アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

 コミュニケーションについて問います。

 【Q‐ω】 人間は すべてのひとを 説得することができますか?
 ☆ わたしの感触を述べますので ご見解を述べやすいように たたき台としてください。
 【A‐ω‐br.】 (1) 感性ないし情感を措いて考えるなら すべての人びとが納得するような理論は 提示し得るだろう。
 (2) ひとが納得するかどうかは 説得者の能力や努力の及ばぬところである。
 (3) よって 理論によって すべてのひとを 納得させうるが 説得し切れるかは 分からない。

 ☆ そもそも コミュニケーション論です。
 【Q‐α】 コミュニケーションとは どういう社会行為ですか?
 【A‐α‐br.】 対話です。三者の会話は 三つの対話から成るという意味です。

 ☆ 【Q‐ω】に付随して わたしの関心を持って知りたい課題です。
 【Q‐β‐1】 説得に際して 第三者は どんな役割をにないますか?
 【A‐β‐1‐br.】 (1) 対話の主体として 話し手(書き手・発信者)と聞き手(読み手・受信者)の関係を おのれひとりの内面に 機能させるために きっかけとなる。
 (2) その意味では そばにいて欲しいと同時に 仲介者の役をになってもらってもよいのだが 基本的に 説得行為ないし対話には その発言は 加わらないのではないか。
 (3) 前項は 第三者の存在が 重要であり大事だ。と同時に 一対一の対話の発言には 局外者となるのではないかという意味です。

 【Q‐β】 コミュニケーションの主体について どういう事項が 心得なければならないことですか?

 ☆ 研究論文などは読んだことがありません。でも コミュニケーション論として 実質的に 最先端を行く日本一の内容を目指します。問い求めの過程として 世界一を目指します。
 ふるってご投稿ください。おしえてください。

 なお これは 【Q:ぶっきらぼうは いただけませんか】および【Q:けんかをしては 何故 いけないのか】の続編です。

A 回答 (53件中1~10件)

bragelonne様、こんにちは!



ところで、「芸術・感性」「哲学・思想(宗教含む)」「(広義の)科学」を 《アマテラス圏‐スサノヲ圏》における「ヨリ」「イリ」「ヨセ」に呼応させることは可能なのでしょうか。

仮にそう出来ると考えますと。

原始の時代━ヨリ感性━芸術・感性中心の時代

スサノヲ覇権時代━イリ知性━哲学・思想(宗教含む)至上主義の時代

アマテラス覇権時代━ヨセ知性━(広義の)科学至上主義の時代

という歴史を経てきたように考えるわけですが。
で、bragelonne様はアマテラスからスサノヲへの主従の転換を求めていらっしゃいます。
「哲学・思想(宗教)>>>(広義の)科学」という主張になるのでしょうか。

いっそのこと、この2つの概念の主従転換ではなく、芸術・感性といった概念も加えて三つ巴のバランスのとれた状態が心地良く求められるのではないのかな、と考えるのですが。
科学を否定的に捉える意見が多いため、わたくしはちょっと「?」なのです。
この3つの概念は、領域が重なる余地はあるかもしれませんが、概念同士が衝突することを求めることは決して人間の未来にとって得策ではないとわたくしは思うのです。

もしbragelonne様がご賛同くださるなら、どのように考えることが出来ますでしょうか。
それとも…やはり3つの概念の中で「哲学・思想(宗教)」至上主義時代の到来を望んでいらっしゃるのです?

ps:
(1)「芸術・感性」って…どこぞのa様のことをふと思い出して、我ながらソファからずり落ちそうになりました♪
わたくしね、あの方がカム・バックするまで、超不得手とする哲学カテに居座っているのですが、考えるのが苦手だから、つ、つらい…。
(2)コマ回しにはね、ちょっとかなりの自信があります。ふふ。

この回答への補足

 mashumaro2 さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 いろんな観点から いろんなふうにお考えになるのですね。ふと見ると 横にいたり あるいは むしろ前を走っていたりと 神出鬼没でいらっしゃる。
 ★ a様のこと
 ☆ 《一家言》のあり方もさることながら――つまり 部分的に どう取り扱ってよいか戸惑うところがあったと思うのですが それ以上に―― どうも イニシアチヴを取ろうとするといった問題ではないかと いま 思っています。任せてもいいのですが 全権委託というわけには行かなかったように思います。
 ★ コマ回しにはね、ちょっとかなりの自信があります。ふふ。
 ☆ 《ジャイロ効果》などについて 明るくないので 論を発展させていってくださって いいと思います。

 さて 人類の歴史を展望するときになりました。!!!
 わたしの見方からは 図式を 修正します。それは 《ヨリ・イリ・ヨセ // コギト》という知性のあり方を基礎にしますと 最後の《科学思考》は 或る意味で 中立の道具ですので 《ヨリ》は別としても 《イリ》にも《ヨセ》にも 大いに用いられるという点を加味するとよいと思うのです。たとえば

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ○ 原始の時代━ヨリ感性━芸術・感性中心の時代
 ↓
 ○ スサノヲ自立時代━イリ知性━哲学・思想(宗教含む)への目覚めとそのいとなみの時代
  * すなわち すでに ここで 《コギト》が始まった。
  * 稲の栽培=時間過程という要素;共生は動態である。
    鉄の発明・利用=道具の進化
    薬草の開発=物理化学の探究
 ↓
 ○ アマテラス覇権時代━ヨセ知性━(広義の)科学至上主義の時代
  * 日子(=彦)・日女(=姫)というように また 《天照らす》
  というように 直前の時代から 人間の精神に 理性という光を見る
  ことが始まっている。
  * 《日子の御言》としての光から 《すめらみこと》として後光の
  差した光になることを みづから 追い求めた。すめらとは 須弥山=
  最高峰のことだそうで いよいよ人間的となり ますます人格を磨き
  全世界において統一第一日子であることを 夢見たし これを 実現し
  たと思った。
  * そのためにこそ 知性も芸術も宗教も そして あらゆる科学も
  利用・活用するという思潮が 社会的に 優勢となった時代。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 第二と第三の段階のちがいは ふつうの勤勉とスーパー勤勉すなわちガリ勉との違いと見ると 分かりやすいかも知れません。

 ★ いっそのこと、この2つの概念の主従転換ではなく、芸術・感性といった概念も加えて三つ巴のバランスのとれた状態が心地良く求められるのではないのかな、と考えるのですが。
 ☆ あの火炎の舞うような意匠をもった縄文土器には その感性のあふれ出るような美しさを感じます。もちろん 全部を 活用したい。ただし ふつうの知性たるイリの視点で 活かしていきたいと思います。

 どういう時代の到来を望むかと考えれば そうですね。ゴートの王で ローマ(西ローマ)を短いあいだ支配したテオドリック大王という人間がいます。その統治のもとでは 街道には 追い剥ぎが出ないどころか 落とし物をしても 持ち主に返ってきたと言います。そういう治安のよさのもとでの生活がよいように思いますが どうでしょう?

