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 コミュニケーションについて問います。

 【Q‐ω】 人間は すべてのひとを 説得することができますか?
 ☆ わたしの感触を述べますので ご見解を述べやすいように たたき台としてください。
 【A‐ω‐br.】 (1) 感性ないし情感を措いて考えるなら すべての人びとが納得するような理論は 提示し得るだろう。
 (2) ひとが納得するかどうかは 説得者の能力や努力の及ばぬところである。
 (3) よって 理論によって すべてのひとを 納得させうるが 説得し切れるかは 分からない。

 ☆ そもそも コミュニケーション論です。
 【Q‐α】 コミュニケーションとは どういう社会行為ですか?
 【A‐α‐br.】 対話です。三者の会話は 三つの対話から成るという意味です。

 ☆ 【Q‐ω】に付随して わたしの関心を持って知りたい課題です。
 【Q‐β‐1】 説得に際して 第三者は どんな役割をにないますか?
 【A‐β‐1‐br.】 (1) 対話の主体として 話し手(書き手・発信者)と聞き手(読み手・受信者)の関係を おのれひとりの内面に 機能させるために きっかけとなる。
 (2) その意味では そばにいて欲しいと同時に 仲介者の役をになってもらってもよいのだが 基本的に 説得行為ないし対話には その発言は 加わらないのではないか。
 (3) 前項は 第三者の存在が 重要であり大事だ。と同時に 一対一の対話の発言には 局外者となるのではないかという意味です。

 【Q‐β】 コミュニケーションの主体について どういう事項が 心得なければならないことですか?

 ☆ 研究論文などは読んだことがありません。でも コミュニケーション論として 実質的に 最先端を行く日本一の内容を目指します。問い求めの過程として 世界一を目指します。
 ふるってご投稿ください。おしえてください。

 なお これは 【Q:ぶっきらぼうは いただけませんか】および【Q:けんかをしては 何故 いけないのか】の続編です。

A 回答 (53件中21~30件)

夢は終わったんでしょう?


誰も救われなかった。

これが現実だった。
ダメなの?

それとも続けますか?
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この回答へのお礼

 ふうむ。

 ★ 夢は・・・・それとも続けますか?
 ☆ わたしが夢を見ようが見まいが 現実は 生きています。
 

お礼日時:2009/05/14 12:22

 こんにちは、ブラジュロンヌさん。


 
 共感と同感ですか。でしょうね、あとはシステムに増幅装置が付いているかどうか。

 ・http://www.asagaku.com/rika_time/2005/8/0817.html

 どうやら、ステップ2が大事ってことですか。
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この回答へのお礼

 おはよう じーじゅんぐくん。

 ★ どうやら、ステップ2が大事ってことですか。
 ☆ あんじょう すすめてちょう。また エタージュということで。

 ★ あとはシステムに増幅装置が付いているかどうか。
 ☆ システム? 何のシステム? 増幅装置? 何を? 言説という信号を 増幅するのですか? どういうことになるのかいな? ようわからん。ごめん。

 ★ ステップ1:糸電話 一対一
   ステップ2:人数や材料をかえてみる
 ☆ ステップ3:・・・
   ステップn:・・・
   ステップα=ω:以心伝心=無線通信。

 ソリロクイア
 ○ ノイズは きちんと 表に出すべきなのかなぁ。
 ○ 輪廻転生説に対するダメ押し もしくは その手前の決定打が 必要なのかなぁ。

お礼日時:2009/05/14 09:39

こんばんは、bragelonneさん。



●それで なんですか。もうそろそろって おとしで?!



(-。-)y-゜゜゜おとしどころ?

TVドラマじゃ、カツ丼が出されるシーンを目にすることはありますが…

ネコのてんこ盛りで、何が落ちる? 

……天井からネコが落ちてくりゃ、そりゃ、まんま、ネコマンマ (*^_^*)

笑ってる場合では、……ない (-_-;)uuu… 


●…もうそろそろって おとしで?!←言いたい放題かい!!!( ̄^ ̄)しらんぷり

おとしといえば…… 

【だるまおとし】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A0%E3%82%8B% …
http://www.ysc.go.jp/ysc/info/show-da.html

