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意志が因果の必然に縛られているなら、道徳の命令は無意味であり、
行為の責任も問うことが出来なくなる。(非決定論)

カントは因果の系列を、自分から始める自発性な現象の影響での能力を認め、
これを「先見的自由」と名づけた。

因果関係が支配する世界とは別な高次の実在(英知:感覚的に与えられていないものを
主観的に表象しうる能力)に自由を求めようとしている。

※偉い人とはどんな人かと思案しております。
   辞書で「偉い」を引くと

   (1)優れている、尊敬される立場にある
   (2)普通あるべき状態より程度が甚だしい、ひどい
   (3)思いがけない、とんでもない
   (4)苦しい、痛い、辛い

人気者だったり、幸運の持ち主であったり、
何か色んな意味で立派なものを持ってる人なのではなく、
苦境、逆境に強い人。
またそれを誰からも同情もされないのに平然としてる(ある意味尊敬される)人となりますか?

「自発的な自虐ネタの多い人が偉い人」と哲学的に定義して宜しいのか助言をお願いします。

A 回答 (17件中11~17件)

私は52年生きてみて どういう人が偉い人か さっぱり分からなくなりました。



まあ 真人間で一所懸命生きていれば。悪や罪を犯さず 人を愛することができれば?偉くなったと言えるのでは?
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この回答へのお礼

「人を愛することが出来れば偉い」という回答ありがとうございます。
出来てるような、でも理屈でわかってないような。

愛は純粋すぎて形として捕らえることが出来ない。
だから今日も探し求め、彼岸までの旅を続けるのであった。

いつか私の手料理振舞うよ、あそこの○○美味しいよ、
旅人たちに一緒にご飯どう?と誘うとか。
これは愛じゃないでしょうか?何気に偉かったかも。

お礼日時:2014/05/22 11:05

自分よりも劣った者、弱い者、小さい者を無下にしないこと、よく堪え忍ぶこと、そういうことを偉いというのではないでしょうか。


自嘲したり、開き直ったりするのは偉いとは言わないでしょう。
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この回答へのお礼

アホなさんw自嘲と開き直りしてませんか?
どもあれ私は構いません。私も開き直りするタイプの普通のアホです(?)
回答ありがとうございます。お礼の順番が乱れてすみません。

強くなれてこそ小さい者を無下に出来なくなりますよね。
今後更に強いアホを目指そうと思いました!

お礼日時:2014/05/22 14:03

お礼ありがとうございました。



上げた後ライン越えに気がつき、痛く反省してました。

誰?
もしくはどれ?
もしくは何処?

認識の焦点の行方が、私には掴めないようです。
私に幾何学模様は、形而上学より難しいです。

哀愁漂う中年は、私かもしれませんねぇ(-.-;)y-~~~
魅力無いけどね。
多分(笑)
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この回答へのお礼

カントさんが何に反省したのかわかりません!
が、すみません。私もよくわかりませんが反省。

誰?どれ?何処?認識の焦点は想像力より実行者。
尋ねる範囲より、観察される範囲より、容易なさからの力がある。
何か言葉を少なくしたら意味深な感じがかもし出せる...。

哀愁が似合うとはお疲れ様です。
喜怒哀楽に明け暮れた繊細な時期を見事乗り越えたという夕日のような勲章です!

「大人なんて偽善者ばっかだ」なんて決め付けてた。
偽善者ばかりだったから馬鹿な私の感情は救われてたんだな。
偽善って何よ?必要に迫られて自分で解決出来るようになったし。

自分だって余裕ない、自信ない大変なのに
人のこと心配して勝手に実行してまう変態級偽善者
に万が一遭遇したら非常に困る。

お礼日時:2014/05/22 10:44

 こんにちは みこでしさん。



 ◆ 辞書で「偉い」を引くと (4)苦しい、痛い、辛い
 ☆ この意味は 共通語にあるんですか。知りませんでした。

 つまり わたしの育った地域の方言では 《疲れた・しんどい・休みたい》といった意味でも 《えらい》を使います。まったくの方言でもなかったようですね。


 という話は措いておきまして カントの
 ★ 高次の実在(英知・・・)
 ☆ をめぐってなら やはりヘーゲルを出さなければならないと考えます。

 このいと高き英知のごときものについては 次の文章のなかの《無限なもの》にあたると見ます。

 ▲ (ヘーゲル講義録:有限と無限) ~~~~~~~~~~~
 無限なものと 有限なものとの一体性・・・この矛盾・・・は どんな自然的なものも自分のなかにこれを持ってはいない ないしはこれを 我慢できないであろうが この矛盾を持ちこたえることができるのが 人格(* もしくは《時間》ないし《非思考の庭》)の高さである。
 (『法の哲学』§35 追加)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 無限とは わけの分からないナゾです。有限とは 移ろいゆかざるを得ない身と心とから成る人間です。