補足日時:2009/05/18 14:46
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ぽこぺろぽです。

あのですね、私は大佐や皆さんの質疑応答に、ケチをつけているのではありませんでして、ハイ。ただ、主題が主題なだけに議論は避けられないであろう、運営者も哲学カテにかぎっては、質問提出時に議論に釘を指しつつも、実際には容認している、これを厳密に裁定しては、ひとたまりもないであろうと申し上げたわけです。

 これは、ほとんどの哲学の質問にいえることですし、数学のような正答を求めるカテゴリーにおいても、片側が正答を認めない、あるいは現段階においては、正答が見当たらない場合には、議論が起こり得るとの旨を指摘したまでです。運営者の議論禁止の方針は、アマテラシズムの賢明な適用だと考えますが、はたしてわれわれ利用者が、これを真に受けていいものかとの懸念を抱いております。なぜなら、単純に面白くないからです。

 学術的、技術的な疑問の純粋な問いかけは、単に適切な回答が寄せられれば解決します。所詮、QAサイトもエンターテイメントですから、それだけでは飽き足らない利用者の増加は、当然のごとく予想できたわけです。それには対話が必要で、それに議論が付随することは避けられません。

 運営者は敢えておおざっぱに、議論禁止を謳っているだけで、挑発的な投稿を制限し、問題となる投稿を編集しやすくしているのだと考えます。法は遵守されるべきですが、お上の理念までも逐一に支持する必要はありません。これに追従して当然であると説くのが、アマテラシズムであります。

 実は、私のかつての恋人も統合失調症でしたから、つらいお気持ちはよく理解できます。私も彼女にゴミ扱いされたこともありましたが、倒錯しているので本心ではないことは明白でしたし、おそらく私は彼女の《存在》だけではなく、《欠陥》も‘愛’してしまったのだと思います。

 しかし、お礼をしない溺れている子供には、私がどうしても助けたい動機がありませんし、彼の本心を窺い知るまでの対話の余地がありませんから、どちらでもよいのです。助けなければならないとすれば、私の代わりは他にいないということでしょう。それはそれで、私の存在理由となりますから。愛していないからには、彼のことはどちらでもよろしい。彼を憎んではいません。

 このご質問への回答は、これを最後とさせてください。また、別のご質問にお邪魔します。ありがとうございました。
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この回答へのお礼

 pokoperopo さん ご回答をありがとうございます。

 今回は むしろ 行動方針において互いに 違いがあると分かりましたよ。
 分かりやすく焦点を突出させたかたちで言えば こうなるでしょう。
 つまり 造反の仕方についての 行動方針が 違う。のだと思います。

 ★ アマテラシズム
 ☆ に対する抵抗は じつは 反対論は いっさい 言わない。持ち出さない。というのが わたしの方針です。
 あたかも アマテラス為政者と同じように えらそうに ものを言う。これが 基本です。

 このことを 別の側面をめぐって言いかえれば こうです。
 ○ アマテラシズムの言い分は すべて ともかく いちど こちらは 飲んでから ことに当たります。
 《議論禁止》の条項をも あたかも無条件に 飲んで ことに当たります。
 問題が起こったとき できれば 双方で 話し合いをもって いちばんよい方法を考え出していく。こういう方向を目指しますし そういう情況の実現を目指します。
 途中で 議論が起きてしまったとき 極力 これを回避しますが 相手のあることですから そして 相手に合わせないことには 対話は 続けられないと来ていますから 思案のしどころになります。
 けっきょく いまのところ――これまでも そうして来たように―― 対話という前提でつづけられるかぎりで その議論にも こちらは応じます。つまりは 違反とそれによる削除を覚悟して そうするという意味です。

 これは 行為形式――たとえば 《存在を愛し 欠陥を憎む》――としてではなく 行動方針として 違っているもののようです。旧い言葉では 戦略ではなく 戦術がちがうようです。対等ではないでしょうか。

 ★ お礼をしない溺れている子供
 ☆ に対しては もっとも冷酷無残な考え方を採用するとすれば こうです。出来るだけ早く ほろびるように促すこと これです。それには その人間が 心が癒やされ 魂が救われることが 必須のことです。そして そのためには 存在を愛する=つまり この場合 生命救助をまづは しておく。こういう考え方です。
 これが 戦術の違いか 戦略の違いかは にわかには 定かではありません。

お礼日時:2009/05/30 18:04

ぽこぺろぼです。

あらかじめお断りしますが、「存在を愛し、欠陥を憎む」との、措定そのものには異論はございません。対話の必要性についても同様で、問題に気づく、あるいは気づかせることが肝要です。

 さて、議論禁止はこのサイトに限定された話ですが、アマテラス影響下の一般社会においても、議論はしばしば罪悪視されます。あらかじめ議論禁止と決められている以上は、私もそれに従うに吝かではありません。

 しかし、質疑応答で良質な議論が起こり得る、あるいは水掛け論になるといった、両極端な効果が出る可能性がある以上は、罵倒や皮肉や頻度の高い問答の応酬のみを、禁止するといった措置も考えられます。失礼ながら、大佐の提起された質疑応答は、必ずといっていいほど議論に発展しています。大佐ご自身も議論の余地を含むことを、自覚なされてのご質問でしょう。運営者がこれらを杓子定規に捉えた場合、規約に抵触すると判断しても不思議ではないでしょう。もちろん、有意義な部分も多く内包しますし、ご質問ごと削除されては、複数のご回答を寄せられている皆さんも、私も途方に暮れてしまいます。

 溺れている子供の存在を助けるのは自由ですし、その行動は人道に適ったものです。ただ、私は彼を憎むから助けないのではなく、双方の自由意志の合致をもって助けないのです。通常であれば、憎まれっ子も助けます。しかし、お礼を拒絶する子供には、事故の前後ともに対話の成立の可能性がありません。

 私はいかなる極悪人も、断頭台に架けてはならぬとの信念を持ちますが、正気の自死の責任は負いません。責任があるにしても、事故を目撃したことによるもので、助けるかどうかは二次的な問題です。他の者による救助の邪魔立てなどという、不粋は決して致しません。こうした態度で臨まなければ、対話拒絶を目論む者はなくならないでしょう。私は極論を唱えているのでしょうか?

