重要なお知らせ

「教えて! goo」は2025年9月17日(水)をもちまして、サービスを終了いたします。詳細はこちら>

電子書籍の厳選無料作品が豊富!

いつもお世話になります。
カントの哲学を理解しているわけでは有りませんし、カントは「価値・所有・交換」といった概念には関心が無いようですが、私なりに考えてみると、非常に困った問題が有ることに気がつきました。

価値考量 価値を量的に考える事ですが、

私たちの主観は対象の「量」「質」「様態」「関係」さらに「時間」と言った、種類の違う概念を総合して一つの概念(価値)の量的評価を行う能力を持っていると考えますが、この能力は、全て、経験から得るものでしょうか?

それとも、例の難解な「形式」は、経験に関わらずに普遍的に全ての人間が持っているものでしょうか?

A 回答 (1件)

ご質問はこの間から気になっていました。



>私たちの主観は対象の「量」「質」「様態」「関係」さらに「時間」と言った、種類の違う概念を総合して一つの概念(価値)の量的評価を行う能力を持っていると考えますが、この能力は、全て、経験から得るものでしょうか?

という部分がよくわかりません。
まず、「価値」というのは「関係」の概念ですよね。
Aに価値がある、というのは、絶対的な概念としてはありえません。
つねにBにとって、あるいは、Cに対して、という、関係としての概念として立ち現れてくるもの、と考えることができると思います。
となると、こうしたことは経験的認識の範疇である、と考えられるのではないでしょうか。
カントの扱う「先天的総合判断」の範疇にはないような気がします。

それに対して前半の「量」「質」「関係」「様相」というのは、「カテゴリー」のことを、「時間」(そして「空間」)は、人間の感性に与えられた「直観」のことを言っておられるのだと思いますが、こうしたことによって下される判断、というのは、先天的総合判断と呼ばれるものです。
先天的、というのは、字義通り、生まれる前から、経験とは無関係に、人間に普遍的に与えられている能力のことです。経験から得られるものではありません。

いまひとつ質問者さんがどういった意味で価値、あるいは比較考量ということばを使っておられるのか、おそらく経済学との関係があるのではないか、と想像するのですが、私にはわかりません。
上で「価値」について考えることは経験的認識ではないか、と書きましたが、質問者さんの問題意識とはずれているような気がします。
ということで、「先天的総合判断」についてのごく一般的な回答となってしまいます。質問者さんの問題意識とはかみ合っていないと思うのですが、どうかご容赦ください。

カントは、経験論者ヒュームのあとを受けて、あらゆる認識は経験と共に始まる、とします。
けれども私たちの認識がすべて経験的なものであったら、決して普遍的・必然的認識(誰がいつどこでどのように考えたとしてもかならずたどり着ける真理)には到達できないだろう、と考えます。
経験によって知ることができるものを積み重ねただけでは、その外にあるものが正しいかどうか知ることはできないからです(だからその部分に関して、ヒュームは「考えないこと」にします)。

経験したことのないことがらについて、判断できるのはなぜか。
あるいはまた数学の命題、たとえば「直線は2点間の最短距離である」が真である、といえるのはなぜか。
それは、私たちのうちに先天的な認識形式が存在するからだ。

それでは、なぜこの認識形式が客観性を持っている、といえるのでしょうか。
ここでカントは、認識の対象に目を向けます。

対象というものは、私たちから独立した存在ではない。
対象は、私たちの主観の先天的形式が構成したものである。

それまで認識というものは、あくまでも対象が中心でした。
対象は、私たちとは独立に、客観的に存在していることが前提だったわけです。
カントはそれをひっくり返して見せた。
私たちが「対象」として認識できるのは、私たちの主観が、そのものを対象として取り上げ、意識の俎上にのぼらせているからだ、と。

私たちの認識は感性によって、対象の直観が与えられる。
それを悟性が思惟することによって、認識が成り立つ、とカントは考えます。
こうした判断は「先天的総合判断」であって、単に「わたし」のみが主観的に下した判断ではなく、普遍的・必然的な判断であり、あらゆる学問の基礎となるべきものである。
と、これがカントのいう「先天的総合判断」です。

>例の難解な「形式」は、経験に関わらずに普遍的に全ての人間が持っているものでしょうか?
そういうことです。

ただ、今日から考えると、煩雑でいささか無理のある先験的判断のプロセスを理解する必要はないと思います。
むしろ大切なのは、「対象」というのは、私たちの主観が取り上げたものである、というカントのコペルニクス的転回ではないのでしょうか。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

お忙しいところ、変な質問にご回答いただき、有難うございます。

結局、カントの哲学から考えると、普遍的な「価値法則」は、存在しない事になりますね。困った困った。

>まず、「価値」というのは「関係」の概念ですよね。
この言葉、長年、私の悩みの種でした、カントの哲学から来ていることが判っただけでも大きな収穫です。しかし、本当にそうでしょうか?
私たちは、まれにしか意識しませんが、空気や水にも当然価値があるわけで、これは経験に関わりなく存在しそうな気がするのですが、しかし、価値を交換価値と同義に考える方からは、「空気の価値」などと表現すると批判されそうで、難しいところです。
価値は失うとよく理解できますね、この世から「貨幣」失うとどうなるか想像も出来ませんが、空気を失うよりマシでしょうね。有難うございます。
判りにくい文章は、カントを意識しすぎたようで,一般用語として単純に読まれたほうが、判り易いかも、そもそも間違っていたら、判らなくて当然でしょうが。(汗

お礼日時:2004/06/20 08:29

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!