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 コミュニケーションについて問います。

 【Q‐ω】 人間は すべてのひとを 説得することができますか?
 ☆ わたしの感触を述べますので ご見解を述べやすいように たたき台としてください。
 【A‐ω‐br.】 (1) 感性ないし情感を措いて考えるなら すべての人びとが納得するような理論は 提示し得るだろう。
 (2) ひとが納得するかどうかは 説得者の能力や努力の及ばぬところである。
 (3) よって 理論によって すべてのひとを 納得させうるが 説得し切れるかは 分からない。

 ☆ そもそも コミュニケーション論です。
 【Q‐α】 コミュニケーションとは どういう社会行為ですか?
 【A‐α‐br.】 対話です。三者の会話は 三つの対話から成るという意味です。

 ☆ 【Q‐ω】に付随して わたしの関心を持って知りたい課題です。
 【Q‐β‐1】 説得に際して 第三者は どんな役割をにないますか?
 【A‐β‐1‐br.】 (1) 対話の主体として 話し手(書き手・発信者)と聞き手(読み手・受信者)の関係を おのれひとりの内面に 機能させるために きっかけとなる。
 (2) その意味では そばにいて欲しいと同時に 仲介者の役をになってもらってもよいのだが 基本的に 説得行為ないし対話には その発言は 加わらないのではないか。
 (3) 前項は 第三者の存在が 重要であり大事だ。と同時に 一対一の対話の発言には 局外者となるのではないかという意味です。

 【Q‐β】 コミュニケーションの主体について どういう事項が 心得なければならないことですか?

 ☆ 研究論文などは読んだことがありません。でも コミュニケーション論として 実質的に 最先端を行く日本一の内容を目指します。問い求めの過程として 世界一を目指します。
 ふるってご投稿ください。おしえてください。

 なお これは 【Q:ぶっきらぼうは いただけませんか】および【Q:けんかをしては 何故 いけないのか】の続編です。

A 回答 (53件中31~40件)

>なんで 自分で決めるんですか。

神のことを なんで 人間が 自分で判断し 決めつけるんですか。冗談ぢゃない。
>何さまなんですか。ぜんぶ 受け留めているにきまってるぢゃないですか。

>★ 富に仕える
> ☆ ことがあったにしても すべて みちびかれます。なんで 人間のあなたが 心配するのですか? 
>神にでもなったのですか?


あの、自分で決めなくていいんですか?
もちろん私は神ではありません。

私は勝手に自分で決めつけてる。。。

これがエゴイズム?

だとしたら

キリスト教をどう解釈すればいいんですか?

この回答への補足

 yukiyama20 さん ご回答をありがとうございます。

 こういうことです。
 コミュニケーションは 相手のあることです。相手とは わたしと同じ人間存在です。人間という存在には 自由意志があります。ほかの動物とちがって その自然本性には 意志による自由な選択という判断ならびにその実行があります。
 だからこそ 説得といった要素をふくむ対話がおこなわれます。
 これが 人間どうしの世界です。
 《エゴー》つまり《わたしは これこれを判断する / あれそれを実行する》というのが この世界です。みな エゴイズムのもとに 生きています。
 だいじょうぶです。すべて しかるべきところに落ち着きます。最終的には 万事あいはたらいて 益になります。だそうです。
 これを 全体的に 秩序ただしく ことが運ぶようにと しきりたいというのが 神のように如何なるものの下にも立つまいと決め込んだ超歴史知性――スーパーアマテラス神話――です。
 エゴイズムをも よく用いる共生の生活をいとなもうとするのが スサノヲ市民です。スサノヲ人間語とアマテラス人格語との 言語のちがいが 出てきます。しかも これらのあいだで コミュニケーションをはからねばなりません。たとえば そのためのキリスト信仰です。無根拠にもとづく非思考=信仰です。
 でもこの非思考なる心の明け もしくは 伸びが 経験思想の形成に ちからあると考えられます。
 ★ キリスト教――つまり その宗教 つまりその教義(《文字》ですね)――
 ☆ これは へのかっぱです。非思考なる信仰を 外に出してしまって 自分たちで 勝手に 教義としているだけです。エレミヤ書31:31以下を読んだでしょう。《教義をおしえるなどということは いっさい なくなるし ない》のです。
 教義などに関係なく 
 ○ ぜんぶ 受け留めているにきまってるぢゃないですか。
 ☆ つまり 誰かは 分かっているでしょうね。教義を知っているかどうかに関係ありません。また その教義があるからというので 後生大事に あたまに頂いて あたかも道徳規範に従うというかのように 実行するのだというのは 自由ですが 非思考=信仰の問題ではありません。経験思想や信念の問題です。
 信念や経験思想によれば その努力にしたがって 報いを受ける場合もあれば そうはいかない場合もあります。信仰による場合にも 結果が どう出るかは 分かりませんが それでも
 ○ ぜんぶ 受け留めているにきまってるぢゃないですか。
 ☆ だめな場合は なぜだめか そして あらたに どうすべきか やがて 分かるようになります。万事あいはたらいて 益になります。なんで そうなるか 人間が つまり あなたが 詮索しても どうにもならないのとちがいますか?
 そのからくりが 知りたいのですか? でも 非思考ですよ。無根拠なのです。あやまつならば われあり なのです。
 あやまったと気づいたとき 非思考の瞬間が 与えられます。われに還るというような瞬間ですね。そのあと――そのあと です そのあと―― このあやまち あるいは 還ったというわれについて わたしは 考えをおよぼします。われ考える ゆえに われありというのは その後半の部分を言っています。あやまっても あざむかれても うたがっても そのわれは 存在しているからです。
 ★ キリスト教をどう解釈すればいいんですか?
 ☆ も へちまも ありません。耳をかたむけてください。その声に聴き従ってください。非思考は わが主観の中にしか ありません。教義や組織やヒエラルキアには ありません。
 究極のコミュニケーションを ぜひ どうぞ。