 つまり無限とは 神のことですが これは 経験世界を超えていて しかもヘーゲルはここで 有限なる存在であるわれわれ人間にあっても その生まれつきの自然本性はこの無限なるナゾをやどすと言おうとしています。

 ですから 《高次の何か》を それだけとして掲げ それを問い求めるといった姿勢ではなく そうではなく この《有限なる存在における無限との――非思考の庭における―― 一体性》として・すなわちわれわれ一人ひとりの存在における構造的な心において 受け留めてあゆむということ。

 ――これが 《偉い》ことではないでしょうか?



 


 《自然的なるもの》は この《無限と有限との共存》なる矛盾を我慢できないであろうと言っています。

 我慢が出来て もともと生まれつきの自然本性において 誰もが持ち合わせていると思って行動している人 その境地が《えらい》ということだと考えられます。
 
 それには たぶん かなりの長期の視点が必要であるように思います。長い目で見る必要があるでしょうね。




 

 ちなみに この矛盾を我慢できず 自暴自棄に走るか またはそうでなければ もはや何も考えずに目先のことを追い求めるかするような《自然的なる思惟および行為の形式》を こりゃあ ひどい 他律的人間でしかないと見てはばからないその思想。これは ただの・上に向かっては 物乞いなる姿勢であって 下に向かっては 奴隷の精神の裏返しとしての蔑みの心をあらわにして憚らない。――こういった思想もあるようにも捉えられます。 
 
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この回答へのお礼

私なりに文を租借し、養分を抽出する時間を頂戴しました。
改めていい勉強になれ、今は自分で納得できているので回答に感謝します。
快投ぶらじゅろんぬさんありがとうございます。

以下翻訳文↓↓

美と醜との一体性この矛盾は 
どんな自然的なものも自分のなかにこれを持ってはいない。 
この矛盾を持ちこたえることができる人格もしくは時間ないし
日常語能力の高さである。

美とは神のことで経験世界を超えたナゾです。
醜とは移ろいを得ない身と心とから成る自然的な人間です。
しかもヘーゲルは 醜なる存在であるわれわれ人間 
その生まれつきの自然本性はこの美なるナゾをやどすと言おうとしています。

ですから高次の何かを問い求めるといった姿勢ではなく
この醜なる存在に美との日常語能力における一体性として
一人ひとりの構造的な心の存在に受け留めてあゆむということ。
これが《偉い》ではないでしょうか?  


美と醜との共存なる矛盾に我慢が出来て 
自然本性において誰もが持ち合わせていると思って行動している人
がえらいということだと考えられ  
それには長期の視点が必要であるように思います。

この矛盾を我慢できず自暴自棄に走るか
何も考えずに目先のことを追い求め、自然的なる思惟および行為の形式を
他律的人間でしかないと見てはばからないその思想。
これはただ虚栄家に向かっては物乞いする姿勢であって
羨望家に向かっては「奴隷の精神の裏返し」としての蔑みの心をあらわにして憚らない。
こういった思想もあるようにも捉えられます。

__________________________________________________________


もうおわかりと思いますが
無限→美に、有限→醜に置き換えました。
善悪でも要不要でも良かったかもしれない。

なぜなら、美しいとされるのが神であり、
美しく感じる感覚を与えられたことは神からの自然人への報酬だとし
未来は美しくあれ、と夢を追うものの手に未来が掴め、
未来は醜いというものが追うのは無秩序な想像上のものでしかないから。

恐怖は感情が証拠を求め、探求の精神からの証拠は過去からも未来にも得られないから。

非思考の庭→日常語能力に置き換えたのは、
誰もが理解出来る言葉でしか哲学の正当性は示せない。
非言語や記号は想像力の産物でしかなく、
日常語こそ概念とも附合し正確とする決定権を持っているから。