この回答への補足

 pokoperopo さん ご回答をありがとうございます。

 どういうふうに言い表わせば いいでしょう。
 わたしには 統合失調症の妹が います。入院していますから それほど 手間がかかるわけではありません。もう一人の妹がいて いくらか離れたところに 住んでいますが わたしが 責任者となっています。 
 或る日 こう言いました。虫の居所がわるかったのでしょうか 何も お兄さんに面倒を見て欲しいと わたしが頼んだ覚えはないと。しかしながら――つまり 小さなことを数えれば もう百回二百回は 絶望したことがあるわけですが―― ほうっておくわけには行きません。
 こういった単純なことを言おうとしていたのですが どうでしょう?

 あと 議論につきましては あくまで 主題を決めて それについて 回答と応答とを繰り返して――つまり 《情報交換》は 規約の趣旨なのですから―― よりよい解を見出していくというに尽きると思うのですが どうでしょう? 哲学の主題――つまり 質問内容ですね――に関しては この質疑応答が 長くつづくということ。あるいは 言いかえれば 解を見出すことは むつかしく ほとんど常に 問い求めを広く深くすすめる程度に終わるというものです。
 交通整理をしておくといった情報交換になると考えます。
 これは 規約の精神にも そして 規約の条項にも 合致しているとわたしは考えますので 質問者として そういう姿勢で臨んでいます。それでも 規約違反の議論をしていると言われれば もう わたしは あぁ そうですかと返すほかないというところです。

 たぶん pokoperopo さんは この基本的な考え方から遠く離れておられるわけではないと思います。ただし さらに何とかならないか もっとうまい方法はないものかと探っておられるのではないでしょうか? ですから わたしの場合は 実際に 規約にも合致して わたしの哲学の考え方にも沿った理想的な情報交換としての質疑応答を 実地に おこなっていくことで 新たな地平に ともに 駆け上がりたい。こう思うのみです。

 おっしゃっていることは 原則であり 原則として 妥当だとわたしも考えます。世の中にあるのは この原則が想定している人びとの行動だけではないようなのです。違反しているというよりも その違反の状態であることが分かっていないという場合が あると わたしは 分かったわけです。
 ちなみに なぜこのように地球外知性が現われたか。わたしの考えでは スーパー歴史知性によってふつうのイリ歴史知性がパクられて 超道徳規範として打ち出された《和の精神》が 厚い壁となって 立ちはだかり これは 人びとを 次から次へと 絶望の淵へ落とし込んで行ったからだと見ます。
 素朴な生きた横の関係としての《和》が 縦の関係となって 規範として堂々と掲げられ頭の中にいつもひんぽんと翻る不動の大旗と化した《大和(やまと)》に取って代わられています。
 あとは どうも 独我論とやらが 同じく 人びとの頭の中で こんな旗などは もはや 自分には関係ないと言い聞かせるようになった。つまり 自分のほうから――アマテラスではないふつうの市民のほうから―― 死んでいけばいいのだと思うようになったのではないか。うんぬんです。どうでしょう?

補足日時:2009/05/28 07:31
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ぽこぺろぼです。

ご感想をいただきありがとうございました。常に「存在を愛し、欠陥を憎む」とおっしゃりますね。ここで疑問が生じました。

 まあ、対話に関する認識の錯綜につきましては、私にも責任の一端がありますから、今後の課題となりましょう。議論が生じる可能性を認めなかった方がいらしたのは、少しばかり驚きましたが、私は議論を禁止しても起こり得る以上は、編集の他にも方策があるのではないかと問題提起した次第です。

 さて、本題はこちら、お礼をしない子供が溺れている場合です。彼は、あらかじめ対話を拒絶しています。仮に、断崖絶壁に立たされても、お礼はしないと宣言しているわけです。実際に、彼は溺れてしまいました。私は彼の《存在》を愛します。しかし、彼は自己の《存在》よりも、自己の《欠陥》を愛したのです。このような相手とは、対話が成立するのでしょうか?

 独り言にしても意義を感じません。見殺しにするといえば聞こえは悪いのですが、彼には《命》より大切なものがあるのです。三島由紀夫の矛先は曲がっていますが、信念による命懸けには敵いません。前拙問にて、私が皆さんに説得されたのとは、わけが違うのではありませんか?
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この回答へのお礼

 pokoperopo さん ご回答をありがとうございます。

 まづ
 ★ 議論
 ☆ のほうは たぶん もっと ことは 単純なんぢゃないでしょうか? つまり 水かけ論になったり どちらも言い分だけを繰り返していて 堂々めぐりになったりする場合 このような場合としての議論を 《禁止》としているということではないでしょうか?

 ★ お礼をしない子供が溺れている場合
 ☆ これは どこまでも 単純化になりますが
 ○ 存在の保障が 最優先される。
 ☆ と考えます。極悪人でも 医者は 生命救助が先です。一般は この医者の言うことを 聞くべきです。
 そうでなければ この
 ★ 自己の《存在》よりも、自己の《欠陥》を愛した子ども
 ☆ と 対話をつづけることも出来なくなります。親 特に 母親は 医者の立ち場と同じなのではないですか?
 たぶん pokoperopo さんは 助かってからのことを おっしゃっているのですよ。どうでしょう?

