【選手権お題その1】これってもしかして自分だけかもしれないな…と思うあるあるを教えてください

新選組を調べていたら新徴組と京都見廻組というのがある事を知って、この二つの組織に興味を持ったんですけど
この新徴組と京都見廻組について詳しい知識を持ってる方がいたら、教えてくれませんか?
どんなことをしていたとか、どんな人物がいたとか、新選組でいう池田屋事件みたいな何か目立った事をしたのかだとか
それと教えてくれるじゃなくて、詳しく載ってる本とかサイトとかでも大丈夫です!
お願いします!

A 回答 (3件)

ひとことで言うと新徴組は新選組の前身。

新選組(新撰組とも書く)は有名なだけにnetには詳しい説明がたくさんあるし本も多いのでここでは省略。

それに対して「京都見廻組」は史料が極めて乏しい。
暗殺が横行していた京都の治安を維持するため元治元年(1864)4月26日に設置が決まる。定員400人。リーダーを「見廻役」といい、備中浅尾藩主蒔田広孝(1万石)と松平康正(旗本 6000石)が任命される。
一般にこのような役目では下働きとして領内の農民が動員されるのだが、見廻組の組士は幕府旗本の2、3男から採用された。つまり新規採用の旗本ということになる。
人数がほぼ集まって江戸を発つのが7月になってから。京都着は21日と思える(正確な史料は残ってない)。その直前の19日には蛤御門の変があった。間にあってないはずなのだが蒔田は80人余を率いて出動している。実は蒔田は5月25日には京都に到着しているのだが、その理由については伝わっていない。愚考だが蒔田は前年の文久3年5月から羽田警備(現在の羽田飛行場付近で外国人の無断上陸を監視)をしており、これに使っていた農民を京都へ連れて行ったものと思われる。
蛤御門の当日、見廻組は長州諸隊のひとつ金剛隊と衝突し、1人を討取り大砲などを分捕った。のちの慶応2年(1866)4月、備中の浅尾藩陣屋は長州の「第二奇兵隊」に襲われ炎上したが、京都での恨みが原因とも言われる(浅尾騒動という)。
見廻組が本格的に活動を始めるのは8月になってからのようだ。400人の組士を二分し、蒔田組、松平組として活動した。当時新撰組も市中警備をしていたが担当区域が違っている。
新撰組ほど華々しい活躍はしなかったようだが、いささか皮肉っぽい言い方をすると何事も起こさせなかったというのは”偉大な功績”なのかもしれない。
元治元年12月には敦賀に現れた天狗党の捕縛に出動している。
リーダーである見廻役と組士の間に与頭(くみがしら と読む)というサブリーダーが4人いた。その中に佐々木只三郎がいる。のちに坂本龍馬を暗殺したといわれる人物。

ともかく見廻組に関する資料はほとんどないのだが、わずかな史料を丹念に集めたのが下記の本。見廻組について書かれたものはこれしかないのでは? よくこれだけの史料を集めたと思う。菊地氏の熱意に敬服。
「京都見廻組史録」 菊地明/著 新人物往来社 2005年
多くの図書館にはあると思えるし比較的新しい本なのでまだ書店でも入手できるかもしれない。学者が書いた論文ではないので読みやすい。ぜひご覧を。
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この回答へのお礼

ありがとう

詳しい回答ありがとうございます!!
新選組と違うところが結構多いんですね…
資料がとても少ないのに、こんなに教えてくれてありがとうございます!
本も読んでみます!本当にありがとうございました!

お礼日時:2015/09/14 23:39

>どんなことをしていたとか、


>どんな人物がいたとか、
>新選組でいう池田屋事件みたいな何か目立った事をしたのかだとか

この辺りなら、とりあえずWikipediaで十分なのでは?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E9%81%B8 …
興味を持ったのならまず読んでみるサイトだと思いますけど、質問文にはそんな形跡はないんで。
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この回答へのお礼

ありがとう

回答ありがとうございます!
そうですね…ウィキペディアを読んでみます
ありがとうございました!

お礼日時:2015/09/14 18:34

新徴組(しんちょうぐみ)は、江戸時代後期の文久2年(1862年)2月に結成された、江戸幕府による江戸を守る警備組織。



江戸で将軍上洛の警護を目的とした浪士組結成募集が行われ、京都へ上洛した際に、清河八郎より将軍上洛の警護でなく尊王攘夷の先鋒を唱える。同意した者は清河八郎に率いられて江戸に戻るが、同意できなかった近藤勇や芹沢鴨など24名は袂を分かち壬生浪士組を経て新撰組を旗揚げすることになる。

4月に清河が暗殺されると清河の同志達も次々と捕縛されたため、浪士組は組織目的を失う。幕府は浪士組を新徴組として再組織した。屯所は江戸の本所(東京都墨田区)に設置し取締責任者は高橋泥舟と山岡鉄太郎が就いた。

結成以来、幕府の邪魔になる商家などを襲ったり、ゆすり騙りを働き、金品を奪っては酒色に溺れていた。高橋泥舟(高橋精一)と山岡鉄太郎(山岡鉄舟)は江戸城に呼び出され、不祥事の責任をとらされ、御役御免になり謹慎閉居になった。[要出典]

文久3年(1863年)、幕府より江戸市中警護、海防警備の命令を受け規律を取り戻すと元治元年(1864年)には庄内藩酒井家の御預かりとなる。



京都見廻組(きょうとみまわりぐみ)は、江戸時代末期に幕臣によって結成された京都の治安維持組織。
新選組が主に京都の町中を回ったのに対して、見廻組は主に御所や二条城周辺の官庁街を管轄とし警護しました

大政奉還後、相模組与頭の佐々木只三郎、組士・渡辺吉太郎、高橋安二郎、桂早之助、土肥仲蔵、桜井大三郎、今井信郎、渡辺篤らが坂本龍馬、中岡慎太郎の暗殺(近江屋事件)に関与したとされる。

慶応3年12月14日(1868年1月8日)、新遊撃隊に改称されたが、12月25日(1月19日)、見廻組に名称を戻し戊辰戦争に参加、慶応4年3月18日(1868年4月10日)、狙撃隊に改称された。戊辰戦争で降伏した。
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この回答へのお礼

ありがとう

回答ありがとうございます!
ウィキペディアの文をわかりやすく書いてくれたんですね!ありがとうございます!

お礼日時:2015/09/14 18:31

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