ちなみに仔猫の名前は、テンとジョー。『 かんせいの法則 』



ちょこっと、準備運動をしたところで『今日の出来事』を少し

いまは、引き継ぎ時間が残りわずかなこともあり、机にかじりつき。ここのところ自分のことで手いっぱい、時間的余裕もなかった。そんなとき、隣の席から声がかかった。わたしが職場で使っているパソコンでしか作業ができないらしく少しの間パソコンを使わせてほしいと。隣の席へ移った。移った席の机の上にも一台パソコンがある。画面をみるとやけにアイコンとかの表示が全体的にすごく小さい。ここの席でこのパソコンを普段使っている方は、使い辛くはないんだろうか?というのもここの席でこのパソコンを普段使っている方は、わたしの親の年以上の年配者。そういえば、なにかと画面に顔を近づけておられたようにも思う、ディスプレイ(画面)の解像度の設定が、あってないのかな? ――――― 自分の席へ戻る際、きいてみた。「敢えてこの設定にしてるんですか?」と。きけば、「見にくいなと思いいつつも、見にくいのは年のせいだからしかたがないと思ってたんだけどね」と。了解をとり、設定を変更し、席へ戻った。

【ハンディがあっても利用できるページづくり】
http://www.kanzaki.com/docs/html/accessible.html

この回答への補足

 littlekiss さん ご投稿をありがとうございます。と遅ればせながら。

補足日時:2009/05/15 11:08
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この回答へのお礼

 

 (^O^)/ういーすぅー。

 (-。-)y-゜゜゜

 (*^_^*)

 (-_-;)uuu… 

 ( ̄^ ̄)しらんぷり

 ★ ちなみに仔猫の名前は、テンとジョー。
 ☆ Only this can go.(?)→これだけは いける。

お礼日時:2009/05/14 05:23

 こんにちは。

ブラジュロンヌさん


 あれですか、他の質問を見ても、どうも行き詰まっているように見えるのですが、気のせいでしょうか。ところで、どこにいったのかと思っていたんですが、見間違いでなければおそらく、僕は下の子猫ちゃんの名前を知っています。

 えっ、何のことだ? きょとんとしている、その猫です。
 おそらく、その子の名前はシャノンです。シャノンの定理の「シャノン」です。

 えっ、情報が少ない? そうでしょうか。むしろ、量の問題ではないでしょうか。

 良かれと思って発した言葉が、思わぬ解釈を伴って返ってきたとき、思わずびっくりしてしまう事ってありますよね。
 ある用語が(その言葉どおりに)共感される確率(p)を予測したとする。発話に際しては、きっと誰もがこのpについて多かれ少なかれ考えていると思います。それで、その後に共感されたかどうか(q)を聞かされたとき、自分はどのくらいびっくりしたか。
 つまりは、こういう事ではないでしょうか。

 だとすれば、共感されたときq=0、共感されなかったときq=1に、この「びっくり」の程度が計量できれば「びっくり」が少ないほど共感されたと言うことができるでしょう。対話では幾つもの用語が使われるわけですから、その都度「びっくり」の程度を加算したい。
 情報理論ではこの「びっくり」の程度を情報量と呼ぶようです。それに従えば、情報がq=1のとき、-log(p)だけびっくりする事になっています。
 要するに「わかってもらえると思っていたのに、わかってもらえなかった」とびっくりするわけです。この場合は「共感されたときq=0、共感されなかったときq=1」ですから、底は2です。2の場合をシャノンと呼ぶんですが、それが子猫ちゃんのお名前でしょう? 
 そしてq=0の場合にも-log(1-p)だけびっくりする。これは「わかりっこないさとと思ってたのが、わかっちゃった」とびっくりする程度です。
 「びっくり」は「どっきり」でも良いのですが、どうでしょうか。

この回答への補足

 ri_rong さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 情報が盛り沢山で しかも エラーもなく伝送されては来ているようなのですが――つまり 中には 仮りに文字の打ち間違いがあったとしても わかんない―― ところどころ 暗号化も ひょっとして 為されているのかなという具合いにて まだ 戸惑いの渦巻きの中にあります。
 歴史は繰り返すではありませんが いちど 昼寝(遅い昼寝)をしたあと 応答をしたという記憶があるのですが きょうも そうです。そのあと 風呂に入ってしまったものですから 気分はさわやかですが 頭は 普段よりは回りがにぶいと覚悟しています。(つまり 言い訳です)。