お礼日時:2009/05/27 23:42

いつもご丁寧なお礼を下さりまして、本当にありがとうございます。



>Achille enivre   au "Cimetiere marin"

Parfait!!!
素敵な詩ですね!
完璧に美しすぎるので、とうとうギックリ腰になってしまいました~
特に、第2節目が何といっても諳んじていて心地良いです。
抑揚も含めてとにかく悩ましすぎます。
「一行の音節数を合わせ 韻を踏んで作ることは どのくらい むつかしいのかを実験したまでですので」なんてサラリとおっしゃらないで下さいませ。
本家のかの君を凌いでいるのではないでしょうか?! 
う~。←吠えてる

bragelonne様、凄すぎ。 三跪九叩の礼状態です。
こちらの詩で特にご自身でこだわった箇所はどちらなのでしょう。
第4節目のくだりなのでしょうか?

で、同じくひっくりかえったのは、「Sensation」のあの訳がそれほどお若い頃のものだったとは!!!
「おんななどを従えて」は「ぶっきらぼう」な感じで、bragelonne様のあの訳には、やはり一番相応しいと拝察致しております。
以前英語訳を見かけたことがあるのですが、「as happy as if with a woman」(暫定私訳)だと、何だか「あれれ?」な感覚に襲われるのです。
やはり…言語的な音感によるものでしょうか(笑)

>《全単射》なら 相互の理解がなめらかに行っているということですね。理想的であると。

はい、かぎりなく理想的かもしれません。
ですが、「相手を説得する」という行為自体が本来は決して楽観的なものではないのかもしれません。
いかに優れた理論やアイデアとはいえ、わたくしたちはその発案者の意図や思惑をも自ずと察知しつつ、かつ、相手との駆け引きやバランス、更には自らの「損得勘定」をも加味しながら、本当に納得できるかどうか判断していっているように思えてならないのです。


そうは言っても、やはり、基本は対話ありき、発案ありき、かと思われます。
幾ら気の利いた偉そうなことを主張しているようでも、所詮は誰かの見栄えの良い意見をマイナーチェンジしたものにすぎない、ということが多い中、bragelonne様のアンテル・ムライスムは本当にユニークで独創的だなあ、と感心致しました。
抽象的な理論ゆえに愚鈍なわたくしは現実と混同したりしてテンテコマイに何度も陥りましたが、おかげさまで色々と勉強させていただきました。
(ここだけの話、今までの稚拙なわたくしの回答の中で、No45の図式が一番気に入っているのです、フフ♪ 笑い飛ばして下さいませ。)


いかに、自分が無知の知すら知らず、表層的に物事を捉えて満足していたか、p様の絵画論でも身にしみました。
哲学カテの方々の洞察力っていうのは、素晴らしいと思います。
記述力、表現力がどうの、という問題ではないことが良くわかりました。

「わたくしとは何者か」と自ら問うた経験すらなかったわけでして、少し哲学カテを離れて静かに頭をリセットしてみたいと思います(つまりついに思考停止状態、笑)

また厚顔無恥な質問がお目にとまった際は、ご教授のほどよろしくお願い申し上げます。ありがとうございました。
(p様もどうもありがとうございました。またご教授お願い申し上げます。必ず全て読破します!)

この回答への補足

 ご回答をありがとうございます。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「相手を説得する」という行為自体が本来は決して楽観的なものではないのかもしれません。
 いかに優れた理論やアイデアとはいえ、わたくしたちはその発案者の意図や思惑をも自ずと察知しつつ、かつ、相手との駆け引きやバランス、更には自らの「損得勘定」をも加味しながら、本当に納得できるかどうか判断していっているように思えてならないのです。
 この点につき、いかがお考えになられますでしょうか。

 そうは言っても、やはり、基本は対話ありき、発案ありき、かと思われます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これが 実践論として 或る種の仕方で 壁のごとく 立ちはだかる課題であるでしょうし もうひとつの見方としては ゆっくり じっくり 時間をかけ 人びとの同意を得つつ 水嵩を増して行って ことに当たらねばならないところなのでしょうね。
 勝海舟と西郷隆盛の直談判によって 無血開城の明け渡しになったことは 二人の人柄や境涯によることも然ることながら もはや徳川幕府には 人心を掌握し 社会を主導していく思想的な基盤が消えてしまったと見られると聞いたことがあります。まさに 情況の全体を見て判断せねばならないでしょうし しかも それまでたどった経過の質と量などなどが さまざまに影響し合って 流れをかたちづくっていることでしょう。
 ★ そうは言っても、やはり、基本は対話ありき、発案ありき、かと思われます。
 ☆ の上に ここでは わたしは 哲学の徒に似つかわしからざる発言として 運の良さを挙げたいと思います。テオドリック大王は 先駆者のオドアケルがやったこと・やろうとしたことの上に うまく乗って 運良く 統治を運びました。
 あとは 《駆け引き》などというものは まったく どうでもよいのだという見解もあれば いやいや ほんの些細なことで 駆け引きのごとくに 右か左かを決めたことが 大きな分かれ目になったという事実もあるかも知れません。
 自分自身の損得など どうでもよいという勇ましい(?)考え方は たぶん 通用しないでしょうし もし通用したとすれば その考えの持ち主が 指導者になっても 人びとは あまり 面白くないのではないか。そのあたりの事柄は もはや 軽々と論じるべきではないでしょうし おそらく 個別にその案件ごとに 事情が違うでしょうから 論じることは出来ないと言うべきなのでしょう。
 鳩山由紀夫が 友愛ということを――前から 言っていましたが―― 持ち出して来ましたね。潮の流れが 変わるでしょうか。燕が一匹では 春にはならないでしょうか。(これは ただ わたしが やや面白がって 言っている部分もあります)。

 あぁ これで 一たん 休憩ですかねぇ。
 あぁ そういえば a様が戻るまではとおっしゃっていたぢゃないですか。ま 最良の道は 変更に変更を重ねるものですが。
 取りもあえず この不愛想のままにてです。a bientot.

補足日時:2009/05/26 11:01
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God morgen!


