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満足した豚であるより、不満足な人間であるほうがよく、満足した馬鹿であるより不満足なソクラテスであるほうがよい

と、いう言葉がありますが、どうしても満足した豚の方が幸せであるとしか思えません
もっとも、この言葉でも、「~であるほうが良い」と言ってるだけで、そっちがより幸せとは言ってなく、人間の本質がそうであるというだけなのかもしれませんが・・・

私から見ると、シンプソンズのホーマーのように、自分の脳で考えない反射で生きているような人の方が圧倒的にに楽しく見えてしまいます

不満足は何か終わりの無い地獄にいるような気がしてしまいます

極端に言えば子供と大人では、何かに夢中になってる間に気づいたら時間が過ぎていたという子供の方が健康的であると思います
大人になって実存主義に陥り、考えても結局行き着く所は「だったら自分が楽しいことをやろう!」という子供が当たり前に出来ていることですし・・・

そのレベルがお酒やゲーム、快楽などの目先のことだけに向けられていたとしても本人がそれで満足なら、そっちの方が良いんじゃないか?と思っています

とくに今の日本ではまだそれで食うに困らないワケですし・・・

しかし、実際の所どこかで「そうじゃないんだ!」

いや

「そうでなかったらいいな」

と期待している自分もいます

皆様の意見聞かせてください

A 回答 (23件中1~10件)

あなたの見ている宇宙は、感受性とそれを把握する認識力


によって成っている。
感受性の乏しい人間ににとっての宇宙とは、希薄なものに
過ぎない。
どんなに似た動きをしても、より歯車や自動販売機に近い
物に過ぎないのだ。
自動販売機がいくら満足そうでも、自動販売機になっては
(=心の豊かさより物質的豊かさを目指しては)いけない。
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ただの自己満足ではしょうがないって事じゃないですか?。

人間は他人に喜んでもらう事が本当の幸せなので。家族の為とか、好きな人の為など。人間の本質は自己満足だけでは、満足しません。他人に喜んでもらうと、満足なんです。豚は自己満足で幸せなので、豚なんです。自己満足で満足してる程度は、価値が低いって事です。
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この回答へのお礼

でもそれも自己満足ですよね

回答ありがとうございました!

お礼日時:2014/06/18 21:23

>感受性の強い人と弱い人、幸せなのはどっち?



感受性の強い人でしょう。理由は、自己完結できるから。
幸せの定義が曖昧ですが、この場合、自分が幸せだと感じる、という意味合いです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました!

お礼日時:2014/06/18 21:22

感受性の強かった時の方が、今よりも人生を深く味わっていた様な気がします。

大人になると、いろんなものに飽きが来たというか、体験の鮮度が落ちてしまった様に感じます。
打算も入りますし、のびのびと、子供の頃の様には生きられなくなっていますね。
感性を回復する魔法があればいいのですが、、或いは豊かな感性そのものが魔法なのか。
そんな魔法を大人になっても持っているのはクリエイターくらいでしょうか。
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この回答へのお礼

傷に慣れてしまいカサブタが厚くなった状態になりますよね

それと平行して幸せを感じる機能も慣れてしまっているのかもしれませんね

回答ありがとうございました!

お礼日時:2014/06/18 21:22

端的に言って「豚の幸せ」と「感受性の強い人の幸せ」があるのだと思います。


そして、世の中には「羨ましくない幸せ」も確実に存在します。

私は「感受性の強い人の幸せ」を掴むのが例え極めて困難であっても
当然ながら「豚の幸せ」は全く羨ましくありません。
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この回答へのお礼

私はすごく羨ましいんですよ・・・

考えすぎで動けなくなってしまうことが多々あるので、下品で粗野でも素だと羨ましくなってしまうんですね・・・

回答ありがとうございました!

お礼日時:2014/06/18 21:20

感受性の「強弱」は比べる事で、起きる



誰かと比べて自分を計っていれば、どんな生き方でも満足の仕様もない
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この回答へのお礼

元々比べてるのが前提の言葉なので、その線でお願いしたいのですが、そうなるとやはりこれは本質のことをさしているのかもしれませんね

回答ありがとうございました!