 さて 
 ★ えっ、情報が少ない? そうでしょうか。むしろ、量の問題ではないでしょうか。
 ☆ おっしゃるとおりです。寸分の違いもなく そのとおりに存じます。量が質に変化しているかどうかも分からないかたちの 量の問題です。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 良かれと思って発した言葉が、思わぬ解釈を伴って返ってきたとき、思わずびっくりしてしまう事ってありますよね。
 ・・・(中略)・・・
 つまりは、こういう事ではないでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これはですね。
 ○ 共感と同感とで おどろきの質も量も ちがう。
 ☆ と考えます。心で同意する後者のばあいには その同感の成否にかかわらず 次の作業にすすみます。成ったなら さっそく 次の段階に入るでしょうし 否定を受けたなら  再反論しつつ修正しつつ 次の仕事を目指します。
 共感のばあいは けっきょく 《なんとなく賛成》ということですから もし その成否によって その成否じたいを問題にするとするなら それは おどろきという事態ではなくなるかも知れません。確執という事態であるでしょう。
 ★ 要するに「わかってもらえると思っていたのに、わかってもらえなかった」とびっくりするわけです。

 さて
 ★ この場合は「共感されたときq=0、共感されなかったときq=1」ですから、底は2です。2の場合をシャノンと呼ぶんですが、それが子猫ちゃんのお名前でしょう? 
 ☆ これが わかんない。意図だとかのほうではなく 意味そのもののほうです。つまり おつむの問題です。こういう質問の仕方はありえますか? 
 ○ 底の2が シャノンという子猫で これを何乗すれば 何になるというかたちなんですか?
 ☆ ここで 行き詰っています。

 しかたありません。このまま ご返答といたします。

補足日時:2009/05/13 20:01
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ぽこぺろぽです。

こちらのご質問のほうが、実りあるお話ができると考えたので移住します。

 結論から申し上げましょう。すべての人を説得するのは到底ムリです。なぜなら共通認識を確認することすら、忌避する者が多く存在するからです。私が以前「けんかを・・」のご質問で迂回生産と称してくどくどしく、「投打の重要性は常に等しい」との定立を説いたのも、この質疑において、大佐と皆さんとの間に共通認識が、殆ど見受けられなかったからです。

 皆さんが大佐の措定に頷くまえに、持論を展開した、あるいはもっと酷い方になると、自らの主張を例示すらせずに大佐に反駁していたのを見て、身をもって共通認識に立つ難しさを呈しようというわけです。根気強くおつきあいいただきましたが、大佐のような頭脳明晰な方にも、私の拙い説明では、ご理解いただくのに骨が折れました。おそらく、あの定立を自らは何の根拠も示さずに、頑として受け入れない者がゴマンといるはずです。

 対話よりもずっと浅い段階の問題があります。とくに日本において、稚拙な議論は必ずといっていいほど、共通認識の確認作業を行っていません。対話以後につきましては、お返事をいただいてから改めて思索します。
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この回答へのお礼

 pokoperopo さん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。対話以前の問題ということですね。
 ★ 共通認識の確立
 ☆ lioneater さんのご回答に対してだったと思いますが わたしは こう応えました。用語の定義を前もってしていないのは どの主題についてでも 自由な回答を 寄せてもらうようにである。回答者の使う用語におうじて わたしが 応答していくかたちであると。
 その方式は この共通認識の確立の問題にも 当てはまるとは思うのです。また そういうふうに いままで やって来ました。
 そして 何度も触れますように ここ最近になって――それは 年が変わってからくらいでしょうか―― その方式では わたしが お手挙げになる場合が生じたのです。
 繰り返しますと 共通認識の確立は ぶっつけ本番で 一人ひとりと おこなっていた。ある程度まで 効を奏していた。ところが これが 壁にぶつかった。という現状です。

 ここでの言い分は ささやかなものです。
 理論を それじたいとして 納得のいく普遍性のあるものにすれば 納得させる・つまり説得するのは 二の次であって よいというものです。言いかえると 説得することに成功はしないが 成功するか否かは もう あとは 相手の判断次第であるというところまで コミュニケーションを推し進めるということです。また そのためには どういう理論が 現代コミュニケーション論として 考えられているかです。
 どうでしょう。

お礼日時:2009/05/13 07:12

補足要求についてのご回答拝見しました。


《アマテラス‐スサノヲ》に随分深い意味をこめられたのですね。
言語体系が異なる者同士、この名詞が適切か否かはあえて考察せず、
>人間(現実)は 変わる
というお考えには同意いたします。

してみると、bragelonneさまは「すべての人に受け入れられる教えはないか?」という問いを全回答者に対して突きつけておられるのですね?
既存のキリスト教・イスラム教・ヒンズー教・仏教といった枠を超えた新しい精神的な支柱を夢想しておられるのでしょうか。