ノルウェー人女性の友人宅に遊びに行った時、寝るときにトップレスだったから焦ったことがあります。
たまたまだったのでしょうか?
bragelonne様のID名にオマージュをこめて。
(だってご自身でおっしゃっていらしたでしょ、これ。 またまた腰を抜かしました、笑)

>○ 永遠の現在
>☆ という観想としての視点 もしくは 思想(生活態度)に進まれると思います。

はあ。哲学カテ潜入以前と以後もエピキュリアンな「永遠の現在」というスタンスは何ら変わってはおりません。
今後歳を経るとともに、さらにその想いが強くなるのでしょうか。

>○ 固有時
>▲ (ヰキぺ:全単射) 

この図は理解したのですが…これはコミュニケーションをする上で「教える」「教えられる」における一時的な断絶によって単射、全射、全単射と異なるということをおっしゃっていらっしゃるのでしょうか。
と思って、わざとこちらの質問に移動したわけなのですが。
 
>縁覚 (Sensation)

  Par les soirs bleus d'ete, j'irai dans les sentiers,
  Picote par les bles, fouler l'herbe menue
  Reveur, j'en sentirai la fraicheur a mes pieds.
  Je laisserai le vent baigner ma tete nue.

  Je ne parlerai pas, je ne penserai rien
  Mais l'amour infini me montera dans l'ame,
  Et j'irai loin, bien loin, comme un bohemien,
  Par la nature, heureux comme avec une femme.

「縁覚」って一体なんですか?
「タイトルのsensation」「夏の青い夜などに わたしは小さな野径をたどる」「ただ果てしなき遥かかなたへ」「ボヘミアン」で、おそらくこの詩かと。
これはね、諳んじることができる数少ない詩の一つです。
で、第2節目からは、少年のハスキーがかった声が加わって、一緒に諳んじている不思議な錯覚に襲われるのです。

以前、「ビートルズの曲って、女の子には100%はわかるはずないよ」と言われたことをふと思い出しました。
この風来坊な感覚って、ある時期の男の子特有のものでしょうかね。
わたくしもどちらかというとフラ~リ、なのですが。

「俗界を隈なく」「西」ですか…。
Yspania? finis Africae?
オリジナルがbragelonne様の手にかかると、深遠で敬虔な宗教的ニュアンスに彩られているかのように感じられます。
「西方」というのは…日本人の宗教的な方向を指し示す「sensus communis」なのでしょうか?
わたくしは、何故かカマルグ地方の湿地帯と海が浮かびます。
つまり、「南」です。 

>☆ 哲学のほかに 文学の問題があるということ。もうひとつには 道草を喰うことにも意義があるだろうということ。

哲学の道において道草を喰うことと、哲学の道における「無駄」「ロス」とは似て非なるものなのでしょうか。
哲学にかぎらず、お互いのどちらかが「無駄」「徒労」「飽きた」とするならば、コミュニケーションは途絶えてしまいがちになるわけでして。
ちょこっとpokoperopo様に問われまして、「解をbragelonne様へふっちゃえ!」と丸投げさせていただいた次第です♪

この回答への補足

 シャローム(安寧)ハシムニカ! Ms.masumaro2 .Jeg takker for svaret.(これは オンライン翻訳です)。

 ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   Achille enivre   au "Cimetiere marin"

On erre sur mer vers une mere
D'une terre septentrionale;
On s'inquiete en quete de Sete,
Une villette meridionale
Dont un poete de Zenon traite:
Comme Achille on flotte a bord
Entre a butte son Cimetiere
Et sa mere qui loin soit a la mort.

Torture, tantalise, point agile,
Depuis avant-hier peu avant minuit,
Pauvre Achille au talon fragile,
La butte comme une tortue devant lui,
Il faut s'en retourner ...sur sa chemin...
Chez soi...toute la voie; On se hate
Sur mer, songeant, ce silencieux matin,
Tant a sa mourante qu'a son bat.

O mirroir morne de la Mer romaine,
Malade a la mort est ma mere!
Ah! pauvre maman, pantheiste reine!
Qui t'amene? quel vent mauvais et amer?
Mechant typhon fruitant des mechantes pluies?
Que je hais de notre hemisphere
Bien qu'elle maintes cereales produit
Cette hemoragique saison fiere!

O mon pere, a votre mystere
De la fleche ailee et solaire,
Je me prete, et je le regrette!
Je volais, voyageais, et ne volais pas,
Jusqu'a ce moment, ce triste trepas,
Comme une planete ou une flechette
Qui vole immobile a l'envers!
Inaccessible etiez-vous, mon pere!
 ・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ (1) 豚もおだてりゃのごとく ランボ・サンサシオンの翻訳の評判に気をよくしまして。(2)西欧に――生活基盤としては――さよならを言っている例として。(3)南のカマルグに近い土地ということで。
 ☆ 《縁覚――独自にさとりを開く境地―― / 俗界 / 西方》が ブッディスムの用語です。

 ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 >○ 固有時
 >▲ (ヰキぺ:全単射) 
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは ひょっとして 通じていらっしゃるかもと思ったものですから。
 ★ これはコミュニケーションをする上で「教える」「教えられる」における一時的な断絶によって単射、全射、全単射と異なるということをおっしゃっていらっしゃるのでしょうか。
 ☆ なるほど。これは おもしろいですね。《全単射》なら 相互の理解がなめらかに行っているということですね。理想的であると。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 哲学の道において道草を喰うことと、哲学の道における「無駄」「ロス」とは似て非なるものなのでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これについては 自信があります。これこれの主題は 《無駄・無益・どうでもよい・ロス》等々と規定しておけば あとは その主題をいじくるにしても 自由に 道草を喰うことができます。そういう問題だと考えます。
 その場合は たぶん 《全射・単射》が 互いに別次元のものと おこなわれている。つまり あそびですね。広い意味の文学だと思います。

 ★ この風来坊な感覚って、ある時期の男の子特有のものでしょうかね。
 ☆ これは はっきり言って 個人差があります。これぢゃ 答えにならないのですが 仕方ありません。わたしの親父は 若い頃 仕事先でウマが合った人と その日 仕事をほっぽり出して その人の故郷だというので 九州まで 突然 旅をしました。晩年 ひまを見つけては 奈良・大和地方へ行きっぱなしでした。たぶん 男は いつまでも 男の子だと思います。
 ☆ そう言えば bragelonne の語源は なんでしょう? あの回答に対しては その投稿者の名前におつきあいしたまでですので そこのところを よしなに どうぞ。

 これで ぜんぶ お応えできましたかね。盛りだくさんですよね。あの詩が 幅を取ってしまいましたね。(いくつかあるのでは ありませんので その点も よろしく。つまり 一行の音節数を合わせ 韻を踏んで作ることは どのくらい むつかしいのかを実験したまでですので)。

補足日時:2009/05/25 14:09
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この回答へのお礼