補足日時:2009/05/12 12:12
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すべての人を説得する事はできません。


何故なら、すべての人間は各々異なった言語体系を持っているからです。この場合の言語体系とは「ある単語を聞いた時に感じる心象の体系」です。

失礼ながら【A‐ω‐br.】でお示しの(1)~(3)は空論です。
(1)人が言葉を聞く場合「感性ないし情感」無しには理解できません。
(すべての人びとが納得する理論には数学の公理や科学法則など無矛盾な物が既に存在します)
(2)「説得者の能力や努力」は重要な要因です。営業マンの成績に差があるのは運ではありません。
(3)説得できるか否かは利害関係の有無が重要であって、お示しの(1)、(2)は関係ありません。

【Q‐α】に対する質問者さんのご回答には「力関係」の視点が欠けています。だから、【Q‐β‐1】が混乱した回答になってしまっています。
対等なコミュニケーションは、この世においては皆無に近いと思います。唯一、親友と呼べる相手との会話くらいでしょうか?
【Q‐β‐1】にある第三者が、自分より経験豊富だったり、理路整然としていたりすれば、そちらの意見が強くなる事は明白です。

【Q‐β】に対しては、語の統一(ディベートをする前には必ず行います)が最も重要だと考えます。失礼ながら、今回の質疑応答を拝見するに、質問者さんのお礼や補足がこんなに長々と書かれているのは、最初に語の統一が行われていないからと拝察します。脱線しているのはその証拠です。
折角の良い質問もこれ以上長くなってしまうと、新規回答者が投稿をためらうのではありませんか?
と、これも私からのコミュニケーションではあります。第一段階で問題が生じてしまっている事を、どうぞご賢察ください。

この回答への補足

 lioneater さん ご回答をありがとうございます。

 ひさびさのご批判です。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 失礼ながら、今回の質疑応答を拝見するに、質問者さんのお礼や補足がこんなに長々と書かれているのは、最初に語の統一が行われていないからと拝察します。脱線しているのはその証拠です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この点は 明らかに おっしゃるとおりです。文句なしに そのとおりです。そしてまた 副次的な主題(つまり αとかβとかの区分のことですが)のどこからでも ご見解をよせてもらおうとの魂胆です。ま そういう方針であると お答えいたします。(つまり すでに 発車していますので この方針に従います。途中で どうしても 立ち行かないとなれば ご助言にしたがいます)。

 さて そのほかのご指摘は 部分的に同意いたしますし せざるを得ないようですが 再反論がないわけではありません。
 あっ ちなみに
 ★ 語の統一(ディベートをする前には必ず行います)が最も重要だと考えます。
 ☆ につきましては ここで 《ディベート》をするつもりは ないです。投稿者の方が使われるご自分の用語を受けて こちらで対処してまいります。

 ★ 【Q‐α】に対する質問者さんのご回答には「力関係」の視点が欠けています。
 ☆ そうですね。これは 途中で おぎなうかたちになりました。
 ○ (No.19)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 【Q‐γ】 社会言語という問題
 【Q‐γ-1】 アマテラス人格語とスサノヲ人間語――社会階級言語として。
 ――社会の二階建て構造が現われたこと(つまり 国家の成立・展開・消滅)が 大きな論点であり 人間の存在のあり方として基軸を成すかとも思います。
 スサノヲ市民とアマテラス公民とは 話が通じるか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これが コミュニケーションにとっての社会力学との絡みという主題です。前前編の【Q:ぶっきらぼうは いただけませんか】で フーコの権力論にもからんで この《アマテラス‐スサノヲ》連関は まなざしの注ぐ・注がれる関係として ご回答を受け展開して来ています。
 この論点で ご見解がおありでしたら ぜひ ご披露ください。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 すべての人を説得する事はできません。
 何故なら、すべての人間は各々異なった言語体系を持っているからです。この場合の言語体系とは「ある単語を聞いた時に感じる心象の体系」です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ これは これまでに 一方で ひとにとって 内面主観に横たわるかのような《孤独》の問題として 他方で 他者の主観を受けとめたその《クオリア》の問題として すでに 議論に入っているとも見られます。孤独は どうも 共通であるようですし クオリアは どうも逆に 自己の主観による受けとめというくせ(エートス)や趣味の問題もあって どこまで共同のものであるか きわめて あやしいとも 問い求めが進んで来ています。
 どうか貴重な一石を投じていただければ うれしく思います。つまりは その《言語体系》の違いというのは いわゆる《他者性》の問題だと思いますが それにもかかわらず 意志疎通をこころざし続けるのが われわれ人間であるとも考えられますので 主観の共同化が成るかどうかの問題だと捉えています。

 ★ 失礼ながら【A‐ω‐br.】でお示しの(1)~(3)は空論です。
 ☆ これはですね。mashumaro2 さんから問いかけられて 次の例を出しました。
 ☆☆ (No.16) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ▲ 《復讐するは われにあり》と主は言われる。
 ⇒○ 仕返しは 大いなる自然史過程にまかせるべきだ。
  ○ ひとは おのづから 報いを受ける。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これを 《すべてのひとが 納得しうる》理論として 提出します。説得し切れるかどうかは 説得する側の能力と努力を超えたところにあるという見方は 暫定的なわたしの結論です。能力を磨き努力を怠らないのは おっしゃるとおりでして 何の異論もありません。ただし
 ★ (3)説得できるか否かは利害関係の有無が重要であって
 ☆ というご見解に対しては 対立いたします。納得する・説得するというのは ここでは 《利害関係にかかわらず》というのが 前提です。《人間として・人間であるなら》という意味です。机上の空論であっても 同意するかどうかを成否の基準にします。

