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政府の市場介入が正当化されることのひとつに、
幼稚産業の保護政策があると思います。
よくあるのが、共同研究機関をつくって、何社かの企業をいれ、
政府が補助金をだすことが挙げられると思います。

ここで、私は疑問を持ちました。
政府が自国の産業を保護育成する理由はわかるのですが、
特定の企業にのみその恩恵を傾けてよいのでしょうか。
政府政策として公平性に欠け、むしろ国内のみでみたら市場メカニズムに
歪みをもたらすような気がしています。

 例として、ケースでよく取り上げられる
1960年代のコンピュータ産業の保護です。
この中でも、「電子計算機技術研究組合」は、
通産省がNEC・富士通・沖の3社に参加させ、
3年間で3億5千万円もの補助金を出しました
参加企業は開発コスト削減、技術開発、競争インセンティブなど
おおくのメリットを享受したわけです。
 当時、IBMの勢いがすさまじく、
自由化の前に猛烈なキャッチアップが必要でした。
しかしながら、この共同開発に参加しなかった企業は
その恩恵を受けられず、差がついてしまう。
単に民間企業同士で行う共同開発ならわかりますが、
通産省主導というのが気になります。

これって公平性に欠けていると思いますか?
また、公平性に欠けている以上に、幼稚産業保護が重要だということですか?

よろしくお願いいたします。

A 回答 (2件)

悪しき言い回しとして、“泣く子と地頭には勝てぬ”。


泣く子は貧困やら不平不満を現し、地頭に勝てぬは官権横暴を意味する。
どちらも社会的貧相の代名詞なのでしょうが、官権横着による政府の何かしらの産業の金権聖域保護は、悪しきことわざの解消には成らずに、むしろ、その悪しき例えを増長する。
悪しきそれら、政府とその蜜月による被保護者は、泣く子にも成れば地頭官権にもなり、その不正なる社会騒動騒ぎは解消されることは無い。
コンピュータ関連にしろ、その開発結果は、各種生産からサービスそして家庭一般までそれらの機械自動化の頭脳として定着してその利便に違和感はない。
あるとするならば、政府と銀行金融がその金権管理に使用する金融コンピュータの存在、もう一つ足すと、人々に危害を加えるために用意される軍事コンピュータでしょうか。
政府が、泣く子と地頭を増殖拡大し、すべてが泣く子化する言語道断、これは許されないのではないでしょうか。
コンピュータ関連企業も、開発当初はその製品の出来も未熟であり、例えて そのすべてが学生のようなもの であったのでしょうが、現在の社会では宇宙から航空、海洋、都市、村々のITに至るまでの過不足の感じられない人工知能として成立した感もある。
前述したように、おかしいのは政府と銀行そして軍事部門に使用されるコンピュータ、それらの地頭ぶりが人々を泣かせ続けるのではないでしょうか。
近所のデパートやら小売店でも、高性能なレジ消費税コンピュータが人々を待たせる行列を演出している様ははた迷惑でしか無いと見える。
それらの税コンピュータを解消/廃止していくことで、人々の頭は、税頭から福祉社会頭へと変化し発展していくことが可能なのではないでしょうか。
産業育成のための、初期のそれらへの(学生への)保護のようなものは、その果どまりを期待して有効手段でしょうが、それ以外の税地頭行為、&、泣く子税金無心行為は 政治不正 と言えるのではないでしょうか。
それらの不正を全面解消するだけのコンピュータ人工知能環境は、すでに実現してあるのにと言えるのではないでしょうか。
政府が、その先頭を切って、不正なる私利私欲税搾取とその温床づくりを放棄することではないでしょうか。
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結構やっかいなことと思うのです。

以下の記載は個人的な雑感なので、回答とは考えないでください。

公平性とは何かが、決して単純ではない、揺れ動くイメージだと思います。政府が自国の国籍を持つ住民にのみ保護やインフラを提供し、同地域に暮らす多国籍の住民や多国籍の旅行者にはそうした提供に差を設けるとしたら公平でしょうか。商取引の契約履行に関わる裁判等で自国当事者から法の適用を求められたら応え、自国籍でない当事者から法の適用を求められても自国籍とは同等には扱わないとしたらそれが公平でしょうか。政府が自国の企業を保護育成する場合は公平でしょうか。いろいろの事業等では競争入札を行いますが、入札資格が決められていてその条件に適合しない事業者は入札にさえ参加できませんが、これが公平でしょうか。本日6月14日の毎日新聞東京日曜版の「新・心のサプリ」で「貧困がテロや政情不安の大きな引き金になる
こと、ただ貧しいだけではなく、その奥に、どう努力してもスタートラインが異なっていて追いつくことができない不平等感がある場合、その不平等感が他者への羨望や嫉妬を生むことがわかる。路上生活まではいかないが、日本で子どもの貧困が問題になり政府が対策を打ち出している。また、このところ日本では、豊かな家庭の子弟が多額な
教育費をかけて受験戦争を勝ちぬき、一流大学を卒業して社会生活のスタートラインにつく風潮も気になる。競争社会はやむを得ない。しかしスタートラインが平等でない競争社会はひずみを生む可能性をもっている。」と書かれていました。スタートラインをどこに引いて考えるかを問題にすると、親や地域、その歴史、金銭資産や教育や訓練、言語文化、知識技能、設備装置や組織やネットワークが全部絡んできてしまうことがわかると思います。 極端なことを問題にすると、身体障害や発達障害があって現状の能力に格段の差がある場合でもその差を何かで補償しないと公平性が保ててないということになったり、怠業や稼働率の悪さ、不効率や不良率あるいは不達成も結果であってその結果だけで取り扱いに差を設けてしまわないようにすることが公平性だとなりかねません。公平か公平でないかを関係者や全員の多数意見で決めるのは、まさに不公平の始まりでもあります。