 補足です。

 ランボ訳詩において
 ○ おんななどを従えて
 ☆ という無神経な文句は 《縁覚 / 俗界 / 西方》の抹香臭さを消すために どうしても そこに行きました。なら 仏教風を消せばいいではないかとも考えましたが そのときは まだ アウグスティヌスにも出会っていませんでした。なら もう今は 持ち出してくるなとも思いますが どうでしょう。手直しできますでしょうか? もう今は というより二十代まででしたから 創作は むりですね。――ごめんなさい。

お礼日時:2009/05/25 14:36

<br />  さて、問題は対話意欲もさることながら、対話への認識です。現在は、以下のような状況にあります。<br /> <b

が禁止されているのか QNo.4971420

 もうひとつ、これは回答へのお礼を暗喩してのご質問とのことです。

お礼をしない子供がおぼれています。 QNo.4974651

 対話への道は果てしなく遠く、説得はアンドロメダの彼方にあります。よろしければご感想をお聞かせ願います。
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この回答へのお礼

 pokoperopo さん ご回答をありがとうございます。

 ですが 今回のご回答内容には 質問者ですが わたしは 賛同いたしかねます。

 【Q:なぜ議論が禁止されているのか】
 ☆ これについては わたしの考えは 単純で はっきりしています。
 質問の主題ないし趣旨に沿って 回答を寄せ その内容について 質問者・回答者の双方が さらに 吟味・検討していく。よりよい解を問い求めていく。――これに尽きます。
 その質疑応答の過程で 議論と呼ぶべきことがあったとしても それは 二次的な問題であると 主観的には 心得ています。それで 規約に抵触するのなら もはや 仕方無いと見ます。
 きわめて 単純です。
 それ以外に 多少の寄り道をしたり 派生する課題や話題に触れたりしても いいでしょうし いいでしょうが あくまで 問題は 質問の問い求めを どこまでも 追究すること この一点です。どうでしょう?

 【Q:お礼をしない子供がおぼれています】
 ☆ これも わたしの反応は 単純で はっきりしています。存在を愛し 欠陥を憎む。この原則です。生命救助はします。そのほかの欠点は それとして 自分の中にまづ認識し これを・つまりその観念を 憎み棄てる そして その棄てたことを その相手の子どもに伝える。――ここまでの作業を ひとまとめとして おこないます。わたしにとっては この問題で 議論の余地はありません。つまり わたし本人が どうするかですから。

 ですから これら二つの質問の主題をめぐって 一般的に言って みなさんは 尾ひれをつけたり 飾りを飾ったりして それこそ 議論をしておられるように見受けます。そういう意味で 今回は 賛同しかねました。どうでしょう?

お礼日時:2009/05/23 22:55

ぽこぺろぽ上等兵であります。

3度目の蟄居を命じられ、不名誉除隊寸前であります。しかるに、もとよりの無学に加えて、舌鋒鋭くというわけには参りませんがおゆるしください。

 彼らを水飲み場に連れていくには、水の安全性や美味さを説くことではなく、《渇き》という本能に訴えるのが鍵となるでしょう。いや、むしろ「み、水をくれ・・」と相手が懇願するようになれば儲けものです。ということは、予め水のありかを示唆することは、説得方法として下策なのではありませんか?

 この《渇き》を引き出す方法が、対話と呼べるのでしょうか?対話というものは、自らも主張すると同時に、相手の主張も許すということです。そうなると、水飲み場よりも普段の牧草地での生活がいいやということになり、水飲み場のありかを教わりたいという願望が生まれにくくなります。対話にもかかる必要性に応じた力学が働くので、説得と呼ばれる状態にあること自体が、説得困難な状況の証左と考えますが、いかがでしょうか?

この回答への補足

 pokoperopo さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 3度目の蟄居ですって? 少々荒いことをやっておいでになるスサノヲイストでいらっしゃいましょうか。ほうっときますよ。

 今回のご回答へのお応えは 比較的かんたんです。
 ★ 彼らを水飲み場に連れていくには、水の安全性や美味さを説くことではなく、《渇き》という本能に訴えるのが鍵となるでしょう。
 ☆ これは おっしゃるように
 ★ 予め水のありかを示唆することは、説得方法として下策なのではありませんか?
 ☆ です。そのとおりだと考えます。
 つまり 決して 《水の安全性や美味を説く》ことはしていません。ただただ 主題に応じて 自分の見解を述べて 対話をすすめているだけです。《〈渇き〉という本能に訴える》ことも 決して けっきょく それとしては していません。すべて 主題をめぐる問答のすすむところなのだと考えます。 
 つまりは とうぜんの如く わたしたちは みな 水を求めています。そのことが 対話の過程で 分かってくる。気づいてくる。ただ それだけです。つまり それだけで すでに 水飲み場まで馬を連れていったことになります。決して 策を弄しているわけではないのです。

 ★ この《渇き》を引き出す方法が、対話と呼べるのでしょうか?
 ☆ たしかに おのづから 《渇き》に気づくようになるということは 《引き出した》かたちになっているようですね。でも それは つねに そういう状態にあるということではないでしょうか。それに気づかないのは その水を もう まったく 問い求めないという場合でしょう。要するに 水を棄てたという人の場合だと考えます。
 ということは 気づいてよかったという人の場合が まづ あります。ただし そのとき 気づかされたと思うと 素直に 飲もうとはしない。のが 多いのでしょう。
 気づかないという人がいます。気づいても 気づいただけ さらに 遠ざかるということなのでしょう。むろん ほうっておくしかないと考えます。
 ですから 次のご批判に対するお答えは 決まっています。
 ★ 対話にもかかる必要性に応じた力学が働くので、説得と呼ばれる状態にあること自体が、説得困難な状況の証左と考えますが、いかがでしょうか?
 ☆ 対話ないし説得というとき じつに 焦点が違うという前提があります。あくまで 対話も説得も 一定の主題について すすめるというものです。水や渇きのことを 直接には あつかっていません。
 しかも そのことに気づかされるというのは ひとつに 哲学というのは そういう人間問題をあつかうということ。ひとつに 人は つねに 水と渇きの問題を かかえているということ。という事情なのだと考えます。どうでしょうか?