だとすれば、あるいはこの質疑応答に更に参加したみたいと思います。
そうではなく、まったく現実味の無い空理空論を弄ぶのみならば、言葉遊びの範疇を出ませんから、私は退散いたしますが。
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この回答へのお礼

 lioneater さん ご回答をありがとうございます。

 鋭く指摘していただきました。
 ここでは たしかに そういった普遍理論をたくらんでおります。
 たとえば次のようなわたしの投稿は 億面もなく そういう意図と企図をあらわしているのですが この質問では たしかに コミュニケーションに絞ったところがあります。
 
 【Q:現代日本に必要な哲学は?】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4151421.html
 次の三件が わたしの投稿です。
 No.1:新しい社会へ向けて――《スサノヲ(S)-アマテラス(A)》連関を切り口として 社会の基礎理論です。

 No.8:さらに日本社会に即してです。古代社会の分析から迫ります。

 No.9:《絶対》の説明 または 信仰類型論です。

 よろしかったら これらを コミュニケーション論に 織り込んで 批判および展開を すすめていってみてください。
 わたしは 言語表現については いくらか 考えたところがありますが コミュニケーションについては ほとんど それとして 素養がありません。進展を期したいと思います。
 なお わたし自身は 水による洗礼を受けていないキリスト者です。

 それでは お待ちします。

お礼日時:2009/05/12 20:29

どういう謎が解けるか楽しみだったな。

。。

「自分のやった労苦に満足すること。それこそ神が人間に許された唯一の事。神を畏れ敬え」


これでもういいのかな。
目的は無くなった?

それと、人間の欲望でも弱さでも注目すればいいと思います。
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この回答へのお礼

 なあんだ。かついだのか。

 それは それ。これは これ。

 だが ちと 変わったね。

お礼日時:2009/05/12 16:20

お礼と補足を拝見しました。



その…意味がよく分からないのですが《アマテラス‐スサノヲ》とは何を意味して(あるいは意図して)おられますか?それとも最近の哲学ではメジャーな用語なのでしょうか(だったら浅学をお詫びします)

>《人間として・人間であるなら》
人間は自我を持ち、自我は自己の存続を最優先します。よって、利害関係の無い人間関係は皆無に等しいと思います。そこを無視すれば、bragelonneさまのお考えは成立するでしょう。ですが、この世では実現できますまい。(それを机上の空論と表現しました)
マルクスも考えは素晴らしかったのですが、人間の欲が彼の思想を破綻させました。今も昔も人を見ていない議論は空理空論の域を脱しないのではないかと危惧する次第です。

この回答への補足

 lioneater さん 打てば響いていただいたご回答をありがとうございます。

 ★ その…意味がよく分からないのですが《アマテラス‐スサノヲ》とは何を意味して(あるいは意図して)おられますか?
 ☆ これは 失礼いたしました。最近では よく持ち出していたものですから うっかりしました。さしづめ 次のようにご理解ください。わたしの勝手な造語です。
 ○ スサノヲ―――アマテラス
 ○ わたくし・・・おほやけ
 ○ 市民・・・・・公民
 ◎ スサノヲ圏――アマテラス圏
 ○ 市民社会・・・市民政府(元首は アマテラシテ amaterasite;
Amatersitaet; amatersity )
 ○ 一階・・・・・二階

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  >《人間として・人間であるなら》
 人間は自我を持ち、自我は自己の存続を最優先します。よって、利害関係の無い人間関係は皆無に等しいと思います。そこを無視すれば、bragelonneさまのお考えは成立するでしょう。ですが、この世では実現できますまい。(それを机上の空論と表現しました)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ごもっともです。そして わたしとしましては ここまで 大ほらを吹いているわけですから 少々 とりつくろいますと 次を 歴史的に予期し 前提としています。
 ○ 人間(現実)は 変わる。
 ☆ たとえば その結果として 《アマテラス圏主導‐スサノヲ圏従属》連関が どんでん返しをおこなうといった大風呂敷であります。スサノヲ圏のムラ(市町村)を主体として その連合・しかも国際的な連携を 予定しています。これを
 ○ インタムライスム
 ☆ と名づけています。たとえば N市と南京市とが 提携し 市議会議員を 相互選出するとか 経済的・文化的な交流を拡げるといった方向です。その錯綜するまでの網の目の連携です。
 このような空理空論は けっこう おもしろいでしょう?