補足日時:2009/05/12 11:28
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この回答へのお礼

 ★ 営業マンの成績に差があるのは運ではありません。
 ☆ 異論はありませんが ここでの問題の立て方とは 違うでしょうね。その商品によるという条件が 営業マンの事例には つくからです。やはり ここでは 理論の説得の問題なのです。その普遍性にかかわります。
 (あるいは エスキモーに冷蔵庫を売るかどうかの問題とも 微妙に 違います。エスキモーに一人でも 基本的に言って 要らないという場合があれば 納得や説得の中身が違うと言わざるを得ません)。

 ★ 数学の公理や科学法則など無矛盾な物
 ☆ このたぐいについては どうなんでしょう。 
 ★ すべての人びとが納得する理論
 ☆ に当てはまるとして いいのでしょうか? 内容が 人間の意志にとっては 無味乾燥なのではないかと 思ったりしますが どうでしょう。含まれるとしても 特に 問題はないと思います。

 だいたい お応えしえたかと思いますが いかがでしょう。

 ★ 対等なコミュニケーションは、この世においては皆無に近いと思います。
 ☆ ぎゃくに 六・七割の実情へともっていこうと致しております。自由に ご参加ください。

お礼日時:2009/05/12 11:39

・・・どうしてわかったんですか?



もしそうなら、
あなたは私より、私のことがわかっています。
そして私が今まで出会った人々の誰よりも。
あなたは何者なんですか?


私は理由をずっと考えています。

そして、今回の「母親」との関係は、「あの人」の再現だと思っています。
あなたは「あの人」に似ています。

あなたも黙っていなくなりますか?

どれほど私に能力が無いのか、なんなのか教えてください。
映画も小説もほとんど観ないし、読みません。


そして、見捨てますか?

さて、

最近、キリスト教ってなんだろうと悩むようになりました。
何も知りませんでした。


「だれも、二人の主人に仕えることはできない。
一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。
あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」


幸せになりたいから、神を信じるという理由は
間違っているんでしょうね。

それともこの解釈は違うのでしょうか。

「何よりもまず、神の国と義を求めなさい。」


神の国と義が、まだわかりません。
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この回答へのお礼

 yukiyama20 さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ★ 神の国と義が、まだわかりません。
 ☆ 分かったほうが いいでしょうけれど 分かったから 息を吹きかけられる(つまり 聖霊によるバプテスマを受ける)わけではありません。
 それに
 ★ 義だの正義だの
 ☆ は もう 旧いです。ただの主観です。主観におさまっていますので 取り立てて言うのは おかしいでしょう。ひとに向けて表現しうる範囲としては 経験合理性から見た妥当性のことですし それを包む確信のことであるに過ぎません。人間にとっては です。人間から見ては です。そして 人間として言うしかないのです。
 ★ 神の国
 ☆ もう来ていると言ってるぢゃないですか。うたがいは とことん うたがい抜くべきです。一点の曇りもないように疑いつくすべきです。世界一の史上最大最高のセールスマンだとうたがっていたのですから わたしは。
 ▲ 「何よりもまず、神の国と義を求めなさい。」
 ☆ 文字は殺し 霊は生かす。ですよ。突き抜けてください。

 ★ 幸せになりたいから、神を信じるという理由は / 間違っているんでしょうね。
 ☆ なんで 自分で決めるんですか。神のことを なんで 人間が 自分で判断し 決めつけるんですか。冗談ぢゃない。何さまなんですか。ぜんぶ 受け留めているにきまってるぢゃないですか。もっと うたがうべきです。ぜんぶ うたがいを 引き出しの奥の奥まで探し出してきて 問うべきです。なまぬるいから 吐き出されるのです。熱いか 冷たいか どっちかにして欲しい。

 ★ 富に仕える
 ☆ ことがあったにしても すべて みちびかれます。なんで 人間のあなたが 心配するのですか? 神にでもなったのですか?

 ★ ・・・どうしてわかったんですか?
 ☆ わたしは 表現に反応しているだけです。いわばひとつの鐘でして 撞木で打たれれば 打たれ方に応じて ひびきます。ただ それだけです。
 これが わたしの文体であり わたしのコミュニケーションの取り方です。ほかの質疑応答も 読んでますか?それらについても どしどし 突っこんでください。批判は 歓迎です。次のご投稿は 批判のようです。このあと 応答です。

 ★ 今回の「母親」
 ☆ っていうのが まだ はっきりしないなぁ。まぁ 気長にまいりましょう。

お礼日時:2009/05/12 10:40

こんばんは、bragelonneさん。




(^O^)/ういーすぅー。昼から出かけてました。

どこへ行ってきたかといえば…ちょいと、社会保険事務所まで

そそそう、4月がお誕生日のlittlekissですから「ねんきん定期便」なるものがちょっくら前(4月)に自宅へ郵送されてきてました。読んでもよくわかんないところがちょこちょこあるもんで、社会保険事務所へ出向き聞きに行かねばと思いつつも4月初めから仕事の引き継ぎ等なんじゃかんじゃとバタバタで休み返上のありさま。5月に入り、やっとこさGWは休めると思いきやGW前に…天井から仔猫が二匹落っこって来て壁の隙間に閉じ込められる。深夜に仔猫の叫び声。居間には、うちの母さんとお姉ちゃんと私の三人。三人顔を見合わせ「ほっとけんでしょう。」と、夜中12時をまわっているというのにそこから壁板をノミとカナヅチでトンテンカンするはノコギリでギコギコ近所迷惑をよそに仔猫を救出。突如として、仔猫二匹を飼うことに。GWは仔猫の世話にあけくれ、両腕は仔猫のツメのひっかき傷まみれ。そんなこんな日々、やっとこさ平日に振り替え休日が一日とれ、社会保険事務所へき聞きに行けたのよ。