 ★ 水飲み場よりも普段の牧草地での生活がいいやということになり・・・
 ☆ ですから くどいように繰り返すなら 《水と渇き》の問題は 《普段の牧草地での生活》の真っただ中に つねに 起きている。それは 《水飲み場》への場所としての移動の問題ではない。というふうに思われるのです。

補足日時:2009/05/21 20:23
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bragelonne様、こんにちは。


ご丁寧なお礼と明快な図式説明に対し心より感謝申し上げます。
ありがとうございます。

>☆ 第二と第三の段階のちがいは ふつうの勤勉とスーパー勤勉すなわちガリ勉との違いと見ると 分かりやすいかも知れません。

この「ふつうの勤勉とスーパー勤勉すなわちガリ勉との違い」とおっしゃるところの意味は、「経済性」「効率性」をどう捉えるかの差異、と受け取ってもよろしいのでしょうか。

>どういう時代の到来を望むかと考えれば 
>ゴートの王で ローマ(西ローマ)を短いあいだ支配したテオドリック大王
>その統治のもとでは 街道には 追い剥ぎが出ないどころか 落とし物をしても 持ち主に返ってきたと言います。
>そういう治安のよさのもとでの生活がよいように思いますが どうでしょう?

はい、昨夜『ローマ世界の終焉━ローマ人の物語XV』(塩野七生)の第三部をざっと読みました。
オドアケル以降の「パックス・バルバリカ(蛮族による平和)』政策により、「平和」が人間社会にとっての究極のインフラストラクチャーであることを示した良い例かと思われます。

同著において当時の特徴としましては、ほかに、「敗者の活用━被征服者であるローマ人の登用」「宗教的寛容さ━支配層(アリウス)と被支配層(カトリック)の共生」が挙げられます。
元来のローマの「多神教」の精神的土壌を勘案しても、なかなかに目指すところの理論の理想としては目の付けどころがよろしいのでは、と感服しながら拝察致しております。

ちなみに、bragelonne様のおっしゃる「治安の良さ」は一体なにをよりどころになさるのでしょう。
「sensus communis =共通感覚 あるいは 情感の共同性」なのか、それとも「宗教的なモラル」によるものなのか。
ときおり、哲学カテにおいて、「無宗教によるモラルの欠如が云々」といった道徳心の欠如を憂う回答を目にします。
「無宗教」の定義が何たるか、なわけなのですが、≪絶対神≫を意識しないわたくしにとりましては、少し気になったものですから。
(もちろん絶対神を否定する気など微塵もございません。
要はあまり深く考えたことが無く、まあ、死んだら夫の家のお墓に仲良く入るんだろうなあ、というしょぼいレベルの意識にすぎないだけです。)

あとですね、コマ論理はオリジナル発案のb様のものなので。
科学の法則に例えるなら、あくまで理念とはいえ、人間の「フラストレーション系」による集団の中のストレス発生は化学物質の粒子の成長則同様決して否めない、というのはいかがでしょう。

多少の粒子の不揃い(三角形、五角形、七角形…=必要悪を自認する泥棒?追いはぎ?)といったように不揃いにして均衡がとれないようにすれば、結晶全体として成長するように、人類もまた日々進歩していくのではないでしょうか。
「粒子の平均の大きさ=定数x(時間)mという「粒子成長」の法則から考えてみました。
まあ、個人的には追いはぎなんて遭遇したくはないですが(笑)、ちょっと、パリにいる物乞いやスリで生計を養っている方々を想うにつけ、何をもって自らの理念・理想とするかが難しくも思えたまでです。
なかには、バタイユの「完全な常軌逸脱(境界の不在に身を委ねること)は、共同体の不在のための規則である。」なんてぬかす人々もまとめ上げることになるのですから。
理論をどこまでも純粋に究めていくほどに、何故か現実世界との乖離が生じていくような気がしてなりません。
理論とはそういう性質のものなのでしょうか。

で、今回わたくしが腰を抜かしたのはですね、コレ↓
> ○ やはり どこまでも対話。とことん対話。いかなる事態になっても対話。です。
> ○ ただし相手が この対話を意図的におろそかにする場合。あるいは こちらの人格じたいを無視するような表現を使った場合。このときには その表現行為がどういう内容を持つかを説明しておいて それが改められなければ その対話を打ち切ると告げる。または 実際に その場で 打ち切る。

これって…銅剣と銅鐸ってことになるかと…。
コミュニケーションの肝心肝要な点は、「対話によって生じた誤解をいかに解くよう説得し、お互い尊敬の念をもって再度同じテーブルにつく」ということではないでしょうか?

小娘(40前半女)がエラソーに申してすみませぬ(ぺこり)
ps:「ヒナ」についてはまだ思案中です♪

この回答への補足

 mashumaro2 さん ご回答をありがとうございます。

 ★ これって…銅剣と銅鐸ってことになるかと…。
 ☆ 対話の問題ですね。
 ☆☆ さらにさらに考えてまいりましょう。
 ☆ と結んではいますが 過激あるいは了見が違うでしょうか。
 ★ コミュニケーションの肝心肝要な点は、「対話によって生じた誤解をいかに解くよう説得し、お互い尊敬の念をもって再度同じテーブルにつく」ということではないでしょうか?
 ☆ たぶん もし違いを際立たせようと思えば わたしの場合は こう定義します。
 ○ 互いに まづ 主題を共有する。その解法の問い求めに向けて 話をすすめる。その際 互いに 推論の誤謬や飛躍について 指摘し合い よりいっそう妥当な内容を得るよう目指す。
 ○ このとき 主題をすり替えたり 推論の誤謬を認めなかったり 関連事項ではあるが その知識のお披露目に時間を費やしたり等々と 要らぬことをおこない これを指摘しても おこないつづける場合には そのことをも指摘しておいて その対話を見限る。
 ○ その意味は 別のひとが こちらの役割を引き継ぐというかたちを想定することである。
 ☆ どうでしょうかねぇ。腰を抜かしてもらっては いけなかったですね。
 ○ 問題は もし それでも わたしが その対話を そのまま続けるとすれば その対話における欠点を わたしが 認めてしまったことになることです。
 ○ いつまで経っても話は進まないだけではなく 次にも同じ人との対話が始まっても 同じ欠点が出ます。つまり 同じあやまちを繰り返しても その責任は 二度目からは むしろ その欠点を認めたわたしのほうにあることになります。

