誕生日にもらった意外なもの

 カントでの、「理念」の、「理性」との関係がよく分かりません。 感性→悟性→理性の展開に対応して、その先験的形式面として、時空→カテゴリー→理念という展開を考えてよいのでしょうか?
 よろしくお願いいたします。

A 回答 (2件)

長たらしい割には内容のない回答を丁寧に読んでくださって、ありがとうございます。


哲学カテで回答する際は、質問を機に、読み直し、整理し直し、独りよがりな考え方をしている部分がないかどうか見直す機会にしているので、補足をくださるのは大変ありがたいです。
ちょっと曖昧なところもあったので、久し振りに『純粋理性批判』を引っ張り出してみました。

まず(1)に関して。
理解の道筋として、正しいと思います。

先に(3)に関して。
まず、この「制約」とは、辞書で見る
「(1)制限や条件をつけて、自由に活動させないこと。
(2)物事の成立に必要な条件や規定」(「大辞林 第二版」)
の(2)にあたります。

だから、前の回答で
>(ここからここまで、という制約がないと、体系づけることは不可能です)。
と書いたのは、間違っていますね。
ごめんなさい。
誤りの訂正も含めて、もう少し「制約」について、詳しく見ていきます。

理性の推理とは、具体的には三段論法です。

「各三段論法においてわたくしはまず悟性によって、ひとつの規則(大前提)を考える。
次に判断力を媒介として、ひとつの認識(小概念)をその規則の制約(媒概念)のもとに包摂する(小前提)。
最後にわたくしはその規則(大前提)の述語(大概念)によって、わたくしの認識を規定する(結論)」(B361)

具体的に考えてみましょう。
いわゆる定言的推理というやつです。
すべての人間は死ぬ。…大前提
ソクラテスは人間である。…小前提
ソクラテスは死ぬものである。…結論
このとき、「人間であること」にあたるものが「制約」です。

あるいは、諸判断が与えられて(タレスは死んだ、ソロンは死んだ…)、ここから結論的な判断(ソクラテスは死ぬものだ)が導き出せないかどうか見るときは(帰納)、結論の含む客観(ソクラテス)が制約(人間であること)のもとに包摂されるならば、普遍的な規則(人間は死ぬものである)にしたがって、結論を見出すことができる。
このように、理性は、演繹を帰納に導入することによって、きわめて多様な悟性の認識を、最小限の原理に帰着させ、最高の統一を与えようとする。

つまり制約ということに関していうなら、理性は、ソクラテスを、より一般的な「制約」である「人間というもの」のもとに包摂していき、さらに人間を、より一般的なものに包摂せしめるような「制約」を求めていく。

その一切の概念の根幹にあるのが「無制約者」です。
ただ、この無制約者は、現実に見出し得るものではありません。
それでも人間の理性は、求めることを止めることはない。
そのために理性には、先験的理念という形で「無制約者」の表象、つまり無制約者の概念はあるんです。
この先験的理念は与えられてはいないけれど、求めていくことが人間には課せられている。

与えられていると誤解すると、先験的仮象という誤りに陥ってしまう。

たとえば思惟する主観の無制約者は霊魂です。
思惟する主観、の一番根幹というと、通常は、「われ思う」の「われ」と思いがちですが、この「われ」は実体として認識されないんです。なぜかというと、「われ」は論理的な判断主体ではあっても、私たちは「われ」の直観を持っていない。
霊魂について考えること(心は単一な実体であるとか、非物質であるとか)は、「実体」としての「われ」を基礎にして初めて成り立つものであるから、誤謬を犯している(先験的誤謬)。

同様に、世界についての先験的仮象は二律背反として、神の理念の先験的仮象は純粋理性の理想として、これまでの形而上学のあり方を批判していきます(ここらへんは岩崎武雄の『カント』がかなりよくまとまっています)。


最後に(2)に関して
>悟性と感性の間を仲立ちする「図式」のように、理性と悟性の間を仲立ちする。

「制約」は、理性が多様な悟性認識を統一しようとする時に、媒介となる条件である、とまとめることはできないでしょうか。

わかりにくい部分があったら、ご指摘お願いします。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

有難うございました。

「判断」は、悟性に12個のカテゴリーという形式をあたえて悟性の機能(理解すること)を保障している。

同様に、「推論(統合を目指しての自問自答、帰納演繹のやむにやまれぬ繰り返し)」が、推論が持つ小前提の制約(実は和訳のベクトルと逆の意味)・条件を突き止めつつ統一(無条件的な全体性、無制約者)に至るという、3種の発現様式(理念)を理性に与える。

教えていただいたことの自分流の理解、間違っているかもしれませんので、もう少し調べます。おかげさまで大分前に進むことが出来ました。有難うございました。生硬な日本語御免ください。今後ともよろしくお願いいたします。

お礼日時:2004/07/01 14:25

どこらへんから書き始めればいいか、いつも迷うんですが、とりあえず大元から書いてみます。


すでによくご存じの部分は、読み流してください。

カントが登場した時代というのは、ヨーロッパ大陸では合理論が、イギリスでは経験論が、それぞれに展開していったあげく、正反対の帰結を導いてしまった時代です。
合理論にあっては、理性は、中世的な社会秩序や宗教的権威から人間を解放するものであり、理性こそが神に代わって、世界に秩序を与えるものだ、と考えます。
経験論では、われわれの認識は経験によるものであって、生得観念というものを一切否定します。
そうした両者をそれぞれ批判し、統合することをカントは目的としました。
とくに、理性に対しては、カントは『純粋理性批判』のなかで、人間の理性のおよぶ範囲を明らかにし、限界を見極めようとします。