【学生納付特例制度】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E7%94%9F% …

大学へ通っていたから20歳をこえてからの2年間(24ヶ月)申請してないから記録記載されてない、申請はいつどのようにするのかな?窓口の係りの人に聞いてみた。「年金受給年齢に達するまでには、まだまだ間がありますから年金受給年齢に達したときに資格期間が足りない場合に卒業証明書等を添付し申請するものです。」とのこと。加入期間が最低25年(300ヶ月)あることが、受給対象者の要件。受給要件を満たした場合であっても加入期間の間でいくら納めたかで年金受給金額は変わってくる。大学へ通っていたから20歳をこえてからの2年間(24ヶ月)は、加入期間としては加味することはできるが満額払い込みでない場合は、カラ24ヶ月ゆえ金額としての加算はされない。
「すべてのひとを説得することができますか」の回答画像20
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この回答へのお礼

 littlekiss さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★☆ 子猫との そして 隣近所との コミュニケーション問題ですね。
 ☆ うちの BIGLOBEなんでも相談室のほうでは 画像が出ない。OKWave のほうで 見なきゃなんない。

 ★★ むかんしん
 ☆ ぢゃなかったの?
 ☆☆ 社保庁
 ☆ を わたしが出したので ちょうど符合したってわけですか?
 事務所のほうは けっこう コミュニケーションは うまく行きましたよ わたしの場合も。一たん 三百か月に満たないと知らせが来たんだけど じつは 漏れてたとのこと。天から降って湧いたように 資格期間に足りてしまってしまいました。ただ いくらおさめたかがねぇ。

 アマテラス語は つうじたようですね。それは ようございました。
 それで なんですか。もうそろそろって おとしで?!

お礼日時:2009/05/11 22:17

休んでいたけど


「母親」に呼ばれたから来ました。

はい、そうです。


>何か特殊な目的があったってことですか?

幸せになるためです。

あとは、どうしたらいいの?
洗礼は?

この回答への補足

 雪山さん ご回答をありがとうございます。

 どうした? 
 ★ あとは、どうしたらいいの? / 洗礼は?
 ☆ 洗礼のための《説得》は あまり要らないでしょうね。
 わたし bragelonne は なぜ 水による洗礼を受けないのか。最近では 次のように答えたことがあります。

 寄るべき聖句を たとえば 二点挙げることができる。

 ▲ (ヨハネ福音1:13) ~~~~~~~~~~~~~~~~~
  この人びと(* 《ことばを受け入れた人・その名を信じる人びと(1:12)》)は 血によってではなく 肉の意志によってではなく 人間の意志によってでもなく 神によって生まれたのである。
 ▲ (ローマ書10:9-10) ~~~~~~~~~~~~~~~
  口でイエスは主であると公に言い表わし 心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら あなたは救われるからです。
 実に 人は心で信じて義とされ 口で公に言い表わして救われるのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 言いかえると わたしは 次のような聖句に 逆らって 振る舞っています。
 その前に その背きの理由としては こうです。つまり これら二例の文章に表わされたキリスト者は 霊による洗礼を受けたものであり その状態においてすでに 水による〔およびそのとき同時に 霊による〕洗礼を受けたクリスチャンと同じ 神の子らであると考えられるからです。

 ▲ (ヨハネ福音3:5) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 イエスは答えた。
   《はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ 神の国に入ることはできない。》
 ▲ (マタイ福音28:19) ~~~~~~~~~~~~~~~~
 《・・・ あなたがたは行って すべての民をわたしの弟子にしなさい。かれらに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。・・・》
 ▲ (使徒行伝22:16) ~~~~~~~~~~~~~~~
 〔アナニアからサウロ=パウロへ語っている箇所〕《・・・今 何をためらっているのです。立ち上がりなさい。そのかたの名を唱え 洗礼を受けて罪を洗い清めなさい。》
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ ちなみに 次のような聖句もあります。洗礼は要らないというかのようです。
 ▲ (コリント前書1:17) ~~~~~~~~~~~~~~~~
  なぜなら キリストがわたしを遣わされたのは 洗礼を授けるためではなく 福音を告げ知らせるためであり しかも キリストの十字架がむなしいものになってしまわないように 言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 長い質疑応答なら 次があります。わたしの質問です。
 【Q:水による洗礼は必要不可欠なことですか】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3013375.html

 もし何かあれば わたしでもいいし だれかにきちんと話したほうがいいよ。その後どうしてたとか ここでは 何だから。いいかい。

補足日時:2009/05/11 20:45
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昼休みの急ぎ回答です。



>《理論》も 変化するのですが  中略  区別したいのです。

これは、その通りでしょう。
声、文面とは、テキストデータの論理面のみならず、
声や文の言い回しから、受信側が受ける心象、印象を言っています。

>(その共同性について 何がほんとうに共同なのか これもまた 主題になるかも知れません)