 ★ 多少の粒子の不揃い(三角形、五角形、七角形…=必要悪を自認する泥棒?追いはぎ?)といったように不揃いにして均衡がとれないようにすれば、結晶全体として成長するように、人類もまた日々進歩していくのではないでしょうか。
 ☆ はぁ そういうものなのですか。演技論でいうスタニスラフスキー理論のようですね。

 ★ 「治安の良さ」は一体なにをよりどころになさるのでしょう。
 ☆ 異者の受容 信仰形態の相違の認め合いが 基礎です。最終の根拠は ありません。無根拠です。言いかえると 人間であることが 基礎です。
 そのとき コモンセンスは よいほうに導いてくれると思います。モラルは モラルを重視する人びととの関係において 留意しなければならないでしょうが 大した要因だとは考えません。精神の努力には 限界があります。

 ☆☆ 「ふつうの勤勉とスーパー勤勉すなわちガリ勉との違い」
 ☆ につきましては 文化活動としても共同自治としても 経済活動としても すべてにつき イリ思想とその自己目的化としてのヨセ思想との違いだと考えます。自己目的化の《自己》は 代々の子孫に継がれるというふうに拡大され得ます。
 中国や西欧では この《統一第一日子》の座を自由に争ったのだと思います。日本では いちど明確にゆづったのだから そのゆづり返しを――なぜなら それだけの有徳のひとだと見なすからです―― 待っているかたちです。言いかえると スサノヲ市民らは みづからが 同じようにスーパー勤勉のヨセ思想になって 争うつもりはないみたいです。家康ぢゃないですが フェビアニスムのようです。

 まだ 触れずじまいの箇所もあるようですが きちんと留意しておきます。

補足日時:2009/05/19 20:23
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ぽこぺろぽです。

誰もが説得したいと願いますが、そもそも片側がそう願うこと自体が説得を遠ざけます。

 用語の定義を示すことも必要ですが、アマテラシズムでは明確な定義づけよりも、通りのいい言葉こそが有用なのです。ですから、それを問い質し、より適切な認識を知らしめようと試みることは、指導被指導の関係でもないかぎりは、通常のコミュニケーションでは受け入れられません。

 では、どうすれば問題の解決に十分足り得るコミュニケーションが図れるのでしょうか?おそらく愚鈍を装う必要があるでしょう。「オレはバカだから、お前も利口なことは言うなよ」というわけです。これはこの社会では、理に適った考え方なのでしょう。なぜなら、「理外の理」を求めているからです。よく論争になると、横から「理屈じゃないんだ」と得意げに叫ぶ人がいますよね。私は以前はそういう人を「ここは論争の場だから」と窘めていましたが、今では彼らにとっては、あれこそが理論武装なのだろうと、考えを改めるようになりました。

 しかし、わたしには彼らの本意がわかりかねています。というわけで、私には彼らを説得するなど、とてもできません。少なくとも、進んで耳を貸してくれるようにするには、どうすればよいのでしょうか?

この回答への補足

 pokoperopo さん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。二つの側面があるように わたしには 思われます。
 1. どこまでも 理論を しっかりと精緻なものに仕上げる。
   1-1. ここで 情感を 文面に表わせるかどうかなどの問題が
    あるのかどうか。あって それが 出来ればいいでしょうが まだ
    必ずしも よくは 分かりません。
 2. 実際に その理論をもって 説得する場合。
   2-1. とうぜん 基本的に言って 対話という事態だとおもわれ
    ます。どちらにも 表現と発言の自由が じゅうぶんに 保障され
    ることが 第一でしょう。
   2-2. あとは たしかに 具体的に 相手とのやり取りについて
    いろんな事柄が 課題になったりするのでしょう。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 2-2-1.アマテラシズムでは明確な定義づけよりも、通りのいい言葉こそが有用なのです。
 ですから、それを問い質し、より適切な認識を知らしめようと試みることは、指導被指導の関係でもないかぎりは、通常のコミュニケーションでは受け入れられません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは アマテラシズムの影響下にある一般の人びとの状態ですね。たぶん 放っておくことになると わたしも 思います。
 アマテラシズムの唱導者(アマテラス公民)に対しては 理論およびその政策としての位置づけについて 説明することでしょうね。さらにそのあと 政治的な判断が 控えています。そうして アマテラス語の問題 つまり こちらのスサノヲ語と あい通じ合えるかの問題があるようです。
 上の一般の人びとの問題をさらに追究しておられます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  2-2-2. では、どうすれば問題の解決に十分足り得るコミュニケーションが図れるのでしょうか?
 おそらく愚鈍を装う必要があるでしょう。これはこの社会では、理に適った考え方なのでしょう。なぜなら、「理外の理」を求めているからです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ たぶん 《装う》という必要は ないのではないか。説得するために 人間性を失わない限りで 必要十分な策を取ろうとして そうしたという場合が あるかと思われます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 2-2-3.  しかし、わたしには彼らの本意がわかりかねています。
 というわけで、私には彼らを説得するなど、とてもできません。少なくとも、進んで耳を貸してくれるようにするには、どうすればよいのでしょうか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ここで 無難なまとめ方は 《馬を水飲み場まで連れて行くことは出来るが 水を飲ませることは出来ない》ということなのでしょうね。
 ひとつにたとえば 言葉の用法を 人びとに合わせることも必要なのでしょうか。《マインドコントロール》は 行動の結果を良い方に導けるように自分に暗示をかけるというように 積極的な意味に使うようにもなっていますね。
 あるいは 《洗脳》という言葉について あたかも良い方に導けるように洗うというような用法が 出てきたのかも知れません。
 そう考えると やはり おっしゃっていたように
 ★ 用語の定義を示すことが必要
 ☆ であるというのは 基本であるように考えられます。

 いまのわたしの結論としては
 ○ やはり どこまでも対話。とことん対話。いかなる事態になっても対話。です。
 ○ ただし相手が この対話を意図的におろそかにする場合。あるいは こちらの人格じたいを無視するような表現を使った場合。このときには その表現行為がどういう内容を持つかを説明しておいて それが改められなければ その対話を打ち切ると告げる。または 実際に その場で 打ち切る。
 
 さらにさらに考えてまいりましょう。

補足日時:2009/05/19 08:44
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