 なお 最近のやり取りとしては 次をごらんになってくださると よいかと思います。ざっと目をとおされて ひっかかったところを 読んでいただけばよいかと存じます。少々 出しゃばっていますが。題名に反して 議論がすすんでいると思います。
 【Q:ぶっきらぼうは いただけませんか?】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4883224.html

 横着なお応えの仕方になりますが。

補足日時:2009/05/12 13:35
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>でも 非思考ですよ。

無根拠なのです。
>耳をかたむけてください。その声に聴き従ってください。
>究極のコミュニケーションを ぜひ どうぞ。

声が聴こえるまで、待ってみます。
またしばらく休みます。
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この回答へのお礼

 わかりました。
 まるっきりお休みというのも 何だと思いますが でも じっくり待つというのは とても いいことだと考えます。

 というよりも 雪山さんは わたしは 以前のままで 問題ないと思うのですけれど いまここで それを言うのは ちぐはぐになりますかね。

 ということは それでは になりますかね。

お礼日時:2009/05/12 13:15

確かに、社会とはうんぬんはいまさらなんですけどね。

社会は、2つの観かたがありますね。

社会科学から観る社会、つまり、科学的方法により観察、分析して、体系的に把握する社会であって、社会がそれ単独で存在している いわゆる社会ですね。
もう一方は、哲学の一部、認識論、生死論、自他論などから観る社会、つまり、社会はすべて、観察者の中に存在するという社会ですね。

前者は観察者が消失しても社会は厳然として残りますが、後者は、観察者の消失と共に社会も消失します。どちらも正しくその場その場で使い分けています。でも、このご質問だとそうもいかない・・・bragelonne さんが両刀使いでどの方向からも回答を受ける力量は解りますけど・・・・・

>→【Q‐α‐φ(ゼロ)】 コミュニケーションにとって 社会とは どういう事態か。
> 1. ひとは たぶん いや たしかに 祝福されて 生まれてくる。
中略
> 11. つまり 社会は この自然本性によるきづなや つながりを持った共同体であると言えるか。それが 基礎だと言えるか。

bragelonne さんのこの社会は、どちらかと言えば、前者の社会なのですが、
これは、丸ごとbragelonne さんに内在する社会なのですよね。

------と言うような------以上の社会、コミュニケーションは
丸ごと私に内在しているということのようにも思うんですね。

そうすると、後者が前者を包含していると観ることができますね。

それでですね、この前者と後者とでは、コミュニケーションが本質から違うんですね。だから、このご質問は頭が爆発しそうになるんです。

この回答への補足

 bananasand さん ご回答をありがとうございます。

 ごもっともです。
 ○ 客観的であろうとする《社会科学》と 主観をこそ大事にし主体的であろうとする《社会思想》と
 ☆ ですね。この質問では 《思いっきり 自己の立ち場から 発言する》 これを 基本としたいと思います。経験科学の客観性を志向する場合にも その成果を けっきょく 自己ないし主観に置き換えるという作業が 伴ないます。その意味でです。
 参考になると思われる文章をかかげます。

 ▲ (水田洋:社会思想小史)~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・一般的には 社会観=社会思想は 社会科学にたいする主観的な障碍ではなくて 逆に その成立のための主体的な(しかも社会的な)根拠なのであり この実践的契機なしには 理論としての社会科学じたいが成立しえないのではないかと わたくしはおもうのである。

 ▲ 社会科学が社会を分析するには 対象としての社会が とにかくひとつの体制として 成立していなければならない。ところが ひとつの社会体制の成立は ひとつの階級の支配の確立をいみする。したがって その社会体制の客観的認識は 社会と個人との矛盾がなくなったとき あるいは そういう矛盾を感じない立場から 可能になる。

 それはむしろ支配階級の立場であってそのとき 被支配階級は この社会体制を批判するけれども 全面的はあくの点では支配階級におよばない。
 社会思想および社会科学の歴史のうえでは A.スミスとK.マルクスが きわだった例外として 理論と実践 認識と批判 客観分析と主体的意欲との すなわち社会科学と社会思想との たぐいまれな統一をしめしている。それは ふたりのすぐれた方法や態度にもよるが 同時に スミスの時代のブルジョワジー マルクスの時代のプロレタリアートの歴史的条件にもよるのである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ ところが このように
 ▲ スミスの時代のブルジョワジー マルクスの時代のプロレタリアートの歴史的条件にもよる
 ☆ ということは やはり その理論なり思想なりも どこかの社会的な立ち場に 自分をおいていると考えられます。わたしの場合は 自分自身であり 少し  広くとれば 《スサノヲ市民》ないしその《井戸端会議》です。これも漠然としていますが アマテラス公民ではないという点で はっきりしています。
 ですから たしかに 使う言葉が違うかも知れません。
 スサノヲ人間語――情感もゆたかに――と アマテラス人格語――たてまえ主義ですね けっきょく――との区分が うまく行くように思います。どうでしょう。

補足日時:2009/05/12 13:10
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