ここは 桶狭間の戦いの場所です

ちなみに水田を歩いたこと有ります?
歩けたものではありません。
乾田化が進んだ現在でも、滞水していれば歩きづらいことは言うまでもありませんが、水が抜けていても、歩きづらいったらありゃしない。
毎回 足を「抜く」という感じで歩くことになるので、あんなところを戦場に選べません。

また、畑地も良い畑ほど土が柔らかく動きづらい。

戦争で優位に立つためには移動速度が重要なので、まともな戦闘指揮者なら、田畑を選ばないと思います。
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関ヶ原・川中島


どちらも灌漑されていないのであまり水田にはなっていません。
川中島は当時麦畑でその麦を奪いに来たのが上杉家侵攻の主な目的の一つですので、まあ野原みたいな畑みたいな微妙な景色だったと思います。(撮影風景とそう違わない?)
関ヶ原も似たようなものじゃないでしょうかね?

桶狭間・・・実際には広い野原であるはずがありません。
奇襲か強襲か議論が分かれていますが、狭間と言うくらいですし結局のところ大群が行動しにくい谷間の狭い土地でしょう。
畑になっていたかどうかはわかりません。ただの荒れ地かもしれません。

設楽ケ原
これは灌漑に不向きな丘陵地帯ですし梅雨時に双方大軍を展開していたことからしても水田ではなかったのでしょう。
畑か荒野かはわかりません。

摺上原
これは現在でも森と住宅と牧場と入り組んでるような地形ですよね。
当時開発が進んでいたとは考えにくいです。
おそらく山際の森林地帯と荒野の入り組んだ荒れ地が主ではないでしょうか?
湖畔に少しだけ水田が広がっていたような状況だと思います。

まず現在水田にされている場所の多くは、当時は水田開発されていません。
その理由は灌漑で、当時水田化出来た場所は川沿いの湖沼地帯がほとんどです。
特に丘陵地帯の砂礫層は、川より標高も高いしいくら水まいても土壌にしみこんじゃいますしなかなか当時は水田にはできないです。
大規模灌漑による新田開発は、関東では江戸時代、地方だと明治以降に主に行われています。
それで当時水田にできなかった土地が畑となっているかどうかは、なかなか現代ではよくわからないですね。

ちなみに私が実際に現地を見学したことがあるのは、川中島・設楽ケ原・摺上原の三か所です。

この回答への補足

 大軍が展開するのに水田地帯は無理だと思います。
 森林では、もっと無理です。

 じゃあ、どこで戦ったの?と思うのですが

 荒地か畑だ・・ということになります。

 ただ、大軍が戦える、荒地や畑が結構あったのでしょうか?

 長篠の戦では、間に連呉川が流れており、屏風図でも川が書かれています。
 そうなると、その周辺は水田があったのではないでしょうか?

 関ヶ原の戦いも屏風を見ると川が描かれており、地図では
 関の藤川と樽川が流れています。そうなると、周辺に水田は
 あったのでは?という気がします。

 戦国時代の戦場は、水田や荒地が入り乱れ、そのなかで
 戦いもあったように思えるのですが、どうでしょうか?

 戦国時代の戦場は、一面のグランドのような場所で戦ったわけではなく
 荒地や水田、畑が入り乱れた場所、そこが戦場だったのでは
 と思えるのです。

補足日時:2014/05/04 21:17
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近くの「川中島」についてお答えいたします。


川中島は、千曲川に犀川が合流する場所で、犀川の沖積扇状地に当たります。
犀川の網状流が発達し、自然堤防と小河道が細かく分布しています。
川沿いの低地は水が得られますが、自然堤防上は当然乾燥地帯です。
水を得るためには、数m下の川から水を運び上げなければなりません。
川沿いの低地範囲に耕作地は限定されていたと思われます(それでも結構広いですが)。

自然堤防の部分は、集落となっていたか、荒れ地になっていたと思われます。
またこのような荒れ地は、採草地として生かしていた可能性もあります。
草を刈り、畑や水田に肥料としてすき込んでいたと思われます。

またこのような乾燥する土地を生かし、川中島は「白桃」などの果樹産地となっています。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E4%B8%AD% …
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どうでしょう?