そうですね。共同なのか、自己に存在する共同だと思っている心象なのか。
これら二つは同じものと言えるか。でしょうか。
そして、理論ですか。

ここで、社会はどこに存在するかということを何とかしなければなりません。
孤独も共同も理論もいわば社会の所在に依ります。

社会は、特定の個人とは別に存在する。
社会は、各個人の中に存在する。
社会は、自己の中に存在する。

いずれも正しいように説明できます。
構造的に、排他的に論理立てて説明することができるのでしょうか。

結論は、そこから生まれる様に思いますがどうでしょうか。

この回答への補足

 bananasand さん たのしいご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ここで、社会はどこに存在するかということを何とかしなければなりません。
 孤独も共同も理論もいわば社会の所在に依ります。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ここで ほほえましく感じました。むろん 真面目な議論であって わたしも そう 受け取っているのですが 互いに ここまでやって来て ここで 《そもそも 社会とはうんぬん》ということになったかと思って でしょうね かえって たのしくなりました。
 いちど コミュニケーション論の以前に 言語表現とは何かの問題があるだろうと 気づいて 主題につけ加えたのですが それと ちょうど 同じようなことかも知れません。
 【Q‐α‐φ(ゼロ)】 コミュニケーションにとって 社会とは どういう事態か。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   >(その共同性について 何がほんとうに共同なのか これもまた 主題になるかも知れません)

 そうですね。共同なのか、自己に存在する共同だと思っている心象なのか。
 これら二つは同じものと言えるか。でしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これにつきましては 質問者も 問い求めに参加せよということでしたら こう答えます。こんどは わたしが bananasand さんのお株を奪ったように 
 ○ 主観が 相手の主観とのあいだに 何らかのクオリアとして 共同性があると感じたり思ったりすれば それは 共同性である。
 ○ したがって この共同性のことを 互いに 述べあって だいたい 同じようなものだと分かれば 共同のクオリア共同性であるとなる。
 ☆ つまり 自己の主観に 引き寄せたかたち・クオリアはいっさい収斂するという見方を 踏襲したものです。どうでしょうか。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ここで、〔理論として〕 社会はどこに存在するかということを何とかしなければなりません。
 
 孤独も共同も理論もいわば社会の所在に依ります。

  社会は、特定の個人とは別に存在する。
  社会は、各個人の中に存在する。
  社会は、自己の中に存在する。

 いずれも正しいように説明できます。
 構造的に、排他的に論理立てて説明することができるのでしょうか。

 結論は、そこから生まれる様に思いますがどうでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 暫定的なご回答ですので 少しづつ あつかってまいります。
 
 →【Q‐α‐φ(ゼロ)】 コミュニケーションにとって 社会とは どういう事態か。
 1. ひとは たぶん いや たしかに 祝福されて 生まれてくる。
 2. やがて 子離れ=親離れとともに 独り立ちする。
 3. この独立性は おそらく 誕生に際しての祝福を受けたことにかんがみれば 人びととの関係性を 意味している。
 4. ひとの社会的な独立性は 社会的な関係性を それ自体の内に 有している。
 5. 家族や身内にしろ身の回りの人びとにしろ 関係性(かかわり)の具体的な実践として 《交通(まじわり)》が始まる。
 6. 基礎としての《独立性=関係性》の次元では 人間の自然本性にもとづくいわゆる共同体が 実現しているだろうか?
 7. 家族は 運命共同体だろうか?
 8. 《自然本性》は 特に 意志である。自由意志と呼ばれる意志行為であり それは すでに一般に おのれと 他のひととの交通関係におけるものであるからには 関係行為である。
 9. 意志による関係行為が 基礎に行なわれていて それゆえに 人びとは 互いに 家族としての《きづな》や 社会的動物としての《つながり》を持っていると言えるだろうか。
 10. つまり 人は 共同体をかたちづくっていると言えるだろうか。
 11. つまり 社会は この自然本性によるきづなや つながりを持った共同体であると言えるか。それが 基礎だと言えるか。

 あと 社会の二階建て構造が現われたこと(つまり 国家の成立・展開・消滅)が 大きな論点であり 人間の存在のあり方として基軸を成すかとも思います。
 スサノヲ市民とアマテラス公民とは 話が通じるか。わたしと社保庁とは コミュニケーションがとれるか。果たして 同じ言語で話しているか。
 《わたくし語=スサノヲ人間語》と《おほやけ語=アマテラス普遍人格概念語》とで 溝が出来ていないか。

補足日時:2009/05/11 14:03
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この回答へのお礼

 あっ 《孤独》を抜かしました。

 10a ひとは およそ人間存在に関するかぎり 絶対的な関係性のもとにあるが それでも――大きくは 相対的な経験世界なのであるから―― 交わりは 破綻しうる。つながりは 破られうる。きづなさえ 壊れ得る。
 10b そのまじわりの破綻に際して ひとは 孤独を味わう。亀裂 もしくは 破綻のおそれによっても 孤独――言いかえると 独立性の側面――に向きあわされる。

 【Q‐γ】 社会言語という問題
 【Q‐γ-1】 アマテラス人格語とスサノヲ人間語――社会階級言語として。

お礼日時:2009/05/11 14:10

bragelonneさん、おはようございます。



ちょっといいですか?

‟ 無 関 心 ”

ちゅーう、キワードがありますやん。これ、素通りしてもよいんやろか?

義を見てせざるは勇なきなり
http://www.great-saying.com/w-rongo05.html



いやね、ほれ、以前にですね、

【QNo.480852 愛の反対は何ですか?】
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa480852.html

愛の反対は、無関心という答えを目にしたことがありましたからね

人が「無関心」と、言葉を発するとき、愛の反対という場合もあるのかな?