お礼日時:2014/06/18 21:19

けどねえ。


満足した豚などは、いないんですよ。
豚だって、不満足です。
どんなに至れり尽くせりでも。

自分の脳で考えない、ただ反射で生きているような人には、誰もなれないんです。
目先のことだけに向けられて、それで満足できる人もいないんです。
gaitu さんからは、そんな風にしか見えない人がいるだけです。

生き物は、常に不満足です。
だから「求める」ことは、生きている間ずっと続くのです。
けれど、不満足を不幸なことと捉え、(gaitu さんからの言葉を借りると)終わりのない地獄のように捉え、満足を求めて犯罪を侵したり、精神的不幸に陥ってしまうのは、人間特有。
そこが、豚と人間の違い。

だから、gaitu さんがおっしゃっている通り、そっちがより幸せとは言ってないんです。
人間の本質がそうであるという「だけ」ではなく、まずその認識からだと言っているんですね。
生きる手段に、「考える力」「悩む力」がいるわけですよ。
食うのに困らなければ幸せになれる動物ではないのです。
人間だけは。
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この回答へのお礼

満足した豚がいないと言うのは、この言葉を考えたイギリスの哲学者ミルに言ってもらうしかないのですが、不満足な豚と不満足なソクラテスでしたら、答えは明白で悩まずに済んだのですけどね 笑

回答ありがとうございました!

お礼日時:2014/06/18 21:18

当然、満足した豚の方が幸せです。


愚かであろうが、豚であろうが、現在の自分と自分の置かれている状況に満足し、満ち足りている。そして、満足した豚は自分が幸せであるということに疑念を抱いていない。

「この豚を、どうして、幸せでない」と言えましょうか。

ここで、『老子』を引用します。
~~~~~~~
第八十章
  国を小さくし、民を少なくする。
  様々の道具があるが使用する事はない。
  民の生命を重じて、遠くに移り住まわせない。
  船や車はあるが、これに乗って行く所はない。
  鎧、刀など武器はあるが、これを集め並べることはない。
  民には古代のように縄を結んで記録する方法を取らせている。
  食べ物はおいしく、着る物はきれいだ。住まいも気持  ちよく、皆風俗に馴染む。
  隣国とは互いに望見する事ができるし、鶏や犬の声も 聞こえて来るが、老いて死ぬまで互いに行き来する事はない。

http://www4.tokai.or.jp/kyuguan/iyaku/06_08iyaku …
~~~~~~~~

《小国寡民》!!

さらに、
~~~~~~~~
第三章 
  賢を重んじる事がなければ、民は競い合わないようになる。珍しい物を重んじることがなければ、民は盗まないようになる。
  欲望を掻き立てるものを見せなければ、民は心を乱さなくなる。そこで聖人が国を治めるに当たっては、民の心を単純にして、腹一杯食べられるようにし、その志気を弱くして、筋骨を逞しくさせ、無知無欲にさせるのだ。とくに智者には勝手な事をさせないようにする。すべて「無為」の原則で処理すれば、治められないと言う事はない。

http://www4.tokai.or.jp/kyuguan/iyaku/06.html
~~~~~~
を実施します。

この徹底した《分断政策》と《愚民化政策》を敷き、
わずかなことでも満足できる豚を作る。

そうしますと、
人々は、腹鼓を叩き、足で大地を踏みならし踊りながら、
「日出(いで)て作(な)し 日入りて息(いこ)う。
井(せい)をうがって飲み 田を耕して食(くら)う。
帝力 何(なん)ぞ 我にあらんや!!」
と歌いだします。

戦争───武器は捨てたので───もなければ、泥棒───みんな貧しく、取られるような富をもっていない───もいない。
馬鹿だから何も知らないし、考えることすらできない。
これぞ、豚の楽園、理想郷!!


これですよ、これ。


満足した豚を目指す人は、文明の利器を放棄しなければなりません。
これは満足した豚に災いをもたらすものですから。
パソコン、携帯などは、論外!!
絶対に使ってはいけません。
今すぐ捨てちゃってください!!