カントはまず、私たちの認識の対象をあきらかにします。
私たちが認識しうるのは、感性に備わった直観の形式によって把握された「現象」に過ぎない。
私たちは決して「物自体」を認識することはできないのです。
けれどもこの「現象」は、主観的なものではない。カントの言葉で言う「仮象」ではないのです。

なぜ、物自体をとらえることができないのに、私たちが認識した現象が、主観的な「仮象」ではないといえるのでしょうか。
それは、人間の認識能力には、すべての人で同一な先天的形式が存在するからです。
だからこそ、普遍的であり必然的な認識が可能であり、そのために「現象」が客観性・普遍性を持ちうるのです。

ならば、空間的時間的な経験世界を扱わない形而上学はどうなのでしょうか。
カントは、霊魂とか、世界の本質とか、神とかの、人間の感性が経験的に認識できないものごとを、悟性によってのみ認識しようとしているために、根本的に誤っている、とします。

けれども、歴史上、形而上学が存在したのもまた事実です。
カントはそこに人間の理性の存在を見ます。

人間の認識は単なる悟性的認識に満足するものではなく、それを超えて、悟性的認識を統一し、体系づけ、原理を見出そうとする本性を持つ、というのです。
こうした悟性による判断を統一づけ体系づける推理の能力をカントは理性と呼びます。

ここらへんがカントの論理の進め方のおもしろいところだと思うんですが、カントは認識を体系的に統一しようと思ったら、無制約的なものが必要だ、というんですね。
認識を統一づけ、体系づけるためには、制約が必要だ(ここからここまで、という制約がないと、体系づけることは不可能です)。
その制約はどこからくるかというと、より高い次元からの制約によって求められる。
こうやって、制約の制約を求め、さらにその制約を求め……、と、人間の理性は無制約者を見出すまで、探求を止めることができない、というのです。

けれども、この無制約者は私たちが認識しうる経験の範囲内には見出すことはできない。
なぜかというと、私たちの認識そのものが、すでに現象界にとどまる、という制約を受けており、それを超える認識、というものはありえないからです。

理性は感性とは結びついておらず、ただ悟性とのみ結びついているために、理性は、認識しうる範囲を超えて、超経験的なものを求めてしまいがちな傾向を持っているのです。
したがって、無制約者は永遠にただ理念(カントの用語で「イデー」)として留まらなければならない。

無制約者を理念として、これにできるだけ近づいていこうとする理性の働きは、認識の領域を拡げようと何かを新しく構成していくものではありませんが、認識の体系的統一を与えるために使用(理性の構成的使用ではなく、統制的使用)が可能なのです。
これまでの形而上学は、理性を構成的に使用しようとしたために誤ったけれども、これは人間の認識の本性に根ざした誤りである、と言います。

この無制約者は三つの推理から導かれ、
・思惟する主観に関して与えられた霊魂の理念
・客観的な現象に関して与えられた世界の理念
・思惟一般、あらゆる対象について考えられた神の理念
と名付けられることになります。


したがって質問に即していうと、理念は×「理性の先験的形式」ではありません。
理性が求めていく無制約者がとどまる領域が「理念」なんです。

ちょっとわかりにくいですね。

中山元はこんなふうに言っています。
「カントにとって理念Ideeは、不完全で限界だらけの人間が、その人間性の完全な実現をめざしていつか到達すべき場だ。時間の軸においてはるか遠い未来にある、もう見えなくなってしまうような場所、虚焦点の地なんだよ」(『思考の用語辞典』イデアの項 中山元 筑摩書房)

なお、『カント』(岩崎武雄 勁草書房)を一部参考にしています。
あくまでも私は一般人なので、解釈に誤りがあるかもしれません。
もしお気づきの点があれば、ご指摘お願いします。
また不明な点、わかりにくい点などあれば、補足ください。

この回答への補足

要点のはっきりしない私の質問に真摯にご対応いただき厚くお礼申し上げます。お教え頂いた「無制約者と理念」について 私の、以下の理解の可否について、理系人間の即物的な理解で恥ずかしいのですが、よろしくご教示お願いいたします。
1)無制約者と理念について;
「悟性」は、「感性」の与える「現象」を受け取る。これを、図式という媒介機能を利用して、カテゴリー化された「対象」という形に変換して、受容し理解する。この過程は、人間に先験的に与えられた道筋である。理性と悟性の道筋をこれに対応させて考えると、理性は、悟性のカテゴリー化されたもろもろの因子からなる対象を受け取り、この対象に、無制約者という、絶えず制約を乗り越えて全体性を目指すopen endedな、統制志向的な「認識の枠組み」=「理念」を与えて、認知・実践の対象とする。その理念には、主客の観点から3種あり、この過程も先験的である。
2)「制約」;
悟性と感性の間を仲立ちする「図式」のように、理性と悟性の間を仲立ちする。
3)「制約」の具体的な内容はどのように考えたらよいのでしょうか?

補足日時:2004/06/29 14:58
    • good
    • 0
この回答へのお礼

やり方がまずくて、何度締め切っても締め切れません。再度試みます。

お礼日時:2004/07/01 14:58

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す