お礼日時:2014/05/21 20:09

本質的に、宇宙は認識される事で派生している=


あなたが造物主なので、一番エライ。
しかし一般的な意味では、人類の分業化&組織化に
於て、自律的な生=自覚的な社会行動をとれるだけ
の認識を発達させず、お金や出世といった“馬車馬の
目の前のニンジン”で他律的に社会行動をとらせる
方法をとったため、他律=法規や権力といった“ムチ”
で使役するエライ人も生じたのだ。
その実、エライ人とは、エラくなりたい人に支えられて
いる、裸の王様に過ぎないのだが。
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この回答へのお礼

宇宙目線からの回答ありがとうございます。
太陽系第三惑星、東アジア地域日本国標準語に翻訳すると、
「宇宙を認識するなら宇宙一エライも同じで、下らぬことにくよくするなんで無意味、時間の無駄ですよ」
ですね?確かに宇宙のロマンに想いを馳せると悩むのがアホらしくなります。

しかし、一般的な意味では「王様の衣装はエライ人にしか見えない」ことがあり
なぜか王様には衣装が見えてないが、どうも下々の者にはちゃんと見えてるらしい。
ここはひとつエラくなりたい人々をがっかりさせないよう見事演じてみせよう。
さすれば国を憂う象徴たる王の権力を思い知ることだろう。

権力者はニンジンを差し出すが腹の足しにすることはできない。
けれども自立的に生きる希望を与えてくれるという優しさは、
お金や出世より価値があるということですね?

私は食べるものに困らなければいいけどな。
なぜだろう、優しさはありがたすぎて悲しくさせますね。

お礼日時:2014/05/20 03:17

今朝ほどは、ありがとうございました。



「偉い」は、概念的価値観から生まれ出るもの。
故に他者の価値観に合えば偉いと称され
自分の価値観に合えば自分は偉いと感じる。

その上であえて「偉い」と為されるならば
価値観に見合う物を現象として起こすことだと思います。

偉いと思われたい他律で行動するなら、矛盾が生じるは必須。

偉い・尊敬されたいが何処から来るのか。
そこに問題が隠れているように思います。


>またそれを誰からも同情もされないのに平然としてる(ある意味尊敬される)人となりますか?
なるかもしれない。ならないかもしれない。
相手が決めることですから。


>「自発的な自虐ネタの多い人が偉い人」と哲学的に定義して宜しいのか助言をお願いします。
上記理由で定義不可能だと、私は考えます。

でも、いろいろ試したらきっと面白いと思います(^ ^)
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この回答へのお礼

偶然、、これも必然のように、カントさんお世話になります。
回答ありがとうございます。

価値観が違えば、言語が違うかのごとく会話を理解出来なくなっちゃいますね。
「現象として起こす」すれば同じ人間なら共通認識出来るものやです。

 動物としてではなく最低限の人間の本質として
「自分はどこから来てどこに向かうのだろう」を理解してたいというのがあると思う。

旅の途中ならやりたいこと遣り残してても希望を持ってていいけど、
他人から偉いといわれるまでになると自分で納得してなくて他律で満足しうるのか?
「終わってる」感がして寂しくならないと断言できません。

哀愁漂う中年の魅力、ネタとして面白かったら成功です?

お礼日時:2014/05/19 17:57

それはただの痛い人です。

この哲学カテには、
そういう質問投稿者がたくさんいますね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
この回答をどう参考にするか、「引きずり出してでも」が信条ゆえ頑張りました。

「痛い人」というのはわりと新しい日本語だと思います。
日本語は柔軟性がありますから、時勢、時代の考察にもなれます。
今後どのように抽象の梯子を昇るか、下りさせ限定していくかって
哲学化されるのを見届ける楽しみもありそうです。

「痛々しい人」なら見てわかります。
一番じゃなくても賢明でなくとも感銘を受け釘付けになります。
http://www.youtube.com/watch?v=3BclPUMWAR0


痛々しい人に寄り添うことで人生の価値を見出してしまう人もいますね。
http://www.youtube.com/watch?v=gxtThE_gcgo

お礼日時:2014/05/19 16:24

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