他には?
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この回答へのお礼

 littlekiss さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ★ 無関心 
 ☆ ですか。無関心は きついですが しかたありません。
 ★ 義を見てせざるは勇なきなり
 ☆ の場合のみ 関心ありということですね。

お礼日時:2009/05/11 11:19

回答のお礼ありがとうございました。



面白い質問でいろいろ考える機会を作ってもらえました。笑

多人数のコミニティー、具体的には会社や人間関係、取引先、仕事にまつわり、人との関係がもっと円滑に、また発展していくために共同で意思の疎通が必要になることが、多くあります。反発や伝達のミスなど、小さな食い違いで混乱が起こる事が結局事業などの失敗成功などにかかわってきます。よく目につくのは、いくら働いても給料は変わらないという本音の愚痴は多いですね。また作業が大変で苦しいというもの。
当然はかどりません。
 人類の長い歴史から考えて、いまだにコミニケーションについて議論している。はっきりと答えが出ていない。ということを今更ながら少し驚きを感じました。歴史の中で人間関係のコミニケーションでの蓄積された知恵が伝わってないんでしょうか?と今更ながら感じました。

 コミニケーションで現実にあった事で良かったことは、取引先の会社に、事業閉鎖を考えているので、もし増資や借り入れをするなら、少し待ったほうがいいと伝えました。そういうことは内部情報ですから下請けさんには言わないんでしょうが、こういうことは普通しないのをわかっていましたから、あえて伝えたところ、事業閉鎖で、仕事はなくなり、その間に下請けさんも会社閉鎖で借金も抱えることなく不況下を乗り越えることができたそうです。もしいわなかったら通常どうり何百万もかけて機械の修理修繕と原料の何ヶ月ものストック注文をしていたでしょう。当然私に利益があったわけではないですが、大変になって困るのはわかりましたので予想して伝えました。
 やはり情報というのは、情が入っていなければ、ただの報告になりますね。報告ではなく情の入った情報でなければコミニケーションを現実に生かすことはできないでしょう。

 現実に意思疎通を計って、共に発展していく。という目的を見失ってコミニケーションがうまく成り立たない。その結果、具体的な不利益が生じる。失敗につながる。という当然な結果で小さな積み重ねの中の問題がいろいろな混乱がありますね。
 私のコミニケーションで意識することは、苦しい立場の仕事をしてる人に、仕事振りに感謝したり、また、よく言うのは、助かりました。ありがとうございました。ということは心がけます。特に、下請け企業に出向いた場合、現場の方に直接いいます。上司のかたに言ってもしょうがないので、実際に労働した方に言うようにしてます。こちらがお金を払い、また感謝してお礼を言うのは客の立場でするのがコミニケーションだと思います。それによって、立場、管理職立場すら超えることができると思いました。また愚痴を言いながら、面倒な仕事だといいながらやってもらうのは不幸だと思います。一言でもそういうことが変わるならと、積み重ねで必ず、また、毎日、必ずいう。というのが、私のコミニケーションで心がけてます。
 私にとってはそういうことが重要な実学で、現実に使えない理論は机上の空論と思えます。ですから、高尚な理論が具体的に使えるようになったら、私ももっと現実生活で生かし、もっと心豊かな生活になれるのではと、少し残念な気持ちです。
 しかし回答を載せた以降、あなた様の回答のお礼がとても読みやすくわかりやすくなったように感じました。もし少しでも得る部分があったのなら、これほどうれしいことはありません。私はこういうコミニケーションから、とてもすばらしい感動を何度か味わいましたが、感動が高等なコミニケーションにはある。と今更ながら再確認できました。
 ですから、回答のお礼のお礼を書きたくなりました。
 またこの掲示板でいろいろ学ばせてもらいたいと思います。
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この回答へのお礼

 aai1 さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ★ 回答のお礼のお礼を書きたくなりました。
 ☆ それはそれは ありがとうございます。
 振り返ってみれば たしかに むろん 日常生活や仕事の場で ここのカテゴリで交わされるような質疑応答を あまりしていませんよね。
 ★ 実学
 ☆ ともおっしゃっているように 現場というものは いわば待った無しで ことが進められるものですから とうぜん 遠まわりの学問を その場で していられると言うわけにはいきません。

 という現実をおさえておいて やはり 哲学の徒は できるだけ 迂回して考えようとするのでしょうね。そして さらにむろん
 ★ 机上の空論・・・が具体的に使えるようになったら、
 ☆ ということを けっこう 真剣に考えているのだとも思います。だって たとえば 《孤独》なんて 毎日の生活の中で ほとんど 考えたりしませんが ぜんぜん 思わないものでもないはづでしょうし ですから そのとき もし この孤独について しっくり納得できるような理論かまたは思索が 得られるものなら それを
 ★ もっと現実生活で生かし、もっと心豊かな生活になれるのでは
 ☆ という方向 この方向を目指していることは 偽りのない実際だと思います。

 ビジネスが 機械的な作業ではないということも 哲学が言いたいところだと思いますが それを 現実に 実行しておられるようですので ということは どちらも 総合的に 互いに互いを 生かし合っていくということでしょうかね。
 そんな思いを持ちました。たのしく進んで行きたいとは思います。

お礼日時:2009/05/11 10:05

やっぱりこのご質問は深いですね。



>○ ひとは 他者を ほんとうには 知り得ない。けれども にもかかわらず それにもかかわらず こころの交流を その互いにそれぞれの孤独を基盤として おこなえると言えるところもある。
>○ 主観における考えや情感について 互いに 共同化しうる部分もある。
>☆ と言えるとすれば いい方へ はっきりすることになります。

孤独感がなぜ生まれたかは、他者が自己の外に存在するという幻想から
発していると思います。

話を変えますが、自分の直感なのですが、直感はあくまで自分で、他人からの意見は他者であるとすることが完全とは言えないと思うんですね。突然舞い降りてくる直感は、他者からの意見の様でもあると言うことです。