政府や自治体がインフラ整備で橋や道路、鉄道を整備すれば、必ずメリットを受ける地域や産業、企業、住民がでます。ある地域、ある産業、ある企業、ある住民がメリットを享受することは、他方で割を食うものを作り出すという差別取り扱いをすることでもあります。国立に準じた大学や研究所で何かの研究で成果を出し民間に役立たせるということは、その成果を利用できるだけの基盤や能力と志向性をもった企業に資するということで、そうした成果などを先進的に利用することなど考えようもない分野にある民間事業体あるいは高度技術を持っていない事業体や投資余力のない民間事業体は、「強いものに肩入れされて、俺たちはますます置いて行かれた」ということにもなります。現在産業技術は高度になり人手は無用になる方向に進み、重要な業務はそれを担えるレベルにある少数の人間でやる方向にどんどんと進んでいます。単純な労働や作業だけでなく、これまではある程度の知力経験知識技能が必要不可欠なことに関しても、人工知能やコンピュータと情報を最新技術でやった方が、人がやるよりも、適切で感じが良く、低コストで、常時利用できるという状態になるでしょう。労働年齢を20~50歳の31年間とすると、日本で年間100万人出生するとして労働年齢人口は3100万人になりますが、機械化無人化情報化が進展すると、調査研究生産保管流通運搬販売説明運転操作治療介護教育娯楽などの分野で必要な労働力は2025年頃1000万人を下回る可能性もあると思います。就業したくない人、できる限り短時間労働で済ませたい人もいるでしょうが、働きたいという希望者がいても、必要な労働力という需要が少ないのですから、労働力や人材を使う側、選択する側は気性、感性、知的能力や美貌、品性や感じなどタレントに注目して人材を選抜選定する傾向は強くなり、《人口の過半数、おそらく8割ほどの人にとっては、自分の感覚では、どこからも自分は排除され、居場所がない。この社会は全く不公平だ》という状態に近づいて行くのだろうと想像できます。

もともと、人間は意図的選択から離れることができないです。犬猫や猿とはちがって脳が発達してしまったため、そして出生後の脳の発達過程でその人なりの知性と経験、感性や気分で比較して意図的に選択します。論理的整合性は重要ではないけれど、選択する行為が多発すると、傾向的には、旨い、楽しい、容易、手間いらず、快適などの条件にあうものやサービスが多く選択されることになり、それらの点で劣位にあるものやサービスは排除される方向に進みます。劣位の物品やサービスが排除されるなら、それらに関わっている人々が居場所を失う予見で不安を高め、社会は不安定になりなります。社会を安定に保つことは、不公平感の増大の危険を未然に防止する上で重要です。
そうであれば、不公平感の増大の危険対策としては、救貧対策、倒産対策、失業対策では不十分で、積極的な職業訓練、学校教育、国際言語の習得対策、衛生や医療と防疫、高齢者年金などの対策、さらに時代や世界情勢に応じた移民や移住の施策の見直し、産業構造転換、重点産業とする分野への傾斜投資や法制等整備が大事にあるということなのでしょう。 私たちが生まれる前ですが、ナチスはそうした政策をとることで、国民の支持と不公平感の増大防止、経済の活性化・一人あたり国民所得の急増に性交しています。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%81% …

不公平というのは、単純に云えば、個人が自分の取り扱いに不満や非差別感、あるいは排除された感じです。それと似たのを、集団や階層、あるいは企業や産業、地方、国に拡大して不公平と云います。個人でも集団でも、企業でも、持ち活用できる知識技能、取り巻く環境や支援排斥競合連携の状態は違うのは当然なので、その違いがある期間継続した場合、不公平感が生じることは避けられません。 問題は不公平感や不公平そのものではなくて、そうした公平感や不公平が社会問題になるような状態になり、社会を不安定にしたり、分断するような状態にするかどうかののでしょう。
そう考えれば、限定した地方、限定した企業数社、限定した産業に優位に働く支援や施策を意図的政治的経済的に行っても、その対象にならなかったところから不公平という声が上がったにしても、そしてそうしたところが産業分野事業分野転換、労働力移動などを行うことになったにしても、そうした移動や変更、変化が社会の中で恒常的あるいは波動的に起きていて、景気に適度な上昇下降があっても、大きな社会不安で暴力的行動が頻発する、社会的分断状況が起きるような不公平感が蔓延するのでなければ、《それでよい・その方が良い》ということになるのでしょう。
なお、ある一つの政策が「社会不安で暴力的行動が頻発する、社会的分断状況が起きるような不公平感が蔓延する状態を作り出す」ことはほとんど考えられません。いくつかの政策が絡み合って、社会経済状態との組み合わせの結果で、「社会不安で暴力的行動が頻発する、社会的分断状況が起きるような不公平感が蔓延する状態を作り出す」のですから、どのような政策であったにしても、その政策がある一部にだけ優遇するような不公平きわまる政策であったにしても、そのことだけで、不適切な政策とはいえないと思います。 
「政権支持者の利権のため、政権側の一部の身内のためであって、現政権に比較的容易に交代する対抗勢力にとっては許しがたい政策」という特殊な状況になければ、不公平きわまる政策であったにしても、「不公平が問題だ」ということにはならないでしょう。施策のほとんどは、不公平を意図的に作るものですから。意図的に不公平を作る意図を持ってないのは手続き関係の法律のようなものでしょう。
建築基準法で規制を厳しくするってことは、そのような条件をクリアする土地購入ができない、高い建築費が出せない、高い技術力や調査能力をもたない業者を排除するってことが狙いともいえるのですから。
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