戦国時代の日本の人口は1000万人程度でした。
北海道が無かったとか、食料自給率が100%だったとか、収穫の効率が全然悪かったとかと言う、今とは異なる事情も有りますが、
それでも、田畑の規模は、現在の半分を大きく下回っていたのではないでしょうか。
新田開発は、江戸時代前半が盛んだったとも言います。
今より、荒れ地が多かったことが想定されます。

また、領地獲得のための戦いでは、田畑をつぶすことは、敵味方とも、自分が勝つと信じている限り、避けなければならないことです。
土地を広げることが自己目的化されているわけではなく、そこで取れる農作物を確保することこそが目的ですから。
戦闘員も、現役農民や、農民出身者が多く、彼らのモチベーション維持のためにも、田畑をつぶすような戦いは、極力避けたのではないかと思われます。

なお、攻城戦では、城の周囲の人家を壊すことから着手したと言われています。

ただ、大阪の陣については、どうしたんだろうなぁ、と思いますが。

この回答への補足

 戦国時代の石高はざっと、2000万石です。

 現在の石高はざっと、7500万石です。で、水田面積は250万ヘクタール
 つまり、2.5万平方キロ。国土の6.75%が水田です。

 生産性が、当時は半分だとして必要な水田面積は1.47万平方キロ。
 (北海道と沖縄の問題は除きますよ)

 現在の反収は10アールざっと480~500Kg
 昔の反収は10アール=一反=一石=150kgの収穫量。
 一反が一石の収穫量は古代ですから、まあ、戦国時代は250kgぐらいあった
 でしょう。

 そうすると、意外に田畑の面積は結構必要だ、という話になります。
 現在は住宅地や工業団地や学校もあるので、田畑の面積が
 減っているのでしょうけれども。

 確かに新田開発は江戸時代前期に進んだと思います。
 荒地が多かったのは事実でしょうけれども
 そのまま荒地というのは、結構難しくて
 日本であれば森になってしまいます。森にならない、
 水のかからない荒地、そんな都合の良い場所が結構あったんでしょうか?? 

 

補足日時:2014/05/04 17:33
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この回答へのお礼

 ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/05/04 17:18

ソースは忘れてしまいましたが、昔の戦は人里離れた山奥や平地、水辺など主に山間僻地で行われました。


日本の戦は古来より「民百姓には迷惑をかけない」でした。
町の中では戦をしませんでした。

この日本の戦の常識を覆したのは戊辰戦争です。
長州軍の司令官は「白河以北は一山百文」と言い、初めて無関係な東北地方の民間人を殺しました。

民百姓には迷惑をかけないとは、いかにも日本的な発想ですね。

この回答への補足

 >>日本の戦は古来より「民百姓には迷惑をかけない」でした。

 ご回答ありがとうございます。でも、そんなことはないと思います。

 戦場に略奪はつきもの、食糧の現地調達は必須であり
 略奪するのは当然だったと思います。

 たとえば、兵糧攻めを狙えば、住民をいじめて、城に追い込んで
 食糧消費を早くさせるのは常套手段でした。

 古くは後三年の役、吉田郡山城戦い、大河内城の戦い
 有名な鳥取、三木、有岡城の戦いも、同じことが行われています。

 民百姓には迷惑をかけない・・というような戦ではとてもなかったと思います。

 
 

補足日時:2014/05/04 17:17
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僕の推測ですが、多分、「撮影の都合」ではないでしょうか?


今は、大抵の場所に、「当時とは異なる建造物」が在ります。
そんな物が在っては、当然、撮影に使う訳にはいきませんし・・・。
いきおい、撮影できる場所が限定され、そういうことになったのではないしょうか?
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