何を言いたいかというと、自分のクオリアはハッキリしている、他人のクオリアは直接知りえない、そして、自分の直感の源泉も知りえないと言うことではないかと思うんですね。

そしてですね、他者というのは、その外観、声、文面、予想し想像される他者が持つクオリアが自分に形成されているので、直感よりも他者の方が自分に近いようにも思えるんですね。
でも、夢、白日夢、直感・・・そして悪夢さえも、自分でしょう。
そうすると他者も自分に転じてしまい、コミュニケーションは、自己拡張行為になってしまうんですね。

もとに戻りますが孤独というのは全体としてみればもともとから事実なのであって、孤独感というのは幻想ですね。

そこのところの限界を痛いほど知りつつも、「互いに 共同化しうる部分もある」というのが、拡張行為といっているつもりですがどうでしょうか。

この回答への補足

 bananasand さん ご回答をありがとうございます。

 孤独観とクオリアの共有論 このふたつの論点でしょうか。

 たぶん 後者は わたしは 《情感の共同性》という言い方をしています。《親和力》というような言い方が意味する 放出・吸収の作用も 含まれるかに思われます。
 ですが やはり《情感》をあてたいと思うことには
 ★ 声、文面をつうじて伝え合われる《意見》 一般に ここでは 理論
 ☆ これについては クオリアとは呼ばないか もしくはクオリアだとしても 別種のものとして 区別したほうがよいと思うのです。
 ひとつには 《情感》関係のクオリアは やはり そもそも うつろいいくものと規定することができるのではないでしょうか。
 《理論》も 変化するのですが そのつど 妥当性をもって 迎え入れられていると考えられます。また そういうふうにして 妥当性の深化・拡張といった変化に応じた 主観の変化だと言えると思います。この意味で 区別したいのです。

 広義の主観に 片や 情感関係と 片や 理論的なものとがあり どちらも それぞれとして 共同化されうると考えられます。(その共同性について 何がほんとうに共同なのか これもまた 主題になるかも知れません)。このとき では
 ★ 突然舞い降りてくる直感は、他者からの意見の様でもあると言うことです。
 ☆ と表現されると わたしとしては 上の区別にかんして 戸惑います。《直感》は 情感のほうで 《意見》は 理論のほうだと思うからです。
 では なぜ このような区別をするのか。
 説得ないしコミュニケーションは それが 過程的にでも 実現したとして 把握できるものは どうしても 理論のほうだからです。直感や気持ちが 一致したということは いくらでも じつは ありますが それでいて その安定性がないと言わなければならないのではないでしょうか。
 人生 意気に感ずで 意気投合したということを たとえば文書にしたためておいて その安定性・確実性を保証したとしても おそらく どうにもならないでしょう。理論とて 究極の確実性はないのですが 破綻したら ふたたびあらためて よりよい理論を求めます。
 ですから コミュニケーションにおいて 共同主観といえば 理論のことを言うと考えるのです。むろん 情感の共同性をないがしろにせよということでは 全く なくて 補助としてささえるというふうに 捉えておくとよいと思うのです。

 そうしますと 一気に いまの結論に進みますが こう考えます。
 ○ 《同質になる》というのは 情感クオリアのほうだと考えられる。
 ○ 主観の共同化にあたっては 一般に ことばで表現して伝え合う理論を 問題とする。
 ○ 孤独は 一般に 情感クオリアのにせよ 理論としての主観のにせよ その共同性が 思わぬところから その理由も表明されず分からずじまいにおいて 破綻することによって 味わうことになる。
 ○ そのとき たしかに 孤独とは 人間にとって もともとの存在のあり方だったと知る。
 ○ しかも ひるがえって この孤独と そして孤独どうしの関係から成る社会において 互いに 主観の共同化を あらためて 妥当な内容をもって たえず発展させつつ 図っていく。

 ★ もとに戻りますが孤独というのは全体としてみればもともとから事実なのであって、孤独感というのは幻想ですね。
 ☆ 最後の部分について 《幻想》という言葉は あるいは 言い過ぎなようにも感じますが いかがでしょう? 或る種の仕方で 現実であるという意味を 持ち得るのではないか。つまり 共同性の破綻のときの実感ですね。もっと言えば 通俗的に言って 裏切られたという感覚を持つ場合です。
 (ただし 《あざむかれるなら 我れあり》とも言っていくのですが)。

補足日時:2009/05/10 22:36
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bonjour, monsieur.



>【Q‐ω】 人間は すべてのひとを 説得することができますか?
>【A‐ω‐br.】 (1) 感性ないし情感を措いて考えるなら すべての人びとが納得するような理論は 提示し得るだろう。

無理です。
逆に、感性ないし情感を伴えば、人々が納得、共感することさえあり得るかと思われます。

ちょっと視点を変えて国外と外国語、外国人との「対話」に目を向けてみたいと思います。
言葉ってとても不思議なものですよね。
こちらのカテでは様々なインポート思想哲学がさも当然の如く平然と語られております。
でも、はたしてそれはどこまで「誤解無く」理解し対話されているものなのでしょう。

また実際に、いわゆる母国語native languageというものは、それ自体がそれを用いる人々の集団的帰属意識の象徴の役割を果たしています。
言語そのものが政争問題に繋がることは洋の東西を問わず知られるところかと思われます。
ex.:ベルギーのワロンvsフラマン言語紛争と政治的対立
  ETAバスク/カタルニア地方独立問題
  「Mes enfants, c’est la derniere fois que je vous fait la classe. L’ordre est venu de Berlin de ne plus ensigner que l’allmemand dans les ecoles de L’Alsace et de la Lorraine...」
当のアルザシアンはドーデの『最期の授業』を一体どのように捉えたことでしょう。