ではでは。
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この回答へのお礼

これいいですね

自分が国を作るときがあったら参考にします

ネットばっかやってる非生産性の人間は追放します 笑
回答ありがとうございました!

お礼日時:2014/06/18 21:11

(豚+馬鹿)×満足 と 「人間+ソクラテス)×不満足 では。

満足のつく方がいい。と言われているようですね。 豚や馬鹿をもちださずとも、満足と不満足を比べれば、答えは同じになるのでは。
そんな言葉があるとは知りませんでした。似たような言葉は、昭和40年代の初めの頃。東大の卒業式で、学長が、太った豚となるより、痩せたソクラテスであれ。との言葉を卒業生に送った。との報道を覚えていますが。変質して伝わっているでしょうか?
人生の目的は幸せになることである。とは古代ギリシャ哲学の走り、タレス、が3千年ばかり昔に言ったことでしょうが、いまだに、愛だの、幸せだのとの言葉で思想を説く者も多いようです
過去の偉人天才たちは、大衆に奉仕してのであり、真理、に奉仕した訳ではなかった。(ニ-チェ)
 真理に奉仕する ということの意味を考えてみてはどうですか。
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この回答へのお礼

真理に奉仕は苦しいじゃないですか 笑
でも自分がやってる仕事では勿論そうやってますけど
 

そうですねただ満足と不満足比べたら分かりやすい話ですね!

回答ありがとうございました!

お礼日時:2014/06/18 21:09

満足した豚であるより、不満足な人間であるほうがよく、満足した馬鹿であるより不満足なソクラテスであるほうがよい


は、ジョン・スチュワート・ミルの言葉です。


~~~~~~~
「満足な豚であるより、不満足な人間である方が良い。 同じく、満足な愚者であるより、不満足なソクラテスである方が良い。 そして、その豚もしくは愚者の意見がこれと違えば、それはその者が自分の主張しか出来ないからである。 」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7% …
~~~~~~~

ほいで、
J.S.ミルは、「快楽 = 善」と見なす功利主義の代表的な思想家の一人。
功利主義においては、善の根拠は、快楽ですからね~。気持ちいいか、悪いかですからね~。
この気持ちいい、悪いに、頭の良し悪しは関係ないんじゃないか(笑い)。

そして、
満足した豚の快楽の量の総和の方が、不満足なソクラテスのそれより、大きいんですよ。
ですから、
功利主義的には、満足した豚の状態の方が不満足なソクラテス状態よりも善なる状態となります。
ミルのこの主張は、明らかに、ベンサムの功利主義からの逸脱がある。
ミルは、量だけではなく、功利主義に快楽の質を持ち込もうとしているんですよ。
Wikipediaには、
~~~~~~
簡単に述べると、ミルの功利主義は、快楽について、ベンサムが唱えた量的なものよりも質的な差異をみとめ精神的な快楽に重きを置いた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7% …
~~~~~~
とあります。

さてさて、
ミルの言うように、本当に、快楽に質の差があるのかどうか。
高級な快楽と低級な快楽があるのかどうか。
それがあるとして、
人は低級な快楽よりも高級な快楽を求めるのかどうか。
一度、高級な快楽を知った者は、低級な快楽を求めたりしないのか。
何しろ、快楽は、「気持ちいい~」ですから、
どうなんでしょう?
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この回答へのお礼

快楽の質ですか。新しい考え方でした

お釈迦様は悟りを開いた時には当初誰にも教えるつもりも無くしばらくニヤニヤして過ごしていたらしいですが、それはレベルが違うとして

しかしそうなると、幸せの基本の「人と比べない」に反してしまうのではないでしょうか?
不満足な俺が行き着いた俺の快楽、豚には真似出来ないだろ?きもちいーー!!
と、いうことに

高級な快楽こそ、自己満足の快楽に思えてしまいます

しかし、これ自体他者と比べての発言なので、やはり
。どっちが幸せの話しではなく本質の話しなのかもしれませんね・・・

回答ありがとうございました

お礼日時:2014/06/18 21:07

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