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日本陸軍が、大陸で常設師団、特設師団が多く戦場にいた時に、30代師団と第一次独立混成旅団が内地で編成されました。
この時に装備は、完璧にそろえられたのでしょうか?
それだけの、生産能力があったのでしょうか?
どんな兵器が、装備されたのでしょうか?

同時期に、関東軍の国境守備隊も配置されたのにです。
国境守備隊の装備兵器も、教えて下さい。

2年前の特設師団出征時には、一昔前の旧式兵器を倉庫から引っ張り出して、頭数だけ揃えた様な状態だったのに・・・。日露戦争時代兵器まで動員しているのにです。

戦史叢書シリーズは読みました。
防衛研究所行きは、お断り。

詳しい方、お願い致します。

A 回答 (2件)

 臨時軍事費特別会計は1937年9月から始まりました。



 太平洋戦争が始まる1941年12月まで、臨時軍事費の総額は256億円(現在の価格で約20兆円)のぼりましたが、このうち日中戦争に使われたのは3割に過ぎず、残りは陸軍は対ソ連、海軍は対アメリカとの戦争に備えて軍備拡張に使われたという研究があります。

 だから日米開戦時には軍事力がもっとも充実していたといえるでしょう。緒戦で圧倒すれば、この戦争に勝てるだろうというのが軍部の読みでした。
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この回答へのお礼

ありがとうございます…

予算は分かっています。
生産能力と、具体的装備品の質問です。
もう一度、お願い致します。

お礼日時:2014/08/23 18:55

 30番台師団と独立混成旅団臨時編成のころというと、1939年(昭和14)当時、武漢作戦がひと段落して束の間の平安を迎えたころを指しますが、これにともない、治安師団、独立混成旅団、兵站部隊派遣という動きの反面、師団、軍直部隊の復員も実施されました。

したがって、すべてが外に出て行ったわけではありませんでした。

 先の臨時編成部隊の編成においてはなるべく、編成を担任する留守部隊が重複しないよう配慮がされていて同年1月の独立混成旅団九個と2月の師団六個のうち両方を編成したのは久留米師管だけでした。

 兵員に関しては、100番台特設師団が主に予備役召集によって動員したのに対して、徴集兵、召集兵混合とし現地にて教育を並行するものとしたのが特徴でした。喫緊の課題は下級将校の充当で、このため同年4月には予備役将校を育成する学校が設立されています。また、予備役将校の服務延長と待遇改善を図るために特別志願制度を設けました。

 兵器に関しては、まず小銃や機関銃は明治、大正時代の兵器でしたから特別に不足するということはありませんでした。ただし、弾薬の補給は常に不足気味で制約の中で戦われたようです。

 ついで火砲に関しても、日露戦争終結後から大正軍縮までは平時であっても軍備拡張してきましたから砲のストックはありましたし、そもそも師団砲兵の殆どが輓馬に依っており、師団砲兵の主力火砲は、三八式野砲とその改良型、九五式野砲、九一式十糎榴弾砲(フランスが前大戦で使っていた砲の改良型)、四年式十五糎榴弾砲(ごく一部)で、独立野戦砲兵部隊が機械化されて、新式砲を装備していくにつれて、お下がりを充当されたのが実情でした。つまり師団砲兵は旧式兵器に依存していたわけですが、それでも生産数は不足し師団砲兵が目標とした四個大隊(十二個中隊)48門装備の大半は実現を見ませんでした。また、弾薬の補給は常に課題で日本国内だけでは賄えず、中国、満洲にても弾薬製造を行っていましたし、日本砲兵が一発必中射撃に拘ったのも弾幕射撃の余裕がなかった現れでした。

 馬匹に関しては、早くから国内全土に亘る軍馬補充、軍馬防疫の組織を作っていましたが、例えば特設乙師団には馬匹約5500頭が充当されていたように、師団の多くは輓馬、駄馬に依存していましたから国内馬では足らず、中国大陸の駄馬も活用することで賄いました。

 車輛は、軍直属兵站部隊として自動車連隊、兵站自動車隊などが大量に編成されましたが、これも新車製造では間に合わず民間からの徴発に頼ることになりました。

 関東軍の国境守備隊に装備に関しては、戦史叢書の『関東軍』に詳細が載っているはずですが、各地区隊の規模が異なるにともない、砲兵も一個中隊から五個中隊までにおよび、三八式野砲、十糎榴弾砲、中迫撃砲、十糎加農砲、十五糎加農砲、二十四糎加農砲、三十糎加農砲など多種多様でしたが一般に旧式火砲を装備していました。



 資料:『ルソンの砲弾 第八師団玉砕戦記』河合武郎 光人社 1999

     『日本砲兵史』 陸上自衛隊富士学校特科会 原書房 1980

 

 

 
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この回答へのお礼

丁寧な、ご説明ありがとうございます。

質問を出した後『第百一師団長日誌』を読み直しました。
常設師団のひとつ前の『お古』を特設師団に配備していった事も教えていただいたので理解できました。
私の予想通りでした。

しかし、連隊砲として、日露戦争の31式速射山砲を装備していたのが、驚きです。
弾薬装備も常設師団の1/3!
1937年の特設師団は全部、そうだった様です。
これで38年の臨時(15、17、21、22、23)が、どうだったのか?
間に合ったのか?
39年の30代が装備出来たのかが、いくら増産が進んだとは言え、
1コ師団あたりのの装備数は年々増加していっているし、まだ疑問です。

 『日本砲兵史』 も読みました。
どれぐらいの欠数、お古があったのか書かれていない様に思います。
お時間ありましたら、この当たりを、更に具体的に教えていただけたら嬉しいです。

多分、お時間取らせてしまったでしょう。
本当に詳しい説明、ありがとうございました。

お礼日時:2014/08/26 01:59

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