さらに、旧い階級制度が現存しているイギリスでは、各階層classごとに使用する言語が異なり、まるで識別ツールのようでもあります。
わたくしの友人曰く、オフィスでの仕事とは異なり、プライベートな恋人や結婚相手となると、自分と近しく同じclassの相手を往々にして選びがちとのこと。
この場合はネット上のフラットなコミュニケーションのほうがお互いの階級の垣根を越えて対話し得るのかもしれないと思いました。
実際はどうなのでしょうね。

さらに、外来語やその語彙に対しても主観的な「変質」「ビミョーなズレ」にも注意に値する点かと思われます。
たとえばバタイユの「エロティシズム」という単語一つでさえも、日本国内で対話される際、かの地のそれと何かビミョーなズレが生じているのではないかという懸念を感じます。
ま、そんなことにいちいち神経を使っていたら、何も前進できないようにも思われるのですが。
仮に「克服しかねるような大いなる溝」を共に乗り越えようとする他者との「対話」の場合であればあるほど、お互いの歴史、文化、習俗への深い理解の希求なしにはコミュニケーションの余地はあり得ないのではないでしょうか。

ちなみに、先日の例の詩の和訳にわたくしは惚れぼれしました。
大変に情感がこもっていて、本当に美しかったです♪
ですが、その力量をお持ちであればこそ、
仏語原文を諳んずる際の抑揚やリズムの美しさと、和訳文を諳んずる際のニュアンスの当然の差異にはお気づきのはず。
同様に、通常の対話であっても、またたとえ同じ言語を用いたとしても。
上述の詩の翻訳の、とまでは申しませんが、やはり主観的な心情表現や微細なニュアンスを伝えるのはコミュニケーションの大変難しいところです。

でもなによりも、本当に困難なのは。
「単に意見を異にする」だけでなく、「人生の基盤化している信条、宗教を互いに異にする相手との対話」にほかなりません。
上述の芸術的主観でさえも、かりに嗜好が合致する者同士であれば、拙い意思疎通であれど、「言葉を超えたコミュニケーション」つまり共感が得られて対話が続くはずです。

数千年も対立してきた歴史を持つ民族紛争を見るにつけ、「【Q‐ω】 人間は すべてのひとを 説得することができますか?」に対して悲観的になってしまうのは、「ぶっきらぼう」の続編とはいえどうしても否めません。

今回も突拍子もない「薮から棒」な回答にお付き合いくださいましてありがとうございます。

この回答への補足

 mashumaro2 さん なかなかおもしろく楽しいご回答をありがとうございます。
 おもしろいと言うと 語弊がありますが ひとつには まづ はっきりと 反論を得ることができたことです。
 ひとつには 実践編と申しますか 現実にのっとったご議論であること。この点は 経験現実と やはり今回も 理論とは 微妙に 視点と表現がちがってくるのではないかと のちに お尋ね返しを予定しています。

 ひとつには 母語を異にする場合 誤訳や概念の曲解があっても その相違を またふたたび 互いに 受けとめ合って 対話をつづけていくという人間の業の深さ(?) おそらく こちらにも 造詣が深くていらっしゃるであろうのに マイナスの側面のほうを述べて 議論となさっていること。これも 見方によっては おもしろく映ります。
 ★ 「克服しかねるような大いなる溝」
 ☆ このことを むしろ 初めに 何事にかんしても その初めに 噛み締めておけば 互いの違いには ある程度 慣れていくのではないか。というよりも これほど 違いがあるのに 公理と呼ばれるような概念とその基礎理論にかんしては ほぼすべての人が 考えを同じくすると思われること――つまりたとえば 自由・平等・兄弟愛ですね―― こちらのほうが おどろきであるように思うのです。

 もしこの線上で考えるとすれば さらには
 ★ 逆に、感性ないし情感を伴えば、人々が納得、共感することさえあり得るかと思われます。
 ☆ にかんしましても この場合の共感・納得は ややもすると 一時的だったり もしくは 一部の地域ないし住民だったりするのではないか。その意味では 理論をめぐる同感のほうが はるかに 《説得しうる》と思われるのです。

 なかなか このような対話は おもしろいと わたしは 感じます。

 すべての人を説得することができる理論の例を出してみます。

 ▲ 《復讐するは われにあり》と主は言われる。
 ⇒○ 仕返しは 大いなる自然史過程にまかせるべきだ。
  ○ ひとは おのづから 報いを受ける。

 ☆ この理論ですが むろん 現実が このように事が運ぶという意味ではありません。理論であり しかも この理論をもって 復讐を思いとどまるひとが増えるならば 悪事をおこなうこと自体が 少なくなる。という考えです。
 しかも この一回きりの人生においてのことです。何度も人生があると思えば 明日やれることは 今日はやめておこうとなるのが 一般です。
 ここまでの理論は すべての人が 納得しうる内容だと考えるのですが いかがでしょう?
 いま言っていることは ここまで言えるということは そういう理論として 人びとの間に 明らかにしておこうという問題です。それ以上のことについても 関心は とうぜん ありますが 段階を踏むという考えでの提出です。

 方言・社会階級言語・民族言語などの違いによる誤解は はじめから 前提しておく。これは すでに 触れましたが 翻訳の問題としては こう考えます。原典と翻訳とでは すでに違う作品であり どちらも 同等の作品であるという見方です。翻訳者の立ち場が 弱い・劣るということは 変わりません。

 たぶん 現実感からすると いまだ――という表現を使いたいのですが―― このわたしの反論は べらぼうな議論に映ると われながら 思います。どうでしょう?

補足日時:2009/05/10 21:37
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